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最近読んだ本まとめ(3)―『がん消滅の罠 完全寛解の謎』『人間の測りまちがい 差別の科学史』『真実の一〇メートル手前』

※本の内容に関するネタバレがありますのでご注意ください。

がん消滅の罠 完全寛解の謎

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

まさか一般向けのミステリー小説でがんの術中散布説が出てくるとは思わなかった。これは、腫瘍を外科手術で除去する際に一部のガン細胞が血中に流れ出てしまい転移を引き起こすことがあるのではないかという説で、現在はあくまでも仮説にすぎないものである。しかし、がんの転移という現象が外科手術という人為的な操作によって引き起こされるかもしれないという情報を冒頭に入れることで、がんの進行を自由自在にコントロールするトリックの存在を読者に示唆している。

さて、ストーリーはこのがんの進行をコントロールするトリックの解明に焦点が移っていくわけだが、その一つは、免疫抑制剤を利用したものだった。ある患者に他人由来のガン細胞を注射すると、通常は免疫系が働いてそのガン細胞は増殖しないが、同時に強力な免疫抑制剤を投与すると、免疫系が働かなくなり全身にがんが転移したように見える。その後、免疫抑制剤の投与を止めればがんは免疫系によって除去されていくという仕組みだ。なるほど筋は通っている*1。 しかも、やはり作品冒頭に、マウスを使ったがん研究の方法に関する説明がなされており*2、トリック解明に必要な情報はあらかじめ読者に提示するという推理小説の原則もきちんと守られている。

また、作中で示されるがんの進行をコントロールする方法がもう一つあって、そちらもなかなかに考え抜かれた驚くべきトリックであった。この作品の真に驚くべきところは、そういったトリックが何ら荒唐無稽なものではなく、現在の科学技術を駆使すれば十分に実行可能であるという事だろう。しかし、すでに医療関係者がブログで述べているように(例えば、岩木一麻「がん消滅の罠 完全寛解の謎」(ネタバレ注意):北品川藤クリニック院長のブログ:So-netブログ)、「他人由来のガン細胞が生着するほど強力な免疫抑制剤を利用してそれがばれないというのは不自然」「がん細胞を注射しただけで通常のがん転移と同じような広がりでガン細胞が見えるようになるのか疑問」といった指摘もされており、ツッコミどころが全くないというわけではない、という事は公平のために記載しておく。

作中では最後に、さらに研究を進めてこのトリックを応用すれば、任意の人の任意の臓器にがんを発生させることも、それを増殖させたり寛解させたりすることも、自由自在に行えるようになるだろうと示唆されている。これは考えてみれば実に怖ろしいことである。ある生物学者は著書の中で「我々は結局、生命の有り様をただ記述する事しかできないのだ」という趣旨のことを述べているが、そんなナイーブな認識が許される時代はもう過ぎた。私たちはすでに、生命現象をコントロールし、他の生物や人体を改変することができる、使い方によってはとても怖ろしい力を手にしている。その力は我々人類が制御することのできない、まさに「がん」のようなものだ。

そして、その力は人の心でさえも変えてしまう。作中のトリックを考案した全ての元凶である西條先生の当初の目的は、娘を殺した犯人を見つけ出し復讐する、そのために政府や警察に影響力を及ぼしたい、というものであった。しかし、困窮した患者にガン細胞を注射し生命保険に加入させることで結果的にその患者を経済的に救うような活動をしていたり、日本の薬事行政や労働政策にまで口出ししたりする姿は、やはり復讐という当初の目的を大きく逸脱しているように思う。これは、他人に自分の人生を翻弄され絶望した男が、逆に他人の人生をコントロールする力を得て、その力に酔いしれていく物語なのかもしれない。

