『LSD』に描かれる陸上あるあるネタが面白い
LSD ?ろんぐすろーでぃすたんす? (1) (まんがタイムKRコミックス)
- 作者: ほた。
- 出版社/メーカー: 芳文社
- 発売日: 2012/01/27
- メディア: コミック
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近年、『らき☆すた』や『けいおん!』の人気を受けて、萌え4コマ漫画が量産されているけど、正直私は「陸上競技を題材にした作品は絶対に出てこないだろうな」って思ってました。私は中学時代に陸上部にいたから身をもって分かるんですが、陸上部のストイックな雰囲気っていうのは、萌え4コマ漫画が得意とするほのぼのとした日常、和気あいあいとしたユルい空間とは正反対のものなんですね。そもそも「ただ走るだけ」の陸上競技は、野球やサッカーと比べて地味という印象を持たれがちで、それゆえに、陸上競技を題材とした漫画やライトノベル自体がすごく少ない。だからこそ、書店で『LSD』を見かけた時には驚きました。
タイトルにあるLSDとは、Long Slow Distanceの略で、長い距離をゆっくり時間をかけて走るトレーニングのこと。これについてよくまとめられているホームページがあったので、引用しときます。
LSD(エル・エス・ディー)はLong Slow Distance(ロング・スロー・ディスタンス)の頭文字をとったもの。ゆっくりのペースで長い距離を走りましょうというトレーニング法です。
速く走れるようになるためには、一生懸命速く走ることを繰り返せばよいという発想に対して、ゆっくり走るトレーニングでも速く走れるようになるのだという考え方、方法は歴史的にみても古くからありましたが、「LSD」という言葉を使い出したのは、1969年、J・ヘンダーソンであるとされています。
また、国内では「ゆっくり走ったほうがいい」というLSD理論が80年代半ば頃より市民ランナーの間で爆発的に普及し、今日に至っています。
ゆっくり走ったほうがいいのか、速く走ったほうがいいのかについての論議は、LSDという言葉、方法論に関わらず、40〜50年も前からあり、いまだに決着がついていません。市民ランナーにとどまらず、世界や国内のトップランナーや指導者の中も、LSD肯定派や否定派がいます。
もっとも、ほとんどすべてのトレーニング法はこんな状態であり、誰もが必ず速くなれる「究極のトレーニング法」は存在しないと言っていいでしょう。LSDで速く走れるようになるのか、ならないのかは、ぜひ自分自身で試してみてください。*1
作中ではこのLSDが何度も出てくるんですが、個人的感覚としては、そう頻繁にする練習ではないだろという気がします。自分も2回くらいしかやったことないです。まあ、それは良いとして、この作品の作者は十中八九、陸上の経験者だと思います。そうじゃないと、ここまで細かい描写は出来ないだろうな、と。作中に散りばめられている陸上ネタは、曲がりなりにも陸上部に在籍していた私からすれば、「あるある!」という感じでなかなか面白いです。
例えば、主人公で陸上初心者の朝岡椿が、部員と一緒にシューズを買いに行く場面があるんですが、そこでマネージャーさんがこう説明してるんですね。
ミズナやヒザックスに代表される和製メーカーは 日本人に適した幅広の足型が特徴です
また ソールの耐久性が高く 毎日走り込んでも長持ちします
これは言うまでもなく、ミズノとアシックスの事を言ってるわけですね。陸上用シューズの分野では、国内ではこの2社が高いシェアを持っています。自分も中学時代に4足くらい買いましたが、1足がミズノで、残りがアシックスだったと思います。そして、椿がシューズ代のために妹からお金を借りるシーンがあるんですが、はっきり言って陸上用シューズはバカみたいに高いです。ただ、普通の運動靴で走るのは足にも悪いし、靴底がすぐにすり減って1カ月くらいでダメになると思うんで、やっぱり専用の靴を買わなければなりません。陸上用のシューズは、走ることに特化した靴なので、軽くて丈夫です。実際、私が中学時代に使っていたシューズはまだ使えます。
で、肝心の練習内容なんですが、それが垣間見える台詞が30ページにあります。
今日はジョグ30分 400×10を200でつないで ダウンのあとマシン
