黒江真由と部活動
『響け!ユーフォニアム3』、この怪作を私の中でどう整理すればいいのか、いまだに答えを出せずにいる。そんな状況の中、分かったことがある。
どうやら私は、自分で思っている以上に、黒江真由に肩入れしてこの作品を見ていたらしい。黒江真由というキャラクターは、原作でもアニメでもその真意を知ることが難しくて、あまりにもミステリアスで、それでも私は彼女に親近感のようなものを覚え、彼女のことを応援したいと思った。
何故そんな気持ちになったのだろう。私が子供のころからずっと福岡に住んでいたから、北宇治に来る前に福岡にいた黒江真由に対して勝手に親近感を覚えているだけかもしれない。だが、私が惹かれている最大の理由は、真由がどこまでも「正しい」人だからだと思う。*1
例えばアニメ3期の第3話、同級生が先輩から厳しく叱責されてるのを見て部活に来れなくなってしまった義井沙里。心配した久美子は沙里の家へ向かおうとするが、その時真由が「そんなに大げさにすることかな?」「部活辞めるって普通にあることでしょ?」と口を挟む。この真由の考え方は、悪く言えば、個人主義的で冷淡だ。私が久美子と同じ立場の高校生とかだったら、真由の発言に反感を覚えたかもしれない。
けれども、大人になった今、真由は正しいことを言ってるんだと分かる。何かの部活に所属するのも、辞めるのも、すべては本人の自由だ。もしそれを認めないとしたら、この社会は多くの人にとってとても生きづらいものになる。
もちろん、正しいことをすることが必ずしも最善の結果を招くとは限らない。実際、久美子が話を聞きに行ったおかげで、沙里も部に戻ることができたし、結果的にそれで事態は良い方に進んだと思う。けれども、それはあくまでも結果論であって、辞めるのも続けるのも基本的には個人の自由だという大前提を崩してはいけない。メンバーが辞めたり休部したりするのを許さないような空気は、とても危険だ。「誰ひとり落伍者を出したくない」という久美子の考え方は、場合によっては非常に危うい思想に繋がりかねない。
初心者に対して厳しく当たる麗奈の指導方針も、パワハラに繋がりかねない危険な態度だと思う。私は何も麗奈だけを責めたいわけではない。1年生を泣かせた麗奈にも反省すべき点はあると思うが、そもそも他の3年生は何をしていたのか? 麗奈以外にちゃんと後輩を指導できる3年生はどれくらいいるのだろう? 後輩を厳しく指導する役割を麗奈にだけ押し付けてはいないだろうか? だとしたらそれは、麗奈だけの問題ではなく、北宇治高校吹奏楽部という組織そのものが抱える問題だ。
部活のような閉じられた組織に所属する人は、その組織が抱える問題を認識することが難しい。高校生のようにまだ若い人なら尚更だ。そんな中でも真由は、一歩引いた立ち位置から、冷静に、客観的に物事を見ることができる。北宇治の部員達が当たり前に思っていることの中に潜む「危うさ」に気付き、それを指摘することができる。黒江真由とはそういう人だ。そういうキャラクターが私は好きだ(私が中川夏紀を好きなのも同じ理由からかもしれない)。
黒江真由は、どこか冷めたものの見方をしていて、高校生にしてはとても達観している。そんな性格だからこそ、オーディションを巡って真由と久美子との考え方の違いが浮き彫りになり、物語が大きく駆動していくこととなる。
黒江真由はオーディションで手を抜いたのか問題
原作読者の間でずっと言われ続けてきたことがある。それは、黒江真由が実はオーディションで全力を出してなかったのではないか?、という疑念だ。そういった声が出てくる理由は主に3つあると思う。
第一に、黒江真由は何度もオーディションを辞退したいと主張していた。真由が吹奏楽をやっているのは純粋に合奏が好きだからであって、ソリを誰が吹くかということについては特に「こだわり」はない。だから、自分がソリに選ばれて他の誰かが悲しむくらいなら、自分はオーディションを辞退したい。それが真由の一貫した主張であり、実際にそれを実行したのではないか。
