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戦後日本のカバ史

私がカバの歴史について興味を持ったのは、偶然長崎バイオパークのカバの動画を見たのがきっかけである。バイオパークで飼われているカバ達の血縁関係や出身などを調べるうちに、芋づる式に他の動物園のカバについても知りたいと思うようになった。しかし、日本のカバの歴史は想像以上に深い「沼」だった。ここで紹介するのは、戦後日本の動物園で活躍したカバ達の驚くべき歴史の一部である。

【序章】 戦前・戦中のカバ

カバはサハラ砂漠以南のアフリカに生息するカバ科の哺乳類である。体長3.3~4.6mほどの草食動物であり、水辺で暮らしている。皮膚は乾燥に弱く、「血の汗」とも呼ばれるピンク色の体液を出して紫外線などから身を守っている。厚い皮下脂肪のおかげで得られる浮力によって、長時間水の中で生活することができる。(カバ科には、カバの他に、コビトカバという種もあるが、本記事ではカバのみを取り上げることとする。)

そんなカバが日本に初めてやってきたのは1911年のことであった。ドイツのハーゲンベック動物園から上野動物園へと移ってきたこのカバは、単に「カバ」と呼ばれており特に名前はなかったという。このカバは1912年に死亡した。*1

1927年にはソウルの動物園から京子と大太郎の夫婦が上野動物園へやってきて、4頭の子をもうけるが、順調に成長したのはマルのみだった。1944年には大太郎が死亡。1945年には太平洋戦争の悪化による食糧難のため、京子とマルが餓死させられるという悲劇も起きた。*2

一方、1934年、名古屋の名古屋市鶴舞公園付属動物園にも新たなオスのカバがやってきて重吉と命名される。同動物園は1937年に移転し東山動物園となる。同年、ドイツの動物園からメスのカバがやってきてヅーシと命名される*3。2頭の間には重太郎という子どももできた。

しかし、重吉とヅーシもまた、戦争中の食糧難のため餓死させられてしまう。重太郎も東山動物園に落ちた爆弾に驚いてパニックになり死んでしまったという。*4

こうして、戦前・戦中に日本にいたカバはすべて、戦争の影響を受けて死んでしまい、日本のカバの歴史はいったん途切れることとなる。戦後日本のカバの歴史は、1952年に3頭のカバが日本にやってきたところからスタートする。

第1章 東山動物園の重吉・福子

1951年、一人の上野動物園の職員がアフリカに動物の買い付けに向かった。その職員の名は林寿郎という。*5 現地で様々なトラブルに見舞わながらも、翌年なんとか動物を船に乗せて日本に帰国した。その船の中に3頭のカバがいた。このうち1頭のオスとメスは相性が良く、そのまま一緒に上野動物園へと送られた。余った残り1頭のオスは神戸で船から降ろされて、1952年7月29日に東山動物園へとやってきた。*6

そのオスはライフィキと呼ばれていたが、その後かば太郎と改名された。その2年後、戦中に死んだ重吉を偲び、かば太郎は二代目重吉を襲名した。

1954年には西ドイツの動物園からメスがやってきて、福子と命名される。10月には二代目重吉と福子の結婚式が盛大に執り行われた。ここから二代目重吉・福子夫妻は子宝に恵まれることとなる。

重吉・福子の第1子は、1957年に生まれ、その後各地の動物園を転々として1970年に死んだ。名前はあったかもしれないが、記録には残っていないという。*7

第2子は姫路市立動物園へ婿入りするも、嫁となる予定だったメスが死んでしまい、さらに天王寺動物園へと移った。そこでフトシと命名され、デブ子との間に子をもうけた。*8

