新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

「本当に信じられるもの」とは何か―『電脳コイル』に見る物質主義(唯物論)からの決別

全てのアニメを見ているわけではないので断言は出来ないが、おそらく『電脳コイル』は2007年のテレビアニメにおける最高傑作である。独創的な世界観と美しい作画、魅力的なキャラクターと声優達の名演など、良い所を挙げていてはきりがないが、今日は第24話で述べられているテーマに焦点を絞って話を進めるとしよう。

デンスケが死に、イサコの意識が戻らない中で、作中は重い空気に包まれている。そんな中でヤサコの母は「手で触れられるもの、暖かいものだけが信じられるものだ」と言い、ヤサコに電脳メガネに頼らない生き方を薦める。この考え方は一見正しいようだが、何かがおかしい。実は、この母の言説は極めて物質主義的*1である。触感のあるもの、触れることで暖かい、柔らかいなどと感じることが出来るものこそが「現実」であると考えている。もちろん、ここで言う「暖かさ」には物理的な意味だけではなくて、「暖かい心」というような精神的な「暖かさ」も含まれている。しかし、「精神的な暖かさ」も「触れることが出来る物質」があって初めて感じることが出来る、と考えている。

そういった考え方は本当に正しいのだろうか、とヤサコは自問する。デンスケは電脳ペットであり、現実の世界には物質としては存在していない。では逆に、実際に存在する「物質」の場合はどうか。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と言われるように、この世に不変のものなど何一つない。花は1週間もすれば枯れるし、頑丈なビルも100年後には朽ち果てているだろう。だから、今目の前にあるものが「本当に信じられるもの」であるという確証なんてない。では、この世の中のものは何一つとして信じることが出来ないのか。いや、一つだけ確かなことがある。デンスケを失ったことで感じる「心の痛み」だけは確かに存在している。「触れられる」(物質)とか「触れられない」(バーチャルな世界)とかは事の本質ではない。信じられるものとは、自分の心で「感じたこと」の中にある。その事に気付いたヤサコが、「痛みのある方向に本当の何かがある」と言ったのが象徴的である。

近年問題になっている「子供のバーチャルな世界への傾倒」というのは、その行為自体が問題なのではない。それによって「心の痛み」を感じなくなることこそが問題なのだ。*2この点を考慮せずに一方的な批判をすれば、それは上記ような物質主義的立場にならざるを得ない。繰り返すが、大切なのは「物質」ではなく「心で感じたこと」なのである。『電脳コイル』24話で描かれているのは、物があふれる現代であるからこそ、こういった物質主義から決別しなければならない、というメッセージなのかもしれない。

*1:ここで言う物質主義とは、いわゆる唯物論のようなものだと考えてよい

*2:実はヤサコもデンスケが死んだ直後は「実感が沸かない」と言って、「心の痛み」を感じ取れなかったような描写があるが、最終的にはそれを感じることが出来た。