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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『SPA!』の『魔法少女まどか☆マギカ』特集について(1)―宮台真司・宮崎哲弥の評論を読んで

アニメ まどマギ

はじめに

SPA!』の7月19日号に掲載されている「大人気アニメ『まどか☆マギカ』の正体」という特集記事が話題になっている。この中では、宮台真司宮崎哲弥八代嘉美森川嘉一郎・磯崎哲也(敬称略)という、思想も職歴も全く異なる5人の論者が『まどマギ』の評論を行っている。それらが非常に興味深かったので、彼らの評論を私なりに解釈してみることにした。

今回はまず、宮台真司宮崎哲弥の評論について見てゆくことにしよう。

宮台真司

『まどマギ』が東日本大震災の影響で放送延期になって以来、いくつものアニメ考察ブログなどで本作と震災との関連が指摘されてきた。そこで述べられているのは、例えば、震災後も続く「日常」についてであったり、善意が裏目に出る厳しい現実についてであったりする。

3.11の前と後で、世界は微妙に変わったが、幸か不幸か我々の大多数が3.11以後の世界にも存在しているという揺ぎ無い事実は、この国の「終わらない日常」が微細に形を変えながら存在し続けているし、また将来も恐らく同じであろうという事実を物語っているように思えてならない。暁美ほむらが、「魔女」の居なくなった世界においても、しかしそれでも「戦う」ことには変わりない日常を生きている本作のラストは、現下のわが国の状況と絶妙にシンクロしているように思える。
魔法少女まどか☆マギカと原発事故

震災から1週間くらいは、Twitter上で性急な善意の行動をたしなめる発言をよく見かけました。いわく、受け入れ先の定まっていない状況でのボランティアや物資救援は混乱を招く、一時に大量の献血をされても血液の保存期間は限られている等々。
マミやさやかを見れば分かるように「まどマギ」においても、性急な善意の発動はしばしば命取りになってしまいます。なぜなら、自分の善意がダイレクトに「人助け」という結果をもたらすほど、世の中はシンプルにできていないから、そのことを理解せずに行動を起こせば高い確率で足元を見誤ってしまうからです。
魔法少女まどか☆マギカ(今回の震災諸々にリンクさせて思うことなど)より引用)

この他にも、福島第一原子力発電所の事故と『まどマギ』を関連付けて考察する記事も、数多く存在している。詳しいことは、『魔法少女まどか☆マギカ』と原発事故―「キュゥべえ」と「原子力ムラ」の共通点を参照していただきたい。

さて、これらをふまえた上で、肝心の宮台の評論について見てみよう。宮台真司もまた、今回の大震災とリンクさせて『まどマギ』を論じている。彼は、震災と『まどマギ』とをつなげるキーワードとして「絆」を挙げている。

毎日の積み重ねで生まれてゆく絆、まどかはそれに気付いてなかったんだけど、最終的にその因果に気づいて自分の役割を引き受ける。(中略)
これは先の震災ともシンクロするんですが、危機的な状況では、ありとあらゆる局面で絆が試されますよね。何が最後まで頼れるよすがになるのか。普段はただの戯れじゃないのかという懸念を抱えながらも、我々は絆なしには生きられない。そんな2011年の気分が写し取られている気がします。
(『SPA!』2011年7月19日号、P55)

これは、宮台が長年言ってきたことと通じるものがある。私はたぶん彼の言ってることの半分も理解できてないだろうけど、それでも私なりに解釈すれば、次のようにまとめることができる。宮台は、一人ひとりが自分の所属する共同体にきちんとコミットできるような社会を理想としている。個人の共同体意識が希薄なままでは、大事な問題を政府に任せきりになってしまい、色々と問題が出てくる。さらに、このような状況を放置したままで「小さな政府」的な政策が推し進められたなら、それこそ本当に個人はバラバラになってしまう。*1 だからこそ、個人と政府との間にある「共同体」が重要になるわけだ。

また、この宮台の評論は、彼が震災後に行ってきた「脱原発」の言論活動を念頭においた上で読まなければならない。原子力ムラの強固なシステムを壊すためには、国や大企業に頼らない新しいエネルギー戦略が必要となる。そのためにも、共同体の絆を回復し、一人ひとりがエネルギーについて考えて行かねばならない。*2 宮台は『まどマギ』の物語構造として、

