※作品に対する様々な考え方を併記するために、対論形式の記事にしてあります。
「そんな稲葉もアリなんじゃないか?」
司会者 さあ、ここからは、稲葉の抱える不安に対して太一がどのように対処し、稲葉はどのようにして救われたのか、それについてじっくり議論していきましょう。前回の対論で、稲葉の「トラウマのない人間には救いもない」といった発言を見てきましたが、それを受けて太一は「トラウマのない人間は救われる必要もないのではないか」と述べ、さらに次のように続けます。
「ていうか、……別にそんな稲葉も……、アリなんじゃないか? (中略) いや……、確かに稲葉が信用してくれないことは悲しいんだけど、だからといって稲葉が、自分を無理に変える必要もないと思うし……、そんな稲葉も受け入れて貰えるんじゃないかと思うんだ。……それが今までと、全く同じ形ではなかったとしてもさ」*1
九州人 まさに逆転の発想ですよ。稲葉は今まで一人で苦しんできたせいで、どんどん悪い方向に思考が行ってしまう状態になっています。そこに、太一がちょっと違う見方を提示することで、稲葉に「こういう考え方もあるよ」という事を示したわけですね。
いなばん主義者 ここで一つ気になることがあります。太一は稲葉の悩みに対して「大したことない」というようなことを繰り返し言っていますが、先程の発言でははっきりと「稲葉が信用してくれないことは悲しい」と述べています。あるいは、そんな稲葉も受け入れて貰えると言っておきながら、そのあとに「今までと、全く同じではなかったとしても」と付けくわえています。つまり、太一は「仲間を信用できない」という稲葉を受け入れるとは言っていますが、その一方で、稲葉がそのように思うのは「悲しい」し、今までと全く同じ関係を築くことはできないかもしれないと、はっきり宣言しているわけですね。
いなばん信者 要するに何が言いたいんでしょうか? 太一の発言は、自己犠牲野郎が稲葉を救うために編み出した方便だと思われますか?
いなばん主義者 そこまでは言いませんが、しかし、太一が言っているのはこういう事でしょう。「稲葉が仲間を信用していないというのは悲しいし、本当は信用してほしいと思っている。その点に関しては、俺は稲葉の考え方は正しくないと思っているし、それを理解することもできない。でも、そんな稲葉でも俺は受け入れます」と。結局、両者の間に埋めることのできない溝が残されたままになっていて、それでもなお太一は稲葉を受け入れたわけですよね。こういう関係って、少し危ういというか、後々色んな綻びが出てきそうで恐いですよね。
いなばん信者 あなたは穿った見方をし過ぎなんですよ。確かに二人の間には未だに理解し合えない領域が残っている。けれども、対話の前後で、二人の距離が縮まったことも事実でしょ? 太一は稲葉の話を聞いて「こういう風な悩みを抱えていたんだな」と理解できたし、稲葉も太一の話を聞いて「こういう考え方もあるんだ」と思い直すことができた。こういうやり取りを通じて、お互いが理解し合い、絆を深めてゆく。まさに王道の青春ドラマですね。
いなばん主義者 私はそうは思わないね。結局、二人の間で理解し合えない部分が再認識されて、それでも相手を受け入れてうまくやっていくしかないよね、という確認がなされただけのように見えますが。
九州人 私はむしろ、お互いが完璧に理解しあえる関係というものの方が嘘に見えますけどね。どんなに親密な関係であっても、相手のことを100%理解するなんてことは不可能ですよ。また、親密な関係になればなるほど、相手の欠点や嫌な部分が見えるようになってくるものです。だから、理解できないという事は別に悪いことではなくて、ある意味仕方のないことであるし、そんな中で上手く折り合いをつけていくのが実際の人間関係というものです。
「俺は稲葉をオカズにしたことがある」
司会者 話が若干横道にそれているようなので、次の場面に移りましょう。太一は稲葉の悩みを文研部の皆に打ち明けるべきだと提案します。太一は「みんな稲葉のことを受け入れてくれる」と説得しますが、稲葉は「そう簡単に行くわけがない」と納得しません。そこで太一は、次のような作戦に出たわけです。
「……なあ、稲葉。人間、自分一人で『これは他人に知られたらやばい』って考えてると、必要以上にそのことを重く捉えてしまうところがあると思うんだ (中略) だから俺も、絶対墓場まで持って行くつもりだった秘密を言ってみようと思うんだ」*2
九州人 こうして、「俺は稲葉をオカズにしたことがある」という発言に繋がるわけですね。そこからの稲葉の表情の変化は、まさに圧巻でした。発言を聞いた直後の数秒間の沈黙、その後腹を抱えて笑いだしたかと思えば、「変態、エロ犬、鬼畜」と太一を罵倒、そして「こんなことで心動かされてるのがアホだ」と涙を流す。沢城みゆきさんの名演が光りましたね。
司会者 さて、ここで皆様に考えていただきたいのは、「稲葉をオカズにしたことがある」という発言を通して太一は何を伝えたかったのか、そしてその発言を聞いて稲葉が心を動かされたのは何故か、ということです。
