新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『響け!ユーフォニアム』で描かれるオーディションの「理不尽さ」について

はじめに

響け!ユーフォニアム』アニメ第3期では、北宇治高校吹奏楽部の部長となった黄前久美子が、塚本秀一高坂麗奈などの仲間と共に全国大会金賞を目指して突き進んでいく。久美子たちが3年生になって大きく変わった部の制度と言えば、なんといっても、オーディションである。前年まで、オーディションは年1回だけだったのに対して、今年は府大会、関西大会、そして全国大会の前にそれぞれオーディションを実施し、その時点で最適な奏者を選出するという仕組み。

このオーディションが実に厄介なのである。作中の登場人物たちはオーディション結果を巡って互いに対立したり、喜怒哀楽様々な感情を爆発させたりする。もちろん、我々視聴者も、その結果に一喜一憂し、様々な考えを巡らせる。何故このような事態になってしまうのか。それは、『響け!ユーフォニアム』で描かれるオーディションが徹底的に「理不尽」だからである。

私が考えるに、北宇治のオーディションは、本人の実力や努力ではどうすることもできない「運の要素」と、公正な審査によって実力ある者が選ばれるという「実力主義の要素」とが、複雑に絡み合ってできている。だからこそ、それは時として、とても理不尽に見えるのである。

この記事では、運と実力というキーワードを使って『響け!ユーフォニアム』で描かれるオーディションの性質を読み解き、それが北宇治高校吹奏楽部にどのような影響を与えているのか、また、それについて黄前久美子や他の部員がどのように理解しているのかを考えていきたい。

「運の要素」と「実力主義の要素」

黄前久美子は「北宇治は実力主義」だと言う。ここで言う実力主義とは、要するに、学年や役職とは関係なく「上手い子」がコンクールメンバーに選ばれるということ、その中で最も上手い子がソロパートを任されるということである。そして、演奏における実力は、本人の努力によって向上させることができる。もちろん、能力の向上には個人差があり、すぐに上達する人もいれば、努力してもなかなか結果に結びつかない人もいるだろう。しかし、公正な審査によって実力のある子が選ばれるという事実は変わらない。それが、久美子の考えている北宇治のオーディションの姿である。

ところが実際には、北宇治のオーディションは「運の要素」が結果に大きく影響してしまう、という現実がある。もちろん、100%運で決まるなんてことは有り得ない。それはクジ引きやジャンケンでコンクールメンバーを選ぶことと同じなので、言葉の定義上そんなオーディションは存在しない。ここで言いたいのは、表向きは「実力主義の要素」で結果が決まっているように見えているが、実際は様々な場面で「運の要素」が入り込んでくる、という状況である。

例えば、鈴木さつき。府大会前のオーディションで、チューバを始めたばかりの釜屋すずめはAメンバーに選ばれたのに、すずめよりも演奏技術は高いさつきは何故か落選してしまう。久美子が滝先生に理由を尋ねると、滝先生は「すずめの演奏は課題も多いけど、音量は素晴らしい。彼女の課題である高音域については、吹かないでもらえばいいだけ」というような事を言う。これは鈴木さつきにとっていろんな意味で不運だったと言う他ない。第一に、滝先生がいきなり演奏技術ではなく音量という評価基準を持ち出してきたこと。第二に、音量が重要ということになるのであれば、さつきのような小柄な子は不利になるということ。そして第三に、そもそも今年の課題曲と自由曲が、さつきにとって不利な選曲であるということ。これらは全てさつきの努力等ではどうすることもできない「運の要素」である。しかし、さつきが去年の後藤卓也や長瀬梨子のように素晴らしい音量と演奏技術を兼ね備えた演奏をしていれば、当然コンクールメンバーに選ばれていたはずであり、そういう意味で言えば「実力主義の要素」もあったと言えるだろう。

