新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ゆゆ式』関連記事を読んで、ようやく自分の中で「ゆゆ式とは何か」を理解できるようになってきた

特に縁が部活終了の合図を出すまでの “間” と “表情” については色々と想像が捗るところで、あのタイミングでのあの行動に関しては決して「彼女一人のお腹が空いたからではない」というのが自論です。
(中略)
それは、例えば縁が “二人の目線を自分の中に落とし込み、共有し、その向こう側を同じ場所から見つめ、そうして見えてきた風景を自分の中に再現した” のではないかという見方。もちろん、そこには縁自身の空腹という欲求も織り込まれているには違いないのですが、そんな欲求と彼女だからこそ見えた他二人の風景(思考)が一致したからこそ出た、あの 「おしまい」 の一言だったのではないかなと。
目線の共有と、その向こう側に映り込む風景を見る / 『ゆゆ式』 1話 - Parad_ismより引用)

原作1、2巻の夏休みのエピソードを1つにまとめた結果として立ち現れたのが、このようなコミュニケーションにおける「モードの形成と、その切り替え」であり、それが第3話の裏テーマだったと言える。
ゆゆ式〉という営為のために、意識的にモードを形成するゆずこ。今回の3話でその最もわかりやすく直接的な例の1つが、シュノーケルのエピソードだろう。
http://anifav.com/topics/20130503_1203.htmlより引用)

縁は水がなんなのか、ふと疑問に思います。水(H2O)=3人が当たり前の存在すぎて、それまで自然に受け入れていた存在を意識する瞬間。これってすごい。すごい発見。
この事に気づいた縁は天才です。もうアホの子とは呼ばせないよ!
で、後半パートはH2Oで言う所の"世界の真ん中"O原子の唯とH原子であるゆずこが、もう片方のHな縁を無くしていつもとは違う距離感(距離間)。
かて日記-あにめな生活- まさかの水回、ゆゆ式 第3話 「H2Oじゃーーーい!」感想より引用)

そうか! そういう事だったんだ!

ゆゆ式』という世界で一貫して描かれているのは、唯・ゆず子・縁の3人の中にある「共有」の感覚!

さらに、空間を維持するために意図的に「モード」を「選択」しているという感覚!

そして、本来とは異なる空間でのコミュニケーション*1を描写する事で、3人に共有された〈ゆゆ式〉という空間が逆説的に輝いて見えるのだ!

ああ、なるほど。『ゆゆ式』という作品の捉えがたかったイメージが、ようやくストンと腑に落ちてきた感じ。漠然としたイメージを言葉にすることで、自分の中で上手く整理できるようになった。ああ、これは凄いわ。

同じようなテーマがこれまで語られてこなかったわけではない。例えばそれは、たまごまごさんが『けいおん!』関連記事の中でずっと指摘してきたこと。

ここの軽音部ってね、ゆるいじゃないですか。
バンド経験者なら「こんなで上手くならないよ!」と総突っ込みを入れるところですが、それを分かりながらこの作品を楽しんでいるわけですよ。そりゃ練習しないでだらだらすごして、上手くはならないですよ。ならないよ。
なのになぜ彼女らはそこそこ弾けるのかというと、裏で地味に練習をしているからに他なりません。
(中略)
黙々と練習するシーンはわざわざテレビに映す必要はない。それっぽいにおいが香っていればいい。
「楽しい」を維持する行動を、彼女たちは自然と取っているのです。
「中野あずにゃんの憂鬱」と、ゆるさを維持する努力。 - たまごまごごはんより引用)

けいおん!』に描かれたのは、ユルい空間を描くことで逆説的にその背後にある努力の存在を示唆する効果だ。逆に『ゆゆ式』は、イレギュラーな空間をそれとなく挿入することで、3人の共有する空間を燦然と輝かせて見せた。

これって要するに、同じ空間を正反対の方向から描写しているんだよね。写真におけるポジとネガの関係。電子とホール(正孔)の関係。「水中の気泡」と「空気中の水滴」の関係。上手く言葉にできないけど、そういうことだ。

最近は、色んなブログを読んで「はっ」とさせられることが多いです。特に『ゆゆ式』に関しては、皆さんホントに良い記事書くよなあ。自分も見習いたいです。

*1:杉田悠さんは、その例として、唯の母親とゆず子の会話、縁が不在の時の唯とゆず子の会話、本屋での相川さんとゆず子の葛藤、などを挙げている。