ジョグっていうのは要するにアップですね。この長さは日によりますが(寒い日は当然アップの時間を長く取った方が良いですね)、私の場合は、だいたい15分から20分が多かったと思います。で、「400×10」ってのが「400m走を10回」という意味で、「200でつないで」ってのが「400m走の間は、呼吸を整えながら200mゆっくり走る」という意味。つまり、400m走を10回、ほとんど休みなしで走るわけです。結構ハードですね。
また、この作品にはストレッチをする描写が多くあるんですが、これもまあ現実の陸上部とよく似てると思います。これは勝手なイメージですが、例えば3時間練習するとしたら、最初の1時間で準備体操とアップ、次の1時間で練習をして、最後1時間はダウンとストレッチ、みたいな配分じゃないでしょうか。それくらい準備体操とストレッチには時間をかけてるということです。
そして、筋トレについても、面白い描写があります。椿が上半身を鍛えるマシンを見て「これやってみたい」って言うんですが、先輩は「長距離の人はそれ駄目 筋肉は選んでつけないと」と言ってさせてくれないんですね。代わりに腹筋をさせられるわけです。私も、陸上部では腹筋をかなりしてた記憶があるんですが、肩や腕の筋肉を鍛えることはあまりしなかったですね。どうも昔は「長距離のランナーは上半身の筋肉はあまり付けない方が良い」と言われていたようです。しかし最近は「上半身を鍛えてないとフォームが安定しない」ということで、上半身の筋トレも重視されているようです。
私が一番「あるある」と思ったのは、雨の日の練習風景でしょうか。雨の日の陸上部ってのは、基本的に筋トレと室内走がメインになります。椿たちも、調理室から漂う甘い誘惑に負けそうになりながら廊下や階段を走ります。経験者なら分かると思うんですが、これがホントにきついんですよ。普段平坦なところしか走っていない人にとって、階段を昇り降りするという行為は予想以上に疲れるし、曲がり角を曲がるのも結構技術が要ります。リアル『学校の階段』です。
『LSD』と『けいおん!』の比較
さて、同じ部活動をテーマとした4コマ漫画で出版社も同じという以上に、『LSD』と『けいおん!』との間には共通点が多いです。『LSD』の主人公である朝岡椿と『けいおん!』の平沢唯は、髪型・髪の色・性格など似ているところが多々あって、妹がいるという設定も同じ。各エピソードについても、似たものがあります。例えば、ユニフォームを買うお金がなくて椿がバイトをするシーンとか、テスト期間中に皆で集まって勉強するシーンとか、どこがで見たようなシーンが広がっているわけです。
そして一番重要なのは、始めは全くの初心者で軽い気持ちで入部した主人公が、次第にその部活動に熱中してゆくという基本的な設定なんですね。どちらの主人公とも、最初は「カスタネットなら私にもできるかな〜?」とか「ダイエットのために」といった軽い気持ちで部活に入って、周りの部員たちの指導を受けながら成長していって(そして時にはグダグダおしゃべりしたりして)、最後は音楽・陸上が心から好きになってゆくんですね。65ページにあるように、
走ることがこんなに楽しいなんて思ってなかったよ!
と言えるくらい、陸上の魅力に引き込まれてゆくわけです。この辺りは作者も『けいおん!』を意識しながら描いてるのかなあと思いました。
ただ楽しい空間を描くだけじゃない『LSD』
では『LSD』の陸上部員たちも、軽音楽部のように、放課後のティータイムを楽しみながらグダグダ練習してるのかと言うと、決してそんなことはないわけです。ただ楽しく和気あいあいと走っているわけではなく、毎日きつい練習を繰り返している。この辺りは『けいおん!』とは明確に違うと思います。
例えば、椿の練習初日にしても、楽しく走れるのは30分ちょっとで、後はもうひたすら苦しいだけなんですね。別の日には「私も皆と同じメニューをやってみたい」と言うんだけど、いざやってみると、全然他の人についていけなくて、最後は歩くのすらままならない状態になってしまう。日常系4コマ漫画であるにも関わらず、それくらいきつい事をやってるということなんです。
『けいおん!』の唯の場合、絶対音感を持っているなど、最初からある程度音楽の才能に恵まれていました。一方、椿はそういう才能は持っていません。だから、練習を繰り返しても、なかなか周囲との差は縮まらないんですね。これはまあ、考えてみたら当たり前です。他の人たちは中学時代から陸上をやってるのに対して、椿はそれまで陸上をやったことがなかったわけですから。漫画によくあるご都合主義的展開で足が速くなるなんてことはない。
