新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『銀の匙』第10話考察―豚丼がいた教室と、命と向き合うということ

ブタがいた教室』という映画をご存じの方も多いと思うが、そのモデルとなったのは大阪府の豊能町立東能勢小学校で行われた実際の授業だったという。この授業の概要はテレビで一度見ただけなので、細かい所は違っているかもしれないが、おおむね次のようなものだったと思う。1990年7月、同校の4年生を担当していた新人教師が、ブタの子どもを連れてきたところから授業は始まる。この授業は元々、学校でブタを飼育して、最後にそれを食べようという意図で始められたわけだが、実際にそのブタにPちゃんと名前を付けて飼育してみると、やはり愛着も湧いてきて、とてもじゃないけれどブタを食べるなんて状況じゃなくなっていく。最終的に、ブタを飼育していた生徒たちは、下級生に飼育を引き継いでもらうか、ブタを食肉処理場に送るかの2択を迫られ、真剣に議論を重ねていった結果、意見はちょうど半々に分かれたため、先生に判断を一任し、ブタは食肉処理場に送られる事となった。子ども達が泣きながらPちゃんに最後のエサを与え、Pちゃんがトラックで運ばれてゆく光景を印象深く覚えている。

この授業には各所から賛否両論が送られたという。「子供たちにとっては貴重な経験になった」という意見もあれば「こんなものは教育じゃない」という意見もある。この授業について扱った書籍や映画に関するAmazonレビュー・映画評論・ブログなどをザッと見回しても、見事に評価が分かれている。なぜ、これほどまでに議論が噴出するのだろう。それは、この授業について何らかの「感想」を出すことがそのまま、「命」というものをどう捉えて、それをどう教育に反映させるかという難しい問題に直結しているからだろう。しかし、様々な意見を持つ人どうしが議論し、考え、悩みぬくという事それ自体に、大きな意味があるのだと思う。

私ら、殺して食べる事って、今まで深く考えたことなかったんだよね。当たり前すぎて。だけど、あんたはそういうの考え込んでのた打ち回ってんじゃん。バカ正直に。でも、だんだんバカにできなくなってきた、っていうか。当たり前だと思い込んでたものを、もう一度捉え直すのも大切なのかなあ、って。

八軒にとって、エゾノーでの生活は毎日が新しい発見と驚きに満ち溢れており、これまでの常識や価値観が覆される経験を何度も繰り返してきた。しかし裏を返せば、八軒の考え方や行動は、八軒以外の生徒にとっても新たな刺激になっていた違いない。八軒を通じて「当たり前だと思い込んでたものを、もう一度捉え直す」ことができたのだ。八軒は周りから受け取るだけでなく、それと同じくらい多くのものを周りに与えていたのだ。

さて、八軒が置かれた状況は、東能勢小の児童達のそれとよく似ている。東能勢小の児童達は、愛着を持って育ててきたブタの「命」の選択を迫られたとき、皆で真剣に議論して最後にはブタを処分するという選択を受け入れた。一方、八軒はたった一人で悩みぬき、全ての肉を買い取るという選択を下した。直接ブタを殺すわけではないにしても、愛着を持って育ててきた動物の肉を食べるという選択は、ある意味残酷でかなりの覚悟がないと出来ないものだ。これまで不器用なまでに真っ直ぐに「命」というものと向き合った八軒だからこそ、最後の最後までその命と向き合おうという気持ちになれたのだろう。肉が燻製にされている時の煙を見て、駒場が「葬式みたいだな」と言う場面、そして、その煙を見つめる八軒達の後ろ姿は、今期のアニメでも一二を争う名場面だった。「美味しくいただくのが供養」だというのは人間のエゴだと自覚してはいても、その煙に何らかの意味を見出さずにはいられない人間の業と性。

豚丼への思い入れが強すぎて落ち込んでしまうわけでもなく、経済動物だからと割り切って淡々としているわけでもない、その真ん中くらいの曖昧な立ち位置で、もがき苦しみながら最後まで豚丼と向き合った八軒。その軌跡を明るく描いたアニメ第10話は、まさにクライマックスにふさわしい出来だった。