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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ななしのアステリズム』第5巻感想―仕分けされる苦しみ、そして、私たちを形作る名前のない星々

『ななしのアステリズム』第5巻読んだ。前巻の衝撃を軽々と超えてくる怒涛の最終巻だった。第1~4巻までの感想は以下の記事を参照。

第21話、早朝の河川敷で司に扮した昴が、朝倉に自分の気持ちを打ち明ける。小学5年生の時、女子から告白されて昴は次のように感じる。

テレビや本の中の物語に出てくるだけで今まで何も感じた事はなかったけど
昴はその時初めて感じたんだ “仕分け”された
…うまく言えないけど 女子から告白されたから男に? 恋愛のイメージから大人に?
昴自身は変わらないハズなのに ついさっきまでの自分とは違うものにされた気がした。
望んでないのに勝手に 知らない所に連れていかれた気がした*1

それは何の前触れもなく、突然にやってくる。誰もがその当時に「仕分け」されたと言語化できるわけではないが、後から振り返ってみて、ああ、あの時に自分は「仕分け」されたんだと気付く瞬間がある。それを当然のこととして喜んで受け入れる者もいれば、自分が「仕分け」されたことに気付かない人もいるだろう。そして昴のように、それに対して「気持ち悪い」と嫌悪感を覚える者もいるだろう。いずれにせよ私たちは、ある時を境にして、自分の望む望まないにかかわらず「仕分け」される。

では、仕分けされることによって私たちは一体何に「なる」のか。それは、異性を好きになることが「自然」で、異性と付き合うことを楽しいと思うことが「当たり前」だと感じる、「普通」の人間に「なる」、いや、「させられる」のだ。それをおかしいと思っても口にできない、恋愛とは「そういうもの」だという枠組み、男とは、女とは、人間とは「そういうもの」だという空気の中に、無理やりに押し込められ、その枠組みや空気を形作る一員となることを強制されるのである。

繰り返しになるが、それを祝福として受け入れて生活している人も勿論いる。しかし、それをどうしても受け入れられない、その空気にどうしても馴染めないという人もいて、それが昴をはじめとする本作の登場人物だったのだと思う。最終巻にしてようやく、昴という名前の意味が明かされる。

なんで僕はこうなの?って 理由も特にないのに
今まで感じた自分への違和感 まわりへの疑問
一つ一つは小さいけれど たくさん増えていって
やがてそれは一つの集団になり 今の“昴”を形づくる*2

すばる(プレアデス星団)を形作る大小の星々。その星の数だけ昴は傷付き、悩み、苦しみ抜いて、どうする事もできない気持ちを胸に秘めて、それらの名前のない星々の集まりが今日の昴を構成しているのだ。それは昴だけではなく、琴岡も、おそらく司や撫子もまた、「仕分け」されたがゆえに何度も傷付き、辛い思いをしてきたのだ。世間一般のマジョリティとは恋愛に関する考え方が違うというただそれだけの理由で、全く無自覚な他人の言動が彼女たちの心をえぐるように傷付けてきたのだ。なんて悲しい物語だろう。

しかし、彼女たちの歩む道が悲しみばかりで満ちているのかと言えば、そうとは限らない。たとえ想いは伝わらなくても、たとえお互いを完璧に理解できなかったとしても、愛する人と過ごすかけがえのない時間。それは決して悲しいだけではない、喜びや感動に満ち溢れた大切な時間となり、やがて、未来の彼女たちを形作る名前のない星となるのだ。

…というわけで、『ななしのアステリズム』、堂々完結である。事実上の打ち切りだが、これはもう「堂々」と言って差し支えないだろう。おそらく作者にとっても不本意な終わり方だったであろうが、違和感を覚えない程度に軌道修正し話を上手く着地させる作者の技量、これはもう新人の域を超えているように思う。

百合でもBLでも何でもいいので、小林キナ先生の次回作が早く見たい。

*1:第5巻、96~97頁

*2:第5巻、107頁

『博多弁の女の子はかわいいと思いませんか?』第2巻―この漫画バリ凄いっちゃが!

