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最近読んだ本まとめ(3)―『がん消滅の罠 完全寛解の謎』『人間の測りまちがい 差別の科学史』『真実の一〇メートル手前』

※本の内容に関するネタバレがありますのでご注意ください。

がん消滅の罠 完全寛解の謎

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

まさか一般向けのミステリー小説でがんの術中散布説が出てくるとは思わなかった。これは、腫瘍を外科手術で除去する際に一部のガン細胞が血中に流れ出てしまい転移を引き起こすことがあるのではないかという説で、現在はあくまでも仮説にすぎないものである。しかし、がんの転移という現象が外科手術という人為的な操作によって引き起こされるかもしれないという情報を冒頭に入れることで、がんの進行を自由自在にコントロールするトリックの存在を読者に示唆している。

さて、ストーリーはこのがんの進行をコントロールするトリックの解明に焦点が移っていくわけだが、その一つは、免疫抑制剤を利用したものだった。ある患者に他人由来のガン細胞を注射すると、通常は免疫系が働いてそのガン細胞は増殖しないが、同時に強力な免疫抑制剤を投与すると、免疫系が働かなくなり全身にがんが転移したように見える。その後、免疫抑制剤の投与を止めればがんは免疫系によって除去されていくという仕組みだ。なるほど筋は通っている*1。 しかも、やはり作品冒頭に、マウスを使ったがん研究の方法に関する説明がなされており*2、トリック解明に必要な情報はあらかじめ読者に提示するという推理小説の原則もきちんと守られている。

また、作中で示されるがんの進行をコントロールする方法がもう一つあって、そちらもなかなかに考え抜かれた驚くべきトリックであった。この作品の真に驚くべきところは、そういったトリックが何ら荒唐無稽なものではなく、現在の科学技術を駆使すれば十分に実行可能であるという事だろう。しかし、すでに医療関係者がブログで述べているように(例えば、岩木一麻「がん消滅の罠 完全寛解の謎」(ネタバレ注意):北品川藤クリニック院長のブログ:So-netブログ)、「他人由来のガン細胞が生着するほど強力な免疫抑制剤を利用してそれがばれないというのは不自然」「がん細胞を注射しただけで通常のがん転移と同じような広がりでガン細胞が見えるようになるのか疑問」といった指摘もされており、ツッコミどころが全くないというわけではない、という事は公平のために記載しておく。

作中では最後に、さらに研究を進めてこのトリックを応用すれば、任意の人の任意の臓器にがんを発生させることも、それを増殖させたり寛解させたりすることも、自由自在に行えるようになるだろうと示唆されている。これは考えてみれば実に怖ろしいことである。ある生物学者は著書の中で「我々は結局、生命の有り様をただ記述する事しかできないのだ」という趣旨のことを述べているが、そんなナイーブな認識が許される時代はもう過ぎた。私たちはすでに、生命現象をコントロールし、他の生物や人体を改変することができる、使い方によってはとても怖ろしい力を手にしている。その力は我々人類が制御することのできない、まさに「がん」のようなものだ。

そして、その力は人の心でさえも変えてしまう。作中のトリックを考案した全ての元凶である西條先生の当初の目的は、娘を殺した犯人を見つけ出し復讐する、そのために政府や警察に影響力を及ぼしたい、というものであった。しかし、困窮した患者にガン細胞を注射し生命保険に加入させることで結果的にその患者を経済的に救うような活動をしていたり、日本の薬事行政や労働政策にまで口出ししたりする姿は、やはり復讐という当初の目的を大きく逸脱しているように思う。これは、他人に自分の人生を翻弄され絶望した男が、逆に他人の人生をコントロールする力を得て、その力に酔いしれていく物語なのかもしれない。