人間の測りまちがい 差別の科学史

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

近代科学が進歩することで古臭い迷信や偏見が打破されより良い社会が実現する、と無邪気に考えている人たちにとてつもない衝撃を与えてくるのが本作だろう。この本を読めば、科学は時として迷信を再生産し、新たな偏見や差別を生み出すことすらある、そして人はある任意のデータから自分にとって都合のいい結論をいとも簡単に導き出すことができる、ということが分かる。19世紀から20世紀にかけて、多くの学者が脳の大きさ、人相、IQなどによって人間の知能を測ることができると考え、それらの間違った仮説に基づいて知能が劣っているとされた人種や民族が差別された。そして、いったんそのようなレッテル貼りが行われると、その結論とは異なる不都合な真実が出てきても、それを都合の良いように解釈して切り捨てていまい間違いが長い時間訂正されないままになってしまう。

例えば、昔の骨相学では、高い地位にいる白人は脳が大きく、アジア人・黒人・貧しい人・犯罪者などは脳が小さいとされていた(実際には、脳の重量は体格などによって変わるし、当時の測定では頭蓋骨から正確に脳の重量を測ることなどできなかった)。ところが、墓から掘り出してきた高い地位にいる人々の頭蓋骨を調べてみると、明らかに犯罪者のそれより小さいものがあった。普通に考えれば人種や職業の違いと脳の大きさには何の関係もないという結論になるはずなのだが、当時の学者は、いや、昔の骨は保存状態も悪いし、それらは死因も違うので単純比較はできない、などと言い訳をして自説の正当性を曲げなかった。

例えば、20世紀前半のアメリカ軍で実施された知能テストでは、アングロサクソン系の白人移民が最も知能が高く、南欧系、アジア系、黒人は低い、という結論が得られていた。一方、アメリカでの生活が長い人ほど知能テストの結果も良いというデータも得られた(つまり、当時の知能テストは英語やアメリカの文化をある程度知っていなければ答えられないものであり、アメリカに来て間もない移民にとって不利なテストであった)。しかし心理学者たちは、より知能がある者はより早い時期にアメリカに移り住み、より知能の劣った者は最近になってからようやくアメリカに移住してきたのではないか、という今では考えられない仮説を述べ、知能テストの不備を認めなかった。

彼らは結局のところ、意識的にせよ無意識にせよ、心の中にある偏見に基づいて調査をし、その偏見の目を通してデータを解釈し、その偏見と合致する結論を導き出したに過ぎない。「先入観はデータの中にもぐりこんで、一巡して同じ先入観へと戻る」(上巻、172ページ)。しかし、何よりも怖ろしいのは、それらの非科学的、いや、もはや犯罪的ですらある研究が、単なる疑似科学ではなく、当時としては最先端の極めて客観的で科学的な研究であると見なされていたということである。

この本を読んで「昔はこのような疑似科学が蔓延し人々が差別されていたが、科学が進歩することで無知蒙昧な言説は否定されよりよい社会が実現した」みたいな感想・結論を出す人がいるとすれば、その人はこの本の内容を全く理解していない、完全な誤読である。真っ当な研究者であれば、この本を読んで自分もここに書かれた研究者と同じような過ちを犯してないだろうか、と立ち止まって考えてみるだろう。

真実の一〇メートル手前

いつも思うのだが、米澤穂信氏の小説は余計な情報がほとんど無く洗練された文章だと感じる。例えば、早坂真理は何故失踪し自殺するほど追い詰められなければならなかったのか、会社の倒産に関して真理は何か法に触れるようなことをしていたのか、その辺りの詳細は一切書かれていない。早坂真理は今どこにいるのか、というただ1点のみに焦点を絞って物語は展開していく。そのような作品構造は、逆に言えば、一言一句全てに何らかの意味があるということであり、どんなに些細な文章でもそれが後々の伏線になっていたりするから、実に唸らされる。例えば、事件当事者の筆跡を調べるために万智がわざと間違えた日付のサインを書かせるシーンがあるが、それより前のページにはちゃんと当日の日付が読者に分かるような文章が入れられている。

