まだ少し早いかもしれないですが、今年印象に残ったアニメを話数単位で選出しました。選出に際してのルールは、記事「話数単位で選ぶ、2013年TVアニメ10選: 新米小僧の見習日記」にあるとおり、
・2013年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
としました(参考:昨年の記事)。
『ゆゆ式』、第5話、「唯と縁 とゆずこ」
脚本:高橋ナツコ 、絵コンテ:小島正幸、演出:橘正紀、作画監督:野崎麗子・大下久馬
第1話から第4話まで、唯・縁・ゆずこの仲良し3人組が和気あいあいとおしゃべりをしたり遊んだりする場面を描いてきたアニメ『ゆゆ式』。第5話では一転して、ゆずこが感じた疎外感や寂しさがクローズアップされた。
- 関連記事:『ゆゆ式』第5話考察―ゆずこと唯・縁との間に生じた微妙な距離感 - 新・怖いくらいに青い空
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- 関連記事:http://anifav.com/topics/20130517_1267.html
この回の素晴らしいところは、ゆずこと他2人の間に生じた何気ない断絶を、ただあるがままに表現したところにある。これは、日常系アニメのシリアス回でよくある、喧嘩して、仲直りして、より一層絆を強くする、という単純な話ではない。唯と縁の会話に入っていけずに取り残されるゆずこ、2人の強い親密さに疎外感を抱いてしまうゆずこ、唯のふとした一言に傷つくゆずこ。これは、誰が悪いとか、じゃあどうすれば良かったのかとか、そういう問題ではない。ただちょっと以心伝心の歯車が狂ったり、相手の気持ちを読み間違えたり、会話がかみ合わなかったり、そんな些細な「ディスコミュニケーション」だ。もともと、『ゆゆ式』という作品は、女子高生3人の織り成す楽しい空間をただ描くだけの作品ではない。その背後には、3人の間で培われた「共有感」と、空間を維持するための「モードの選択」がある。その事を本当の意味で理解するまでに、私の場合は1年くらいかかった。
そんな『ゆゆ式』の深淵に触れることのできる第5話は、これまで他の日常系アニメが深く追及してこなかった種類の断絶を美しく、かつリアルに描いた金字塔的エピソードであると言える。
『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』、第1話、「高校生活のスタートは修羅場」
脚本:浦畑達彦、絵コンテ:亀井幹太、演出:亀井幹太、作画監督:大塚舞
アニメ『俺修羅』第1話も、上で述べた『ゆゆ式』第5話と同様に、キャラクター間、特に鋭太と千和との間の断絶に焦点が当てられた回である。原作1巻を読んだ上でアニメ第1話を見直すと、千和の行動は全て鋭太と一緒にいたいがための行動だと分かる。千和は鋭太の事が大好きで、何度も何度も「愛してるよ~」とアピールするんだけれども、その想いは全く鋭太に伝わらない。
幼なじみの仲睦ましい関係の中に潜む、あまりにも深い断絶を目の当たりにして、切なすぎて胸が苦しくなった(その後の真涼登場シーンが霞んでしまうほどに)。そして、第1話だけに限らず全話を通して、声優・赤崎千夏さんの名演が光った(昨年の『キルミーベイベー』『中二病でも恋がしたい!』に引き続き、今年も非常にインパクトのある演技を見せてくれた)。
『のんのんびより』、第4話、「夏休みがはじまった」
脚本:吉田玲子、絵コンテ:川面真也、演出:阿部栞士、作画監督:手島典子、佐藤綾子
