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アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ココロコネクト』第5話考察

※作品に対する様々な考え方を併記するために、対論形式の記事にしてあります。

伊織と太一の対話

司会者  とうとう、『ココロコネクト』のヒトランダム編(人格入れ替わり編)が終了しました。今回は、第5話の描写を中心に、1話からの総括を行いたいと思います。まず、第5話前半のクライマックスである、橋の上での伊織と太一の対話について、議論していきましょう。

哲学者  第2話で伊織はこう言いました。人格入れ替わりによって身体も意識も曖昧になった時、我々は我々として存在し続けることができるのだろうか、と。その問いに対して、今回、太一は次のように答えました。すなわち、いついかなる時でも、伊織は伊織だ、と。皆の前で明るく振舞う伊織、複雑な家庭環境ゆえにいくつもの「顔」を持つようになった伊織、自己の存在について悩む伊織、そのどれもが本当の伊織であり、ゆえに伊織が思い悩む必要なんかない。太一が言いたかったのは、そういう事だと思います。

司会者  しかし、そんなに簡単に済む問題なんでしょうか? 「伊織は伊織だ」という言説は確かにインパクトはありますが、伊織が述べていたような哲学的な問いには答えきれていないように思いますが。

哲学者  はっきり言いましょう。哲学なんかどうでもいいんです! 大事なのは、伊織の不安を解消してあげることなんですから。伊織の発言に対しての太一のたたみかける様な反論が、まさにその事を示しています。

「いや、待ってよ……。そんな人間、いる訳ないじゃん。そんないくつもの顔を持った人間なんて――」
「別に、普通だろ。人間には色んな顔があるんだよ。後は程度問題の話だろ。俺は少ない方なんだろうし、永瀬は多い方なんだろうし。ただそれだけじゃないのか」
「でも……わたしは、人に合わせて、それを……」
「んなもん、誰だって場の空気でキャラ変わるだろ。永瀬はそれが人よりかなり過剰だった……ってくらいじゃないのか。というか、最近は自由に変えられなくなってきたって言ってなかったか?」
「それは……。でも、やっぱりわたしは……こういうキャラでいこうって身構えなきゃ人と上手くやれなくて……」
「全く身構えもせず自分の我だけを通して、人と上手くやれる奴なんていないだろ」
「け、けど……わたしは……好きなものすら……その時の雰囲気で……」
「それもただ、雰囲気で順位が入れ替わるくらい、同じように好きなものがたくさんあるだけの話じゃないか」
「でっ、でもわたしは……自分でどの部活に入るかすら選べなくて……」
「楽しそうなところを適当に選んで入った奴とか、友達が入ったからそこにしたって奴らと、そんなに変わらないんじゃないか?」
「……ていうか途中からただの屁理屈だよね?」
「……ていうか途中から完全に屁理屈だな」*1

哲学者  まさに「屁理屈ですが、何か?」という開き直りですよ。一番大事なのは、自分を否定し続ける伊織に、何度も何度も「いや、それは違う」と間髪入れずに反論すること。たとえ屁理屈であっても良いんです。理屈が通ってなくても、人間、救われる時は救われるんです。

九州人  結局、唯や稲葉と同じように、伊織も難しく考え過ぎてしまっただけだと思いますね。太一の反論は確かに屁理屈っぽいところもありますけど、一応筋の通ることばかりですよね。伊織は、状況に合わせて色々な「顔」を使い分ける自分を見て、「自分」というものが曖昧になっているという不安を抱いたわけですが、誰だって多かれ少なかれ複数の「顔」を使い分けて生きているものでしょう。

左翼思想家  例えば、大臣が失言をした時に「これは私個人の意見であって、内閣の総意を述べたわけではない」というような言い訳が使われることもある。また、首相が靖国神社に参拝する時にも、それが「公人」としての参拝か、「私人」としての参拝かが問われたりする。こういう現象が見られること自体、個人が場合によって複数の「顔」を使い分けているということが、この日本で「暗黙の了解」とされていることを示唆している。

九州人  他人に合わせて自分を変えることだって、単に優柔不断な性格をしてるだけという見方もできる。そして、もちろんこれも、多かれ少なかれ全ての人間に当てはまることですよね。