このようにミステリーとしての基本を忠実に押さえつつも、根底には一つの大きなテーマがしっかりと存在している。それを一言で言うなら、ジャーナリストという職業が背負う「業」と「矜持」、という言葉に尽きるだろう。何らかの事実を伝えることは、誰かを救う事にもなるかもしれないが、同時に誰かを傷付ける事になるかもしれない。その二重性のことを作中では「綱渡り」と表現されている。全くの偶然なのだが、上で紹介した『人間の測りまちがい 差別の科学史』と本作は、非常に似通ったテーマを持っていると思う。人の目は真実を見ることはできない。自分にとって都合の良いもの、見たいものだけが見える。これは、科学であれ、報道の世界であれ、結局は同じなのだ。例えば、ある物の長さを測るという単純な作業ですら、測定時の気象条件や測定方法の違いによって長さは微妙に変わってくるし、その計測に使うモノサシ自体の目盛にも一定の誤差が存在する。しかし、だからと言って、「結局、科学や報道では真実は分からない」みたいな冷笑を向けるのは、明らかに間違った態度だと思う。真実の10メートル手前で必死に目を凝らして考え抜いた上で、どうやらこれが確からしいと思われる「真実」を世に発表する。そこにこそ、科学者として、ジャーナリストとしての、矜持のようなものが宿るのだ。

まあ、そんなことを万智本人に言っても絶対恥ずかしがって「いや、そうじゃない、自分の仕事はそんな高尚なものじゃない」とか言ってメッチャ反論してくるだろうけど(萌)。

しかし、その反論があながち間違いじゃないかもしれないと読者に感じさせてくるのが、とてもゾッとするのだ。例えば、駅のホームで犯人をおびき寄せるために演技をしていた時、歩道橋の上で推理通りに証拠品が見つかった時、そして『王とサーカス』の後半、少年の安否を調べる事よりも自分の仕事を優先していた時、彼女の胸にジャーナリストとしての矜持に悖る何かが去来していなかったと断言することはできるだろうか。いや、そんな問いに結論を出すことなど誰も絶対にできないだろう。他でもない万智自身が、結論を出せないのだから。これがまさに、米澤穂信作品に潜む強烈な「毒」である。

収録作品の中で白眉と言えるのは『名を刻む死』だろう。隣人を見殺しにしてしまったと思い悩む少年に向かって、珍しく大声で「違う!」と叫び、少年が傷付かないような「結論」を与えようとする万智。その姿はとりもなおさず、彼女が高校時代に経験した少女との別れについて、何度も何度も思い悩み、いまだに結論を出せていないことを物語っている。そもそもこの種の苦悩は、解決することが極めて難しい部類の苦悩だろう。何故ならば、彼らにとっては、その苦悩を和らげる結論を導き出そうとしている自分自身が許せないからだ。これは、救われることがまた新たな苦悩を生み出すという、入れ子のような構造をした苦悩なのだ。改めて、万智が高校時代に感じた衝撃の重たさを見て取ることができる。『王とサーカス』はそれ単体でも読めるが、本作は先に『さよなら妖精』を読まなければ良さが半減するだろう。

*1:私が学生時代に所属していた研究室ではガン細胞株を培養していたのだが、ある時、指導教官に聞いてみた事がある。ここにはヒトの乳がん細胞から作られた細胞株がありますけど、これを誤って飲んだり自分の体に注射してしまったらどうなるのですか?やはりガンになってしまうのでしょうか? もうだいぶ昔の話なので先生の回答がどのようなものだったか詳しくは覚えていないが、たしか、その細胞は他者由来の細胞なので実験者の体内に入ったとしても増殖することはなく安全である、というような話だったと思う。

*2:通常のマウスにガン細胞を注射してもガン細胞は増殖しないが、実験で使うマウスは免疫系が働かないように改良されたマウスを使っているので実験が行える、ただしそのマウスを他の病原菌などから守るために実験は外部と遮断されたクリーンルーム内で行わなければならない、という説明。