第5子・ザブコは、旭山動物園でゴンというオスとの間に11頭もの子を産んだ。*9

第6子にあたるメスは、上野動物園へ移り、そこでナゴヤ命名され、デカオと結婚する。このデカオは、二代目重吉と同時に日本へやってきて上野動物園に送られた個体である。

第15子・重ベエは、最終的に王子動物園へと移り三代目出目男と改名され、2頭のメスとの間に計6頭の子をもうけた(第3章で改めて記述)。

図1。二代目重吉と福子が残した子ども達の情報。第9子については諸説あるため第4章にて後述。

この表からも分かる通り、生まれた子のほとんどは生後数年で別の動物園へ移されることになる。これは、

  • カバは巨大で飼育費用がかかるため1つの動物園で飼える数はせいぜい3~4頭であるため
  • 狭い場所で多くの個体を飼ってしまうと近親交配を繰り返して無闇やたらに数が増えてしまうため
  • 後述するオスの特性により子どもが傷付けられてしまうのを防ぐため

といった理由による。結果的に、重吉・福子の子ども達は日本全国の動物園へと散らばり、そこでも繁殖を行って孫・ひ孫が次々に生まれることとなった。福子の足にはピンク色の斑点があり、子孫にもそのような斑点が受け継がれているという。

一方で、第7子は早産であったため生後間もなくして死亡した。また、第3子は1歳のときに重吉に噛まれて死んでしまったという。カバのオスは縄張り意識が強く、たとえ自分の子どもであっても殺してしまう場合があるらしい。

福子もオスのそうした特性を分かっているため、子どもをなるべく重吉に近づけないようにしていた。第16子・サツキの子育てをしている時のエピソードが『カバの母さん福子』に書かれている。夕食時、重吉が誤ってサツキに近づきすぎてしまうと、福子は怒り出す。重吉はエサの干草を口いっぱいに加えてプールの中に行き、そこで一人で食べた。福子とサツキが夕食を終えプールに戻ってくると、重吉はまた追い出された。重吉は決して福子に逆らうことはなかったという。重吉・福子夫妻は、典型的なかかあ天下の家庭だった。*10

NHKアーカイブスに二代目重吉と福子の貴重な映像がある。

NHK特集 カバのゴッドファーザー | NHK放送史(動画・記事)

夫婦は一生の間に19頭もの子どもを残したのち、福子は1997年に、二代目重吉は2001年に、相次いで死亡した。その当時日本にいるカバの約6割が重吉と福子の子孫だったという。*11 まさに、日本のカバ界のゴッドファーザー、ゴッドマザーであった。

さて、子ども達のその後についても簡単に説明をしていこう。上野動物園に嫁入りしたナゴヤは、サツキ、ムーミン、ノンノンを産んだ。ムーミン周南市徳山動物園へ移り、カバ子との間にミミという子が生まれた。ミミはとべ動物園でハグラーというオスと結婚し、カブ・モモコ・ユイ・まんぷくといった子どもを産んだ*12。この子ども達は二代目重吉・福子夫妻から見れば玄孫に相当する。

天王寺動物園のフトシは、デブ子との間にミイという子をもうけている。このミイと、重吉・福子夫妻の玄孫のひとりであるカブは、南紀白浜アドベンチャーワールドでトニー、イチローという子どもを作った。このトニーは2001年に東山動物園へと移ってきて、メイというメキシコ生まれのメスと結婚する。トニーは三代目重吉、メイは二代目福子をそれぞれ襲名し、2003年には小福が生まれている。*13

図2。二代目重吉と福子の子どもの家系図

こうして、戦後まもなく日本にやってきて日本のカバ界に多大な功績の遺したカバの血統は、今も脈々と引き継がれているのである。

【第2章】 上野動物園のカバ達

前章では、1952年に3頭のカバが来日し、そのうちの1頭が二代目重吉となり多くの子孫を残したと述べた。本章では、上野動物園に行った残る2頭のカバ達のその後について述べていこう。

1952年、上野動物園にやってきたオス1頭とメス1頭は、それぞれデカオ、ザブコと命名された。2頭の間にダイタロウとイワオが誕生するが、いずれも生後間もなく死亡した。その後、1956年にはマルコ、1960年にはナヨコが生まれた。*14

