新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『がっこうぐらし!』に描かれた「命がけの日常」は現実の学校生活の写し鏡である

『がっこうぐらし!』第5巻

この記事の結論はタイトルにあるとおりです。『がっこうぐらし!』第5巻を見れば、必然的にそういう結論に至ります。作者は第5巻のあとがきで次のように述べています。

学生時代の楽しい思い出はいっぱいあるのですが、しかし当時の気持ちを思い出してみると、日々、生き残るために戦っていた気がします。
自分自身、自分と友達、自分と社会の中の、色々な矛盾にぶつかって、怒って、落ち込んで、絶望して。
それを変える力も権限もなくて、壁に頭をぶつける毎日だったと思うのです。
私が特別ハードな学生生活を送ってたというわけではなく、あの頃って、わりと命がけだよねという。
当時は気付きませんでしたが、色々な人に助けてもらって生き延びてたわけです。
海法紀光、千葉サドル、『がっこうぐらし!』、第5巻)

ここで述べられているのは、子どもは毎日生き延びるために必死で戦っていて、学校生活というサバイバルを生き延びた者だけが大人になる、という世界観です。作品の根底にあるこの世界観について、すでに多くの人から指摘があがっています。

原作者が言っていましたが、日常でも生き抜くのが大変なサバイバルの状況、学校生活という命がけの戦い…大げさかもしれませんが、学校が何かとの戦い抜く場所となっていたりする場合もあったりします。
2015-07-01 - ジークス島戦記ロストクロニクルより引用)

別に驚かせることが主題でも単なる悪趣味ポルノでもなく学校と生活というお題をよく活かした生きのびる事についての漫画ですよ原作は。
別に驚かせることが主題でも単なる悪趣味ポルノでもなく学校と生活というお題をよく活かした生きのびる事についての漫画ですよ原作は。5巻の卒業と進路についてのくだりでめっちゃ泣いてしまったし。 - miruna のコメント / はてなブックマークより引用)

いや、別に通っていた学校がゾンビまみれだった訳ではありませんが。
が、バリケードの外に出たら齧られて死ぬことこそありませんでしたが、何かの枠から外れると痛い目を見る心休まらぬ場所であったのは事実です。ついでに言えば、外に出られないわけではないものの、週日の少なからぬ時間をそこで過ごさなければならないのを「束縛されていた」と形容しても間違いには当たらないでしょう。
煎じ詰めると、例のゾンビでいっぱいの学校は自分の学校生活のカリカチュアのように思えているようです。
Lazy Life,Easy Exit 「がっこうぐらし!」5巻のラストにノスタルジーを覚えるより引用)

他作品との比較

学校生活は命がけの戦いだという感覚。この「命がけ」という言葉は大げさでも何でもないと思います。

例えば『3月のライオン』。学校でいじめにあって辛い日々を送っていたひなたは、学校にやってきたあかりの前で次のように決意を新たにします。

こんな所 何があったって 生きて卒業さえすれば私の勝ちだ
羽海野チカ、『3月のライオン』、第7巻)

あるいは『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』でも、次のような一文があります。

今日もニュースでは繰り返し、子供が殺されている。どうやら世の中にはそう珍しくないことらしい、とあたしは気づく。生き残った子だけが、大人になる。あの日あの警察署の一室で先生はそうつぶやいたけれど、もしかしたら先生もかつてのサバイバーだったのかもしれない。
桜庭一樹、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、203頁)

そして、このような作品を持ち出すまでもなく、いったい何人の子どもが学校で命を落としてきたでしょうか。あるいは、親や教師や他の生徒の目に怯え、どうすることもできない理不尽さに絶望し、死にたくなるほどの苦しみを耐え抜いて卒業していった人が、どれだけ多くいることでしょうか。それを考えれば、たとえ戦争や大災害がない世の中であっても、「命がけ」という表現は全く大げさではないと分かるでしょう。

子どもの目には学校がどう映っているか

酒に酔った大人の姿が子どもの目にはどう映っているかを描いたCMがすごいと一時期話題になったことがありました(子どもには酔っ払いがこう見えている 海外の飲酒警告CMが怖すぎる - ねとらぼ)。これと同じように、「命がけ」の生活を送っている子どもの目には、親や教師や他の生徒の姿がゾンビのように見えているのかもしれません。


Fragile Childhood - Monsters - YouTube

もちろん、ひどい虐待やいじめを受けた人の割合というのは全体から見れば小さいのでしょうが、学校空間にありがちな同調圧力や理不尽さの犠牲になってきた人というのは、相当多いのではないでしょうか。最近はスクールカースとという言葉が注目されていますが、確かにクラスという空間には生殺与奪の権利を握っている強者がいて、その人からターゲットにされると、クラス内でハブられたり、陰口を叩かれたり、ひどい場合にはいじめに発展したりと、色々な不都合が発生します。あるいは、そこまで行かなくとも、いつ自分がターゲットにされるか分からないという恐怖の中で、常に他人の目を気にしながら生活せざるを得ない場合もあります。

「他人の目をいちいち気にしてたらキリないやん」というのは、大人の立場になって初めて言えることであって、学校という狭い「社会」しか知らない子どもからしたら、そりゃ必死になって当然といえば当然です。やはり子どもにとっては、学校内における自分の居場所を奪われるということは、社会的に死んだも同然のことのように感じてしまうわけです。

だからこそ、何度も言いますが、学校生活は毎日が命がけの戦いなのだという言い方は誇張でもなんでもなく、子どもは本当に、シャベルを手に取ってゾンビと戦っているのです。

ゆきという人物

以上を踏まえたうえで、ゆきという主人公について考えてみると、彼女は心が綺麗過ぎるが故に、学校空間での戦いを認識できない、学校は誰もが楽しく生活できる場だと思いたがっている子なんだと言えるでしょう。

傍から見れば完全に、綺麗ごとばかり言ってる脳内お花畑のイタい奴です。でも、くるみやりーさんやみーくんが笑って卒業できたのは、やっぱりゆきが居たからではないでしょうか? 毎日命がけで辛いことや悲しいことの多かった学園生活だったけれど、でも振り返ってみればそれでも楽しかったよね、かけがえのない大切な思い出だよね、ということを気付かせてくれたのはゆきだったのだと思います。

もっとも壊れているのがゆき、ではないし、狂人なのがゆきでもない、もっとも強靱なのがゆきだと考えてみなければならない。もっとも壊れている状況で、いつも通りの世界を生き、「日常」が昨日も明日もあると指し示す強さを三人に教えているのがゆきだと考えてみるのはどうか。
『がっこうぐらし!』の生存の二つの相 - Close to the Wallより引用)

上のように、ゆきに対する見方を180度変えて考えてみるべきだ、と提案している記事もありますが、原作漫画を見れば、そういった見方が間違いではないという事がよく分かります。

他にも『がっこうぐらし!』について色々考えていますが、ひとまず原作第5巻を読んで率直に思ったことについて、取り急ぎご報告まで。