新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『城下町のダンデライオン』と日本の皇室について

『城下町のダンデライオン』を読むと何かすごく新鮮な感じがした。というもの、やっぱり我々日本人というものは、作中にあるような開かれた王室とか、一般国民に混じって普通に生活している王室とかいうものにあまり馴染みがないからだと思う。たしかベルギーがどこかの王室だったと思うが、王族の人も一般人と同じように街中を出歩いていて、自分の財布で買い物もしていたのをテレビで見たことがある。そういう国に比べると、我が国の皇族というものは未だに神秘のベールに包まれていて、国民には見えない部分も多くあるように感じる。もちろん皇室は、ただ単純に国民に向けて開かれていれば良いというわけではない。アイドルやスポーツ選手みたいに常にファンやパパラッチの目にさらされて、私生活まで広く国民に知れ渡っているような皇族のあり方もまた、少し違うような気がする。開かれた皇族にするか、神秘性を大事にするか、というバランスの問題は非常に難しい。

しかし日本の場合、皇室に神聖性を求めたがる右翼も、今の皇室のあり方に疑問を感じている左翼も、皆が皆、天皇陛下や皇族の一挙手一投足を食い入るように見つめて、彼らに人間的な親しみやすさや素晴らしい人格があるのだと再確認したがっている。右翼が言うように天皇が神聖で不可侵な存在なのだとしたら、たとえ天皇がどんな人間であろうともそこに畏怖の念を抱いてしかるべきだが、彼らが口にするのは、いかに昭和天皇今上天皇が素晴らしい人格の持ち主で尊敬に値するか、という事ばかりだ。また、左翼の方も、天皇の人柄の素晴らしさや親しみやすさを事あるごとに持ち出して、だからこそ彼らのために皇室の改革が必要なのだ、右翼は天皇の真意を理解していない、と主張している。要するに、皆が皆、自らの思い描く理想的な皇室(あるいは日本国そのもの)の姿を、天皇陛下に重ね合わせていて、様々な色眼鏡を付けて皇室というものを見てしまっている。

閑話休題。『城下町のダンデライオン』の舞台は、現実世界と同様の日本語が使われる日本的文化圏だ(国名等は明記されていない)。にもかかわらず作中では、国民に混じって普通に生活している開かれた王族が存在していて、しかもそれが広く国民に受け入れられている。このアンバランスさが、現代日本のようでありながら全く異なる異次元の世界を見ているようで、不思議な気持ちになる。しかし、王族がマスコミのカメラによって常に監視され国民の目に晒されている描写は、よくよく考えれば現実の日本と何ら変わらないのではないかとも思った。