第1巻の時も思ったけど、やはりこの漫画、福岡に住んでた人が読むと面白さが倍増しますね。私も今は別の県に住んでますが、高校まで福岡に住んでたので、作中の描写の“分かりみ”が半端ないんですよ。

福岡県民はよく使う「なん?」とか「なんなん?」とかいう言葉の話を使いますが、どん子ちゃん曰く「けど…共通して博多の人間が『なあん』って言うときがあるんよ」「姿が見えんとこからお母さんにしつこく呼ばれたとき…!!」

これ、最初に読んだ時、本の前で思わず拍手しちゃいましたね。とにかくもう凄いとしか言いようがないんですが、自分の心の奥底に染みついた「なあん」の使い方と、どん子ちゃんが例として挙げた「お母さんにしつこく呼ばれたとき」っていうのがもう、寸分の狂いもなくピッタリと当てはまってるんですよ。

あと、「からう」の共通語を聞かれて一瞬分からなくなるのも、ホントその通りとしか言いようがない。とにかく、「そうそう、まさにその通り!」「あー、あるある!」と、読んでいて凄い頻度で唸らされるんですよね。

一方で、博多弁に関するまた新しい発見もありました。例えば、「しかぶる」は熊本県南部出身の祖母が使っていましたが福岡では聞いた記憶がないので熊本だけで使われてる方言だと思っていたのですが、どうやら九州のかなり広い範囲で使われているようです。

こんな風に、福岡あるあるネタ漫画として他に類を見ない魅力のある本作ではありますが、どん子、町子、京の高校生3人が仲良く青春を過ごしている描写だけでもスゲー面白い!って思えるくらいポテンシャルの高い漫画でもあります。第3巻以降も博多通りもんのように変わらずに3人の楽しい高校生活を描いてくれることでしょう。

『月とライカと吸血姫』第2巻感想

第1巻に引き続き、第2巻も本当に素晴らしかったです。

国家(特に旧ソ連のような全体主義的な国家)において、個人はあまりにも弱い存在です。しかしそこにも、国家の作り出す大きな流れに翻弄されながらも、時にはそれに必死に食らいつき、時にはそれを上手く利用し、時には真っ向からそれに反旗を翻す、かけがえのない個人がいるのです。彼らを突き動かすのは一体何なのか。それは名声を得たいという野心だったり、未知の世界への好奇心だったり、誰かを愛する気持ちだったり、千差万別です。しかし、全体主義の暗い社会の中でも、一人ひとりがオリジナルなかけがえのない人生を送っている。そのことを見事に描き切った第2巻だったと思います。

正直言うと、作品のエモーショナルな部分、つまり、どれだけ心震わせるものがあったかという点については第1巻の方に軍配が上がると思います。でも、それはある意味当たり前で、何故ならば、第1巻のイリナの宇宙飛行こそが人類初の快挙だからです。レフの飛行はあくまでも2番手。ここが史実と大きく異なるポイントで、人々がレフを称賛すればするほどに、彼の心がどんよりと黒ずんでゆく描写は見事だと思います。

「では、地球はどう見えましたか!?」
「青みがかっていました。青いヴェールがかかって、光輝いていました」
イリナの言葉を代理で告げているようで、次第に罪悪感を覚える。
レフの心が冷えていく一方で、記者の声はさらに熱を帯びる。
「なるほど、地球は青かったと! (中略)」*1

日本では何故かガガーリンが「地球は青かった」と言ったという間違いが広まっているのですが、同じエピソードを小説に入れることで、真実が捻じ曲げられていく様子を表現しているわけですね。

この他にも、史実の使い方が本当に秀逸です。宇宙に旅立つ前にレフがバスを降りて立ちションしたというのも史実通りなのですが、これをレフとミハイルが和解するシーンとして仕立て上げているというのが、もう最高じゃないですか。何人かの候補の中から最初の宇宙飛行士としてガガーリンが選ばれた理由も、やはり誰とでも分け隔てなく接することのできる朗らかな性格によると言われていて、そういう部分も小説でちゃんと再現されているのが凄いです。おそらく作者は、心から宇宙開発を題材にした小説を書きたいと思っていて、そのために長い時間をかけて資料を集め、構想を練ってこの作品を書いたんだという事がよく分かります。

話をガガーリンとレフとの対比に戻しますが、史実のガガーリンはある意味、悲劇の英雄とも言えるでしょう。彼はソ連の英雄となったがゆえに自由を奪われ、再び宇宙へ飛び立つこともなく、1968年、訓練飛行中の事故で亡くなります。ところが、イリナという大切なパートナーを得たレフは違います。彼の翼をもぎ取ろうとする勢力との戦いに打ち勝ち、再び大空へと飛翔していくことになったのです。この史実と小説との違いもまた実に面白い点です。

国家の思惑に翻弄されながらも、それに負けない強く大きな翼を手にし、真実を伝えようと戦ったイリナとレフ。その翼は、彼らを再び宇宙へ、そして月へと向かわせることになるのか、それとも、史実と同じように他の国の誰かが月への第一歩を踏み出すのか。第3巻を楽しみに待ちたいと思います。