同じことは久石奏にも当てはまる。府大会ではコンクールメンバーに選ばれた奏だったが、次の関西大会前のオーディションでは落選となる。その理由は、チューバ奏者が1人増えた影響で、ユーフォニアム奏者が1人減らされたせいである。各楽器の編成など奏にはどうすることもできない問題であり、その点で奏は運が悪かったとしか言いようがない。しかし、すべてを運で片づけられるほど問題は単純ではない。たとえ奏者の数が減ったとしても、奏がオーディションで素晴らしい演奏をして久美子か真由に勝っていれば、何の問題もなくコンクールに出られたはずである。そういう意味で言えば、奏は実力が無かったので落ちたと言えなくもないのである。

このように「運の要素」と「実力主義の要素」が混在する状況は、当然ながら主人公である黄前久美子自身にも容赦なく降りかかってくる。関西大会前のオーディションでソロの座を黒江真由に奪われた久美子は、表向きは「結果に納得している」と言いつつも動揺している様子を隠しきれていない。もし黒江真由の転校という「運の要素」が無ければ、(久石奏や針谷佳穂はまだ演奏技術で久美子に遠く及ばないので、)久美子はほぼ確実にソロに選ばれていただろう。部長として多忙だったこともオーディション結果に影響したかもしれない。それでも、オーディションで黒江真由を超える実力を見せてソロを勝ち取れなかったということもまた事実である。

このようなケースは何も、アニメ第3期になって新たに生じたものではなく、第1期の頃からずっと同じようなことは発生していた。滝先生が顧問に就任して1年目のコンクールにおいて、トランペットのソロに選ばれたのは3年生の中世古香織ではなく、当時1年生の高坂麗奈だった。香織にとって、3年時になっていきなり部の方針が変わったことと、麗奈が入学してきたことは、不運以外の何物でもない。だがしかし、オーディションやその後に行われた再オーディションで麗奈に勝る演奏をしていれば、香織も問題なくソロに選ばれていたはずなので、その点で言えば香織はやはり実力で麗奈に負けたとしか言いようがないのである。

以上は全て、オーディションで涙をのんだ敗者の側についての記述だが、勝者の側についても同様である。

高坂麗奈にとって、滝先生が顧問に就任するのと同じタイミングで入部できたというのは、まさに「運の要素」である。しかし、そうして入った部活の中で圧倒的な力を見せつけ、ソロの座を勝ち取ったというのは、紛れもなく「実力主義の要素」なのである。

釜屋すずめにとって、様々な楽器の中からたまたま自分の適性にあったチューバを選んだということ、そして、今年の課題曲・自由曲がその自分の適性を最大限に発揮できる曲であったことは、まさに運が良かったと言える。しかし、すずめが朝早くから練習して実力を上げてきたということもまた、疑いようのない事実である。

このように、北宇治のオーディションは根幹の部分で「実力主義の要素」を残しつつも、その背後に様々な「運の要素」が入り込んで結果に影響を与えている。

何故北宇治のオーディションは「理不尽」なのか

ここで注意しておかないといけないのは、オーディション結果が運によって決まること自体は必ずしも理不尽とは言えない、ということである。災害や疫病を例にすると分かりやすいだろう。「台風によって大会が中止になった」とか「コロナ禍によって部活ができなくなった」みたいな例は、当事者全員に対して悪い方向に働く「運の要素」であり、そこまでくると逆に諦めもつくのである。ところが北宇治のオーディションはこれらの例とは全く異なる。ここで「運の要素」となるのは、部の方針変更や、滝先生の編成方針の変更、コンクールで演奏する楽曲の選考などであるが、それらがもたらす影響は各部員によって千差万別である。

北宇治のオーディションは、突然やってきた環境変化、すなわち「運の要素」が、ある人に対しては有利に働き、別の人に対しては不利に働くからこそ、恐ろしく理不尽なのである。

これはもちろん、北宇治のオーディションに特有の問題ではなく、似たような例は枚挙に暇がない。様々なスポーツで毎年のように見られるルール変更、格闘技における階級分けの変更、そしてワールドカップやオリンピックのたびに話題になる誤審の問題。これらの問題に内包される「理不尽さ」は全て、本来なら実力主義の世界に運の要素が介入してくること自体ではなく、その「運の要素」によって有利になる人と不利になる人が生じることに起因している。

