新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ヤマノススメ サードシーズン』―ひなたと、あおいと、のぞみぞ概念

ここのところ『ヤマノススメ サードシーズン』が凄いことになっている。ぶっちゃげ、第6話までは特筆すべき内容はあまりなかった。ロックハート城に行くとか、山の上でコーヒー飲むとか、正直言ってスゲーどうでもいい話で、2期からの惰性で見ているような感じだった。ところが、第7話から、まるで山の天気のように急転直下、あおいとひなたの「すれ違い」を軸として物語が大きく揺れ動きはじめる。

あおいは一緒に池袋に行こうとひなたを誘うが、ひなたはバイトがあって行けない。次の週末も、ひなたはここなちゃんと赤城山に登り、あおいはほのかちゃんと伊香保温泉へ行く。その次の週末も、あおいは他のクラスメイトと池袋へ行くが、ひなたは予定があって行けない。物理的なすれ違いは、やがて心のすれ違いへと発展する。あおいのバイト先に池袋のお土産を持って行こうとするひなた。しかし、いつもとは異なる明るくてテキパキと動くあおいを見て、店の中に入るのを躊躇ってしまう。クラスメイトに上手く話しかけられずにあおいがぼっちになってないかと心配するひなた。でも、普通にあおいがみお達と仲良くしてるのを見て、動揺し声をかけられなくなる。この一連のすれ違いによって心を掻き乱されているのは、あおいではなく、終始ひなたの方である。

あおいは引っ込み思案な性格で友達も少ない。ひなたの事を一番の親友だと思っているし、ひなたが居ないと不安になったりもする。しかし、編み物や読書といった趣味もあり、一人でいるのが嫌いというわけではない。そして、ひなたとの交流を通じて性格も少し明るくなり、ひなた以外の人とも積極的に関わるようになってきている。みお達やほのかちゃんとの関係も、きっかけを作ったのはあおいかもしれないが、そこから一歩踏み出して関係を深めていったのは他でもないあおい自身の意志だ。

一方、ひなたは昔から友達が多く、誰にでも気軽に話しかけることが出来る。しかし、高校で再会したあおいのことをやはり一番の親友と思っているし、色々と頼りないあおいの事を自分が助けてやらないといけないとも思っている。そして、アニメ第3期ではっきりと見えてきたのは、ひなたのあおいに対する独占欲のような感情だろう。あおいに人見知りを克服して色々な人と仲良くなってほしいと願う半面、あおいが自分から離れていってしまうのではないかという不安や焦りを感じてしまう。

あれっ? おかしいな? この関係性、どっかで見たことがあるような…。友達が少ないコミュ障と、大勢の友達がいる陽キャの組み合わせ。最初はコミュ障の方が陽キャにべったりという感じだったけど、次第に陽キャの方がコミュ障に強い執着を見せるようになる展開。

って、これ、のぞみぞ概念じゃねえか!

もちろん、本物ののぞみぞ概念は他にも様々な要素が絡み合った複雑なものであるが、回を重なるごとに表情が曇ってゆくひなたから垣間見えるそこはかとなく不健全な感情は、紛れもなくのぞみぞ概念である。

ひなたが抱いてしまったこの感情が健全か不健全かでいえば、明らかに不健全である。例えば、ひなたが一人で飯能の街をぶらつきながらあおいから送られてきたメールを見たあの土曜日、もしあおいがクラスメイト3人とうまく会話できずにぼっち状態になっていたとしたら、ひなたの顔には笑顔が戻っていたはずなのだ。そして、ひなたはその後すぐにあおいに声かけに行っただろうし、電車の中でキレたりすることもなかっただろう。早い話が、ひなたはあおいを手放したくないのだ。ずっと自分についてきてくれるあおいでいてほしいのである。これは相当に感情をこじらせてるし、あおいサイドからしたらあまりにも自分勝手な振舞いなのだが、であるがゆえにそれは誰にでも起こり得る普遍的な感情で、我々視聴者の胸に響くものである。