*1:第2巻248~249頁

『かぐや様は告らせたい』第5巻感想

かぐや様は告らせたい』第5巻に収録されている夏休み編、その素晴らしさについてはすでに何人かが語りつくしているので、ここではもう述べません。

しかし、それ以外のエピソードでも、かぐや様のお可愛さと2人のすれ違いが強烈なエネルギーで描かれている傑作だったと言えるでしょう。

正直「お互い奥手すぎて恋愛関係がなかなか進まない」というタイプの恋愛漫画は珍しいわけではありません。そこに「自分から告白したら負け」という勝負の概念を持ち込んだのが『かぐや様は告らせたい』の最大の特徴だと思います。妙なプライドと気恥ずかしさが邪魔してしまい、お互いが相手より優位に立とうとしてマウント取り合い合戦みたいになってるのがクッソ面白いわけです。

ところが、巻が進むにつれて、物語の構造も少しずつ変化していってるように感じます。これまでは何とかして「相手に告白させたい、自分を選ばせたい」という気持ちから行動していたように思いますが、最近は「相手に好かれたい、嫌われたくない」という気持ちの方がより強まっているみたいです。例えば、第47話の選択科目を選ぶエピソードが一番分かりやすいかと思いますが、1巻の時点だったらかぐや様は真っ先に自分の選択を紙に書いて、白銀より優位に立とうとしたでしょう。ところが、かぐや様は先に書いたふりをすることで、白銀の選択を狭めることなく、より確実に同じ授業を選択できるようにしていました。

要するに第1巻の時点では、もちろん相手を好きである事には変わりないのだけれど、自分が相手より優位に立つということが半ば目的化してた部分があると思います。しかし今では、相手と一緒にいたい、この掛け替えのない高校生活を2人で楽しみたい、という気持ちがより前面に出てきて「お前らちょっと可愛すぎんだろwww」って感じになってますよね。

しかし、この感情の変化はある意味、諸刃の剣でもあるわけです。相手のことが好きで好きでたまらないくらい大好きだからこそ、相手に嫌われたくないという思いから行動はますます慎重になっていくんです。だからこれからも、2人は悩んで、間違って、すれ違って、そのたびに相手を愛おしく思う気持ちを強くしていくのだと思います。

そんな2人をニヤニヤしながらこれからもずっと見つめていたいと思います。

地球外生命について

NASAの地球外生命いるいる詐欺

近年、アメリカ航空宇宙局NASA)は地球外生命に関する緊急記者会見を何度も開いている。その内容と言えば、ヒ素をDNAに取り込む細菌の発見、火星表面で液体の水を発見、地球型惑星を複数持つ恒星の発見などでした。正直、NASAの地球外生命いるいる詐欺には辟易している。

ヒ素を使って生きる細菌の発見は、地球の生物についての理解を深めることには繋がるだろうが、地球外生命とは何の関係もありません(しかも、この発表は後に間違いだったと判明している)。リン酸と糖と塩基からなるDNAを遺伝子として持ってる生物なんて地球上にしか存在しないのであって、それ以外の物質、例えばヒ素などを使って生きてる生物なんて、この広い宇宙には腐るほどいるだろう。NASAが発表するまでもなく当たり前のことだ。

火星表面で液体の水を発見、地球型惑星を複数持つ恒星の発見、これらも「うわ~すごいね~」で終わりだ。地球外生命が存在するという証拠にはなり得ません。純粋な惑星科学の研究としては凄いですが、わざわざNASAが会見を開くほどのことではないように思う。せいぜい、NASAの地球外生命探査により多くの予算をつけるのに役立つくらいだ。

ここまでひどいと「自分は何か大きな見落としをしてるんじゃないか」と思ってしまう。NASAの会見内容には、私がまだ気づいていない重要なポイントがあるんじゃないか…。なので是非とも、宇宙生物学に関する本を読んで、関係者がどのような考えのもとで研究を行っているのかを知りたいと思った。

で、ちょうど良さそうな本を見つけて読んだのだが、宇宙生物学者である著者の言ってることが正直言って全く納得できない。著者の研究は「地球がなぜこれほどまでに多様な生命で満ち溢れているのか」を知る上では意味があると思うが、地球外生命について知る上では全く役に立たないと感じた。

著者の名誉に関わることなので本のタイトルはここでは申し上げないが、本の内容はざっくり言うと次のような感じである。

いまいち納得できない宇宙生物学者の説明

まず著者は、生命が存在するためには「液体」が必要不可欠だろうと述べている。生物を維持するためには多種多様な化学反応が欠かせないので、その反応に使う物質を運搬する「媒体」が必要である、その媒体として気体はあまりにも密度が低すぎ、固体だと動きが遅すぎるので、液体がベストだという理屈である。はっきり言って、「密度が低い」とか「動きが遅い」とかいう表現は全部、人間から見た場合の「感想」でしかない。私には「液体が必要不可欠」という著者の理屈がさっぱり分からない。