人間の測りまちがい 差別の科学史

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

近代科学が進歩することで古臭い迷信や偏見が打破されより良い社会が実現する、と無邪気に考えている人たちにとてつもない衝撃を与えてくるのが本作だろう。この本を読めば、科学は時として迷信を再生産し、新たな偏見や差別を生み出すことすらある、そして人はある任意のデータから自分にとって都合のいい結論をいとも簡単に導き出すことができる、ということが分かる。19世紀から20世紀にかけて、多くの学者が脳の大きさ、人相、IQなどによって人間の知能を測ることができると考え、それらの間違った仮説に基づいて知能が劣っているとされた人種や民族が差別された。そして、いったんそのようなレッテル貼りが行われると、その結論とは異なる不都合な真実が出てきても、それを都合の良いように解釈して切り捨てていまい間違いが長い時間訂正されないままになってしまう。

例えば、昔の骨相学では、高い地位にいる白人は脳が大きく、アジア人・黒人・貧しい人・犯罪者などは脳が小さいとされていた(実際には、脳の重量は体格などによって変わるし、当時の測定では頭蓋骨から正確に脳の重量を測ることなどできなかった)。ところが、墓から掘り出してきた高い地位にいる人々の頭蓋骨を調べてみると、明らかに犯罪者のそれより小さいものがあった。普通に考えれば人種や職業の違いと脳の大きさには何の関係もないという結論になるはずなのだが、当時の学者は、いや、昔の骨は保存状態も悪いし、それらは死因も違うので単純比較はできない、などと言い訳をして自説の正当性を曲げなかった。

例えば、20世紀前半のアメリカ軍で実施された知能テストでは、アングロサクソン系の白人移民が最も知能が高く、南欧系、アジア系、黒人は低い、という結論が得られていた。一方、アメリカでの生活が長い人ほど知能テストの結果も良いというデータも得られた(つまり、当時の知能テストは英語やアメリカの文化をある程度知っていなければ答えられないものであり、アメリカに来て間もない移民にとって不利なテストであった)。しかし心理学者たちは、より知能がある者はより早い時期にアメリカに移り住み、より知能の劣った者は最近になってからようやくアメリカに移住してきたのではないか、という今では考えられない仮説を述べ、知能テストの不備を認めなかった。

彼らは結局のところ、意識的にせよ無意識にせよ、心の中にある偏見に基づいて調査をし、その偏見の目を通してデータを解釈し、その偏見と合致する結論を導き出したに過ぎない。「先入観はデータの中にもぐりこんで、一巡して同じ先入観へと戻る」(上巻、172ページ)。しかし、何よりも怖ろしいのは、それらの非科学的、いや、もはや犯罪的ですらある研究が、単なる疑似科学ではなく、当時としては最先端の極めて客観的で科学的な研究であると見なされていたということである。

この本を読んで「昔はこのような疑似科学が蔓延し人々が差別されていたが、科学が進歩することで無知蒙昧な言説は否定されよりよい社会が実現した」みたいな感想・結論を出す人がいるとすれば、その人はこの本の内容を全く理解していない、完全な誤読である。真っ当な研究者であれば、この本を読んで自分もここに書かれた研究者と同じような過ちを犯してないだろうか、と立ち止まって考えてみるだろう。

真実の一〇メートル手前

いつも思うのだが、米澤穂信氏の小説は余計な情報がほとんど無く洗練された文章だと感じる。例えば、早坂真理は何故失踪し自殺するほど追い詰められなければならなかったのか、会社の倒産に関して真理は何か法に触れるようなことをしていたのか、その辺りの詳細は一切書かれていない。早坂真理は今どこにいるのか、というただ1点のみに焦点を絞って物語は展開していく。そのような作品構造は、逆に言えば、一言一句全てに何らかの意味があるということであり、どんなに些細な文章でもそれが後々の伏線になっていたりするから、実に唸らされる。例えば、事件当事者の筆跡を調べるために万智がわざと間違えた日付のサインを書かせるシーンがあるが、それより前のページにはちゃんと当日の日付が読者に分かるような文章が入れられている。