『宇宙よりも遠い場所』総評―アウトロー達の「ざまぁみろ」を肯定的に描く爽快感

伝統的な立身出世モデルの崩壊

今思えばこの作品は終始、登場人物が、誰の期待を背負う事もなく、他でもない自分達の夢や願望や目的のためだけにチャレンジしていくという物語だった。南極に天文台を作りたい、南極でしかできない研究がしたい、母親が降り立った地に自分も行ってみたい、自分をバカにした奴らを見返したい。そういった個人的な願望に突き動かされた人達が力を合わせて南極を目指す、という物語だ。第9話の「ざまぁみろ」はそれを実によく象徴している。

日本で昔からよくある成功の物語は、才能あふれる若者が家族や出身校や地元の期待を一身に背負って、広い世界に挑戦しに行って努力と創意工夫で成功を収める、みたいなものだった。しかし思えば今は、この「立身出世して故郷に錦を飾る」的な成功モデルがなかなか成立しない時代になっているのかもしれない。

本当に優れたパイオニア的存在は、没個性的で保守的な日本の小さなコミュニティでは逆に評価されない場合がある。出る杭は打たれるという諺の通り、彼らは学校や地域社会から理解されずに蔑まれたりもする。彼らは、そこで感じたルサンチマンにも似た鬱屈した感情を上手にモチベーションへと変換し、自分の能力を発揮できる場所を求めてもっと広い世界(海外とか)に出ていき、そこでようやく認められる。こういうタイプの偉人は、色々な分野で少なからず存在している。

例えば、野茂英雄近鉄バファローズに入団して4年連続で最多勝を獲得するなど大活躍を見せるも、監督や球団と対立し退団。メジャー行きを宣言するも、当時は多くのマスコミが通用するはずないとバッシングしていた。しかし実際は、ノーヒットノーランを2回達成するなど数々の偉業を成し遂げ、日本人メジャーリーガーのパイオニア的存在となった。

他にも、落合博満や、モハメド・アリや、マルコムXなどが、このタイプに含まれるだろう。ノーベル賞受賞者の中にも少なからずこのタイプの偉人がいる。

負の感情を出発点としてチャレンジするということ

今や、才能ある人は子どもの頃から世界を舞台にして活動するというのが当たり前の時代になっているが、学校や地域や国といったコミュニティのレベルではそういう時代になかなか対応できず、それらの枠組みから外れた人達をバッシングして才能をつぶそうとしてくる。なので、そういう小さなコミュニティに居られなくなったアウトローが、自分から世界に出ていってようやく認められる、というケースはこれからの日本でどんどん増えていくだろう。

そういう時代において、「自分をバカにした連中を見返したい」「ざまぁみろと言ってやりたい」という一見すると不健全な負の感情のようにも解釈できる動機を、むしろ全肯定していったのが『宇宙よりも遠い場所』という作品だったのだと思う。

本作の主要登場人物はみんな、学校でバカにされたり、不登校になっていたり、友達ができなかったりして、この社会に「居場所がない!」という切実な感覚を抱くアウトロー的な人物ばかりで、そういう彼女たちが、心の中から沸々と沸き起こる負の感情を出発点として新しい世界に踏み出す姿を、極めて肯定的に描いていった。そしてその事が、現実にいる才能があってもなかなか世の中から評価されずに苦しんでる人達に、どれだけ勇気を与えただろうか。

「ここじゃない何処かに行きたい」を超えた「何か」

しかし、そうは言っても、帰国して再び南極に行こうと誓い合うキマリ達には、「ざまぁみろ」に代表されるような個人的な夢や願望ではない、それを超えた「何か」が求められるということもまた事実である。先ほど、個人的な負の感情を出発点としてやっていくのも全然有りみたいな話をしたが、実際には「ここじゃない何処かに行きたい」みたいなロマンを追い求めることは極めて難しくなっている。要するに、研究者が個人的に「これがやりたい」と思う事でも、それが同時に「社会や人類のためになる」と認められなければ、スポンサーもつかないし予算も下りないというシビアな時代になっているのだ。