すると今度は、デカオとマルコとの間に2頭、デカオとナヨコとの間に2頭、という具合に近親交配による子どもが生まれる。

1964年には、ザブコが糖尿病により死んでしまう。*15

その後、第1章でも述べた通り、二代目重吉・福子夫妻の第6子であるナゴヤがやってきて、デカオと夫婦になった。デカオとナゴヤとの間には、サツキ、ムーミン、マイという子が産まれた。このムーミンは、第3章で紹介する三代目重吉(トニー)の曾祖父にあたる。

さらに、デカオとサツキの間にも、フユコという子ができている。

こうして、デカオは1984年に老衰で死ぬまでに、5頭のメスとの間に19頭もの子を残した。また、デカオは、のちに「カバ園長」として有名になる飼育員の西山登志雄氏に歯を磨いてもらい、これによって虫歯予防デーのカバの歯磨きというイメージが定着した。*16

図3。デカオとその子ども達の家系図

この図からも分かるように、上野動物園では近親婚によって多くの子が産まれている。当時はまだ動物の近親交配を回避しようという考えがあまり定着していなかったのかもしれない。また、飼育環境の都合上、オスとメスを分けて飼育するのが難しかったのかもしれない。近親交配のせいかは分からないが、上野動物園で生まれたカバは短命な個体が多いという。

上野動物園のカバについて書かれた子ども向けの著書『カバ園長のおもしろカバ日記』には、マルコが子を産んだ後の子育ての様子が書かれている*17。しかし、デカオがマルコの父親であり夫でもあるという事実は一切書かれていない。近親交配という後ろめたい事実を子どもに伏せようという意図が垣間見える。

最後にその後の上野動物園について簡単に述べる。デカオが死んだあと、円山動物園からジローが移ってくる。ちなみにこのジローは、デカオとナヨコとの間に生まれた子・ドボンの孫にあたる。ジローとサツキの間には2頭の子どもが生まれたがいずれも成長することなく死亡した。

そしてサツキは2011年に東日本大震災の揺れに驚いて怪我をしてしまい、その怪我がもとで死亡してしまう*18。その後、とべ動物園からユイというメスがやってくるのだが、ジローとの間に子どもが生まれることはなかった。そしてジローは2022年に死亡した*19。現在、上野動物園にいるカバは、ユイ1頭だけとなってしまった。

いつの日か、また上野動物園でカバの子が産まれる日は来るのだろうか。

【第3章】 王子動物園の茶目子・出目男

さて、第3章では舞台を神戸市立王子動物園へと移し、3頭のオスとの間に合計17子を生んだ肝っ玉母ちゃん・茶目子について解説していこう。

上野・東山に遅れること4年、1956年にオスのカバがアフリカから神戸市立王子動物園へとやってくる。翌年にはアフリカから当時4歳のメスもやってくる。2頭はそれぞれ出目男、茶目子と命名され、盛大に結婚式が執り行われた。*20

茶目子は1960年に第1子であるデブ男を出産。第2子は生後間もなく死亡してしまうが、第3子、第4子、第5子は順調に成長した。ところが1967年に、出目男がビニール袋などを腸に詰まらせて死んでしまう。*21

その後、第5子は二代目出目男と命名され、茶目子は二代目出目男との間にも10頭の子を出産した*22。しかし、1985年、15番目の子・フトシが生まれて半年が過ぎたころ、再び悲劇が起こる。

その時の様子は『カバの茶目子のおねがい』に記載がある。9月のはじめ、二代目出目男が急にエサを食べなくなり、そのまま衰弱してついに10日後に死んでしまったのだ。死亡解剖をしてみると、ゴムボールや石が小腸に詰まってひどい炎症を起していたことが判明した。解剖が行われている隣の部屋で、茶目子とフトシは出目男を助けようと必死に声を上げていたという。*23

観客の心ないイタズラによって夫を奪われた茶目子を可哀想に思った動物園スタッフは、茶目子の新しい夫探しを始める。その努力が実り、茶目子は三代目出目男と再婚する。この三代目出目男は、東山動物園にいる重吉・福子の15番目の子で、もともとは重ベエという名前だったらしい*24。2歳の時にいったん姫路セントラルパークに移されたあと、1986年に茶目子の3頭目の夫として王子動物園に迎え入れられ、現在まで飼育されている*25