第4話の冒頭でスイカに塩をかけて食べるれんげ達。塩をかけたスイカのしょっぱさは、涙のしょっぱさ、人生のしょっぱさを象徴している。小学1年生のれんげにとって、仲良くなった同い年の友達との突然の別れは、おそらく人生で初めてのしょっぱい出来事だっただろう。別れを知らされて30秒間も言葉を発せずに茫然自失となるシーンも、彼女が感じたショックの大きさを物語っている。それでも、しょっぱい塩をかけることでスイカの甘さをより感じることができるように、人生の中のしょっぱい経験がその後に訪れるであろう喜びや楽しさをより一層際立たせてくれるに違いない。そんな風に思える感動的な話だった。
『〈物語〉シリーズ セカンドシーズン』、第15話、「なでこメドゥーサ其ノ肆」
脚本:木澤行人、絵コンテ:川畑喬、演出:宮原秀二、作画監督:武本大介・清水勝祐・新垣一成・伊藤良明
旧約聖書でイヴをそそのかして禁断の果実を食べるように勧めたのは蛇だったと言われている。だが、イヴは本当に蛇に言われるがままに果実を食べてしまっただけの被害者だったのだろうか。実は最初から食べる気満々で、蛇が居ようが居まいが禁断の果実を口にする運命は変わらなかったのかもしれない。蛇にそそのかされたというのは、神に問い詰められたときに口から出たもっともらしい言い訳だったのではないだろうか。イヴに続いて禁断の果実を食べたアダムも、同じようなものだろう。神が罰として2人を楽園から追放したのは、2人の中にある責任逃れをしようとするズルい心を見抜いていたからだ。そうでなければ、たかがリンゴ1個を食ったくらいの罪でここまで重い罰を与えるなんて、ちょっと常軌を逸している。
そんな感じのことを、第15話を見終わった後に考えていた。もっとも、禁断の果実を食べた撫子は、神から楽園を追放されるどころか、自分が神になってしまったわけだが。しかし、自分が加害者にも成り得るという事実から目を背け、可愛く無垢に生きることを許された世界は、見ようによっては「楽園」と言えなくもない。
『神様のいない日曜日』、第3話、「死の谷III」
脚本:金春智子、絵コンテ:岩崎太郎・熊澤祐嗣、演出:橋本太郎、作画監督:香月邦夫
不老不死の能力を持つハンプニー・ハンバートの願いとは、「幸せに死ぬ」ことであった。現代を生きる私たちにとって、幸福に死ぬということはなんと難しいことだろう。いや、これは現代だけの問題ではなく、いつの時代、どんな場所であっても、望みどおりの幸福な死を迎えることは難しい。それでもこの第3話は、人間の寿命が飛躍的に長くなった現代世界における尊厳死・安楽死の問題とリンクしているように思えてならない。おそらく、原作者やアニメ制作者も、その辺りの事を意識しながら作品を作っているんだろうと思う。
医学の発達した今日の日本では、少なくない割合の人が、最後は足腰が弱って寝たきりになり、認知症で家族の顔も分からなくなり、呼吸器や点滴につながれ、ついには昏睡しガリガリに痩せ衰えて死を迎える。であるからこそ、人としての尊厳を保ったまま死にたい、無意味な延命措置はしてほしくない、と考える人も多い。しかし、だからと言って、ハンプニーや墓守がやったように、回復の見込みのない患者の延命を止めて死期を早めることは、本当に正しいと言い切れるのか。そもそも「幸せに死ぬ」とはどういう事か。看取る家族もなく一人で死んでいったからと言って、それが不幸な死だったと本当に言い切れるのか。この第3話は、誰もが向き合わなければならない死にまつわる問題を考えるきっかけとなるだろう。
『波打際のむろみさん』、第3話、「積年の想いとむろみさん」
脚本:村上桃子、絵コンテ:セトウケンジ、演出:セトウケンジ、作画監督:松下郁子
テンポの良い博多弁が特徴的なアニメ『むろみさん』。その第3話は、アニメを見ながら生物の進化を学べる他に類を見ない話である。
