新・怖いくらいに青い空

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『銀の匙』第11話考察―逃げてきた先で自分と向き合うということ

このブログで時間をかけて説明してきたように、八軒はエゾノーに入学するまで「自分はこうあるべきだ」という思い込みが強すぎて、それが達成できなかった時に強い負い目を感じる傾向が強かったのだと思う。親の期待に応えなければならない、勉強が苦しくても逃げてはいけない、将来の目標や夢を持っていなければならない。このような強い強迫観念のようなものを持っているのは八軒だけではなく、現代日本に生きる私たちは皆、多かれ少なかれ、似たような気持ちになって悩むことがあるのではないだろうか。この社会では、夢に向かって一生懸命努力することや、どんな障壁にぶつかっても挫けずに前へ進み続けることが美徳とされ、途中で諦めたり弱音を吐いたりすることは間違っていると見なされる。ドラマ『半沢直樹』で描かれたような、一度の失敗も許されない弱肉強食の世界。であるからこそ、「逃げる」という選択肢を取ることができず無理に突き進んでしまい、心身共に疲れ果てて心が折れてしまう人も多い。

しかし、八軒がエゾノーに来て学んだことは、夢に向かって突き進むという生き方は、数ある選択肢の中の1つに過ぎず、実際には様々な選択肢が存在するのだという事実だった。その中にはもちろん、「逃げ」という選択肢も含まれている。

自分に合った仕事に就くってのはもちろんカッコいいけどさ、自分を仕事に合わせるってのもアリだと思うんだ。

八軒君は逃げるということに否定的なのだね。逃げてきたことに負い目はあっても、その逃げてきた先で起こったこと、そこで出会った人、それらはどうでしたか? 否定するものでしたか?
生きるための逃げはアリです。アリアリです。逃げ場のない経済動物と君たちは違うんですから。

欧米型の大規模な農場経営を目指す道もあれば、少数の牛を家族経営で大切に育てるやり方もある。経済動物だからと割り切って動物と接する人もいれば、名前を付けて思う存分悩んでもいいと言う人もいる。自然を相手にする農業の世界では、完璧に正しい答えなど存在しない。夢を持っていることが正しい、逃げ出さないことが正しい、というのは先入観でしかない。多種多様な事情や技術や夢を持った生徒たちが集まるエゾノーで生活したからこそ、八軒はその事に気付くことができたのだろう。

京都大学の山中伸哉教授は、整形外科医になることを夢見て大阪の病院で研修医となったが、思うように手術をすることができず、次第に自分は臨床医に向いてないんじゃないかと思うようになったという。その後、整形外科医になることを諦めて基礎研究の世界に進み、それが結果的にiPS細胞の開発へと繋がっていった。最初に目指していた夢を諦め、別の道に進んだことで、新たな可能性が切り開けたのだ。山中氏は講演の中で「人間万事 塞翁が馬」だとも述べている。

八軒もまた、中学時代に大きな挫折を味わい、逃げるようにエゾノーにやってきたわけだが、それが結果的に八軒の新たな才能を開花させることに繋がった。それは例えば、ピザ作りの時に見せたリーダーシップであったり、与えられた仕事に真摯に取り組む姿勢であったり、動物と接する生活の中で生まれた感情や疑問や悩みと真正面から向き合う意志だったり。それらは全て、ただ机の上で勉強するだけでは見えてこない、八軒の別の一面だったと言えよう。『銀の匙』で描かれていたのは、現代社会に住む人の多くが忘れてしまった「自然と向き合う」という行為が、そっくりそのまま自分と向き合うことにも繋がっているという事実に他ならない。