そして、その強烈な感情を5週以上(要するに第3期の後半全部!)も使って極めて精緻に描いているのは、本当に驚くべきことである。バイトの日程、予定の勘違い、山登り当日の遅刻、全ての出来事がひなたにとって悪い方向に働き、歯車が噛み合わなくなっていく様。ひなたが一人で池袋に行ったあの日に芽生えた感情は、最初は小さな違和感でしかなかったが、それがやがて大きくなり、ついにあおいへの苛立ちという形で表出してくる一連の心の動き。それらがこれ以上ないくらい丁寧に描かれる。同じ日に同じ群馬県で「天使のはしご」を見るという共有体験は、それでもすれ違ってしまうあおいとひなたの心をかえって浮き上がらせて見せる効果を持つ。大学進学のために勉強するかえでさんを描くことにより、あおいとひなたの間にも必然的に訪れる卒業と別れが、ひなたや視聴者の胸に強く想起される。

繰り返しになるが、これは本当に凄いことである。普通のアニメであれば1話あるかないかというレベルの素晴しい回が、立て続けに出てきている。ヤマノススメという作品の奥深さを思い知らされた。

体操協会のパワハラ問題について

【独自】速見コーチの「暴力映像」 宮川選手を平手打ち(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース

「何も事情を知らない部外者が後出しジャンケンで発言するな」という批判は甘んじて受ける。それでも、この映像が出てきて本当に、本当に良かった。心の底から、本当に良かったと胸を撫で下ろしている。

暴力を振るった側が擁護され、たとえ暴力を振るっても当事者が納得してるなら問題ないという風潮がほんの少しでも社会に拡散する危険性が無くなって良かった。

相手を思いやってする暴力などというものは存在せず、百歩譲ってそれが存在するとしても暴力を正当化する理由にはならず、暴力を伴う指導は「異常」であり、そういった指導を求めたり容認したりすることも「異常」である、ということが多くの人に知れ渡って良かった。

映像が出てくる前は、まるで過去の暴力行為など存在せず、速見コーチと宮川選手が何かとてつもなく理不尽な圧力によって苦しめられている悲劇の主人公かのような報道がなされていた。それが映像が出てきた途端、どうだ。速見コーチ=善、塚原夫妻=悪、という図式は崩れ、一連の出来事は以前とは異なる色で上書きされてゆく…。これでようやく潮目が変わったと思う。

誤解を恐れずに言うが、私が「動画が公開されて良かった」と言うのは、宮川選手にとって良かったという意味ではない。今現在、学校や家庭で暴力被害を受けている子どもや、これから受ける可能性のある大勢の子どもにとって良かった、という意味だ。

法治国家としてベストなのは、暴力を振るった者は問答無用で逮捕して裁判にかける、ということなのだが、暴力行為が行われた場所に常に監視カメラがあるとは限らないし、全部の事件を警察が捜査することになると人も金もいくらあっても足りなくなる。なので現状では、特に悪質で危険な暴力で、かつ、被害者やその家族がマスコミや警察に被害を訴えた場合にのみ、その暴力が表沙汰になる。時津風部屋の力士が死亡した事件も、大阪の航行でバスケ部の主将が自殺した事件も、女子柔道の日本代表監督による暴力・パワハラ問題も、日馬富士による後輩力士への暴力事件も、日大の悪質タックル問題も、すべて被害者やその家族が勇気を持って声を上げたからこそ大きく報道された。だから、暴力を受けた被害者が声を上げるという事が何より大事になってくる。本来であればこれは望ましい形ではない。被害者の感情とは関係なく、暴力を振るった者は罰を受けるという形にすべきである。そうでなければ、まさに今回の問題のように、「被害者側も納得してるからOK」みたいな言い訳がまかり通ってしまう。しかし、上で挙げたように、警察の対応力やマスコミの取材能力にも限界があるので、どうしても被害者が声を上げた案件だけがクローズアップされがちになる。