司会者  なるほど。そう考えると、逆に、伊織は何でここまで思い詰めてしまったんだろうか、と不思議になるくらい単純なことのように思えてきました。

左翼思想家  やはり人は、一人では生きられないということだと思う。〈ふうせんかずら〉のような悪党を前にすれば、誰だって心を乱され、平常心ではいられなくなる。落ち着いて考えれば簡単に解決できる問題でも、どんどん悪い方向に考えてしまって取り返しがつかなくなる。そんな時にこそ、同じ苦労を共有した仲間の存在が重要になる。以前述べたように、文研部5人は校内のアウトローであって、入学してからの約半年間、ずっと同じ時間、同じ場所で、想いを共有してきた。そんな彼らだからこそ、「人格入れ替わり」という試練に協力して立ち向かう事ができたんだと思う。

太一の自己犠牲

司会者  さて、太一の告白の後、空気を読まない〈ふうせんかずら〉によって体を乗っ取られた伊織は、橋から落下して生死のふちを彷徨うことになります。文研部に突きつけられたのは、伊織の身体と共に死ぬ「人格」を選ぶという残酷な決断でした。第3話と同様に、ここでもまた、太一の中にある自己犠牲精神がクローズアップされてきたわけですね。自分が犠牲になると宣言した太一を、稲葉が怒鳴りつけ、太一は次のように言い返します。

俺は目の前で誰かが傷ついているのを見るのが嫌なんだよっ! 誰かが傷ついたり、苦しんだり、嫌がったりしているとその痛みを想像してしまう……。そしてその想像はどんどんどんどん膨らむんだっ。やがて……そいつは途方もない痛みになる、とてもじゃないが耐えられなくなるんだっ……! (中略) だから俺は誰のためにやってるんでもない……俺のために『自己犠牲』をやってるんだっ!*2

生物学者  私が以前の討論で述べた通りになりましたね。やっぱり自己犠牲と呼ばれる行動も、結局は利己的な行動なんですよ。太一が言うように、人は、誰かが傷ついたり、苦しんだり、嫌がったりしているのを見ると、自分の心も痛くなるものです。だからこそ、自己犠牲には、それをやることで自分の心の痛みを解消しようという「利己的」な要因が必ず含まれている。そこには「自分のために自己犠牲をやる」という永遠に逃れられない矛盾が潜んでいるんです。稲葉も太一の事を「正真正銘の自己中野郎」だと言っていました。彼女の言う通り、自己犠牲とエゴイズムは切っても切れない関係にあるんですね。

カント主義者  やはり君の考えは間違っている。人は常に自己の利益だけを考えて行動しているわけじゃない。自己の心の痛みや、その他の利己的な要因を全て取っ払って、理性的に考えて「それが正しいから」という理由で自己犠牲をすることもできるはずだ。ただし、その自己犠牲によって周りの人も心が痛むのであれば……、それは正しい自己犠牲とは言えないかもしれない……。

司会者  太一の心の叫びを聞いた稲葉は、次のように優しく太一に語りかけます。

「やっぱりお前はおかしいよ。おかしいが、やさしー狂い方だな。 (中略) 優しくて、不器用で、バカだな……本当に。でもそれだけ他人の傷に心を痛められる太一なら、お前が傷ついた時の周りの人間の痛みも、理解できるだろ? お前が傷つけば、周りにいるアタシ達の心が痛む。……お前を友達以上の存在だと思っている人間は尚更、な」*3

フェミニスト  これは偏見と言われるかもしれませんが、やっぱり男性というのは、一つの事に集中したらそればかりに目が行ってしまって、周りが見えなくなってしまうことが結構あるんじゃないかと思います。むしろ、女性の方が、全体を見渡しながら行動できるのかなあ、と。今回も太一は、伊織を救いたいという一心で「自分が犠牲になる」なんて言い出したわけですが、非常に大切な事を見落としてしまいました。すなわち、太一が傷ついたり死んだりすれば、周りの人間も心が痛むのだ、ということを。

アニオタ  自己犠牲について考える時、僕は『うえきの法則』の植木耕助を思いだします。この植木という男も、目の前で困っている人がいたら助けずにはいられない自己犠牲精神の持ち主です。しかし、植木の友人・森あいは、植木に助けられてばかりで自分は何も出来ないということに引け目を感じてしまい、次のように叫びます。