そんなこんなで、椿にとって初めての記録会の日。椿は3000m走*2に出場したんですが、これが全く思うように走れないんですね。勝負の駆け引きとか以前に、周りと実力が二段も三段も違って手も足も出ない。例えるなら、『超電磁砲』の美琴と佐天さんくらいの、圧倒的な差がそこにはあるわけです。
見てください。こんなに苦しそうな表情をしている女子高生を描く4コマ漫画が、かつてあったでしょうか。自分も経験あるから分かるんですが、3000mは本当にきついです。経験者はよく「走るのが楽しい」って言いますが、それはタイムが伸びたとか、ライバルに勝ったとかいった体験に喜びを見出すからであって、己の限界に挑戦して走っている最中は「楽しい」なんてことはなく、ただただ苦しいだけなんですね。
で、そんな風にして何とかゴールした椿ですが、そこにはレース後の安堵感とか達成感とかは全くないんですね。他の人とこんなに実力が違うんだという事を知らされて、もうショックと劣等感しかないわけです。これは「悔しさ」とはまた違うものだと思います。相手とある程度対等に勝負して、それでもあと一歩実力が及ばずに負けてしまった、というような時に人は初めて「悔しい」と思えるわけで、椿の場合は、それ以前に勝負すらさせてもらえなかった。
圧倒的な力の差を見せつけられて、椿はレース後しばらくは茫然自失となります。そりゃ、同じような経験すれば誰だってそうなります。自分も初めてレースに出た後は、似たような気持ちになりました。そういった気持になった時に、その経験をバネにして「次こそは」と思うか、「やっぱり自分はこの競技に向いてないんだな」と思ってやめてしまうか、それは人によると思うし、どっちが正しいかという問題でもないと思います。で、椿はというと、家に帰って一人でお風呂に入りながら「次までにはみんなについて行けるように頑張ろう」と自分に言い聞かせ、家の周りで自主練を始めます。あれほど落ち込みながらも、ここまで出来る椿は、やっぱり走ることが好きなんでしょうね。
で、その決意に水を差すようで悪いんだけど、実際に頑張って練習して次の大会*3では「みんなについて行けるように」なるかと言うと、それは不可能に近いですね。椿の3000mのタイムは12分53秒71だったそうですが、高校女子3000mの日本記録を調べると、8分52秒33とありました。てことは、上位と勝負出来るようになるためには、少なくとも9分台でゴールできなければ話にならないということ。そしてそのためには、椿はあと3分くらいタイムを縮めなければならない。これは、控え目に言っても、かなり難しいと言わざるを得ないですね。やっぱり、高校から陸上を始めた椿が、簡単に上に行けるほど甘くはないわけです。
そもそもタイムを縮めること自体、血のにじむような努力を毎日続けないと出来ないことであって、病気や故障のせいでそれすら満足に行かないという事はよくあります。実際、椿も、レース後に自主練を始めたまでは良かったんですが、その後練習のし過ぎで足を痛めてしまい、しばらく走れない日が続きました。ただ「強くなりたい」「速く走れるようになりたい」と思って練習すれば何とかなるというわけではないんですね。病気や怪我と向き合いながら、有限の時間の中で何とかしてゆくしかない。
まとめ
『LSD』に描かれていることっていうのは、そんなに特別なことではないです。高校から陸上を始めた初心者がレースに出れば、まあそうなるよね。当然、レース中はきつし、その後もショックと劣等感で苦しむ事になる。それでも、その体験をどう次に繋げるかが問われる。これはまさに少年漫画的には王道ストーリーかもしれないけれど、それを日常系4コマ漫画であるというのは、非常に珍しいんじゃないでしょうか。
自分も中学時代に陸上をやっていて*4、しかも全然タイムが伸びなかった方なので、主人公の気持ちとかも結構よく分かるんですよ。単純に陸上あるあるネタを見るだけでも面白いですし。だからこそ、たまごまごさんとかに記事にされる前に、自分でこの作品の記事を書きたかったんですね。
と同時に、椿の今後の成長も、非常に気になるところですね。次の記録会までに、どれくらいタイムを縮められるか。あるいは駅伝になると、自分の記録を伸ばすだけでなく、仲間から繋いだたすきを背負って走るというプレッシャーとも戦わなければならない*5。そういう場面を、日常系4コマ漫画という枠組みの中でどのように描いてゆくのか、非常に楽しみです。