事実、南極観測隊の隊員達は皆、ただ南極に行くことを目的としていたわけではないはずだ。南極の気象・生物・雪・オゾンホール、南極から見える星やオーロラ、それらを研究することが彼らの目的であって、南極に行くのはそのための手段でしかない。そして、彼らの目的がゆくゆくは人類の進歩につながるのだということを、スポンサーとなる企業や国や社会に向けて彼らが絶えず発信し説得してきたからこそ、彼らは南極に行くことが出来、また、行く資格があると認められたのだ。

だとするなら、1度目の旅を終えたキマリ達も、「ざまぁみろ」や「ここじゃない何処かに行きたい」だけでは許されないフェイズに入ったのである。それが成長し、大人になる、ということなのだ。ただ「南極に行きたい」だけではなく、「南極に行って何かを成し遂げたい」へ。大人になり2度目の南極を目指すキマリ達が、その「何か」を見つけてくれることを願って止まない。

『少女終末旅行』最終巻―孤独と絶望が教えてくれた私達のかけがえのなさ

ついに『少女終末旅行』が完結した。

なぜ世界は滅んでしまったのか…。なぜこの世界には私達しかいないのか…。

そんな疑問を抱えたまま、ただひたすら終末世界で旅を続けるチトとユーリを見て、私はどうしても、彼女たちを現実の地球に生きる我々人間と重ね合わせてしまっていた。

この広大な宇宙で、私達以外に知的生命体は存在するのだろうか? いるとすれば、彼らはどこにいるのだろう? 彼らとコンタクトをとることは可能だろうか?

科学技術が発達した現代においてもなお人類に残された大きな謎。それを解くこともできぬまま、地球という星で終末へと歩き続けているのが、私たち人間なのだろう。

チトが壊れゆくケッテンクラートを前にして何もできず泣き出してしまったように、我々もまた、個人の力ではどうすることもできない大きな流れに乗って、無力感に苛まれながら終末へと突き進んでいく存在なのだろう。

系外惑星の探査技術がこのまま進歩していけば、そう遠くない未来に地球外文明は見つかるはずだ、という楽観的な見方をする人もいる。しかし、目下のところ、他でもない地球文明の寿命の短さが、地球外文明との邂逅を不可能にする一番の要因なのだ。

私は以前の記事でドレイクの式というものを紹介した。

その記事からの再掲となるが、天文学者フランク・ドレイクによると、「銀河系に存在する地球と交信可能な地球外文明の数」をNとおいたとき、

N = R・Fp・Ne・Fl・Fi・Fc・L

と表され、右辺に並ぶ記号の意味はそれぞれ、

  • R: 銀河系の中で1年間に誕生する恒星の数
  • Fp: 恒星が惑星を持つ確率
  • Ne: 一つの恒星系が持つ生命誕生の可能性のある惑星の数
  • Fl: 生命誕生の可能性のある惑星で実際に生命が誕生する確率
  • Fi: 誕生した生命が知的生命へと進化する確率
  • Fc: 知的生命による技術文明が星間通信を行う確率
  • L: 技術文明の存続期間(年)

を意味する。詳細は前述の記事に譲るが、私なりに各数値を概算し式をまとめると、

N = 0.001×L

となる。つまり、「銀河系に存在する地球と交信可能な地球外文明の数(N)」は、「文明の存続期間(L)」にどういう値を入れるかによって大きく変わってくる。もし、この宇宙に地球外文明が無数に存在したとしても、その文明や我々地球文明の存続期間が短ければ、お互いを発見することなど夢のまた夢になってしまうのだ。

チトが言っていたように、「見て触って感じられることが世界のすべて」(『少女終末旅行』、第6巻、134ページ)なのだ。

チトとユーリは、自分たちが孤独ではないと知りたかったのだ。

また、たとえ孤独であったとしても、なぜ自分たちが孤独でなければならなかったのかを知りたかったのだ。

彼女たちがカナザワやイシイやヌコに出会えたことはとても幸運なことだった。だが、彼らはすぐに遠くへ行ってしまい、チトとユーリは再び2人きりになって、世界のことなど何も分からぬまま終末を迎えることになってしまった。