何が“他人のため”よ!!
あんたの勝手な考え方、ヒトに押しつけないでよ!*4

アニオタ  でも、結局、物語のクライマックスで植木は次のように語り、自己犠牲をやめませんでした。

森…そういやお前にも言われたっけ。「何が他人のためだ」…「お前の勝手な考え、人におしつけるな」って…
ごめんな。やっぱ直んねーわ コレ。*5

九州人  なるほど、稲葉の声を聞いて自己犠牲をやめた太一とは対照的ですね。私なら、自己犠牲と言えば『とある魔術の禁書目録』の上条さんを連想しますね。自分を犠牲にして大切な人を守ろうとした男に対して、上条さんは次のようにお説教をしています。

「アンタ、知ってんだろ。大切な誰かに死なれる事の痛みが。目の前で苦しんで、傷ついて、でも自分には何もできなくて、どうしようもないっていう苦しみを知ってんだろ (中略) 焦ったはずだ。辛かったはずだ。苦しかったはずだ。痛かったはずだ。恐かったはずだ。震えたはずだ。叫んだはずだ。涙が出たはずだ。……だったら、それはダメだ。そんなに重たい衝撃は、誰かに押し付けちゃいけないものなんだ」*6

九州人  これは、自分が犠牲になることで悲しむ周りの人間のことも考えろ、という今回の稲葉の意見と同じものです。しかし、上条さん自身は自己犠牲精神の固まりみたいな人物ではありますが……

アニオタ  やはり、自己犠牲がテーマとなったアニメは非常に多いですね。例えば『とらドラ!』の後半部では、幸福のために何かを犠牲にするのではなく、自己犠牲を伴わずに全員が幸福になれる道が模索されました。そして、『Fate/stay night』の衛宮士郎は……

司会者  大変興味深い話ですが、長くなりそうですので、話を『ココロコネクト』に戻したいと思います。

アニオタ  分かりました。……これまで太一は、自分の心の痛みを解消するために自己犠牲を行ってきました。自分が犠牲にならないと心が痛む、でも犠牲になっても自分に不利益がふりかかる。これは行くも地獄、引くも地獄の苦しい生き方です。でも、今回の事を通して太一は、単に自分が犠牲になるだけじゃ駄目なんだという事を学びました。自分が犠牲になることで周りの人がどんなに悲しむかということも理解できましたし、自分の感情を声を大にして叫ぶこともできました。そして何より、自分一人で痛みを背負うんじゃなくて、仲間と共に心の痛みを共有するという選択もあるんだ、と理解することが出来ました。そういった意味で、今回の人格入れ替わりを通して太一も「救われた」んだと思います。

九州人  実は、太一が自己犠牲を行う背景には、もっと根の深い問題が潜んでいるんですね。それは原作小説第6巻(短編集ま含めると第7巻)で明らかになります。この巻で文研部が経験するのは、『夢中透視』という現象でして……

司会者  申し訳ありませんが、これ以上はネタバレになりますので、次の話題に移りたいと思います。興味のある方は原作小説の方でご確認ください。さて、これまであまり目立った活躍をしてこなかった青木ですが、最後に見せ場が待っていましたね。

誰かが言わなくてはいけないこと

「オレは、【伊織ちゃんの身体】と死ぬのは、伊織ちゃんしかいない……、そう思う」
(中略)
「……オレだって……オレだってこんなこと言いたくねえよ……! でもそれは誰かが、言わなくちゃならないことだと、思ったから……」*7

野球選手  この場面の青木は凄くかっこ良かったですね。スポーツでも何でもそうですが、仲間のためにという思いが強すぎて、気持ちが空回りすることって結構あると思うんです。今回の太一がまさにそうでしたよね。でも、今回の青木は、冷静に目の前の事実を見つめて、今、文研部にとって何が必要かを考えて行動していたと思います。

生物学者  医療技術の進歩によって「脳死」という概念が用いられるようになっていますが、これは平たく言えば、脳の活動つまり「意識」は死んだけれども、身体はまだ生きているという状態のことですね。脳死の場合でさえ、脳死判定やその後の臓器移植との関連から、様々な倫理的問題が噴出しています。もし、身体が死ぬ時に一緒に死ぬ人格を自由に選べるんだとしたら、脳死以上に様々な問題が噴出してくるのは目に見えています。私は人格入れ替わりなんて非科学的なものは信じないけれども、仮に人格と身体とが自由自在に入れ替わることができるとしても、死ぬ時はその人の身体と人格がセットでなければならないと思います。これは確かに、誰かが言わなくてはいけない事ですね。

野球選手  普段はチャラチャラしてふざけてばかりいるように見える青木ですが、ここぞという時には言うべき事をきちんと言う、進んで汚れ役も引き受ける。まさにチームプレーの精神を体現したようなキャラだと思います。本当に、『ココロコネクト』は登場人物全員にきちんと見せ場が用意されていて、そういうところが自分は凄く好きですね。