平凡な少女が自分を支えていた関係性に気づき、翻身をして、義務を果たす。
(『SPA!』2011年7月19日号、P55)

と述べているが、これは震災後の日本人に突きつけられた大きな課題に他ならない。まどかが友人達の苦悩を通して変わっていったように、我々も震災という悲劇を通して変わってゆかなければならない。以上のようなことからも、本作と震災とをリンクさせて論じることは全く不自然ではないのだが、ネット上で「何でもかんでも時事問題と関連付けるな」といった批判が上がっているのは真に残念なことである。

宮崎哲弥

あの宮崎哲弥が『まどマギ』を見ているということ自体にも驚いたが、さらに衝撃だったのは評論の内容だ。まずは、キュゥべえについて書かれた箇所を引用しよう。

彼の基本的な価値観は、マイケル・サンデル説くところの功利主義そのものです。宇宙全体の存続のためなら個々の運命など無視してかまわないとする“宇宙功利主義”。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

では次に、私が4月29日に書いた『魔法少女まどか☆マギカ』についての2つの論点―「魔法少女の救済」と「まどかの自己犠牲」という記事にある文章を見てほしい。

もしマイケル・サンデルがまどマギを見たなら、
大勢の人の利益のために、少数の人の利益が損なわれるのは正しいのか? あるいは、地球の環境や未来のために、人類が犠牲になることは正しいのか? さらに論を進めて、宇宙全体の寿命を延ばすために、少女が犠牲になることは正しいのか?
みたいなことを言うだろう。で、このキュゥべえ的な究極の功利主義に対して、多くの視聴者は「ノー」を突きつけたわけだけど、その理由をサンデルの講義に出ていた学生風に言えば、(以下略)

つまり、宮崎の言う「キュゥべえ=サンデルの説く功利主義者」論は、すでに俺がこのブログで述べていたことだったんだよ!!(な、なんだってー!)*3 まあ、これは考えてみたら当たり前のことだ。『ハーバード白熱教室』を1回見ただけの私でも思い付いたんだから、日頃から共同体主義者を標榜している宮崎なら、真っ先に思い付くことだろう。しかし、彼の評論はここからさらなる展開を見せる。

そういう意味でキュゥべえは“悪しき仏教徒”ですね。因果の理法は熟知しているのはいいのだけれど、その法則を不変のものと決め付け、それを利用して魔法少女を搾取する。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

ここで仏教に繋げてくるあたりが、宮崎らしくて面白い。さらに、

クライマックスでまどかが歴史上のすべての魔法少女たちを救っていく姿は、まさに菩薩(=万人の救済者)の姿ですよ。
(『SPA!』2011年7月19日号、P56)

とも述べられており、この辺りは、『まどマギ』最終回後まもなくして「はてな匿名ダイアリー」にUPされた記事【ネタバレ】まどかマギカは大乗仏教との関連性も指摘しなければなるまい。一方で、本作最終回ついては、「まどか教」という言葉が生まれるほどのネット上での盛り上がりを、キリスト教的世界観と関連付けて考察している記事もあった。*4 あの最終回から仏教を連想したり、キリスト教を連想したりと、人によって論じ方がバラバラで実に興味深い。

正直、私は仏教についてはあまり詳しいことは言えないので、ここからはサンデルとの関連についてもう少し述べてみようと思う。サンデルが『ハーバード白熱教室』の中で言っていた「暴走列車の例え」*5では、多くの学生が「1人を犠牲にして5人の命を救う」と回答したわけだけど、それが「デブを突き落とすかどうか問題」*6に変わった途端、今度は「デブを突き落とさずに5人を見殺しにする」と回答する学生が増えた。サンデルは、この2つの設問によって、功利主義の限界を示したわけだ。もし我々が功利主義を完全なる「正義」と見なして行動しているのなら、(「最大多数の最大幸福」という功利主義の大原則に則って)デブ1人を突き落として他の5人を救うことを「正しい」と判断したはず。なのに、デブを突き落とす行為を「正しくない」と考えている学生が多かったということは、やはり功利主義が絶対的な正義ではないということを示しているわけだ。*7 ところがキュゥべえなら、迷わず「デブを突き落とす」という選択をするはずで、だからこそ、我々はキュゥべえの考えに反感を持つわけだ。

