新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

科学的思考とは何か―『斉藤アリスは有害です。』私論

非科学的なオカルト・迷信・呪いの類を科学的に否定する方法は2つあると思う。1つ目は、一見すると非科学的で超常現象にしか見えないそれが、よくよく調べてみると実は科学的に説明の付く現象だったというパターンだ。かつては神などの超常的な存在を持ち出さなければ説明できなかった雷・地震・伝染病といった現象も、今では単なる自然現象の一つでしかないことが分かっている。同様に、一見すると神秘的に見える幽霊・占い・奇跡なども科学の言葉で説明が可能になりつつある。2つ目は、本来ならば何ら不思議のない現象が、都合のいい解釈やデータの抽出によって、あたかも科学を超越した現象であるかのように錯覚されているというパターンだ。例えば、一時注目されたジュセリーノの予言や東原亜希のデスブログは、無数にある発言の中で偶然当たっていた部分だけが強調され、それが人々の間で強く印象に残ってしまった結果、あたかも極めて高い確率で未来が予知されているような錯覚が生まれただけかもしれない。このようにして、今ではほとんどの超常現象が科学の言葉によって説明されるようになった。しかし、もし万が一、このような科学的思考によって説明することのできない、本当の意味での超常現象が目の前で起こったとしたら、その時科学者たちは何を思うだろうか。

ライトノベル『斉藤アリスは有害です。』のヒロイン・斉藤アリスは、世界でただ一人「有害者」の指定を受ける人物であり、彼女に近づく者には容赦なく災いが降りかかるという恐ろしい能力の持ち主だ。彼女に近づいた者は病気や怪我に襲われ、噂を聞きつけてやってきたTV局も倒産に追い込まれる。非科学的なオカルトを信じようとしない主人公・山野上秀明は、アリスの秘密を解き明かそうと彼女に付きまとうが、突如落下してきた看板に下敷きになってしまう。その後もアリスの観察を続ける秀明は、彼女の身の回りで起こる超常現象を何度も目撃し、それが単なる偶然では説明の付かない本物の超常現象であることを認めざるを得なくなっていく。それでも秀明は、アリスの観察を止めようとしなかった。その威力ゆえに、町の住民から怖れられ、同級生からも忌み嫌われていたアリスに、ただ一人積極的に話しかけていったのが秀明だったのだ。いつしか2人の間には、奇妙な友情が芽生えていった。秀明は最後まで科学者であり続けたのだ。親身になってアリスと向き合い、彼女の引き起こす不幸を解析し、様々な仮説を立てて思考し、行動し、本当のアリスを知ろうと努力した。

その一方、邪な大人達はアリスの事を理解する努力を一切放棄した。彼らはアリスから家族を奪い、基本的人権を奪い、人並みに生活する権利を奪った。そして、彼女を遠ざけ、隔離し、都合よく利用する事だけに執着した。彼らに決定的に欠けていたのは、「普通」でない人達のことを理解しようと努める心であり、そのための道具となる科学的思考だった。おそらく彼らは、他者の支援なしでは生活できない障害者や高齢者、社会的マイノリティに対しても、同様の仕打ちをしただろう。そして、このような社会的弱者への差別を行っている人が現実世界でも少なからず存在している事もまた、紛れもない事実である。実際の歴史を見ても、科学的根拠に基づかない迷信や偏見によって、様々な人が「有害」というレッテルを貼られ、差別されてきた。

そのような差別や偏見が解消されてきた理由としては、ヒューマニズム基本的人権の考え方が浸透したという事実も大きいが、科学の発展によって古臭いレッテル貼りが間違っている事が証明されたという側面も大きい。科学的思考という言葉には、何でもかんでも科学によって解決しようとする冷徹なイメージが付きまとい、人間味やヒューマニズムとは対極にあるように感じられる場合もある。しかし、このイメージは必ずしも正しいとは限らない。科学的思考とは、冷静かつ客観的・論理的に物事を見つめ、恣意的な判断や偏見を排除しようとする姿勢のことを指すのではないだろうか。そういった意味で、秀明は徹底した科学的思考の持ち主であり、しかも、それは決して人間味やヒューマニズムと相反するものではない。

アリスの親代わり的存在であった博士と秀明は協力してアリスの引き起こす現象を解析し、懸命に彼女の事を知ろうとした。そしてついに、アリスの身の回りで発生する不幸には、ある法則があることを発見する。アリスを取材しようとしたTV局、秀明を誘拐した犯罪組織、アリスに石を投げ付けようとした秀明自身など、これまでアリスの引き起こす現象の被害にあってきた人達は皆、彼女に危害を加えようと企む者であった。また、アリスが秀明やその他の同級生と親しくなった後には、彼らに被害が及ぶことも無くなった。すなわち、アリスの周囲の人に被害が及ぶのは、彼女の持つある種の防衛本能であって、彼女や彼女と親しい人を傷つけようとする意思が無ければ、そのような超常現象も起こらないという事にようやく気付いたのである。これはまさに、様々な謎の現象と向き合い、その謎を科学的手法によって解き明かしてきた偉大な科学者達の奇跡と重なるものがある。

おそらく終始、エイブリー*1を支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に加えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。
別の言葉でいえば、研究の質感といってもよい。これは直観とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説に必ずしも与できない。むしろ直感は研究の現場では負に作用する。これはこうに違いない! という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている。(中略)
エイブリーの確信は、直感やひらめきではなく、最後まで実験台のそばにあった彼のリアリティに基づくものであったのだ。そう私には思える。*2
福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』、講談社新書、55~56P)

「斉藤アリスは有害であるに違いない」という思い込みに惑わされる事なく、あくまでも冷静に、誠実にアリスと向き合い、彼女の事を理解しようと努めたからこそ、秀明は真実にたどり着けたのだ。秀明のように、これまでの常識や偏見に流される事なく、科学的に物事を見つめる姿勢は、単に科学者だけでなく、現代社会を生きる我々全員にとって必要不可欠なものだと思う。

*1:筆者注:アメリカの生物学者、オズワルト・アベリーのこと。肺炎双球菌を用いた実験によって、遺伝子の本体がDNAであることを証明した研究者の一人だが、彼の研究は当初激しい批判に晒された。

*2:筆者注:福岡伸一はこのように述べているが、DNAが遺伝子の本体であるという事実を証明した研究者は、アベリー以外にも複数存在している。