さらに著者は、生命が存在するためには「液体の水」が必要であろう、という風に話を進める。生物が利用する「媒体」として水が最適である理由として、この宇宙に普遍的に存在する物質である、高い温度でも液体として存在できる、あらゆる物質を溶解することができる、といった点が挙げられている。しかし、メタンやメタノールといった他の液体を利用する生命がいてもおかしくないのではないか、という疑問も出てくる。ところが著者は、水以外の溶媒の中で生きる生命について考えても思考実験の域を出ないし、もちろんそんな生物が発見されたという報告もないので、とりあえず今は「液体の水」を必要とする地球生命を基準にして考えるしかない、などと言い出す。

これを読んで一気に力が抜けてしまった。「メタンを溶媒にする生物」が確認されていないというのなら、「水を溶媒にする生物」だって地球以外では一切確認されてませんけども…。地球の生物が水を溶媒にしているのは、地球にたまたま水があって、それを利用する方が都合がよかったからだ。それ以外の環境(例えばメタンの海がある星)では、そこの環境に適応した別の生命が誕生する、ただそれだけのことだ。それなのにこの著者は、地球以外のことはよく分からないので、とりあえず地球の基準で考えましょう、としか言わない。はっきり言って、地球本位、人間本位な基準は宇宙では全く通用しないと考えるべきなのでは? と思わざるを得ない。

その後、話は、液体の水が惑星表面にあることは重要か否かという話に移る。地球は惑星表面に液体の水が存在するが、例えばエウロパエンケラドゥスのように、星の内部に液体の水が存在する星というものも考えられる。しかし著者は、そのような星については分からないことが多すぎるので、それはいったん保留にして今後は「地球型」の惑星についてのみ考えることにする、などと言って議論を打ち切ってしまう。要するにここでも、「地球以外のことは分からないから地球を基準にして考えるよ~」と言ってるだけだ。その「わからないこと」を考えるのが学問じゃないのか? 「地球とは全く異なる環境で生命がいるとすれば、それはどのような生命か?」という問いに答えるのが宇宙生物学者の仕事じゃないのか?

著者はその後も、生命が誕生するためにはどのような環境が必要か、について考察していく。中でも、プレートテクトニクスの重要性について詳しく生命がなされている。長くなるので詳細なメカニズムはここでは説明しないが、プレート運動があることによって大気中のCO2濃度および惑星表面の気温が一定に保たれるため、生命が存在できる環境を長く維持する上でプレート運動は非常に重要であるらしい。…うん、プレート運動が重要であるということは分かった。けれども、それが生命にとって必要不可欠であるとは到底思えない。CO2濃度を一定に保つ仕組みは本当にプレート運動だけなのだろうか。そもそも、これは地表に液体の水が存在する惑星でのみ成り立つお話じゃないか。

さらにその後は、大陸の重要性が示唆される。詳しいメカニズムは省略するが、もし地球が全て海に覆われるような星だったら、平均気温は60度から80度にもなるらしい。また、大陸を構成する地殻は花崗岩によってできており、その花崗岩は生命にとって必須な元素であるリンを多く含んでいるという。これも全て、地球本位、人間本位な考え方だ。体がDNAやタンパク質によって構成される地球型生命にとっては大陸が必要不可欠だった、というだけの話であり、地球外生命とは全く関係のない話である。

まとめ

それから先も、酸素の重要性や、太陽系の成り立ち、惑星の大きさについての考察が書かれ、純粋な学問としては興味深い内容もあった。しかし、宇宙にいる生命について理解することは最後まで出来なかった。

もうお分かりだろう。これは宇宙生物学の本ではなく、どこまで行っても地球科学、地球生命に関する本だ。全ての宇宙生物学者がそうだとは思わないが、こんな事を続けていても地球外生命についての理解は深まらないし、ましてや、地球外生命を発見することなど夢のまた夢だと思う。

では、人類はこれから、地球外生命についてどのような戦略を立てて研究していけばいいのだろうか。人類が取り得る選択肢は実質1つしかないと思う。それは、太陽系にある惑星や衛星、例えば火星やエウロパやタイタンを片っ端から探査していくことだ。いくら太陽系外惑星に生命がいるかもと言ったところで現在の技術では探査できないのだから、現実的な場所から調べていくしかない。

もし、火星なりエウロパなりに生命ないしはその痕跡が見つかったのだとすれば、同じ恒星の周りに2つも生命のいる星があったということになり、生命の誕生という現象はこの宇宙でかなり頻繁に起こるものだと分かる。逆に生命が見つからないのだとしたら、やはり地球のような星でないと生命誕生は難しいのかもしれないと推測できる。

宇宙生物学がすべきこととは、火星やエウロパやタイタンといった、地球と全く環境の異なる星にいる生命とはどのようなものか、という問題を考えることだと思う。人類はいずれそれらの星を詳細に探査することになるはずなので、その時に向けて今から準備をしておかなければならないのだ。