これは政治の世界でも同じような事が言える。たとえ「公共の利益」のためであっても、ある個人の人権や尊厳を著しく侵害することは許されない。『まどマギ』で言えば、たとえ「宇宙の寿命を延ばす」というような「公共の利益」のためであっても、少女達を魔法少女・魔女にするような行為は許されないわけだよね。ところが、近代合理主義みたいなものを極端に押し進めていったなら、このキュゥべえ的な功利主義が「正しい」とされてしまう、という大きな問題がある。少女が魔女になったとしても代わりに宇宙の寿命は延びたのだから、「合理的に判断して」それは正しいよね、ということが言えてしまう。そういった近代の過ちは、全体主義とか共産主義といった形で表出してきたし、原発問題とか米軍基地問題とか、あらゆる問題にも繋がってくることなわけだ。

では、我々が功利主義の陥穽に陥らないためにはどうすれば良いのか。その答えを導く一つのヒントとしては、上で宮台が言っていたように、「絆」というものがある。そしてこれは、サンデルが言っている共同体主義とも通じることだ。キュゥべえのように全体を見渡すことも時には必要だけど、身近なところにある「絆」に重きをおくことも大事だよね、ということ。あるいは、もう一つのヒントとして、宮崎が言っていたような仏教思想による救済とおいうものが挙げられるかもしれない。

まとめると、『まどマギ』は、キュゥべえという存在によって功利主義の限界を我々に知らしめ、功利主義の罠から逃れるためのヒントとして仏教思想や共同体主義を提示したのだ、ということが言えるだろう。

私の反論

宮台も宮崎も、『まどマギ』をベタ褒めしているが、ここで少し反論をしておきたい。要するに「犠牲」の問題だ。「自分の役割を引き受ける」とか「万人の救済者」とか言ってるけど、結局はまどかが犠牲になってるという事実をどう捉えるのか。その点を無視して「絆」とか「関係性」とか言われても、「そんなものクソくらえだ」と言う人が絶対出てくると思う。宮台や宮崎のように「まどかの成長」という観点から考察するか、私のように「まどかの自己犠牲」という観点から考察するか、それによって物語の見方は大きく変わる。これは「過程」を見るか、「結果」を見るかの違いと言い換えても良い。

『まどマギ』の世界は「誰かの犠牲の上に成り立っている世界」であって、その世界を変えるためにまどかは魔法少女になって犠牲になった少女たちを救済したわけだけど、でもやっぱり彼女自身は犠牲になってしまった。そして、この構図は、言うまでもなく現実世界と全く同じなんだよね。我々は、先進国の豊かな生活を維持するために発展途上国の人々を犠牲にしたり、豊富な電力で快適な生活をするために原発周辺の住民を危険にさらしたりしている。

まどかが「概念」となって誰からも認知されなくなったように、我々も、誰かを犠牲にして生きているということに気づけない。でももし奇跡も魔法もあるんだとしたら、最終話のほむらのように、我々もその尊い犠牲者に気づくことができるはずだ。そして、そのことに気付くことによって世界は少しずつ良い方向へ変わってゆくはずだ。私は『まどマギ』の中にそういうメッセージを感じ取った。

以上のような考察をふまえた上で、次回の記事では八代嘉美森川嘉一郎・磯崎哲也という3人の評論について見ていこうと思う。

*1:そのようにして色々な問題が噴出してきているのが、ここ数十年の日本だ。

*2:詳しいことは飯田哲也氏との共著『原発社会からの離脱』(講談社現代新書)を参照。

*3:もちろん、私や宮崎以外にも、同じようなことを述べている人は他にもたくさんいる。「キュゥべえ 功利主義」でググればそれがよく分かる。

*4:参照:[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110706/1309921972:title=あなたはまどかを信じますか?]

*5:「ブレーキが壊れた暴走列車の先には5人の作業員がいて、このままでは彼らが列車に轢かれて死んでしまう。しかし、列車を待避線に移動させれば、死者は待避線にいる作業員1人で済む。この時あなたならどうするか」という問題。

*6:「暴走列車の前にデブを突き落とせば、そのデブは死ぬが、列車は停止して作業員5人は助かる。その時、あなたならどうするか」という問題。

*7:前者の後者の設問で、学生らの意見が変化した理由については、色々な理由が考えられる。例えば、デブを突き落とす場合には、我々が積極的にその人の命を奪う形となるため、それを「正しくない」と感じる人が増えたのだ、という様にも考えられるだろう。