新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

世界が塗り替えられる時―『飛び立つ君の背を見上げる』感想

あらゆる物事は見る角度を変えれば全然違った形で見える。ある人が見る世界と、別の人が見る世界は全く異なる。頭では分かっていたことだけど、まさかこれほどとは…。『響け! ユーフォニアム』シリーズで描かれた光輝く青春の日々。でもそれを、中川夏紀の視点から描いた時、世界はこれまでとは全く違う色で塗り替えられていく。

読者が初めて目にした、夏紀を通して見る『ユーフォ』の世界。

それは、怖ろしいほどに灰色だった。

我々が初めて触れることになった夏紀先輩の心は、まるで氷のように冷え切っていた。

これまで私達が小説本編やアニメで見てきた光輝く世界は、夏紀の目にはどこまでも灰色に映っていた。修学旅行の思い出も、友達と遊んだ記憶も、全てがどうでもいいことだと思っていたから、夏紀には小学生時代の記憶がほとんどない。卒業式で泣くような奴の気持ちも理解できないと言う。クラスが一致団結して何か一つのことをやろうという時も、「マジでしょうもない」と言ってそれを遠くから眺めているだけ。勉強や部活や学校行事といったものに価値を見出せない、全てのものを一歩離れた場所から冷めた目で見つめているだけの夏紀がそこにはいた。

夏紀にも「特別な存在になりたい」という気持ちはある。けれども、そのために青春を捧げて努力したりする勇気は無い。何かに一生懸命になった結果失敗して自分が何物でもないちっぽけな存在なのだと思い知らされるのが怖い。かといって、田中あすか先輩のように孤高の存在となって自分のやりたいようにやるような強さも持ち合わせていない。だから、周りに流されるまま、空気を読みながら、ただ何となく日々を過ごすことしかできない。そんな思春期特有の中二病的自意識の中でもがき苦しみながらも、希美や優子やみぞれとの出会いが少しずつ夏紀を変えていく。

そして、全てが終わった後になって夏紀は初めて、吹奏楽部で過ごした日々のかけがえの無さに気づく。卒業式も何もかも終わったその段階になってようやく、この約3年間の思い出が何物にも代えがたい特別なものだったと気づき、夏紀は嗚咽を漏らす。その尊い日々の中で、自分は何をして、何を得て、何になったのだろう。

夏紀にとって、希美や優子やみぞれは光だった。それは、夏紀を暖かく包み込む柔らかな光であると同時に、そばに寄れば身を焼かれてしまうような強烈な光。夏紀は希美のように真っ直ぐに生きたかった。優子のように皆をまとめ上げ一つの夢に向かって突き進んでいきたかった。みぞれのように大空を羽ばたいてみたかった。でも、それは、夏紀がどんなに望んでも手に入れることのできない理想の姿。

それをただ見上げているだけなら夏紀はここまで悩まなかっただろう。だが、高校1年の退部騒動を通して夏紀は、希美を灰色の世界へと引きずり込んだ。その罪悪感が夏紀を苦しめる。そんな夏紀や希美の苦悩に気付かないみぞれの視野の狭さにイラついたりもした。副部長となって部や後輩のために働いたのも、すべて罪滅ぼしのつもり。でも、その姿を見て久美子やみぞれは「夏紀はいい人」だと言う。違うんだ、自分はそんな立派な人間なんかじゃない。大空に飛び立つ勇気もない、何物にもなれず、ただ周りに流されてふらふらしているだけの、身勝手な人間なんだ。そんな自罰的な思いが夏紀を苦しめる。

それでも優子は、夏紀に救われていた。世の中に無数に代わりがいる中で、それでも夏紀を選んだのだと言ってくれた。その一言で、夏紀も救われた。こんなちっぽけで身勝手な自分でも「嫌いじゃない」と思えるようになった。この出来事を通して、夏紀の世界は塗り替わったのだと信じたい。最初は真っ白だったバンド幕が、美しいアントワープブルーに塗り替えられたように。けれども、塗り替わったのは未来ではなく過去だ。走っている最中には灰色でも、その道を後から振り返れば美しく光り輝いている。夏紀にとって世界とはそういうものなのかもしれない。

以上が『飛び立つ君の背を見上げる』そのものの感想になるが、本作の見どころは何と言っても、中川夏紀と吉川優子の関係性、その圧倒的なエモさに他ならない。作者自身がエモさに苦しんだと言っていたのは伊達じゃない。もう最初から最後までエモさの塊のような作品なのである。

