今年は1954年にゴジラの第一作目が公開されてから70年という節目にあたる。それを記念して各放送局でゴジラ映画が放送されているので、見れる分は全部見てみた(ずっと昔に見ていた映画もあれば、今回初めて見た映画もある)ので、簡単に感想をまとめておく。
ゴジラ
- 第一作目であるにもかかわらず、怪獣映画に必要なものが全て描かれている。例えばゴジラ上陸シーンでも、ゴジラの姿、逃げ惑う人々、壊れる家屋などを、カットを細かく分けて見せてくるからメチャクチャ臨場感がある。ただ怪獣が歩いてるだけ、ただ怪獣が自衛隊とドンパチしてるだけ、みたいな単純なカットがほとんどなく、全てが計算しつくされている。
- 最近のゴジラは熱線を溜めに溜めて吐き出すので、一回熱線を吐くだけで原爆が落ちたような惨状になるが、第一作目のゴジラは特に溜めなく何度も熱線を吐くので、巨大な爆発は無いが最終的にはあたり一面火の海になっている。米軍の焼夷弾で何十万人もが焼け死んだという強烈なトラウマが、初代ゴジラの描写にも反映されてるように見える。
ゴジラvsビオランテ
- ビオランテの造形は今見ても古さを感じないし、CGない時代にこれを動かせるのは本当にすごいと思う。逆に、スーパーX2とかいう自衛隊の兵器がびっくりするほどダサいのが残念(宙に浮かしとくだけだから撮影は楽だろうなとは思う)。
- 「勝った方が我々の敵になるだけ」という台詞に象徴されるように、平成ゴジラシリーズのゴジラは人類の味方ではない。だが、明確な悪意があって日本を襲ってくるのかと言えばそういうわけでもない微妙な立ち位置をとっている。これは原発をモチーフにしていることが明らかで、作中の人々は時にはゴジラと対峙し、時にはゴジラが別の怪獣と戦うのを静観し、時にはゴジラを利用するという曖昧な対応をとる。登場人物がしきりにゴジラの体温を気にしてる(ゴジラに打ち込んだ抗核バクテリア弾が低温だと効き目がないため)のも、ゴジラ=原発という図式を強調するかのよう。
- ビオランテを生み出した全ての元凶である白神博士が、終盤でもまるで他人事で解説役みたいな感じでいるのが何か笑える。「いや、一応、最後殺されて報いは受けてるけどさあ…」ていう感じ。
ゴジラvsデストロイア
- 核爆発(orメルトダウン)寸前のゴジラにデストロイアをぶつけて何とかしてもらおうとかいうメチャクチャなストーリーを、ゴジラの最期という感動シーンでどうにか誤魔化してまとめたっていう感じ。
- ゴジラという人類の脅威に対応するために作られたオキシジェン・デストロイヤーが、また新たな怪獣を生み出してしまうという皮肉。ゴジラやデストロイアの誕生も元はと言えば全て人間のせいなのに、何も悪いことしてないゴジラジュニアすら利用して醜く足搔く人類の姿。ゴジラの死と共にまき散らされる大量の放射能によって、人間はその報いを受ける。自然をコントロールしようとすること、自然の驚異に打ち勝つことができると考えること自体が、大いなる間違いなのだという強烈なメッセージ性。にもかかわらず、最後、デウス・エクス・マキナでジュニア復活&放射能減少で、なんじゃそりゃ?って力が抜ける。
ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃
- 監督は平成ガメラシリーズで有名な金子修介氏。だが、平成ガメラとは比べ物にならないくらい稚拙でご都合主義な展開、安っぽいCGの多用(こればっかりは当時の技術ではどうしようもない面もあるのだろうが)など、残念感が拭えない作品。しかし何といっても、この作品のゴジラの設定に強い拒否感を覚えてしまう。