第二に、真由がオーディションでわざと下手に吹いたと考える方が話の辻褄が合いやすい。原作ではソロオーディションの結果、府大会は久美子、関西大会は真由、そして全国大会は再び久美子がソリに選ばれたが、短期間でこんなに結果が変わることが有り得るだろうか。オーディションのたびに結果が変わるくらい2人の実力が拮抗していたと考えることもできるが、やはり、真由が全国大会前のオーディションでは全力を出してなかった、と考えるのが自然ではないのか。
こんなふうに理屈を考えることはいくらでもできるが、実際のところ「真由はオーディションで全力を出さなかったのでは」と考えてしまう最大の理由は、我々読者が真由にそうあってほしいと願っているからではないだろうか。原作小説の最終楽章に登場した黒江真由は、黄前久美子の前に立ちはだかるラスボスのような存在である。だからこそ私たちは真由に、最後まで強キャラであってほしい、久美子の思い通りに動くような存在にはなってほしくない、と願ってしまう。これが第三の理由。
久美子にとって、ソリを勝ち取って麗奈と並び立つことは、全国大会で金賞を取ることと同じくらい重要である。でも、そのためには自分だけでなく相手も全力でオーディションに臨んでいなければ意味がない。久美子は、3年生だからとか、部長だからとかではなく、実力によって自分が選ばれたのだという証が欲しいのだ。だから真由から辞退しようかと声をかけられるたびに久美子は、これまで田中あすかや鈴木美玲や久石奏や義井沙里と対峙してきた時と同じように、黒江真由の心を刺そうと試みてきた。ところが、久美子の攻撃は真由には一切通用しない。それはある意味、久美子にとって初めての、そして唯一の敗北である。
我々読者は黒江真由の中に「黄前久美子が唯一敵わなかった人物」という理想像を見ている。だからこそ、「真由はオーディションで手を抜いたのでは」という問いは何度もリフレインされ、そうであってほしい、いや、そうであるに違いないという我々の気持ちは強化される。
ところが、アニメ3期12話によって、「オーディションで手を抜いたのでは」という説は完全に否定されることとなる。常に曖昧で霧に包まれていた黒江真由という存在が、12話を見たことで一気に視界が開け、明瞭に見えるようになっていく。ああ、そうか、そういうことだったんだ…。
考えてみれば当たり前のことだった。黒江真由は子どもの頃から転校を繰り返してきた。おそらく真由は転校するたびに、せっかくできた友達と別れ、全く新しい環境で生活することを強いられてきたのだろう。真由の心は、寂しさや、不安や、孤独感でいっぱいだった。そんな中で彼女を支え続けてくれた唯一のものがユーフォニアムだったのではないだろうか。*2
自分と希美とを繋ぐものはオーボエしかないと思い詰め、死に物狂いで練習していた鎧塚みぞれのように、真由もまた、演奏技術を上げるために並外れた努力を続けていたに違いない。黒江真由にとってのユーフォニアムとは、後藤ひとりにとってのギターのようなものなのかもしれない。それは、自分と世界とを繋げてくれるただ一つの存在であり、孤独で押しつぶされそうな自分を支えてくれる、大切な相棒のような存在だったのかもしれない。
だからこそ、真由は自分の演奏に嘘はつきたくないし、わざと下手に吹くのは自分のプライドが絶対に許さない。たとえ「ソリをやりたくない」「ソリは久美子ちゃんがやればいい」と思っていても、いざオーディションになったら本気で吹かざるを得ない。
だが、真由は気づいてしまった。北宇治は、久美子が考えているほど実力主義を徹底しきれていないということ。そして、もし自分がソリに選ばれれば、必ず部内の雰囲気は悪くなり、自分や他の部員が傷つく結果になるということ。