だが、こうして不完全な形ではあるものの、暴力が学校や社会で問題となり、場合によっては警察の捜査が入り、加害者が社会的制裁を受ける。暴力は許されない、暴力を振るった者は罰せられる、ということが世間へ繰り返し繰り返し発信され続けることが、何よりも重要なのだ。そうすることで、今現在暴力を受けて苦しんでいる人が声を上げやすい環境が生まれ、暴力的な指導を止めさせる抑止力となる。言葉は悪いかもしれないが、これはある種の「見せしめ」だ。でも、それをすることによって、暴力=悪という図式が生まれ、それが世間に浸透し、被害者は救われ、社会は少しずつ良い方向に変わっていく。

今回の事件は、暴力を追放しようとする世間の流れと完全に逆行する流れを作り出してしまう危険があった。たとえ暴力を振るったとしても、軽く叩いた程度なら許される、被害者側が納得してるなら許される、被害者側が望んでるのであれば暴力を振るった指導者でも指導を続けられる、そういう「空気」を作り出してしまう危険性があった。そういう「空気」ができあがると、暴力の加害者は自らの行為を正当化しやすくなり、被害者はますます声を上げることが難しくなる。その「空気」は定量化できない。けれども、暴力の当事者がちょっとでもそういう「空気」に触れて、自覚の有無にかかわらず、暴力を容認する方向へ行動が変わっていくのだとしたら、これは怖ろしいことだと思う。

もちろん、塚原夫妻の行動にも問題が無かったとは言わない。速見コーチや宮川選手が言うように、パワハラのようなものがあったのかもしれないし、宮川選手を自身のクラブに引き抜こうとする魂胆があったのかもしれない。しかし、仮に塚原夫妻によるパワハラが事実だったとしても、元はと言えば速見コーチが暴力を振るったのが全ての元凶じゃないか。速見コーチが過去の暴力行為について真摯に反省しているというのなら、胸の内がどうであれ、謝罪と反省の言葉以外は何も口にするべきではない。それが大人としての責任の取り方だと思う。暴力行為は無かったと反論したいのなら、そうする権利が彼にはある。処分が重すぎるというのなら、自分がもう十分罪を償ったと思った時点で、「そろそろ許していただけませんか」とお伺いを立てればいい。けれども、まだ罪を償いもしない段階で謝罪と反省の言葉以外を口にするというのなら、それは暴力について反省してないと見なされても仕方のない行為だ。

宮川選手についても、自身の体験した事や思ってる事を世間に広く訴えていく権利がある。しかし、速見コーチを庇うために嘘をつくようなことは許されない。

初めてできた同い年の友達、そして「努力」と「労働」と―『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』感想(ネタバレ注意)

生み出してくれる人がなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することはできやしない。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。
これは、何も、食物とか衣服とかという品物ばかりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受ける人々より、はるかに肝心な人なんだ。
だから、君は、生産する人と消費する人という、この区分の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。
(中略)
そしてコペル君、この点こそ、――君たちと浦川君との、一番の大きな相違なのだよ。
浦川君はまだ年がいかないけれど、この世の中で、ものを生み出す人の側に、もう立派にはいっているじゃあないか。浦川君の洋服に油揚のにおいがしみこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃあない。
吉野源三郎著、『君たちはどう生きるか』、マガジンハウス、150~151ページより引用)

『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』を見てきた。いつもと違う環境での新しい出会いを通して、女子中学生の心に芽生えた感情の機微を、これほどまでに鮮やかに、丁寧に、繊細に描き切ったアニメ映画がかつてあっただろうか。

旭丘分校のいつものメンバーは福引で沖縄旅行を当て、宮内家の姉2人・このみ・駄菓子屋といっしょに石垣島へと向かう。そこで出迎えてくれたのは夏海と同い年の女の子・新里あおい。彼女は実に慣れた所作で客人を部屋に案内し、夕食の準備をしてくれる。本当はまだ遊びたい年頃であるはずなのに、嫌な顔一つすることなく家の手伝いをし、夏海達の泊まる部屋の掃除をする。そんなあおいの姿を見て、夏海は複雑な表情を浮かべている。

