新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『安達としまむら』第7&8巻感想

安達としまむら7 (電撃文庫)

安達としまむら7 (電撃文庫)

安達としまむら8 (電撃文庫)

安達としまむら8 (電撃文庫)

美しい…。ただただ、美しい…。

過去・現在・未来、夢と現実、いくつかの平行世界が交差する幻想的な文章が紡ぎ出していくのは、安達と島村が出会い、愛を深め合っていくことは必然だったということ。たとえ世界を何度繰り返しても、2人は必ずどこかで出会い、惹かれ合う、そういう「運命」だったのだということ。

島村の夢に出てくるのは、かつての自分。何に対しても一生懸命で、学校や部活や親に対して常に苛立っていた、「真っ当に思春期していた」自分。そうした生活の果てに、島村は疲れ果て、燃え尽き、今のような「ゆるふわ」な自分になった。同じことを〈古典部〉シリーズでは「長い休日」に入ると言い、『かぐや様は告らせたい』では「目を閉じた」と表現している。安達もまた、島村と同じような道を辿ったに違いない。2人は同じように燃え尽きて、何かに打ち込むことや努力することに意味を見出せなくなる「長い休日」に入り、そして、あの日、体育館で出会う。

科学的に考えれば、全ての出来事は偶然の産物に過ぎない。我々の遺伝子は、行動の大まかな方向性や傾向性を規定することができるが、行動の結果や私たちの選択そのものについては一切何も教えてはくれない。人の行動は、環境や遺伝子による縛りを受けながらも、予測不可能な偶然に支配されている。それでも人は、人生を変えるような偶然に遭遇した時、それを「運命」だと感じる。

遺伝子は環境に対して、プログラムされた反応を示さなければならない。そうしなければ、どんな形も維持されないからだ。しかし遺伝子はまた、予測できない偶然がくっつくだけの十分な余地も残していなければならない。われわれはこの交差を「運命」と呼び、それに対する私たちの反応を「選択」と呼ぶ。
(『遺伝子 親密なる人類史 下巻』、198ページ)

あの日、安達と島村が出会った瞬間、そうなることが最初から決まっていたのだという物語が生まれ、それ以外の世界が考えられないほどに強固な運命となったのだ。世界は偶然の積み重ね、それでも、2人の出会いを運命だと信じられる、この二重性。

安達と島村が出会うことが運命だったというならば、2人がこれからもずっと一緒に生きていくということもまた運命であるに違いない。第8巻まで読んで、読者の多くがそう確信しただろう。

2人のこれからの人生に幸多からんことを。