このようにミステリーとしての基本を忠実に押さえつつも、根底には一つの大きなテーマがしっかりと存在している。それを一言で言うなら、ジャーナリストという職業が背負う「業」と「矜持」、という言葉に尽きるだろう。何らかの事実を伝えることは、誰かを救う事にもなるかもしれないが、同時に誰かを傷付ける事になるかもしれない。その二重性のことを作中では「綱渡り」と表現されている。全くの偶然なのだが、上で紹介した『人間の測りまちがい 差別の科学史』と本作は、非常に似通ったテーマを持っていると思う。人の目は真実を見ることはできない。自分にとって都合の良いもの、見たいものだけが見える。これは、科学であれ、報道の世界であれ、結局は同じなのだ。例えば、ある物の長さを測るという単純な作業ですら、測定時の気象条件や測定方法の違いによって長さは微妙に変わってくるし、その計測に使うモノサシ自体の目盛にも一定の誤差が存在する。しかし、だからと言って、「結局、科学や報道では真実は分からない」みたいな冷笑を向けるのは、明らかに間違った態度だと思う。真実の10メートル手前で必死に目を凝らして考え抜いた上で、どうやらこれが確からしいと思われる「真実」を世に発表する。そこにこそ、科学者として、ジャーナリストとしての、矜持のようなものが宿るのだ。

まあ、そんなことを万智本人に言っても絶対恥ずかしがって「いや、そうじゃない、自分の仕事はそんな高尚なものじゃない」とか言ってメッチャ反論してくるだろうけど(萌)。

しかし、その反論があながち間違いじゃないかもしれないと読者に感じさせてくるのが、とてもゾッとするのだ。例えば、駅のホームで犯人をおびき寄せるために演技をしていた時、歩道橋の上で推理通りに証拠品が見つかった時、そして『王とサーカス』の後半、少年の安否を調べる事よりも自分の仕事を優先していた時、彼女の胸にジャーナリストとしての矜持に悖る何かが去来していなかったと断言することはできるだろうか。いや、そんな問いに結論を出すことなど誰も絶対にできないだろう。他でもない万智自身が、結論を出せないのだから。これがまさに、米澤穂信作品に潜む強烈な「毒」である。

収録作品の中で白眉と言えるのは『名を刻む死』だろう。隣人を見殺しにしてしまったと思い悩む少年に向かって、珍しく大声で「違う!」と叫び、少年が傷付かないような「結論」を与えようとする万智。その姿はとりもなおさず、彼女が高校時代に経験した少女との別れについて、何度も何度も思い悩み、いまだに結論を出せていないことを物語っている。そもそもこの種の苦悩は、解決することが極めて難しい部類の苦悩だろう。何故ならば、彼らにとっては、その苦悩を和らげる結論を導き出そうとしている自分自身が許せないからだ。これは、救われることがまた新たな苦悩を生み出すという、入れ子のような構造をした苦悩なのだ。改めて、万智が高校時代に感じた衝撃の重たさを見て取ることができる。『王とサーカス』はそれ単体でも読めるが、本作は先に『さよなら妖精』を読まなければ良さが半減するだろう。

*1:私が学生時代に所属していた研究室ではガン細胞株を培養していたのだが、ある時、指導教官に聞いてみた事がある。ここにはヒトの乳がん細胞から作られた細胞株がありますけど、これを誤って飲んだり自分の体に注射してしまったらどうなるのですか?やはりガンになってしまうのでしょうか? もうだいぶ昔の話なので先生の回答がどのようなものだったか詳しくは覚えていないが、たしか、その細胞は他者由来の細胞なので実験者の体内に入ったとしても増殖することはなく安全である、というような話だったと思う。

*2:通常のマウスにガン細胞を注射してもガン細胞は増殖しないが、実験で使うマウスは免疫系が働かないように改良されたマウスを使っているので実験が行える、ただしそのマウスを他の病原菌などから守るために実験は外部と遮断されたクリーンルーム内で行わなければならない、という説明。