この時の夏海の気持ち、皆さんお分かりいただけますか? それを一言で言い表すことはあまりにも難しい。だが、多くの人が、多かれ少なかれ、似たような気持ちになったことがあるはずだ。それは大人だけでなく、子どもであったとしても、いや、純粋無垢な子どもだからこそ、そういう気持ちになるということがあるはずなのだ。

この作品のズルい(そして見事な)ところは、夏海の琴線に触れる「フック」のようなものをこれでもかと配置してきているところなのだ。

まず、夏海にとってあおいは、めったに絡むことのない「同い年」の女子である。夏海の周りにいつもいるのは兄と姉、高校生の幼馴染、そして小学1年生と5年生の後輩だけだ。あおいの同級生と出会った時に恥ずかしそうにしていたことからも、夏海は同い年の子と遊んだり話したりした経験があまり無いということが伺える。

そんな同い年の子が、自分よりもはるかにしっかりしていて、礼儀正しさとか、気遣いとか、何から何まで自分より「上」に見えてしまう。早い話が、夏休みを遊んで過ごすだけの夏海と違って、あおいは、家の手伝いという形ではあるものの、すでに「労働」をやっているのである。もちろん、夏海はまだ中学生なのだから、働いたことが無くても何ら恥じることはないのだが、仕事以外の面でも違いをまざまざと見せつけられていく。

夜、夏海は、家の壁を使ってバドミントンの練習をするあおいを目撃する。あおいはバドミントン部に所属していて、母親から禁止されているにもかかわらず夜に一人で練習をしている。昼にいろいろ仕事をして疲れているにもかかわらず、である。そして、まあ当たり前だが、運動が得意な夏海でも全く歯が立たないくらい強い。そこまでしてバドミントンに打ち込んでいるということは、あおいは本当にそれが大好きで、上手くなるためにどんな「努力」も惜しまないという熱意があるという証だろう。それほどまでに無我夢中で、努力し続けられる、熱中できるものが、果たして今の夏海にはあるか?

この一連の出来事を通して夏海の中に去来した気持ちを何と呼べばいいのだろう…。憧れ? 恥ずかしさ? 申し訳なさ? 劣等感? 戸惑い? 情けなさ?

それを言葉で完璧に説明することは到底不可能だろう。だが、この経験が夏海の心に大きな衝撃を与えたことは、容易に想像ができる。

宿を立つ日、夏海がついに感極まって帰りたくないと言って泣き出してしまう。あの泣き虫の小鞠や蛍ですら泣かないのに、夏海だけが泣くのである。島の街並みや料理、美しい海とマンタ、きれいな星空、そんな素晴らしい自然の中で、あおいと出会って過ごした全ての時間が、夏海にとって一生忘れることのできない大切な思い出となったのだ。

気の合う友達と和気あいあいと楽しく過ごすというのも素晴らしい時間ではある。しかし、自分にはないものを持っている人と出会い、心に強い衝撃を受けるという経験もまた、何物にも代えがたい素晴らしいものだろう。そして、心に深く深く刻み込まれるのは、後者である場合が多い。そのような出会いを描いた作品が『響け!ユーフォニアム』や『宇宙よりも遠い場所』ではないだろうか。

夏海が体験したのもまた、そういう出会いだったのだろう。だからこそ、最後に泣くのは夏海だけなのだ。そのはずだったのだが…

夏海の傍らには、ベッドに突っ伏して泣くひか姉の姿が………

ちwwwがwwwうwwwだwwwろwwwwwwwwwwwwwwwww

お前、床で寝て、海でゲロ吐いてただけじゃねえかwwwwwwwwwwww

なんで泣いてんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

…ホント、ひか姉、良いキャラしてるわ。

夏海とあおいの関係はこれからどうなるだろうか。夏海が成長して、お金を貯めて、また夏休みにあおいの元へ行く…。あるいは、あおいの方が夏海の家に遊びに行く…。そんな風に、これからもずっと関係が続いていくことを願っている。

同い年の少女との出会いを通して、夏海の心に刻み込まれた沢山の感情と思い出、そんな繊細さの欠片すら感じられないひか姉の俗物っぷり。これらを見事に融合させた泣いて笑える映画だった。

『ヤマノススメ サードシーズン』(第7話)半端ないって!