メルヴィルの『白鯨』に代表されるように、クジラは古くから様々な作品の中で描かれ、人々の興味を掻き立ててきた。なかでも、クジラがどのように進化して今の姿になったのかについては、古くから多く研究がなされていたようだ。作中にあるように、クジラの祖先は元々陸で生活をしていた哺乳類であり、それが海に戻って手足や尻尾がヒレに進化したのが、今日のクジラやイルカだ。なぜ一度は陸で生活していたのに、わざわざ海に帰って行ったのか。そういう疑問が湧いてくるが、このアニメを見ていると、陸上で生活を続けている人間の方がむしろイレギュラーな存在であり、母なる海で生活しているクジラやむろみさんの方が普通なのだという気がしてくる。
『ステラ女学院高等科C3部』、第8話、「指令ハ非情タルベキカ?」
脚本:野中幸人、絵コンテ:井畑翔太、演出:井畑翔太、作画監督:大村将司・長谷川哲也
今年の夏の高校野球で、ある高校が、禁止されているキャッチャーサインの盗み見を行っていたとして問題になった。勝ちたいという気持ちが強すぎてとっさにそういう動作をしてしまっただけだと思いたいが、世の中には、勝つために意図的に不正を行おうとする人もいる。オリンピックの度に問題になるドーピングはその典型例だが、これはスポーツだけの話ではない。受験シーズンに毎年話題になるカンニング行為、『とある科学の超電磁砲』で描かれたレベルアッパー事件。これらはいずれも、誰もが望んでやまない勝利・力・成功などと引き換えに、競技者として、あるいは人としての「矜持」を捨ててしまった事例だ。
アニメ第8話では主人公・ゆらが、勝ちたいという意志が強すぎてゾンビ行為(自分の体に弾が当たったのにヒットコールをせずにプレーを続けること)という反則を犯してしまう。そもそもサバゲーは、勝敗を決する重要な判定をプレイヤーの自己申告に委ねている稀有なスポーツだ。ビデオ判定などもあるにはあるが、基本的に、弾が当たったかどうかはその本人にしか分からない。だからこそ、このサバゲーという競技では、フェアプレー精神、競技者としての矜持が試される。ストイックに勝ちにこだわっているように見えるけれども、結局最後まで矜持を捨てなかった凛。サバゲーを楽しむという気持ちを忘れて勝ちを追い求めた挙句、最後の最後で矜持を捨ててしまったゆら。
ゆらが勝ちにこだわりすぎて周りが見えなくなってしまい、ゾンビ行為をするまでに墜ちてゆく描写は、本当に痛々しく、他の和気あいあいとした部活もののアニメとは一線を画すものだ。であるからこそ、本作には賛否両論が噴出しているわけだが、批判する側はその多くが「ゆら公ウゼえ」「ギスギスしすぎてつまらん」などと口汚く罵るだけに終始していたように思う。アニメC3部を批判するブログやまとめサイトの中で、この作品のどこがいけないのか、何が間違っているのかをきちんと理論的な言葉で説明している所は、私の知る限り皆無だった。きちんと自分の言葉で作品を語ろうとしている誠実なブログは、この作品を正当に評価している。
『キルラキル』、第7話、「憎みきれないろくでなし」
脚本:中島かずき、絵コンテ:立川譲、演出:立川譲、作画監督:すしお
団塊の世代の文化人たちがサンデーモーニング(あくまで個人的なイメージ)とかで口にしている、戦後の日本人は物質的には豊かになったけど精神的には云々、というお話ほど胡散臭いものはない。そもそも、物質的な豊かさを徹底的に追求し、未だにその恩恵を享受し続けているのは、他でもない彼らなのだから。彼らは資本主義の弊害、古き良き日本の喪失と、口では散々言っているけれども、今の豊かな生活を手放そうなんてことは微塵も考えていない。頭の中ではこれではいけないと分かっていても、一度手にした豊かな生活を捨てることが出来ず、その生活を守るために、見たくない物から目を背け、臭い物には蓋をし、あらゆることを先送りにして出来上がったのが今日の日本だ。だがそれくらいに、一度手にした豊かさ・便利さを捨てるということは難しい。これは衣食住のありとあらゆる領域で例外なく当てはまる。例えばトイレ一つにしても、一度ウォシュレットを経験してしまったら、二度と和式トイレに戻ることなど出来ない。
