新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

矛盾と共に生きる―『いでおろーぐ!』ついに完結

ついに『いでおろーぐ!』完結である。最後には、強者vs弱者、リア充vs非リア充、といった単純な図式では収まりきれないこの世界の複雑さを描きつつも、結局主人公たちは最後まで、反恋愛・反リア充の姿勢を崩すことなく、この世界と闘い続けることを誓った。

『はがない』や『俺ガイル』の登場以降、これまで当たり前に信じられてきた「恋愛」や「友情」や「青春」の価値を徹底的に揺さぶる作品が大量に生まれてきた。というか、これまで皆が何となく感じていても漠然としていて説明できなかったものが、リア充とか、ぼっちとか、スクールカーストといった言葉によって言語化・顕在化した。『わたモテ』も『青春ブタ野郎』シリーズも、そういった流れを汲む作品である。

これらの作品では一貫して、同調圧力や空気の支配する教室、その中で常に周りの目を気にしながら生活することの息苦しさを描いてきた。そして、他人の評価なんか気にしなくていい、無理に周りと合わせるくらいならいっその事ぼっちでも良い、というような価値観が打ち出された。『いでおろーぐ!』でも、特に第2巻などは、同様のテーマ性を持っていた。

ところが、これらの作品には共通して一つの「矛盾」が生じてしまう。確かに物語の最初の根幹はリア充的なものの否定ではあるのだが、何かかんやで放課後に集まって駄弁ったり、時には皆で協力して一つの事を成し遂げたりする姿は、彼らが忌み嫌っていたリア充的なものに他ならない。つまり、物語が進むにつれてキャラクター達の生活はリア充然としてくるのである。

そのような「矛盾」を逆手に取り、最も先鋭化された形として描き出して見せたのが『いでおろーぐ!』だった。高砂と領家が反恋愛主義活動に邁進すればするほど、2人の愛は深まり、何やかんやと言い訳を付けてはイチャコラ、イチャコラ、もうやりたい放題、ついには作中でもその矛盾を指摘され自己批判をさせられる始末。この「矛盾」を徹底的にギャグに落とし込むことで、物語はどんどん予期せぬ方向へと展開していった。

一方、この作品の凄かったところは、主人公たちの宿敵であるリア充の側にも、非リア充的な鬱屈した気持ちを抱く人がいることを描いていった点にある。元生徒会長で恋愛至上主義の親玉的存在だった宮前や、彼女の後継の生徒会長となった佐知川などは、まさにそのような人物として描かれた。彼女たちの内面が語られることで、恋愛至上主義vs反恋愛主義という単純な図式は崩れ、世界は複雑さを増していく。

そんな複雑な世界で、高砂と領家は何度も転向しそうになりながらも、最後まで反恋愛主義を貫き通す。彼らはただ、あまりにも不器用で、真っ直ぐな人間だったのだろう。反恋愛主義同盟の部員たちは、恋愛や青春といったものに価値を見出す生き方をどうしても受け入れられなかった「アウトロー」であった。彼らはアウトローであったがゆえに、何度も理不尽に傷付き、肩身の狭い思いをしてきて、その怒りと悲しみを反恋愛主義運動を通して世間にぶつけることしかできなかった。であるからこそ、その活動を通して得たものが、彼らが心の底から忌み嫌うリア充的な生活に他ならないという事実を、彼らは受け入れることができなかった。

高砂と領家は、これからも「矛盾」を抱えながら生きていく。それは、たとえ高砂と領家がリア充的な学校生活を送るようになったとしても、たとえ2人が本当に恋人同士になったとしても、絶対に変わらないだろう。

彼らの人生に幸多からんことを。