「倉上ひなた半端ないってもぉー!

アイツ半端ないって!

いつもは明るい性格なのにあおいが居ないとメッチャ寂しそうな顔するもん…

普段はあおいの方がむしろ、ひなたにべったりっていうイメージあるけど、実は中学の時は友達いなかったから独りに慣れとるし、裁縫とか読書とかやるから1人でもあんま寂しがってないやん。でも、ひなたの方は、普段はあおいを引っ張っていくお姉さんって感じやけど、あおいが居ないとメッチャ寂しそうにしてるやん。

雑誌見てあおいをデートに誘う時、断られるなんてこと夢にも思ってない、必ずあおいは私について来てくれるという確信を持って電話してるやん。それなのに断られて、電車の中とかプラネタリウムで隣にいるはずもないのにあおいに声かけたりして、池袋にいるときもめっちゃテンション低くなってるやん。

そんな尊い世界が広がってるとか想像できひんやん普通! そんなんできる?

夕方になってあおいのバイト先行ったら、あの人見知りなあおいが、従業員やお客さんと楽しそうに会話してるのを目撃して、ひなたはそのまま帰ってしまって…

店! 店の中行けよ! なんでそのまま帰んねん…

普段見ることのできないあおいの姿を目撃してしまって、その輪の中に入っていくことができなくなってるやん。

もうなんでやねん! 繊細すぎるやろ、ひなた… 臆病すぎるやん…

最高や、もう全部最高や。魂震えたしもう…また神回やし。またまたまたまた神回やし」

「あれは絶対、今年ベスト5に入る神回やなぁ」

「入りますねぇ! あれ、入りますね!」

「これからもヤマノススメを、応援しよう」

最近読んだ本まとめ(4)―『眠れない一族』『破壊する創造者』

眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

イタリアのある一族を何世代にもわたって苦しめた致死性家族性不眠症ニューギニアのフォレ族の間で広まったクールー病、世界を震撼させた牛海綿状脳症BSE)。初めは別々の点でしかなかったこれらの出来事が、プリオンという線を介して結ばれていく。しかし、この本の一番の見所は何と言っても、プリオンの研究に人生を捧げた2人の研究者の強烈なキャラクターであろう。

ダニエル・カールトン・ガイジュシェックはパプア・ニューギニアの奥地でクールー病の現地調査を行い、その病気が死者の脳を食べる儀式によって広まることを突き止めた。そして、患者の脳から採取した組織をサルに投与すると、そのサルにもクールー病と似た症状が現れることを発見した(これらの業績により彼は1976年にノーベル賞を受賞した)。小児性愛者だった彼は、研究の傍ら、現地の子ども達と親密な関係を築き、何十人もの子どもを母国アメリカに連れて帰って一緒に生活したりした。治療と称して子どもの包茎ペニスにフェラチオをしようとしたりもした。終いには、児童への性的虐待の容疑で逮捕され禁固刑になった。はっきり言って、相当ヤバい奴である。