だから真由は、何度も久美子にオーディションの辞退を申し出た。だが、久美子は「北宇治は実力主義」の一点張りで聞く耳を持たない。結局、関西大会前のオーディションで真由がソリに選ばれることとなり、まさに真由が懸念していた通り、部内の空気は最悪のものとなってしまう。
この頃の北宇治の状況は、真由にとってはまるで針の筵だっただろう。真由は焦っただろう。どうして久美子は自分の気持ちを理解してくれないのかと苛立ちを覚えたりもしただろう。それでも真由が自らオーディションを辞退しなかったのは、上で見てきたように、ユーフォ奏者としてのプライドがあったからだろう。
だが、本当にそれだけが理由だったのだろうか、と私は思う。苦しい状況の中でも黒江真由が戦い続けたのは、自分が信じている「正しさ」を貫き通すためだったのではなかろうか。
黒江真由の戦い方
久美子や滝先生の下で「実力主義」を掲げ一致団結する部員の中で、ただ一人、その空気と抗い続けた黒江真由。孤独な彼女を支えていたのは、心の中にある「自分は間違っていない」「間違っているのは北宇治の方だ」という信念だったのではないだろうか。もちろん、釜屋つばめを筆頭に、真由と向き合ってくれた部員の存在も大きかっただろう。だが結局、真由を突き動かしていたのは、心の奥底にある信念だったように、私は思うのだ。
真由はオーディションに勝って自分の力を証明したかったわけではないし、北宇治のためにソリを久美子に譲ろうとしていたわけでもない。黒江真由は、このオーディションを通じて、久美子が抱える矛盾、ひいては、北宇治高校吹奏楽部の中に蔓延る矛盾を、あぶり出そうとしていたのだ。
北宇治は間違っている。今の北宇治のあり方(これは北宇治だけでなく多くの吹奏楽強豪校に言えることかもしれないが)は、本来楽しいものであるはずの音楽を、ひどく違った形に歪めてしまっているから。北宇治が目指しているのは、上手い演奏ではなく、ただ全国金を取るためだけの、コンクールに迎合した音楽でしかない。
北宇治は間違っている。北宇治が掲げている「実力主義」という看板は、どこまでいっても建前でしかないから。選考する滝先生ですら判断が揺らいでいる現状では、本当に公平なオーディションなど存在し得ないし、そもそも、真由が関西大会のソリに選ばれた時の部員の反応からして、北宇治が実力主義を徹底しきれていないことは明らかである。
北宇治は間違っている。強引に「実力主義」を突き詰めていった先には、部員どうしが激しくぶつかり合って、みんなが傷つき悲しむ未来しか待っていないから。そして、そのような環境下ではいつも、真由のような、本当にオーディション結果に興味がない、ただ合奏を楽しみたいだけの人が、居場所を失い苦しむことになるから。
真由は声を大にして叫びたかった。本当はオーディションやコンクールなど投げ出してしまいたかった。それでも彼女は、自分の演奏に嘘はつけなかった。自分からオーディションを辞退することはできなかった。真由は、最後まで相手の土俵で戦うことを選んだ。
私は以前書いた記事(『響け!ユーフォニアム』で描かれるオーディションの「理不尽さ」について)の中で、久美子や麗奈はいずれ吹奏楽が持つ「理不尽さ」に向き合わなければならないと述べたが、真由はずっと前から、真由のやり方で「理不尽さ」と向き合っていた。
そんな真由の態度は、かつて奏が言っていたように、北宇治や久美子を侮辱しているように見えることもあった。真由の真意が分からず、困惑する視聴者もいた。もしかしたら、彼女自身も混乱していて、自分で何をしているのか分からなくなっていたのかもしれない。だが、そんな混乱した姿もひっくるめて、オーディションや演奏に向き合う自分の姿勢すべてを、北宇治の部員たちに見せつけることこそが、真由の戦い方だった。