伊織は変われたのか

司会者  さあ、いよいよ物語はクライマックスとなり、最後に伊織(体は稲葉)と太一が語り合う場面です。人格入れ替わりを通して感じた事、経験した事、そして、橋の上での太一との対話、それらを通して伊織は変われたんでしょうか。

九州人  太一に向かって伊織は「なんか色んなもん含めて、私が好きになれそうだよ」と言っていましたね。これまでずっと自分を見失っていた伊織が、最後の最後で自分を好きになれた。そういった意味で、伊織はようやく変われたんだと思います。

哲学者  でも、最後の最後まで、「一ネタはさむことを期待してるでしょ?」なんて言って、明るいキャラを演じていた。そういうところは結局変わらなかったんですね。というか、その部分は変える必要はないんだと気づいたんでしょうね。人に合わせてキャラを演じる部分もひっくるめて、自分を肯定できるようになった。だからこそ、「人生まだまだこれからなのに」という悔しさも込み上げてくる。

九州人  「自分を好きになれなければ、人を好きになることもできない」なんていう言葉がよく言われたりしますが、伊織の場合もまさにそうですよね。自分を好きになって、ようやく太一の事を好きになれた。

哲学者  でも、伊織が伊織自身を好きになれたのは、他でもない太一のおかげですよね。太一は「伊織の事が好きだ」と言ってくれた。それによって、他人から「好き」と言ってもらえる自分を、自分自身も「好き」と思えるようになった。

九州人  太一の言葉によって伊織は変わったのに、逆に、伊織の言葉によって太一が変わる事を、伊織は望まなかったわけですよね。何故なら、自分はもう死んでしまうから。う〜ん、そう考えると凄く切ないですね。

悩みを打ち明けることで、自らの思考を相対化せよ

司会者  結果的には伊織は死ぬことはなく、文研部に平穏な日常が戻ってきて、視聴者一同、ホッと胸をなで下ろしたんじゃないかと思います。さて、最後になりましたが、第1話から第5話までの総評を九州人さんにお願いしたいと思います。

九州人  分かりました。結局、ここまでの物語で作者が一番伝えたかったのは、「悩みを打ち明けることで、自らの思考を相対化せよ」ということなんじゃないかと思います。唯も稲葉も伊織も、当初は一人で問題を抱え込んでしまって、精神的に追い込まれてしまいました。でも、太一や他の部員に悩みを打ち明けることで、問題は短時間でスッと解決してしまいました。何度も繰り返しますが、一人で問題を抱え込むと、問題を深刻に考え過ぎてしまうと思うんですね。そこには一つの視点しかないから、思考はどんどんネガティブになってしまって、解決できるものも解決できなくなってしまう。そこで勇気を出して仲間に悩みを打ち明けると、一度別の視点を入れてみることができる。すると、「ああ、こういう見方もできるのか」と気付くことができて、問題がアッと言う間に解決してしまう事がある。

  • 「どうやっても男には敵わない」→「いざとなったら股間を蹴り上げればいい」
  • 「仲間を信用できない自分が心の底から嫌いだ」→「それって、ただの心配性じゃね?」
  • 「本当の自分を確立することができない」→「誰だって周りに合わせてキャラを変えることがある」

九州人  こんな風に、別の視点から問題を見つめることで、自らの思考を相対化する。こうして、一人では思いもしなかった解決法が浮かび上がってくる。まさに、悩みを打ち明ける勇気、そして悩みを打ち明けることのできる仲間の大切さ。それを我々に教えてくれたのが、『ココロコネクト』という作品だったと思います。

司会者  なるほど。唯・稲葉・伊織という3人の悩みをめぐるエピソードは、一見すると全く別々のものですが、問題解決までのプロセスは全く同じものだったんですね。さて、次回からはいよいよ、原作小説第2巻の内容に入っていきます。これまで以上に深刻な試練を前にして、文研部はどう対処して絆を深めてゆくのか、次回からもじっくりと討論していきたいと思います。

*1:第1巻、265〜266P

*2:第1巻、282〜283P

*3:第1巻、283P

*4:『うえきの法則+』、第1巻、20P

*5:『うえきの法則+』、第5巻、180P

*6:とある魔術の禁書目録』、第5巻、313P

*7:第1巻、285P