新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

起こり得たかもしれない愛の形―『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想

人間のグループ間には遺伝的差異が注目に値するほど無いということ (中略) は、ア・プリオリな、あるいは必然的真理ではなく、進化史における偶然の事実である。世界はもっと違った形で秩序づけられたかもしれないのである。例えば我々の祖先であるアウストラロピテクスの一種または数種が生き残った場合を考えてみよう―― (中略) 我々ホモ・サピエンスは、知的能力がはっきり劣った人間種を相手にした時、道徳的ジレンマに直面したに違いない。彼らを我々はどのように遇したであろうか――奴隷? 撲滅? 共存? 召使としての労働力? 居留地? 動物園?
(S・J・グールド著『人間の測りまちがい 下』233ページ)

さよならの朝に約束の花をかざろう』と『アンドリューNDR114

人間よりはるかに長い時を生きるイオルフの民は、人間から「別れの一族」と呼ばれ、人里離れた村で布を織り静かに暮らしていた。彼らの力を利用しようとして侵略してきた人間によって土地を追われ、独りぼっちになったイオルフの少女マキアは、偶然、両親に先立たれた小さな赤ちゃんを見つけエリアルと名付ける。すくすくと成長していく子・エリアルと、見た目はずっと少女のままの母・マキア、2人は共に苦労を重ねながら激動の時代を生きてゆく…。

この映画を見て『アンドリューNDR114』を思い出した人もいるだろう。人型家事ロボットのアンドリューはマーティン家に買われ、そこで人間に匹敵する創造性を発揮し木工職人として成功する。ロボットなので寿命もないアンドリューは、アーティン夫妻に先立たれ、さらにその娘アマンダも亡くなり孤独を味わう。アマンダの孫ポーシャと結婚したアンドリューは、やがて人間になりたいと願うようになり、科学者の協力を得て人間と同じような寿命を得る。ベッドの上で最愛の妻とともにこの世を去ることで、ようやくアンドリューの願いは叶えられる…。

結末はまったく異なるが、この2つの映画は人間より長い寿命を持った者が宿命として背負う別れの苦しみを描いている。人間のように思考し恋もするが寿命がないロボット、見た目は人間と同じだが何百年もの時を生きるイオルフ…。

起こり得たかもしれない人類の姿

SFが「起こり得るかもしれない人類の未来」を見せてくれるものだとしたら、ファンタジーは「起こり得たかもしれない人類の姿」を見せてくれる。

現在の人類が当たり前と感じている特徴、様々な倫理観、恋愛観、生死観はどのようにして生まれたのだろう。なぜ人は我が子に愛情を注ぎ守ろうとするのか、なぜ人は結婚という制度を持つのか、そして、なぜ人はせいぜい100年くらいしか生きられないのか。生物学、進化生物学、文化人類学など様々な観点からそれらの疑問を説明することができるだろう。しかし、私たち人類の持つ特徴や価値観は、突き詰めて考えれば、地球環境の変化や文明の発達した場所といった、本当にささいな偶然によって誕生し発達したものとしか言いようがない。

そういった偶然の最たるものは、この地球上に人類がホモ・サピエンスただ一種しか生存していないという事実だろう。そもそも種というのはどうやって分かれるのかと言うと、元々1つの種だった生物群が高い山脈や海などによって2つ以上のグループに分かれて、遺伝子にそれぞれ異なる変異が蓄積することで、やがて各グループが別々の種へと変わるのである。だから、大陸の形や気象条件などが少し変わっていたら、ホモ・サピエンスとは異なる別の人類が今も生きていたかもしれないのだ。

さよならの朝に約束の花をかざろう』は、まさにそういう「起こり得たかもしれない人類の姿」「複数種の人間が共存する世界の姿」を描いて見せた。そして、種*1の違いという取り払うことのできない大きな壁に阻まれてもなお消えることのない愛の形があることを示してくれた。

そのような愛の形があるという事実は、我々人類に困惑をもたらすかもしれない。それは、現実世界の同性愛のように差別と偏見に晒されるかもしれない。それでも、マキアとエリアルとの間にあるものが愛でなくてなんであろう。寿命という大きな壁をもってしてもなお消えることのないものが愛でなくてなんであろう。我々観客の心をこれほどまでに揺さぶるものが、現実にありふれている異性愛や同性愛や親子愛や兄弟愛とまったく変わらない普遍的な愛でなくて一体なんだというのだろう。

まとめ

もし地球上に複数種の人類がいたら、という我々の想像力を掻き立ててくれる見事なファンタジー作品で驚いた。岡田麿里氏の初監督作品ということは勿論知っていたが、それ以外の情報は一切入れずに先入観なしで見れたのも良かったのだろう。

問題点を挙げるとすれば、ストーリーが全く奇をてらう事もなく単調で、マキアとエリアルが出会った瞬間からもうラストが想像できた点だろう。

だが、一つ一つの場面は見ごたえがあるものばかりで、特に、初めてお酒を飲んでベロベロに酔っぱらったエリアルが家に帰ってくるシーンが本当に素晴らしかった。足元がおぼつかずに家の物を壊してしまうエリアル、ランプから燃え移った火を必死に消そうとするエリアルエリアルを引っぱたくマキア、そのどれもが、これまで普通の親子として暮らしてきた2人の関係が不可逆的に変わってしまった事を物語っていて、観客は何とも言えない悲しみを覚える。

これまでの岡田磨理作品と言えば、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『ブラック★ロックシューター』『心が叫びたがってるんだ。』に代表されるように、「傷付け合う事を過度に怖れるのはやめよう」「まずは自分の気持ちをはっきりと相手に伝える事が大事」的なテーマの作品が多かったように思う。それらの作品は、物語が進むにつれて登場人物が自分の気持ちを積極的に相手に伝えるようになっていき、複雑に絡み合ったディスコミュニケーションの糸が解かれることでカタルシスが得られるという構造になっている。一方で『キズナイーバー』や『迷家-マヨイガ-』はそこからさらに一歩踏み込んだテーマ性が付与されていたように感じるが、アニメの出来は2つともお世辞にも良いとは言えず、興行的にも振るわない結果となってしまった。

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さよならの朝に約束の花をかざろう』は、上で述べたような作品群とは全く異なる系統の作品であり、岡田磨理氏の新たな可能性を垣間見たような気がした。

*1:ここでいう種とは、白人・黒人などという場合に使う現実世界のいわゆる人種ではなく、純粋に生物種という意味。