茶目子は三代目出目男との間にも2子を出産したが、次第に老化による衰えが目立つようになる。そして2002年、茶目子は先代・先々代の出目男が待つ天国へと旅立った*26。茶目子が生涯に産んだ子どもと家系図を以下に示す。

図4。茶目子とその子ども達の家系図
図5。茶目子とその子ども達の情報。

茶目子が初代出目男との間に産んだ子のひとりであるゴンは、旭山動物園に移った後、重吉・福子が産んだ5番目の子であるザブコとの間に11子をもうけることとなった*27。その末っ子であるナミコは、2003年に茶目子亡きあとの王子動物園に婿入りし、そこで三代目出目男と夫婦となった*28。2頭の間には、ナナミ、出目太、出目吉、出目丸と次々に子どもが生まれ、このうち出目太は長崎バイオパークへと移りモモと結婚している*29

ところで、先に挙げた参考文献である『カバの茶目子のおねがい』では、初代出目男と茶目子が王子動物園にやってくる顛末や、その後の子育ての様子、さらに1985年の二代目出目男の死について、子ども向けに分かりやすく説明している本である。しかし、この本の中では、初代出目男と二代目出目男を分けることなくどちらも単に「出目男」と表記してある。あとがきでさらっと茶目子の新しい夫として三代目出目男がやってきたと書いてあるが*30、それ以外で代を分けている箇所はない。ここでもやはり、二代目出目男と茶目子が元々は親子であり近親交配を行ったという事実を、子どもに隠そうとする何らかの意思があるのかもしれない。

【第4章】 かみね動物園のバシャン

第4章の舞台は日立市かみね動物園。ここに14頭もの子を残したカバの夫婦がいた。

夫の名はドボンという。第2章でも紹介したデカオとナヨコとの間に生まれた子である。1994年に死亡した。

妻の方はバシャンという。かみね動物園の記録によると、ドボンとの間に14頭もの子を産み、そのうち1980年に生まれた2頭はカバとしては大変珍しい双子だった*31。バシャンの子ども達は、ドン(円山動物園)、ズー(東武動物公園)、ヒタチ(八木山動物公園)など、日本各地に散らばっていった。バシャンが2017年に54歳で死んだ時には、日本最高齢のカバだった。

このバシャンの出自は謎に包まれている。かみね動物園の発表によると、バシャンは1963年3月12日に大分県別府ラクテンチで生まれたとされる*32。当時、別府ラクテンチには徳・福という夫妻がいたため、バシャンも彼らの子どもだと考えられる。

一方、動物園のカバについて長年取材を続けてきた宮嶋康彦氏によると、バシャンは東山動物園の重吉・福子の第9子として1970年に生まれ、翌年日立市かみね動物園へと移ってきたという。動物商に50万円で引き取られ、その後日立市が115万円で購入したと、具体的な数字まで書かれている。*33

また、私がTwitterで聞いた話では、別府ラクテンチ生まれのバシャンは1970年頃死亡し、1971年に東山動物園から来たメスが二代目バシャンになったという情報があるらしい(この情報の出典は不明)。

何故、このような食い違いが生じるのか。宮嶋康彦氏によると、動物園間の動物のやり取りには、間に動物商が入るらしい。彼らは通常、売値と買値がバレないように情報を隠すため、動物商から買ったカバがどこから来たのか分からないというケースが昔は結構あったのだ。

誤解無きようにここで述べておくが、今日ではそのような事態が起こることは無いだろう。ある子カバが別の動物園に移る時の映像を見たが、両動物園の関係者が立ち会い、握手を交わしている様子が見て取れる。現在では移動によってカバの来歴が不明になるということはまず無いと考えていい。