スタンリー・ベン・プルジナーも、ガイジュシェックに負けず劣らずヤバい奴だった。彼はクロイツフェルト・ヤコブ病の病原体がウィルスや細菌とも異なる未知の微小なタンパク質だと当たりを付け、そのタンパク質を効率よく濃縮する方法や、抗体を使ってその有無を調べる方法を開発した。そのタンパク質をプリオンと命名し、プリオンには正常型と異常型がある、正常型が異常型と接触すると形が異常型に変化する、このようにして異常型が脳内に溜まっていくことでプリオン病が引き起こされる、という仮説(プリオン説)を発表した(これらの業績が認められ、彼も1997年にノーベル賞を受賞した)。メディアを巧みに使って自分の功績を宣伝し、研究費を集めまくり、反対者は学会で容赦なく攻撃、部下にはパワハラし放題、ライバル研究者の業績を横取りしようと画策した。高名な科学者の中には、野心家で名誉欲が強くギラギラしてる人が少なくないが、プルジナーほどヤバい人はほとんどいないだろう。

彼を批判する人から言わせれば、彼のアイディアはほとんどが別の誰かからの借用であり、それをさも自分一人の手柄であるかのようにメディアを使って印象操作をした、ということらしい。事実、プリオン説とほぼ同じ仮説は別の人によって既に提唱されていたし、プリオン説を強力に支持する決定的な証拠*1を提示したのも別の研究者だった。端的に言ってしまえば、プルジナーは人生を賭けた大博打に勝ったのだ。病原体が何なのかも分からない時代からそれにプリオンと命名し、それを声高に宣伝して周った。もしそれが間違いだったら、他の研究者から笑い者にされ、研究者人生が終わってしまうかもしれない、というリスクを冒してプリオン説に全賭けしたのだ。

また、proteinaceous infectious particleを略してプリオンと命名したこと自体が、プルジナーにとって何よりも強力なプライオリティとして機能した。これは科学の世界に限らないが、「名前」というものは時として非常に大きな力を持つことがある。例えば、iPS細胞。山中伸弥博士がiPodにあやかって付けたというこのシンプルな名称がなければ、彼の業績や再生医療にこれほど注目が集まることは無かっただろう。プルジナーもまた、プリオンという言葉を発明することによって、プリオンといえばプルジナー、プリオン研究の第一人者といえばプルジナー、という印象を世間に与えることに成功した。

強烈なキャラクターを持つ者どうしが出会うと激しく対立するということはよくあるが、ガイジュシェックとプルジナーもその例に漏れなかった。彼らはお互いの業績を一切認めようとせず、軽蔑し合っていた。ガイジュシェックは死ぬまでプリオンという言葉を使わなかった。まさに「事実は小説よりも奇なり」という言葉がピッタリな、破天荒で常識外れな科学者たちの物語だと思う。

だが、物語はここでは終わらない。本書の後半では、1990年代に猛威を振るったBSE問題の発生から収束までの一部始終が語られる。効率化と経済性を優先して肉骨粉を使用し続けた酪農業界、畜産業者を守ろうとするあまり対応が後手後手に回るイギリス政府、そんな人間側の不手際の隙間を縫うようにしてしぶとく襲い掛かってくるプリオンタンパク質。BSE問題の顛末を知ると、為政者たちが完璧だと主張する食品の安全を守るシステムが、実はちょっとしたことで簡単に崩れてしまう砂上の楼閣であることが分かる。

破壊する創造者 ウイルスがヒトを進化させた

後半は異種交配やエピジェネティクスの話が中心となり、ウイルスとは関係ない話が続く。いや、全く関係ないという事はないだろうが、それでも関連は薄いので、この副題と原題「Virolution」(virusとevolutionを掛け合わせた造語か?)は適切ではないと思う。それでも前半部は、これまで一般的だったウイルスの姿や進化のメカニズムを大きく覆すような興味深い内容となっている。

多くの人がウイルスと聞くとインフルエンザやエボラ出血熱エイズのように何か恐ろしい病気を引き起こすものと想像しがちだが、実はヒトに感染しても何にも悪さをしないウイルスの方が圧倒的に多いのである。考えてみてほしい。もし、ウイルスが感染したことによって宿主がすぐに死んでしまえば、その中にいるウイルスも一緒に消えてしまって子孫を残せない。だから、ウイルスは宿主を殺してしまわないように弱毒化し、宿主の方もウイルスと共存できない個体は淘汰される、といったことが長い目で見たら起こっているだろうと推測される。エイズを引き起こすHIV-1は、まだ人類と出会って日が浅いため、ヒトを死に至らしめるような振舞いをするのだろう。事実、HIV-1によく似たウイルスがサルの体内などで多く見つかっており、それらの多くはサルを殺すことなく共存しているように見える。

