新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『スクール・デモクラシー!』と現代民主主義の問題点

スクール・デモクラシーの暗部

スクール・デモクラシー!1 (講談社ラノベ文庫)

スクール・デモクラシー!1 (講談社ラノベ文庫)

『スクール・デモクラシー!』は、先日紹介した『これからの正義の話をしよっ☆』などと同様、生徒間での政治的駆け引きを描いた「政治的」ライトノベルだ。物語は、その舞台となる私立光友学園に主人公・高天原奈々が転校してくるところから始まる。

正真正銘のお嬢様・高天原奈々は、全国でも指折りのマンモス校、光友学園へと転校してきた。校則でがんじがらめの、籠の中の鳥のような学園生活を送ってきた奈々にとって、「学校内民主主義(スクール・デモクラシー)」を掲げる光友学園は自由の象徴に思えたからだ。(裏表紙より引用。括弧内はルビ)

この学校では、スクール・デモクラシーの制度によって、生徒自らが校則を変えることができる。具体的には、全生徒の5分の1以上の署名を集めて議案を投票管理委員会に提出し、その議案が投票会で全生徒の4分の3以上の賛成票を得られれば、校則を変えることができるという。本作では、この制度を利用して提出された「校内への雑誌持ち込み許可」議案に対する熱い政治的バトルが描かれてゆく。

この学校では生徒会が2つあり、「雑誌持ち込みを許可すべき」との主張を展開する「カオス・生徒会」と、それを阻止しようとする「真・生徒会」とが激しく対立している。彼らはそれぞれ「生徒に自由を!」「雑誌持ち込みを許可してしまったら、学内の秩序が乱れる」などと主張しているが、面白いのはそれを一般生徒に伝える時の手段だ。これがまさに、現実の日本政治と全く瓜二つの様相を呈しているのだ。

例えばカオス・生徒会のメンバーは、議案に賛成してくれるよう呼びかけるため校門の前で演説を行う。この時、ただ拡声器を使って叫ぶだけでなく、話し始めるタイミングや言葉遣いなどに注意を払い、一般生徒に強いインパクトを与えるよう工夫している。また、聴衆の中にはカオス・生徒会が用意したサクラが混じっており、演説を盛り上げて議案賛成の世論が高まっている事を印象付けようとしている。一方、真・生徒会も、「雑誌持ち込みを認めたら、男子がHな本を持ってきて、秩序が乱れる」と主張して女子生徒の不安を煽る戦略をとる。また、部費の許認可権を利用して各運動部に取引を持ちかけたり、大企業の経営者の娘である奈々を広告塔として利用するなど、ありとあらゆる手を尽くす。

議案を巡るこういったドロドロした対立を見せられて、奈々は「自由って、何だろう?」と自分に問いかける。これはまさに、現代日本政治が陥っている状況と全く同じと言えよう。本作に描かれるスクール・デモクラシーの暗部は、言うまでもなく、現代日本の民主主義が抱える矛盾・欺瞞の縮図に他ならない。そして、これはおそらく、多かれ少なかれ全ての国が抱えている民主主義の宿命みたいなものだと思う。

スクール・デモクラシーとポピュリズム

これは個人的意見だが、現代民主主義における最大の問題とは、国民が政治に参加して社会を変えていくという事に必要性を見出せなくなっているという点にあると思う。現代社会において我々は、一応、基本的人権を尊重されている。それゆえに「別に政治に参加しなくたって普通に生きていける」という感覚が芽生える。これが一昔前だったら、生きるために政治に参加して社会を変えてゆく必要があった。そういった政治参加の結果として、不当な差別は撤廃され、各種の権利や社会保障も充実していった。ところが、そういった諸権利が拡充すると、政治に参加する必要性は徐々に無くなってゆく。政治は、障害者・同性愛者・環境保護団体・宗教関係者といった一部の特別な人達が、特別な主張をするための場としか認識されなくなり、一般人はどんどん政治から遠ざかってゆく。

このような無関心が蔓延する状況下で、政治家が一般大衆を味方につけようと思ったのなら、それは必然的にポピュリズム的なものにならざるを得ないだろう。選挙では、論理や政策や思想で勝負するのではなく、いかにインパクトのあるパフォーマンスを行えるかが重要になってくる。本作に出てくる生徒会のメンバーも、ただ単に主義主張を繰り返すだけでは一般生徒の支持は得られない、ということを熟知している。

「フッ。人は皆おのれの利益に敏感だが、同時に他人の利益にも敏感なのだ。自分に利がなく他人には利があると知れば、深い意味もなく邪魔だてしてやろうと思い立つ。民主主義が良くも悪くも利益誘導型の政治を生み、次第次第に衆愚政治へと変貌してゆくのは、そのシステムが人間という生き物の欲望と邪心に満ちた本性を反映するからにほかならん」
「であればこそ、我々のようなエリートが使命感をもって支配者層に君臨し、ブタのごとき愚民どもを導いてやる必要があるわけですな」(86〜87Pより引用)

高天原さん。この際だからはっきりいっておくけれど、大衆に良識を求めてはいけないわ。いったでしょう? 彼らは水が低きに流れるように、安易に欲望に流されてしまう。そういう、確固たる意志や信念を持たない昆虫にも等しい愚民どもによって重要な案件が決定されてしまうのは、民主主義の最大の欠点なの。そう、衆愚政治ってやつよ。私やあなたのような、良識を持つ少数のエリートが抑制してあげなければ、彼らは目先の利益を追ったばかりに、かえって不幸になるの!」(116〜117Pより引用)

ここに見え隠れするのは、頭の悪い一般生徒を優秀なエリートが導いて行かなければならない、というエリート意識、選民思想に他ならない。まとめると、民主主義社会の成熟によって政治参加の必要性が希薄になった結果、一般大衆を振り向かせるためにパフォーマンス重視の劇場型政治が展開されるようになり、政治家の方にも「我々エリートが愚かな一般大衆を導かなければ」という意識が生まれてしまっているわけだ。

政治を一般大衆の手に取り戻すために

では、こういった現代民主主義の問題点を解消してゆくためにはどうすれば良いのか。そのためには言うまでもなく、ポピュリズムを克服して政治を一般大衆の手に取り戻すことが必要だろう。国民一人ひとりが社会制度の在り方について真剣に考え、選択を下していかなければならない。奈々は、両生徒会に振り回されながらも、最終的には自らの判断で議案に賛成を表明し、カオス・生徒会への入会を決めた。

「念のためにいっておきますが、真・生徒会が怖くて入会するんじゃありません。私、自由と正義のために戦いたいんです」(279〜280P)

ここでは、その選択を下した理由など最早あまり関係ないだろう。大事なのは、一人ひとりが自分の頭で考え選択し、行動してゆくことなのだから。その場の空気や第一印象に流されることなく、一人ひとりが主体的に選択するという事こそが、健全な民主主義にとって不可欠な要素なのだ。

しかし、そうは言っても現実はやはり、パフォーマンス重視のポピュリズムにならざるを得ない部分もある。実際、雑誌持ち込み許可議案が可決されたのも、奈々の投票場での演説という、土壇場でのパフォーマンスが功を奏したという側面が強い。本作の2巻以降では、こういったポピュリズムを打破して健全な民主主義を取り戻してゆく過程が描かれるのか、それともただ単に、あらゆる手段を使って一般生徒の心をつかむ政治的駆け引きが描かれるだけなのか。それはまだ分からないが、個人的には前者であることを期待したい。