さて、この件について、かみね動物園に問い合わせた。その回答では、

  • バシャンは1963年3月12日別府ラクテンチ生まれであると、かみね動物園の動物台帳に記載されている。
  • バシャンは1969年には第1仔(ドン)を産んでいるので、1970年生まれ説はおかしい。
  • 1971年に東山動物園からバシャンが来たという記録は一切ない。

といった根拠を挙げており、かみね動物園側としては1963年別府生まれであることは間違いないという見解だった。

また、これは私の見解だが、宮嶋氏の1970年東山生まれ説が正しいとすると、かみね動物園にいた初代バシャンが1970年ごろ死亡し、1971年にやってきたカバが二代目バシャンになったということになる。いくら昔のこととはいえ、そんな重要な情報が散逸し、両者が同個体だと誤認されるなんてことが有り得るだろうか。

私の知る限り、1970年東山生まれの個体がバシャンであることを明確に示す記述は、宮嶋氏の書籍以外に存在しない。一方で、この問題の一番の当事者であるかみね動物園の記録は全て、宮嶋氏の説が間違いであることを示している。

とするとやはり、かみね動物園側の見解である1963年別府生まれ説が正しいように思う。しかしその場合、では1970年に東山動物園で生まれたカバはどこに行ったのか?という新たな謎が生じてくる。あっちを立てればこっちが立たず。謎は深まるばかりだ。

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映像は51歳の誕生日を迎えたバシャンの様子である。一緒にいるのは末っ子のチャポンである。仮に1970年生まれ説を採用したとしても、44歳とかなりの高齢であることは間違いない。この映像の3年後、バシャンは、長年連れ添った夫・ドボンが待つ天国へと旅立った。

カバの血統に関する情報は、近親交配を回避し安定的に子孫を残すために欠かせないものである。DNA鑑定などの技術を使って何とかバシャンが誰の子だったのか明らかにできないものだろうか。

今のところ、真実を知っているのは、天国にいるバシャンのみである。

【第5章】 長崎バイオパークのモモ

第5章では、長崎バイオパークで生まれ、日本で初めて人工保育によって成長し、メディアから「泳げないカバ」と言われて有名になったモモについて見ていきたい。

だが、モモについて話す前に、モモの両親であるドンとノンノンについて説明していこう。2頭のルーツは第4章で述べた日立市かみね動物園のドボン・バシャン夫妻にまで遡る。この夫妻が1969年に産んだ子・ドンは、円山動物園に移ってジロー、ゲン、さっちゃんという子をもうけた。さっちゃんは長崎バイオパークに移籍してノンノンと改名された。*34

一方、ドボン・バシャン夫妻が1980年に産んだ双子、マルコとドン(1969年生まれのドンとは別個体)もそろって長崎バイオパークに移る。マルコは1984年に死んでしまうが、ドンはノンノンと結婚した*35。このドンと、さっちゃん改めノンノンが、モモの両親である。

図6。長崎バイオパークのカバ達の家系図

当時のバイオパークにはもう1頭ムーミン(1981年旭山動物園生まれ、1984年死亡)というオスがおり、このムーミンとノンノンとの間にトットという子が産まれる。しかし1996年に、ドンがトットを襲うという事件が起き、トットは死んでしまう。*36

モモは、その2年前、1994年3月6日にドンとノンノンとの間に生まれた。

カバは通常、水中で出産し、授乳も水中で行う。カバの赤ちゃんは生まれた時から泳ぐことができる。

しかし、モモが生まれた日は寒かったためか、ノンノンは陸上でモモを出産した。モモはうまく乳を飲むことができずに衰弱していったため、飼育員がモモを取り上げてなんとか一命をとりとめた。数日後にモモをノンノンに返そうとしたが、ノンノンはすでにモモのことを忘れていたため、モモは日本で初めて人工飼育によって育てられることとなった*37

このような経緯で人間に育てられることになったため、モモは自分のことをカバではなく人間だと思い込んでいた可能性がある。最初は水を怖がって泳ぐことができず、メディアから「泳げないカバ」と書かれたりもした。その後は飼育員と特訓を重ねて、問題なく泳げるようになった。*38