というわけで、ここからは、なかよし川の激エモシーン ベスト5を発表しよう。

第5位 夏紀の前でだけ弱音を見せる優子部長

部長としての重圧に押しつぶされそうになっていた優子を夏紀が慰めるシーン。皆の前で気丈に振る舞う優子が、夏紀の前だけで見せる弱さ。読者はただ、学校の校舎の壁になったつもりで息を殺し、じっと2人を見つめることしかできない。

第4位 2人きりで何度もカラオケ屋に行くなかよし川

部活を引退し、受験も終わって、この二人、めっちゃカラオケ行ってる。いつもの4人じゃなくて2人だけでっていうのが最大のポイント。卒業後に行うライブに向けて練習するのもカラオケ屋。もう店員から顔覚えられるくらい通ってる。それだけじゃなく、1年の頃から、夏紀が優子にギター教えるため、月1くらいで通ってたらしい。

どう見てもなかよしカップルのカラオケ屋デートです、本当にありがとうございました。

第3位 自室イルミネーションのシーン

ライブを間近に控え、夏紀の家にお泊りにやってきた優子。会場を飾る用のイルミネーションを身に纏い、薄着のまま眠る優子に、おもむろに近づく夏紀。アニメ1期における大吉山のシーン、リズと青い鳥における大好きのハグシーンを彷彿とさせるクライマックス。後悔や罪悪感に苦しむ夏紀に、優子がはっきりと宣言する。

「いくらでも代わりがいるなかで、うちはアンタを選んでこうやって一緒にいるワケ。代わりがないからじゃなくて、代わりがいくらあってもアンタを選ぶ。一緒に音楽やるのも、こうやって過ごすのも、夏紀と一緒がいいよ。それが悪いこととはうちにはどうしても思えへん」
(289ページ)

これもう、完全に愛の告白じゃねーか! もうさっさと結婚しろよ…。

第2位 架空の優子の彼氏相手にマウントを取る夏紀

もしも優子に彼氏ができたら。ふと、四人でいたときに出た話題を思い出し、夏紀は自分の唇を片手で覆った。
きっと優子の恋人はいいやつだ。優子の人間を見る目は確かだから、育ちのいい爽やかな好青年を連れてくるだろう。夏紀にはちっとも理解できないファッションセンスで、夏紀にはちっともいいと思えない善良さで、優子の隣に当たり前の顔をして並ぶのだ。
休日にバーベキューをしたら準備なんかも一緒に手伝ってくれて、きっと面倒な仕事も愚痴ひとつ言わない。目が合った夏紀に向かって少し照れたように微笑む。「いつも優子がお世話になってます」なんて言われたところを想像して、架空の男に勝手にムカつく。何がお世話になってます、だよ。こっちはお前の何倍も優子のことを知っているのに。
(151ページ)

お前、マジでどんだけ優子への独占欲強いんだよ! ていうか、挙げられてる場面が具体的すぎて怖えよ! これは本当にヤバすぎる描写だ…。というか本作が夏紀視点だから夏紀がヤバいと思うだけで、絶対優子の方も同じような妄想してるだろうけど。

第1位 イマジナリー優子

本作の中でも一番ヤバいパワーワードがこれ。

おそろいのピックを楽器屋で買ったあと、明日の約束を取りつけてから夏紀は帰宅した。自室に飛び込み、ダウンジャケットを脱ぎ捨てて冷えた布団にダイブする。行儀が悪い、と脳の隅でイマジナリー優子が眉をひそめる。そして自分は当然のようにそれを無視する。
(241ページ)

呼吸のリズムが崩れ、夏紀はソファーの上にあったクッションを抱きしめる。涙腺の蛇口が壊れてしまったのか、涙があふれて止まらない。「バスタオルが必要か?」とイマジナリー優子が揶揄する。必要かもしれないなと夏紀はクッションに額を押しつけながら思った。
(269ページ)

イマジナリー優子って何だよ!!! お前の頭の中、どんだけ優子で占められてるんだよ!!! どんだけ優子のこと大好きなんだよ…。もう優子がいないと生きていけない体になってるやん…。

夏紀と優子。この2人の関係性を人間の言葉で説明することは、もう無理なんだと思う。世界に無数にある関係性を、友達とか恋人だとかいう高々数個の雑な言葉で仕分けすることでしかこの世界を理解できない、人間の脆弱な脳では、この関係性を正確に言葉で表現することなど不可能なのだ。

我々は、ただ、なかよし川が添い遂げてくれるのを祈るのみである。

本作に描かれた新たなのぞみぞ、そして、のぞみぞとなかよし川が複雑に絡み合う関係性については、一度読んだだけでは到底理解できないので、今回のところはこれで記事を終わりとしたい。