それでも、彼女たちの心は、どこまでも穏やかで、満ち足りていた。

この世界で生き残っているのがもう自分たち2人だけだという事実が、逆説的に、自分たちがここにいるという事のかけがえのなさを示していたからだ。そして、そんな奇跡的な世界で自分たちが旅を続けてこれたことが「最高だった」と気付いたからだ。

そして希望がなくなって初めて、自分の本当の想いが分かるのだ。
地図をなくしたことで、地図を書いていた時間、連れといた時間そのものが尊いものだったと気付くのだ。
飛行機を失ったことで、夢に向かっていた日々そのものが幸せだったと気付くのだ。
生きる道も進む道も全て閉ざされたことで、2人で旅して生きてきたことがただただ最高だったと気付くのだ。
少女終末旅行 最終回 ~絶望と仲良く~ - 忘れ物を探すためにより引用)

このまま人類が核兵器を持ち続け、戦争をし、地球環境を破壊し続ければ、私たちは孤独のうちに終末を迎えるだろう。それこそが人類に待ち受けている究極の「絶望」に他ならない。そこで人類は「絶望と仲良く」なるのだ。

私達人類もまた、滅ぶことが確定した絶望的状況になって初めて、この地球という星のかけがえのなさに気付くのだろうか。

私達が地球上に誕生したこと、そして、その地球上でこれまで連綿と歴史を紡いでこれたことが、有り得ないほど多くの奇跡の上に成り立つ尊い出来事だったのだと気付くだろうか。

チトとユーリに訪れた穏やかな終末を見届けることができて本当に良かった。我々人類にいずれやってくるであろう終末の時もまた、こんなふうに穏やかであってほしいと願わずにはいられない。

少女終末旅行 6巻(完) (バンチコミックス)

少女終末旅行 6巻(完) (バンチコミックス)

TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集

TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集

『ゆるキャン△』総評―「一人で過ごす尊い時間」と「みんなと過ごす尊い時間」

ゆるキャン△』、本当に、良かった。圧倒的な今期No.1のアニメだった。

ゆるキャン△』には2つの時間が流れている。「一人で過ごす尊い時間」と「みんなと過ごす尊い時間」だ。そして、この2つを相反するものとして描くのではなく、見事に両立させ、時には同時に描きさえした。

一人で過ごす尊い時間

ゆるキャン△』の特徴として、リンのソロキャンに代表されるような、一人で過ごす時間をしっかりと描いている、という点がよく挙げられるが、実はこれは、完成度の高い日常系アニメに共通する特徴だったりする。『けいおん!』も、『Aチャンネル』も、『ゆゆ式』も、一人の時間をわりと丁寧に描いている。しかし、そうは言ってもやはり、それらの作品のメインは友達と過ごす楽しい時間を描くという点になってしまうのだが、『ゆるキャン△』の場合は半分が「一人で過ごす尊い時間」で構成されていると言っても過言ではないだろう。

「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで…」(『孤独のグルメ』第1巻より)

そう言う井之頭五郎にとっては、一人で食事をしている時が最も豊かで尊い時間なのだろう。私にもそのような時間がある。仕事帰りに立ち寄った居酒屋で静かにお酒を飲んでいる時、家でお酒を飲みながらアニメを見てる時、休日に何となく訪れた町を散策する時。きっと誰もがそういう時間を持っている。家でゆっくりお風呂に入る時間が好きだという人もいれば、一人で映画を観たり音楽を聴いたりするのが好きな人も、なかには、一人で黙々と仕事をするのが好きという人もいるだろう。

その一人の時間は、誰かと過ごす時間とはまったく別物の尊さを持っている。その2つは対立するものではないし、どちらがより優れているとか優劣を決められるようなものでもない。けれども、それを描くアニメは本当に少ない。一人で過ごす時間の素晴らしさを価値観の異なる他人に説明することが極めて難しいからだ。