生まれて2年後には、飼育員の手を離れてドン、ノンノンと同じ池で生活を始めることもできた(カバの記憶力はあまり良くないので、ドンとノンノンは新しくやってきたこの若いカバが実は自分達の娘だとは気付かなかったであろう)。

2000年には東武動物公園からムーという花婿がやってきて、モモとの結婚式が行われた。そして翌年には第1子であるモモタロウが生まれる。モモは誰に教えられたわけでもないのにちゃんとももたろうに母乳を与え、立派に母親の役目を果たした。2002年にももたろうが中国の動物園へ移籍する際には、市民からの抗議の声が寄せられた。しかし、これは1996年にトットが死んだ時のような事故を繰り返さないための苦渋の選択であった。*39

その後、両頭の間には、ゆめ、龍馬、百吉と、次々に子が生まれる。しかし、2012年にムーは腹膜炎のため死亡してしまう。

その後、新しい夫であるデメタがやってくる。このデメタは、第3章で紹介した三代目出目男の子にあたる。2016年にはモモとデメタとの間にテトが生まれた。*40

下の映像は、モモ、ドン、ノンノンが豪快にスイカを食べている様子である。

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残念ながら、ノンノンはこの映像の5年後の2019年に死亡した。その後、ドンも2022年に死亡している。*41

一方、モモの第4子・百吉は2013年に旭山動物園へ移籍し、旭子というメスと夫婦になった。2019年には、モモにとって初の孫となる子どもが生まれたが、生後間もなく死亡した。しかし、2020年に生まれた第2子は、凪子と名付けられてすくすくと成長している。*42

子どもの頃は「泳げないカバ」とすら言われたモモは、今や、その子ども達とともに日本のカバの未来を担う頼もしい存在となっているのだ。

【まとめ】 日本のカバのこれから

以上が、戦後まもなく日本にやってきて数多くの子孫を残したレジェンド級のカバとその子孫たちの壮大な物語である。それは同時に、全国各地、時には海外にまで及ぶカバの移動の物語でもある。第1章で述べたような理由もあり、動物園で生まれたカバのほとんどは、親元を離れて別の動物園へと移籍していく。

多くの参考文献からは、仕方のない理由とはいえ母子を引き離さなければならない飼育員の苦悩が窺い知れる。カバの母親は勘がとても鋭く、子が連れていかれそうな気配を察すると、子に寄り添ってなかなか離れようとしなかったという*43。また、初代福子は子を取り戻そうとして暴れてケガをしたりもしている*44。壮大なカバ史の裏には、悲しい親子の別れが存在していたのだ。

では今後、重吉・福子夫妻、デカオ、バシャン、茶目子のように、数多くの子孫を残すレジェンドは現れるのだろうか。実は話はそう単純ではない。第1章でも述べたように、カバは巨大でエサ代もかかるため、飼育できる数に限りがある。また、かつてはその物珍しさから動物園のスター的存在だったカバも、多くの動物園で飼育されるようになってからは人気に陰りが出てきているという。よって、たくさん子が産まれたとしても貰い手が見つからないという事態になりかねない。

そうした事情もあるため、せっかく夫婦になっても一緒には生活できないケースが増えている。例えば池に入る時間を別々にするなどして接触を避け、子どもが生まれないようにしている動物園も多いのだ。

一方で、飼育環境の改善などもあり、長生きするカバは多い。二代目重吉は52歳、初代福子は46歳、茶目子は48歳、バシャンは54歳まで生きた。人間で言えば90歳を超える長寿だったとみられる。2022年11月現在、国内最高齢のカバは円山動物園のドン、52歳ということになる。

日本の動物園にいるカバもまた、人間と同じように少子高齢化の時代を迎えているのである。

最後に、ここで紹介したカバの名前や系譜などの情報は複雑に入り組んでいるため、間違いがある可能性があること、全体像を完璧には把握できていないことはご了承願いたい。本記事で挙げた家系図についても、私の調査不足、あるいは紙面の都合などにより、全ての個体を網羅しているわけではないことはご理解いただきたい。