オーディションの辞退を何度も断られたことで、真由は腹をくくったのだと思う。真由は、堂々と負け戦に臨み、最後まで悪役のまま散っていこうと覚悟していた。オーディションに勝って、また部員から陰口を叩かれて、そらみたことかやっぱり北宇治が実力主義なんて嘘っぱちじゃないか!って、連中を鼻で笑ってやろうとしていた。
それが全部員による投票方式に変わったところで、真由のやることは同じだ。久美子部長への忖度丸出しの結果を前にして、やっぱり久美子ちゃんの言ってたことは嘘だったんだねって嘲り笑ってやろうと決めていたのだと思う。
同じことを私達「真由派」の視聴者も思っていた。真由には最後の最後まで「最強のラスボス」を演じてほしかった。北宇治というアウェーの中でも決して逃げることなく、正々堂々と戦って散っていった悲劇のヒロイン。そして、死ぬ間際に、北宇治が掲げる「実力主義」というハリボテに強烈な一撃を食らわせた唯一無二の存在。最後まで誰にも染まることなく、自分を貫き通した、『響け!ユーフォニアム』史上最強のラスボス。私たちは黒江真由の中に、そんなダークヒーロー的な美学を見出そうとしていた。
それが12話の再オーディションで全てひっくり返った。
久美子は、演奏者が誰か分からないようなオーディション形式を提案し、徹底的に実力主義にこだわった。麗奈と一緒にソリを吹きたいという本心を犠牲にしてでも、自らが信じる実力主義という正しさを貫き通そうとした。それは、真由の決意を凌駕する圧倒的な決意だった。そのあまりにも悲壮な覚悟をまざまざと見せつけられて、真由にはもう成す術がなかった。
また、断片的ではあるが黒江真由の過去が明らかになったことも大きかった。原作において真由を特別なラスボスにしていた要因は、今の真由を形づくる「カギ」がどこにもないという事実、少なくとも、久美子や読者にはそれが分からないという事実に他ならなかった。例えば、鈴木美玲の場合には、練習に対する考え方の違いや鈴木さつきとの確執、久石奏の場合には、中学時代のオーディションが、重要なカギだった。久美子はそのカギをうまく見つけ出すことで、彼女たちの心を刺してきた。田中あすかや義井沙里に対しても同じことをした。それは、干し草の山から一つのカギを見つけるようなものだった。
ところが、原作の黒江真由の場合には、そのやり方が通用しない。真由を構成する干し草の山の中に、カギなど存在していなかった。何の変哲もない無数の干し草の山、それ自体が黒江真由に他ならなかった。だからこそ、原作では久美子は真由の心を刺すことができなかった。そのことが、真由を作中において唯一無二の存在たらしめていた。
その唯一性が、アニメのオリジナル展開によってついに崩れ去った。清良時代にオーディションで切磋琢磨していた友達が、結局最後にはユーフォをやめてしまったという悲しい過去。それがあるからこそ、真由はオーディションやコンクール結果などどうでもよくて、楽しく合奏ができればそれでいいと思うようになった。だが、それでも、自分から辞退はしたくない、自分の演奏に正直でありたい、という葛藤もある。これこそが真由の心の中にあるカギだった。このカギを久美子に見つけられた時点で、真由の「敗北」は確定的となった。
真由は、最強のラスボスとして美しく負けることすら許されなかった。黄前久美子が敵わなかった唯一の人物として久美子や他の部員や我々視聴者の心に深く刻み込まれることすら許されなかった。久美子が示した圧倒的な覚悟を目の当たりにして、真由は救われ、そこで初めて真の意味で北宇治高校吹奏楽部の一員となれた。だが、それは黒江真由が黄前久美子と北宇治に敗れ去った瞬間でもあったのだ。
では、黒江真由は間違っていたのか? 何度も何度もオーディションを辞退したいと言って、北宇治の空気に抗い続けていた真由の行動は、すべて無意味だったのか?
