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『かぐや様は告らせたい』第15巻と『弱キャラ友崎くん』について

かぐや様は告らせたい』第15巻、いわゆる「氷のかぐや様」編である。

読んでいて涙が出た。

四宮かぐやは元々氷だったのではない。

多くの人から何度も何度も傷つけられて、かぐやの心は氷になったのだ。

この作品はこれまでずっと、誰かの小さな行動が他の誰かを絶望から救い出すことを描いてきた。世界がそのようになっているのならば、逆のこともまた起こり得る。これは、かぐやという少女に向けられた誰かの感情が、どうしようもなくかぐやを傷つけていく過程…。

彼女がもし、藤原みたいにIQ3の、良い意味でバカな奴だったら、嫌な事があってもその日だけ泣いて後はきれいさっぱり忘れてしまうことだって出来たかもしれない。でも、かぐやは、どこまでいっても真面目で、誠実で、誰かを傷付けたくないと真摯に願っていたからこそ、誰かを傷つけたり誰かから傷つけられたりするたびに、その傷はまるで酒瓶の底に溜まった澱のように、心の奥に蓄積し続けて、かぐやは心を閉ざしてしまう。

私達が第1巻の頃から見てきたのは、自分を変えようと努力するかぐやの姿だったのだ。そこには聡明で狡猾な四宮家の令嬢としてのかぐやも、御行のことが大好きで仕方がない乙女なかぐやもいる。でもその根底には、誰かを傷つけてしまう自分が嫌いで仕方なくて、自分を変えようと必死にもがき苦しむかぐやがいたのだ。

それは御行もまた同じである。最愛の人から見捨てられて、自分を変えなければ自分は誰からも愛されることはないと思い詰めた御行は、学校の成績に固執し、まさに「命を削る」と形容しても過言ではない壮絶な努力を繰り返して、かぐやと対等であろうとする。

自分を変えなければという思いに囚われ、そのために努力するなかで疲れ果て、心折れそうになっているのが、今のかぐやと御行なのである。では、彼らを救い出す方法があるとすればそれは何なのだろう。「あるがままの自分を肯定してくれる人がいれば救われる」なんていう月並みで単純な解決策など、本作には一切存在しない。御行が無理に無理を重ねて成績1位となり、かぐやもまた自分を変えて御行に歩み寄ろうとしたからこそ、2人の今の関係がある。それは疑いようのない事実である。今さらそれらを全て否定して素の自分でいるなんてことは出来ないのである。

彼らを本当の意味で救うのは、「半分」なのである。それは「中庸」と言い換えてもいいかもしれない。自分を変えようとしなければ何も始まらない、でも、無理をして自分を偽るのは苦しいだけでは? あるがままの自分を肯定して生きたい、でも、それって同じ過ちを繰り返すことにならないか? 自分を変えることに疲れたからといってその努力を全部やめてしまうのではなく、疲れたなら少し休む、そういう選択があってもいいのではないか。そのことに、かぐやと御行はようやく気付いたのだ。

結局人は0か100という極端な選択の中で生活しているのではなく、その中間の立ち位置で何とか折り合いをつけて生きることしかできない。その当たり前の事実を当たり前に描くことが、令和時代の物語の一つの潮流になるのかもしれない。

実は『かぐや様』第15巻と同じようなテーマを扱った作品として『弱キャラ友崎くん』がすでにある。それについても記しておかなければならない。

主人公・友崎はゲームオタクの陰キャで学校には友達もいなかったのだが、日南という女子生徒から指南を受け、服装や話し方を徹底的に変えていく。そうすることで友達も増え、少しずつリア充的な高校生活を送れるようになった友崎であったが、日南の指導方針への反発などもあって師弟関係を解消し、素の自分でいようと誓う。趣味が同じ女子生徒と休日に会い、何の気兼ねもなく楽しく会話することができて友崎は安堵する。しかし、トイレの鏡に映った自分の姿を見て、友崎は思った。

俺は今日は自然体で、素の自分で行くつもりだったから、特に服も考えずに着たし、髪に関しても、特にワックスを使ったりはしなかった。だから、ろくに鏡も見ずに、素のまま、ありのままの自分として、外に出た。着飾ることもある種の『スキル』のような気がしたし、それをするのは自分を偽っているようにも感じたからだ。
そしてその結果、鏡に写った自分の姿は。
気持ち悪いゲームオタク、だった。
背筋は曲がり、口角はだらりと下がっていて、しかも清潔感のない、決しておしゃれとはいえない服に身を包み、どこかうつろな目で自分を見つめる俺の姿は――
自分で自分に、嫌悪感があった。
(中略)
その自分の表情は、姿勢は。力なく、どこかうつろで幼く、端的に言って気持ち悪かった。
(『弱キャラ友崎くん』、第3巻、312~313ページ)

これこそが「中庸」の真髄なのである。ここに作者が言おうとしていることのエッセンスが詰まっている。日南と出会ってから友崎は良い方向に変わった、でも、日南のやり方がすべて正しいとは限らない。無理して着飾りすぎるのは苦しい、でも、完全に素の自分でいるのも駄目。

人は、変われない。でも、人は、変わることができる。矛盾しているように聞こえるが、結局、人とはそういうものなのだ。我々は、素の自分とか着飾ってるとか、変わる変わらないとか、そういう単純な0か100かの世界で生きているわけではない。そういう事実をこの2作品は描いている。

ところで、『弱キャラ友崎くん』のヒロインである日南は依然として、0か100かの世界で、完璧な自分を演じようと努力しているように見える。その姿はまさに以前の御行会長のようだ。部活にせよ、勉強にせよ、友人関係にせよ、あらゆることに全力で取り組み、普通の人ならとっくにぶっ倒れててもおかしくない尋常ならざる努力を続けているのが日南葵である。そして驚くべきことに、彼女がそこまでして自分を偽ろうとしている明確な理由が、今もなお読者には分からないのだ。物語はこれから、その謎を解き明かす方向に進んでいくだろう。

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