本作はその難しいことを見事にやってのける。リンが黙々とテントを組み立て、薪を割り、火をおこし、静かに本を読む、その一連の所作。キャンプ場を散策している時のモノローグ。温かい食事をとっている時の表情。その全てが、我々一人ひとりの心の中にある「一人で過ごす尊い時間」を思い起こさせてくれる。

誰にも邪魔されることのない、独りで、静かで、豊かな冬の旅。リンにとってはこのソロキャンこそが、何物にも代えがたい尊い時間なのだ、ということが画面全体から伝わってくる。その旅には、明確な目的も計画もない。ただ、感情の赴くままに、好きなところに行き、好きなことをする。おそらくリンは、旅先で起こる予想外のトラブルや失敗でさえもひっくるめて、その旅全てを全身で楽しんでいるのだ。

そしてまた、そういう予想外のトラブルに見舞われた時のシマリンが最高に可愛いのだ!

カイロを使っても全然温まらなかった時の「思ったより効かん」。苦労して辿り着いた温泉が閉店だった時の「おい、マジか」。その声、表情、もう最高である。なんというか、特に感情的になるわけでもなく、いつもと変わらないテンション低めな感じだが、言葉の端々から伝わってくる「やっちゃった」感、みたいなものが伝わってくるのがなんかもう最高に萌えるのだ。

みんなと過ごす尊い時間

さて、上で見たように「一人で過ごす尊い時間」をきちんと描いて見せた上で、そこからさらに「みんなと過ごす尊い時間」をも見事に描いていくのが、本作の驚くべき点だろう。しかし、みんなと過ごすと言ってもそれは、みんなが同じ方向を向いて何か同じことをするという描写とは少し異なる。

この「相手の一人時間を大事にする」が如実に表れているのは、四尾連湖でリンとなでしこがキャンプをする回だろう。いっしょにキャンプはしてるけど、テントは別々だし、ボートに乗るのもなでしこだけ。リンとなでしこは一緒に行動はするが、いわゆる一蓮托生という関係ではない。その点が『メイドインアビス』や『少女終末旅行』とは大きく異なる。

そのあたりの距離感については、スタッフ側もかなり意識しているようである。

関連記事:「ゆるキャン△」京極監督に聴く「作り手の頭の中だけで作られたキャラクターではない」 - エキサイトニュース

リンやなでしこにとっては、相手と一緒だから「楽しい」のではなく、自分が「楽しい」と思えるものを相手と共有する、という感覚なのだろう。

だからこそ、彼女たちにとっては、物理的な距離は関係ない。遠く離れていてもLINEで心を通わせることができる。誰にも縛られない単独行動が大好きだけど、そうやって感じた喜びや幸せはやっぱり誰かと共有したいと思うシマリン。うきうきしながらLINEで写真を送ったり、定点カメラに向かって手を振ったりするシマリンの、なんと愛おしく可愛いことか!

そして、自分が「楽しい」だけでは駄目で、相手もまた「楽しい」と感じていなければ意味がない、そんなふうに考えるからこそ、相手を尊重し、相手のために出来る限りのことをしたいと願う。でも、相手に踏み込んでいくべきか、踏みとどまるべきか、その見極めは難しい。

第10話、的確なアドバイスをくれた千明に、リンが少し気恥ずかしそうな緊張した声色で「とにかく助かった、ありがとう」とお礼を言う。「あ、あのさ、今度、野クルでクリスマスキャンプするんだけど…」と言ってリンを誘う千明の声と表情もまた、どことなく緊張しているように感じられる。

そうか。そうだったんだ。千明もまた、リンとの距離感を測りかねて、悩んでいたんだ…。なんて繊細で、人間味に満ちた描写だろう。

一人で過ごす時間の尊さも、それをみんなと共有することの素晴らしさも、他者とかかわることで生じる緊張も、相手を思いやる配慮も、それらすべてがあったからこそ、最終回のクリスマスキャンプが最高に輝いて見えるのだ。