ところで、ウイルスというものは宿主のDNAの中に自分のDNAを挿入し、宿主が持つ複製・転写の機構を使って増殖することができる。そのようなDNAの挿入がもし生殖細胞で起こったら、ウイルス由来のDNAが宿主の子孫にも受け継がれることになる。事実、そのようなウイルスがコアラの体内で発見されているという。それらのウイルスは代を重ねるにつれて増殖能を失っていき、やがて宿主のDNAと完全に一体化するだろう。驚くべきことに、ヒトゲノムの30%以上は、こういった昔のウイルスの痕跡で構成されている。彼らは増殖して自由に動き回ることが出来なくなった代わりに、宿主のゲノムの一部となって存在し続けることができる。

ここで、生物どうしの「共生」関係にはいろいろな「レベル」がある、ということを再確認しておきたい。例えば、大きな木に寄り添って虫やサルや鳥が生活しているのや、哺乳類の体表面や体内にノミやダニや様々な腸内細菌がいるのは、個体レベルでの共生関係と言える。これがさらに進むと、チューブワームと硫黄酸化細菌のように、細胞レベルで融合が進んだ共生関係となる。さらに、真核細胞とミトコンドリア葉緑体のように、オルガネラレベルで共生していると、もはや両者が別々の生き物であるかどうかも怪しくなる。そして、先ほど話したヒトとヒトゲノムに刻まれたウィルスの痕跡というのは、究極の共生関係、すなわち遺伝子レベルでの共生関係だと言えるのではなかろうか。彼らは、ウイルス粒子という実体を持たない遺伝子だけの存在となり、宿主と半永久的に「共生」し続ける。

しかし、すべてのウイルスがそういう道をたどるとは限らない。宿主のゲノムと一体化した後も盛んに発現を続けるウイルス由来遺伝子も存在する。例えば、哺乳類の胎盤形成に欠かせないタンパク質であるシンシチンの遺伝子は、哺乳類の祖先に感染したレトロウイルスによってもたらされた物である。これはすなわち、ウイルスがいなければ我々哺乳類は存在していなかったということなのだ。

ダーウィン以来、進化理論の中核をなすのは、ダーウィンの提唱した自然淘汰、メンデルを祖とする遺伝学、モーガンやマラーによって確立された突然変異の理論、という3つを融合・発展させた「総合説」である。この総合説で進化の原動力として自然淘汰と共に挙げられているのは、遺伝子の突然変異である。要するに、遺伝子の複製ミスや紫外線による損傷などによって遺伝子配列が偶発的に変化することが、生物の進化における主要な原動力である、という事がこれまで信じられてきたのだ。

しかし、シンシチンの例から分かることは、ウイルスとの共生による遺伝子の受け渡しもまた、進化の原動力になっているということである。突然変異と共生、どちらがより多く進化に寄与しているのかはまだはっきりしていない。だが、突然変異によるゲノム進化は完全にランダムでゆっくりとしか進行しないのに対して、共生による進化は、ウイルスによって遺伝子が丸ごとごっそり挿入されるわけだから、スピードが速くインパクトがデカいということが容易に想像できる。著者は突然変異と共生の他にも、異種交配とエピジェネティクスの効果も進化の原動力となり得ると述べている。

以上にあるようなことは、いろんな本やHPに書かれていて知ってはいたが、このように体系立てて、一般人にも分かりやすく解説してある本は、他に例がないだろう。今まで断片的にしか理解できなかったものがストンと腑に落ちていくような読書体験だった。

*1:プリオンタンパク質を作れないように遺伝子操作されたマウスに異常型プリオンを投与してもプリオン病に感染しないという事実。