話は若干逸れるが、上で挙げたような運と実力の関係性が最もよく表れている現象が生物の進化についてなので、それについて説明しておこう。アメリカの古生物学者であるデイヴィッド・ラウプは、生物が絶滅するシナリオは3種類に分けられると述べた*1

第一は「弾幕の戦場」と呼ばれるシナリオで、要するに100%運によって決まる絶滅である。例えば、巨大な火山噴火によって島が丸ごと沈んでしまった場合、そこにしか住んでない生物種は成す術もなく絶滅してしまうだろう。それは彼らの遺伝子が悪かったわけではなく、巨大噴火などの天変地異に襲われればどんなに優れた生物でもひとたまりもなく絶滅してしまうであろう。このような完全に運による絶滅が第一のシナリオだ。

第二は「公正なゲーム」と呼ばれるもので、これは我々一般人が「進化」「自然淘汰」「適者生存」といった言葉を聞いて真っ先に思いつくイメージと合致した絶滅のシナリオである。生物種どうしが競争を繰り広げて、その中で最も強い種、最も環境に適応した種が生き残る。それ以外の種は絶滅してしまう。多くの人が進化という言葉を聞いた時、まさにこのようなシナリオを想像するのではないだろうか。

第三が「理不尽な絶滅」というもので、「弾幕の戦場」と「公正なゲーム」の合わせ技のようなシナリオである。そしてラウプは、ほとんど全ての絶滅はこの「理不尽な絶滅」タイプであると述べている。

例えば恐竜の例が分かりやすいだろう。中生代の温暖でエサが豊富な環境では、恐竜のような大きい生物が生存に有利だった。しかし、巨大隕石の衝突によって地球環境は一気に寒冷化し、当時はまだ体の小さかった哺乳類の方が(相対的に)生存に有利な環境となったため、ついに恐竜は絶滅してしまったのである(恐竜から進化した鳥などを除く)。恐竜が哺乳類などとの生存競争に敗れて絶滅したことは紛れもない事実だが、絶滅してしまうような環境になってしまったのは隕石衝突という偶然によるところが大きい。このように、生物自体の能力(遺伝子と言い換えても良い)とは全く関係のない「運の要素」によって環境が変化し、何が生存に有利なのかがガラリと変わってしまうからこそ、それは「理不尽」なのである。

しかし、我々が進化という言葉を口にする時、その「理不尽さ」は無かったことにされがちである。我々は、より優れた生物やより環境に適応できた生物だけが生き残り、そうでない生物は死に絶える、という風に進化という現象を単純化して捉えてしまう。そして、その単純化された図式を、人間社会の進歩とか、企業間の競争などにも雑に当てはめて考えてしまう傾向が強い。その理由を吉川浩満氏は我々が持っている「公正世界仮説」のためではないかと述べている*2。「公正世界仮説」については、以前書いた『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』の感想記事の中で取り上げているので、興味のある人は読んでほしい。

とにもかくにも、この公正世界仮説が心に深く根付いているために、我々は、生物の進化にせよ、オーディション結果にせよ、それらの中にある理不尽さについてあまり考えたくないと思ってしまうようである。確かに「恐竜が滅んだのは自業自得」「オーディションに合格したのは実力があったから」というように、原因が生物自身や自分自身の中にあると考える方が分かりやすいし納得できるのかもしれない。だから、そこに運や理不尽さといったものが入り込んできた途端に、自分が信じてきたものが根底から覆ってしまうような恐怖に駆られて、とっさに拒否反応が出てしまうのであろう。

久美子たちは「理不尽さ」とどう向き合うのか

ここまで運と実力が絡み合う理不尽さについて見てきたことでようやく、オーディションにまつわる久美子たちの考え方が明らかとなり、それによってどのような問題が生じてくるのかが浮き彫りとなった。