また、本記事は第5章まででいったん終了とするが、紹介できなかったエピソードについてはいずれまた記事にしたい。

*1:『日本カバ物語』、宮嶋康彦、情報センター出版局、39ページ

*2:GW2日目続き:上野動物園 カバ来日100年 上野動物園カバ名鑑 | 有閑動物図鑑

*3:このメスの名前が福子だったとする文献もあったが、本記事では東山動物園のブログに書かれた内容に沿って記述する。

*4:名古屋カバ入り物語?E|オフィシャルブログ|東山動植物園

*5:『だからカバの話』、宮嶋康彦、朝日新聞社、103ページ

*6:名古屋カバ入り物語?F|オフィシャルブログ|東山動植物園

*7:『だからカバの話』、宮嶋康彦、朝日新聞社、51ページ

*8:『だからカバの話』、宮嶋康彦、朝日新聞社、127ページ

*9:水中でイキイキ百吉 | 北の暮らし ~札幌・宮の森から~

*10:『カバの母さん福子』、川村浩(文)、中村英夫(絵)、学習研究社、47ページ

*11:名古屋カバ入り物語(8)|オフィシャルブログ|東山動植物園

*12:とべ動物園のかばさん

*13:名古屋カバ入り物語?H|オフィシャルブログ|東山動植物園

*14:GW2日目続き:上野動物園 カバ来日100年 上野動物園カバ名鑑 | 有閑動物図鑑

*15:カバ園長のおもしろカバ日記』、西山登志男、ポプラ社、110ページ

*16:カバ園長のおもしろカバ日記』、西山登志男、ポプラ社、96ページ

*17:カバ園長のおもしろカバ日記』、西山登志男、ポプラ社、74ページ

*18:カバ「サツキ」メス39歳、死亡しました | 東京ズーネット

*19:カバの「ジロー」が死亡しました(※死因は循環不全でした) | 東京ズーネット

*20:『カバの茶目子のおねがい』、亀井一成ポプラ社、36ページ

*21:神戸市王子動物園機関紙「はばたき」No.19

*22:神戸市王子動物園機関紙「はばたき」No.52

*23:『カバの茶目子のおねがい』、亀井一成ポプラ社、9ページ

*24:『カバの母さん福子』、川村浩(文)、中村英夫(絵)、学習研究社、32ページ

*25:最新ニュース|神戸市立王子動物園

*26:王子動物園/思い出のアルバム/70

*27:旭山動物園とカバ

*28:旭山動物園だよりNo.204

*29:最新ニュース|神戸市立王子動物園

*30:『カバの茶目子のおねがい』、亀井一成ポプラ社、156ページ

*31:日立市かみね動物園|川添久美子のブログ(平成28年3月)

*32:日立市かみね動物園|カバのバシャンが亡くなりました(訃報)

*33:『日本カバ物語』、宮嶋康彦、情報センター出版局、216ページ

*34:カバのドンの息子の訃報 | 北の暮らし ~札幌・宮の森から~

*35:日立市かみね動物園|川添久美子のブログ(平成28年3月)

*36:『日本カバ物語』、宮嶋康彦、情報センター出版局、260ページ

*37:正確には、モモより以前に日本で人工飼育を行った例はあったのだが、無事に大人に成長したのはモモが初めてのケース。

*38:「泳げないカバ」地域に愛され26年 伊藤副園長振り返る 長崎バイオパーク | 長崎新聞

*39:『きっと泳げるよ、カバのモモちゃん』、大塚菜生、汐文社、86ページ

*40:カバ | 長崎バイオパーク - ZOOっと近くにふれあえる九州の動物園&植物園

*41:【長崎】長崎バイオパークのカバの「ドン」死ぬ | NCC長崎文化放送

*42:元気なカバの赤ちゃん、27年ぶりに誕生 旭山動物園:朝日新聞デジタル

*43:『カバの茶目子のおねがい』、亀井一成ポプラ社、156ページ

*44:『カバの母さん福子』、川村浩(文)、中村英夫(絵)、学習研究社、32ページ