みんなと食べた食事の美味しさ、吹きすさぶ風の冷たさ、たき火や温泉の暖かさ、夜空や富士山の美しさ、朝日の眩しさ、となりにいる友達の笑顔と笑い声、そのすべてを5人が共有する。そして、我々視聴者もまた、彼女たちが感じた感動や幸福感を画面を通じて感じ取る。

心温まるとはこういう体験のことを言うのだろう。数年に一度と言われる寒波の中で、一人静かに『ゆるキャン△』を見るという体験は、私にとってもまさに「一人で過ごす尊い時間」となったのである。

『からかい上手の高木さん』の素晴らしさ―微妙なラインを突く表情、ギャップ萌えに頼らない構造、可愛い男性主人公

この作品の素晴らしいところは次の3点に集約される。第一に、西片をからかう時の高木さんの表情や声が、過度なデフォルメ化やカリカチュアライズを使うことなく、一定の抑制のきいた形で表現されている点である。艦これに敷波という子がいる。その子についてのニコニコ大百科の記述はまさに正鵠を射ている。

そんなどうにも目立たないポジションにあることはキャラ付けにも反映されているのか、ややツンデレっぽいところがあるが目立つほどではなく、控えめで自己評価が低そうなところもあるが名取や羽黒ほど極端なわけでもなく・・・とたいへん微妙なラインの性格付けが為されている。が、そういった微妙なラインをつく台詞が意外な破壊力を発揮し、実際に使っている提督の間でひそかに「実はすごくかわいい照れ屋さん」として知られている。
敷波(艦これ)とは (シキナミとは) [単語記事] - ニコニコ大百科より引用)

高木さんにもこの「微妙なラインをつく」魅力がある。このすばのアクア様のようにドヤ顔で「プークスクス!」と煽ったりしない。あくまでも冷静に、的確に西片をからかっていく。それが他の作品にない独特の味となっている。

第二に、安易なギャップ萌えを一切利用していない。例えば他の作品の場合、

  • 主人公より優位に立とうとして背伸びする→失敗して赤っ恥をかく→ギャップ萌え
  • いつも冷静でクール→好きな人のことになると途端に慌てふためき出す→ギャップ萌え
  • いつもは本心を見せず素直じゃない→特別な日で珍しくデレてる→ギャップ萌え

という図式で成り立っている。その最たるものが『かぐや様は告らせたい』だと思う。一方、高木さんにはそうしたギャップ萌え要素がほとんど存在せず、西片の前で普段と違う姿を見せることはない。高木さんは高木さんのままで高木さんとして純然と西片の前に現れ続ける。何故そのような構成にすることが可能なのかというと、それは高木さんが西片に好意を持っていることが読者から丸分かりだからだ。いちいちギャップ萌え要素を入れて読者を萌えさせる必要すらない。高木さんは決して本心は見せないが、内心では実は大好きな人と一緒に過ごすのが嬉しくて舞い上がってるんだ、ということを読者が想像するだけでもう一種の「ギャップ萌え」として成立してしまうのが、本作のすごいところである。

第三に、高木さんにからかわれる西片がとにかく可愛い。本作を見ているのは主に男性だと思われるので、男性キャラの可愛さと作品の魅力には何の関係もないのでは、と思うかもしれないが、それは大間違いである。例えば、往年の萌えアニメ、『ゼロの使い魔』『ハヤテのごとく!』『かんなぎ』『バカテス』、みんな男性主人公が可愛い。『たまこまーけっと』『中二病でも恋がしたい』『氷菓』『GOSICK』『SAO』『ニャル子さん』『この美術部には問題がある』『だがしかし』、ヒロインだけでなく主人公も可愛い作品というのは枚挙に暇がないのである。近年では『メイドインアビス』や『ゲーマーズ!』等がそうである。『からかい上手の高木さん』もそういった作品群に連なる作品である。