いや、決してそんなことはない。最後に、黒江真由が我々に残してくれたものについて考えることとしよう。
黒江真由が教えてくれたこと
『響け!ユーフォニアム』は、久美子が北宇治高校に入学し卒業するまでの3年間を描いた作品だが、最初の原作は2013年に発売され、今年2024年にアニメ3期が放送されたので、もう10年以上にわたって続いているコンテンツである。その間に、日本の部活動を取り巻く環境や、部活動の在り方そのものが、大きく変化してしまった。
第一に、これまで見て見ぬ振りをされてきた部活動における不祥事などが問題視されるようになった。これまでは隠蔽されることが多かった部活動における体罰やその他の不適切な指導、部員間のいじめなどの問題が、ネットで拡散されて炎上したり、時にはマスコミや警察が介入して問題になることが増えた。それに伴い、あまりにも厳しい上下関係や、非科学的で危険な練習方法などが見直され、より科学的な指導を行う学校が多くなった。
第二に、部活指導を行う教員の労働環境改善を求める声が大きくなった。これまでの学校の部活動は、土日も休みなく働く先生たちの自己犠牲によって成り立ってきたが、そのような歪なシステムは限界に近付きつつある。働き方改革が叫ばれる中で、部活動の顧問になることを拒否する先生たちも出てきた。教員ではなく地域にいる指導者や保護者などが主体となって部活動を行おうという動きも出てきた。今後、少子化や人手不足がさらに進めば、学校単位での部活動という枠組みを維持することはますます難しくなるだろう。
第三に、部活動そのものの必要性や存在意義が問われる時代となった。上で挙げたような変化に加え、地域社会の変容、価値観の多様化、そしてコロナ禍が、部活動のあり方を大きく変えようとしている。それは部活に限らず、多くの子どもが一か所に集まって一つの目標に向かって活動をする事自体の意味が問われている。それには何の意味があるのか? 将来何の役に立つのか? それは他の事を犠牲にしてまでやるべきことなのか? やりたくない子どもにまで強制的にそれをさせるのは本当に正しいのか? 生徒や保護者や地域社会からの様々な声が渦巻く中で、現場の先生達は一体何が正解なのか判断することが難しくなっている。
学校や教育に関する暗いニュースを耳にするたびに、私は黒江真由の姿が脳裏に浮かぶ。部活というシステムが孕む理不尽さ。行き過ぎた勝利至上主義。単一の価値観を押し付けることの危うさ。すべては、黒江真由が警鐘を鳴らしてくれていたことだった。
こんな激動の時代に、あえて教員という職業を選んだ黄前久美子の未来は、決して順風満帆とはいかないだろう。
全国大会金賞よりもはるかに大きなものを得て成長した久美子は、きっと良い先生になる。松本先生のように、生徒から慕われ、生徒と一緒に思い悩み、未来への道を指し示すことができる、そんな立派な先生になる。滝先生のように、吹奏楽部を率いて華々しい活躍を見せる日も来るかもしれない。
でも、その背後にはいつも、様々な事情によって苦しんでいる、第二、第三の黒江真由がいる。
その時、久美子は彼らに手を差し伸べることができるのか?
きっとできるだろう。剣崎梨々花はかつて「久美子先輩って才能ある子好きですよね」と言っていたが、黒江真由と出会って成長した久美子なら、才能ある子にもそうでない子にも、誰に対しても平等で、苦しんでいる子に手を差し伸べられる先生になるだろう。孤独の中で必死にもがき苦しみながら、それでも自分の信念を守り通そうと戦っていた黒江真由の姿が、久美子の背中を押すのだ。あの日、黒江真由に手を差し伸べたという事実が、大人になった久美子を支え続けるのだ。
大切なことはすべて黒江真由が教えてくれた。
久美子だけじゃない。私たち視聴者も、黒江真由から大切なことを教わった。自分を貫き通そうとする気高さ。理不尽さと向き合う強さ。真由自身は何も語らないが、それでも、真由の生き様そのものが、人生において大切なことを何よりも雄弁に物語っている。