第一に、久美子をはじめとする多くの部員は、「北宇治は実力主義」と思っている、あるいは、そうだと思いたがっているのかもしれないが、実際には完璧な実力主義のオーディションなどどこにも存在していない。演奏者の実力とは関係のない「運の要素」がオーディション結果に影響を与えていることは、上で挙げた奏、さつき、香織などの例を見れば明らかである。しかし、「運の要素」は選考結果そのものではなく、選考の際に有利になるか不利になるかという間接的な形で表れてくるので、「運の要素」は見えづらくなっている。だからこそ、関西大会前のオーディションのような、明らかに「実力主義の要素」だけでは説明がつかない「理不尽さ」が垣間見えた時に、久美子も他の部員もあれほど動揺してしまうのである。

第二に、北宇治の部員、特に麗奈は、自身が信じている「北宇治は実力主義」という前提において重要なキーワードである「実力」とは何か、という問題について考えることを放棄している。滝先生の判断を信じて疑わない麗奈の態度は、一種のトートロジーである。麗奈の言ってることは突き詰めると「実力ある者がオーディションで滝先生に選ばれる。ではその実力とは何か? それは滝先生が決める事である。滝先生に選ばれること=実力があるということである」と言ってるに等しく、それは結局「実力」というものについて何も語っていないに等しい。もちろん麗奈は麗奈で、滝先生の判断を信じることは全国金を取る上で必要なことだと考えて行動しているのだろうが、滝先生の判断への信頼が揺らぐような「理不尽さ」を前にして、それでもなおそこから目を背け続けるのだとしたら、麗奈の行動に疑問や反感を持つ部員も増えてくるだろう。実際、麗奈の行動の問題点に、塚本秀一や義井沙里、鈴木美玲などは気づき始めている。

第三に、オーディションにおいて「実力主義」を貫き通すことが北宇治にとって最良である、と久美子たちは信じているが、それは必ずしも正しいとは限らない。久美子が部長として部員のために働き、部員から信頼を勝ち取ってきたという事実は、本当にオーディション結果に反映させなくてよいものなのだろうか。例えば、チームスポーツにとってキャプテンシーがあるということは、その競技の技術と同じくらい選手にとって重要な要素である。プロスポーツにおいてピークを過ぎたベテラン選手がキャプテンを任せられることがあるのも、彼のリーダーシップによってチームが一つにまとまること、あるいは、彼の練習や試合に対する向き合い方が若手の手本となることが期待されているからである。久美子の代は、1年生の時のオーディションで部内が香織派と麗奈派に分かれて揉めた経験をしているので、実力主義以外の要素でオーディションを考えることが難しい心理状況にあるというのは分かる。しかし、黒江真由や川島緑輝は、部のまとまりを考えるならば久美子がソロを吹いた方が良い、というふうにある意味柔軟にオーディションについて考えられるようになってきている(もちろん、その前提として「両者の実力が同じくらいだったら」という条件は付くのだろうが)。久美子や麗奈も、そのような意見に耳を傾けるべき時期が来ていると言えるのかもしれない。

以上、アニメ3期9話までを見て、久美子たちが考えている(あるいは理想としている)北宇治吹奏楽部の姿と、現実との乖離、それによって発生する部内の不協和音についてまとめてきた。それを克服して部が再び全国金という目標に向けて突き進んでいくためには、やはり上で述べてきた「理不尽さ」に向き合うことが必要なのではないだろうか。

すべてが実力主義だと信じることは楽である。自分は実力で選ばれた、あるいは、実力が無かったから選ばれなかった、と考えれば自分を納得させることは容易である。しかし、現実の世界は決してそんなふうに単純にはできていない。

自分ではどうすることもできない「運の要素」によって結果が決まってしまうという理不尽さ、それを前にして自分が感じた正直な気持ちと向き合うべき時が来たのだ。

それをすることによって、久美子たちはようやく前に進むことができる。それは、全国大会金賞という目標を達成するためだけでなく、彼女たちが人間として成長するために必要なことなのだ、と私は思う。

*1:吉川浩満著『理不尽な進化』46ページ

*2:吉川浩満著『理不尽な進化』67ページ