- 本作でゴジラは、第二次大戦で亡くなった人々の怨念の集合体とされ、明確な悪意を持って堕落した現代日本に襲い掛かってくるという設定。対するモスラ・キングギドラ・バラゴンは、古代日本に封印された護国聖獣という設定。これらの設定について、個人的には、無いわ~、マジで無いわ~、ってなる。でも、よくよく考えたらどうしてこの設定にこんなにも拒否感あるんだろう(むしろ「ゴジラは何故東京を襲うのか」という長年の疑問に答えられるという意味では良い設定ですらあるのに)と思い、自分の心の中を分析してみる。おそらく拒否感の理由は2つあって、①「怨念」みたいな言葉が出てくるせいでSFという体裁が引き剝がされ、非科学的で胡散臭いオカルトに接近してしまってる、②怪獣はあくまでも「生物」であってほしい、人間を殺す(または守る)みたいな明確で人間本位な行動はしてほしくないという気持ち。そして、これら2つはガメラ3の時点でその片鱗が出てたので、それが悪い形で表出しちゃってるなあという印象。
- 平成ガメラシリーズでも思ったけど、調子こいたパリピが酷い死に方するシーンを撮らせたら金子監督の右に出る者はいないと思う。
- 平成ガメラシリーズから受け継がれる、オタサーの姫的ヒロインとその周りをうろつく男達、という構図。
- 作中ですぐ殺されるうえにタイトルにすら入れさせてもらえないバラゴンがただひたすらに可哀想。
シン・ゴジラ
劇場公開時にすでに感想を書いてるのでリンクを貼っておく。
『シン・ゴジラ』感想―日本が世界に示した第3の道、それはパンドラの箱を開けたのか? - 新・怖いくらいに青い空
ゴジラ-1.0
- 神木隆之介・吉岡秀隆をはじめとする俳優陣の過剰な演技や、映像だけで分かるのに台詞で何度も説明しちゃうしつこさが鼻につき、悪い意味で山崎貴監督の味が出ちゃってる映画。一方で、ゴジラとの戦闘描写や破壊される街の描写は、アカデミー視覚効果賞をとるだけあって、これまでの日本のゴジラ映画の中でも断トツでクオリティが高い(平成のゴジラ映画のCGの残念さを散々見せられてきたことを思えば実に凄まじい進歩である)。
- ストーリーとしては完全に、神木隆之介演じる敷島と初代ゴジラの芹沢博士を重ね合わせて描いている。敷島は戦後の東京で典子・明子と暮らし始めるが、いつまで経っても典子と結婚することもせず宙ぶらりんな共同生活を続けている。これは、許嫁との婚約を破棄して独りでオキシジェン・デストロイヤーの開発に没頭した芹沢と状況が全く同じで、芹沢も敷島もゴジラと対峙することで自分の中で続いている戦争を終わらせようとする。そして、芹沢がゴジラと刺し違えること(特攻)を選んだのに対して、敷島は生きて帰還を果たすという対比構造になっている。だが、その演出があまりにもあからさまで、中盤ぐらいからもう脱出装置付いてるオチが分かっちゃうのが残念。
まとめ
子どもの時は楽しく観ていた作品も、大人になって見返してみるとだいぶ粗が気になっちゃうなあ、というのが正直な印象。だが、そういう残念な点もひっくるめて、ゴジラ映画が持つ歴史の重みを再認識させられた。1954年から今日に至るまでに作られたゴジラ映画の数々、それは、世界中のクリエイター達がゴジラという怪獣をどう解釈し、ゴジラにどう立ち向かったのかを示す壮大な記録である。それは、核兵器や環境破壊への警鐘、そして、我々人間とはいったい何なのかという壮大な問いへと繋がっている。
特に近年のゴジラ映画について言えば、核兵器との関連は依然としてありつつも、もっと別の脅威と関連づけられることが多いと思う。例えば、ゴジラの倒し方について言えば、
が考えられるわけだが、そのうち『シン・ゴジラ』も『-1.0』も3番目を採用してる。津波などの巨大災害のメタファーとしてゴジラを捉えているからこそ、世界の叡智(あるいは日本の技術力)を結集して人々が力を合わせてゴジラを倒す、というストーリー展開が採用されるのだと思う。この傾向が今後も続くのであれば、地球温暖化やコロナ禍などを連想させるようなゴジラ映画も出てくるかもしれない。