「どうだ纏、これが人間だ! 成功は欲望を生み、欲望は破滅を呼ぶ。だが一度快楽を知ればもう抜けられん! 私が作った学園の虜となる。奴らこそ服を着た豚! 力で屈服させるしかない豚どもだ!!」
鬼龍院皐月は、欲望にまみれた人間の特性をよく理解した上で学園の統治を行っている。皐月に忠誠を誓い学園の中で成果を出した者だけが豊かな生活を保障され、その豊かさを手放したくないという気持ちから、彼らの皐月への忠誠心はますます高まってゆく。学園のシステムにどっぷり浸かっている人間からすれば、自分の成果がそのまま生活レベルに反映される素晴らしいシステムのように思えるだろう。しかし、そんなシステムの行き着く先が、今の中国や北朝鮮であり、ナチスドイツや旧ソ連であることを忘れてはならない。カリスマ的指導者による統治は、一見すると合理的で、短期的には国民に恩恵をもたらすこともあるかもしれない。しかしそれは、長期的に見て人間が最も幸せになれるシステムではない。満艦飾家は最後にその事に気付き、自ら服を脱いで学園のシステムから脱却した。
『銀の匙』、第8話、「八軒、大失態を演じる」
脚本:岸本卓、絵コンテ:村山靖、演出:村山靖、作画監督:小林ゆかり、鈴木伸一
ここでは第8話だけを挙げたが、主人公・八軒勇吾の高校最初の夏休みを描いた第6話・第7話・第8話はどれも等しく素晴らしいものだった。夏休みの間、酪農を営む御影さんの実家でアルバイトをすることになった八軒。第6話では迷子になって駒場家のお世話になり、そこでシカの解体を体験した。第7話では、たまこの両親が経営する巨大牧場を見学し、牛の出産にも立ち会った。そして第8話では、搾乳中のミスによって、数万円単位の損失を出すという大失態を演じてしまう。それでも御影家の人たちは誰一人として八軒を責めなかった。自然を相手にする農業という職業では、ミスを犯さない事よりも、ミスの後に気持ちを切り替えて次の作業に集中することの方が重要なのだろう。その御影家の姿勢は、常に失敗を怖れて完璧であろうとしてきた八軒にとって、大きなカルチャーショックだったに違いない。
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高校1年生の夏に起こった全ての出来事が、八軒にとって、何物にも代えがたい貴重な経験となったことだろう。そんな夏のエピソードを、過度に感動的にすることなく、終始明るく描き切った第8話は、間違いなく傑作と言っていい。
『恋愛ラボ』、第3話、「宣戦布告のサヨとエノ」
脚本:杉原研二、絵コンテ:太田雅彦、演出:荒井省吾、作画監督:天﨑まなむ
『恋愛ラボ』は、生徒会長・真木夏緒をはじめとする個性的な面々がが恋愛について「研究」する作品だ。しかし、その研究内容は、登校時にパンをくわえて曲がり角で男子とぶつかる練習とか、男子の前でさりげなくハンカチを落とす練習とか、どこか「ズレた」活動ばかりで、それが視聴者の笑いを誘う。しかし、私たちは果たして真木のことを、的外れな恋愛研究にいそしむバカで世間知らずなお嬢様だと笑う資格があるだろうか。中二病、思春期、反抗期など言い方は色々だが、私たちは皆、今から考えると恥ずかしくて仕方がない妄想や言動を繰り返して大人になったのではなかろうか。
にもかかわらず生徒たちは、恋愛研究をやっている真木を軽蔑し笑う。それはまさに、自分の恥ずかしい一面を覆い隠そうとする心理の表れだ。そんな中で、自分の恥ずかしい一面を隠すことなく「カッコいい彼氏がほしいとか、かわいく思われたいとか、一度も妄想したことない奴いるか!?」と怒ることのできるリコが本当にカッコ良かった。