いなばん信者 これは単純には言えませんが、やはり、太一は身をもって自分が「信頼できる仲間だ」という事を示したかったんだと思います。「オカズにしたことがある」なんて、本当に信頼している相手じゃないと言えませんよね。これまで稲葉は、ずっと文研部のメンバーのことを信用できないと思ってきた。でも、太一は稲葉のために力を尽くしてくれるし、とても重要な秘密を打ち明けてもくれる。こんなに自分のことを想ってくれてるんだという感動と、信頼できる仲間を得たという喜び。それらを感じたからこそ、あの涙に繋がったんだと思いますね。
いなばん主義者 私は別の見方をしてますね。前に述べたように、稲葉にとって一番ショックだったのは、他人との「差異」を認識したことなんだと思います。「みんな他人を信用することができるのに、なんで私だけ?」という気持ちが、ずっと稲葉を苦しめていました。でも、太一の発言を聞いて、稲葉は「みんな一緒なんだ」という思いを抱いたんじゃないでしょうか。みんな心の中に醜い部分を持っていて、人には言えない秘密を抱えて苦しんでいる。何も私だけが特別じゃなくて、みんな同じような悩みを抱えながら生きている。そういう事を知ることができて、その安心感から涙が溢れてきたんだと思います。
九州人 私はまた違った観点で太一の行動を見ていますね。彼が言いたかった事を一言で言い表すなら、「一人で悩むんじゃなくて、皆に悩みを打ち明ける勇気を持とう」ということに尽きると思います。人格入れ替わりが始まってからの稲葉の生活は、本当に苦悩とストレスの連続だったと思います。精神的にも肉体的にも追い詰められていって、思考はどんどんネガティブになってゆく。そんな稲葉に対して、太一は「そんなに深刻に考えなくていいよ」と諭すわけですね。渾身のオカズ発言は、唯の時に使ったのと同じ作戦ですよ。股間を蹴り上げることで「女は男に適わない」という唯の思い込みを払拭したのと同じように、自分の秘密を暴露することで「秘密を打ち明ければ皆から受け入れてもらえなくなる」という稲葉の思い込みを払拭したわけです。稲葉が不安を皆に打ち明けた後の伊織の発言が、まさにそれを象徴しています。
司会者 太一のと対話の後、稲葉は文研部全員の前で悩みを打ち明けました。その後の伊織の第一声は「つまりそれは、心配性ってことだね?」というものでした。
九州人 そうです。稲葉にとっては深刻な悩みでも、伊織からすればそれは単なる「心配性」でしかないわけです。以前述べたように、稲葉と同じような不安は多かれ少なかれ皆が抱えているものであって、稲葉は多少神経質で心配性であるからそれをネガティブに考え過ぎてしまった、ただそれだけの事なんですよ。そんな些細なことでも、一人で抱え込んでしまっては全く解決できない。だからこそ、勇気を持って皆にそれを打ち明けることが大事になるんですね。
「アタシもお前をオカズにしたことがある」
司会者 なるほど、様々な意見を聞いて稲葉の心理状態や各シーンに隠された意味がはっきりと見えてきましたね。さあ最後に、第4話のクライマックスを飾る「アタシもお前をオカズにしたことがある」という告白について考察していきましょう。
九州人 稲葉は本当に太一を「オカズ」にしたんでしょうか? 単に、太一をからかう目的で発言したようにも見えますが。
いなばん主義者 いいや。あれは本当にオカズにしてるんだと思います。先ほど述べたように、稲葉は太一のオカズ発言を聞いて、みんな自分と同じように心の中に黒い部分を抱えながら生きていると知ることができました。だからこそ、「心の底から嫌いだ」とまで言っていた自分、あの腹黒くて醜い自分を、肯定できるようになったんですね。そして、自分の心の黒い部分、背徳的な部分をもっと知って欲しい、という感情が芽生えたんだと思います。ゆえに、自分を救ってくれた太一に、ああいう事を言ったんだと思いますね。
いなばん信者 いや、結局稲葉は太一とより親密な関係を築きたかったんじゃないかと思います。自分の悩みを打ち明けることで、太一と稲葉との関係は親密になった。でも、その悩みは他の文研部メンバーにも打ち明けてしまったので、もう一段、太一との親密性を上げるために、もう一つの秘密を打ち明けたんだと思います。
司会者 う〜ん、稲葉に関しては、最後の最後まで議論が尽きない。本当にミステリアスな女性ですね。最後に、今回参加して下さった論者の皆様から、一言ずつ感想を貰いたいと思います。
いなばん信者 稲葉と太一とのやり取りについては、本当に色々な見方ができるんだなあと思いました。他の皆さんの意見も、私の考えと相容れないところがあったり、逆になるほどと唸らされるところもあったりで、非常に刺激的な討論でした。
いなばん主義者 討論を進める中で、稲葉姫子というキャラクターにますます魅力を感じるようになりました。怒りっぽくて、行動力があって、いつも冷静で、それでいて落ち込みやすく、表情豊かで、そして他の誰よりも可愛い。本当に素晴らしいキャラクターです。
九州人 第1巻のこの場面は、原作小説の中でも私が特に好きな場面の一つでして、それをアニメで見ることができたのが凄く嬉しかったですね。また、次回はいよいよ、原作第1巻のクライマックスがアニメになります。これからも、ますます『ココロコネクト』から目が離せなくなると思います。