新・怖いくらいに青い空

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『がん‐4000年の歴史‐』―失敗と成功、絶望と希望、その全てが詰まった傑作ノンフィクション

神話の世界に登場する邪悪な神々や怪物たち、地球に突然飛来してきた謎の宇宙人、核実験の影響を受けて突然変異した巨大怪獣、突如人類に対して反乱を開始した人型ロボット。人類が強大な敵と戦う物語は、いつの時代も人々を魅了してきた。ここで今日紹介する本も、とある怖ろしい怪物と人類との4000年にもわたる戦いの物語である。しかしそれは、単なる神話やSF作品ではなく、紛れもないノンフィクションである。

その敵とは、“がん”という怪物である。

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

人類4000年のがん研究史

他のあらゆる科学がそうであるように、がん研究もまた、周辺分野と密接な関わりを持ちながら発展していった。公衆衛生の向上や感染症の撲滅によって人類の平均寿命が延びたことで、がんは多くの人にとって身近な脅威と見なされるようになった。麻酔や消毒法の発展により、腫瘍を取り除く外科手術が発達した。毒ガスや化学工業の研究を発展させることで、いくつかの有用な抗がん剤が誕生した。分子生物学の飛躍的進歩によって、科学者はがんの発生メカニズムを次々に解き明かしていった。また、がんとの戦いの中で、その周辺の科学技術、我々の生命観、医師と患者との関係などが大きく変わっていった。例えば、治療の効果を正しく判定するために、あるいは、発がん性が疑われる物質とがんとの関連性を証明するために、統計学やその他の分析手法がより洗練されていった。抗がん剤の副作用や不適切な治療によって苦しむ患者が声を上げたことで、患者の権利は拡充され、ホスピスターミナルケアといった概念が発展していった。

しかし、がんという強大な敵に挑む人間の陣営は、常に一枚岩とは限らなかった。いつの時代でも、古い学説に固執する保守的な学者と、新しい仮説を唱える若い学者との間で、激しい内戦が繰り広げられた。多くの学者や活動家が、がん治療のための莫大な研究費を得ようとして、大衆を扇動し、ロビー活動に邁進した。患者にとってほとんど「毒」と言っていい程に危険な薬を多量に投与しようとする医師と、いやそれは倫理的に許されないと考える医師との間で、激しい論争が巻き起こった。がんと煙草との因果関係を立証しようとした統計学者は、煙草メーカーとその御用学者から激しい攻撃を受けた。

対立を乗り越えて新しい戦略を作り上げることに成功したケースもあった。例えば、外科医と内科医は治療方針をめぐって長年対立していたが、今日では両者が手を組み、外科医による手術と内科医の処方する薬(それに放射線治療など)を上手く組み合わせて、より効果的に敵を弱体化できる道が開けた。

しかし、この本を読むと、いつの時代でもがんとの戦いの最前線にいる「主人公」は、医師でも科学者でも政治家でもなく、がん患者自身なのだと痛感させられる。医師や科学者が、がんを倒すための作戦を立案する指揮官だとするならば、患者は、がんという強大な敵の住む城にろくな武器も持たされないまま突入させられる憐れな歩兵であり、ひとたび城に向かった患者が生きて帰ってくることは非常にまれだった。多くの外科医が、乳がんの再発を防ぐためには乳房だけでなく周りの筋肉やリンパ節まで根こそぎに切除すべきだという学説(根治的乳房切除術)を盲信し、患者のQOLを著しく下げた。多くの内科医が、複数の抗がん剤を一度に大量投与する治療法(超大量化学療法)を試し、患者は重い副作用に苦しめられた。

根治的乳房切除術が主流だった一八九一年から一九八一年までの一〇〇年近くのあいだに、約五〇万人の女性ががんを「根治する」ためにこの手術を受けた。自ら望んだ者も多かったが、無理矢理受けさせられた者も多かった。そして、自分には選択の自由があることすら知らない者も多かった。多くが永久に外見を損ねられ、多くが手術を祝福として受け容れ、多くがその責め苦を勇敢に耐えた。がんを可能な限り攻撃的かつ徹底的に治療したのだと信じて。
(上巻、365頁)

『前線からの風景』というエッセイのなかでジェンクスは自らのかんの経験を、真夜中にジャンボジェット機の機内で起こされ、パラシュートをつけさせられ、地図も持たずに見知らぬ風景のなかへ放り出されるようなもの、と表現している。
(中略)
そのイメージは時代の孤独と絶望をとらえていた。徹底的で攻撃的な治療法に取り憑かれていた腫瘍医は、より新しいパラシュートを次々と発明した。だが、沼地を歩く患者や医師を導く系統立った地図を、彼らは持ってはいなかった。
(下巻、178~179頁)

それらの医師の姿は、私には、実験室でマウスやモルモットを扱う動物学者や、怪しげな人体実験を繰り返すマッドサイエンティストとほとんど変わらないようにすら思えた。

もちろん当時の医師たちは「目の前にいる患者を救いたい、がんを根治する治療法を確立したい」という医師として至極真っ当な使命感からこのような処置を行っていたのだろうし、その当時はまだ患者を救う手段も非常に限られていたのだから、当時の判断が間違いだったと結論付ける事はできない。しかし、それを差し引いたとしても、身の毛もよだつような怖ろしい治療・実験が当たり前に行われ、それによって多くの患者が犠牲になったという事実は記憶にとどめておいて良いだろう。

がん研究史における失敗と挫折

人類とがんとの戦いの歴史、それは、数えきれないほど多くの死と苦しみの上に築かれた歴史であり、人類の失敗と挫折の物語に他ならない。新しい学説や治療法が次々に生まれ、そのたびに人々は未来を明るく照らし出す輝かしい光を見たが、その光はすぐに幻のように消えて見えなくなった。血のにじむような努力の末に人々が掴み取った希望は、次の瞬間にはもう砂のようにサラサラと掌からこぼれ落ちて消えていった。

古代エジプトの医師は、乳癌の病態を克明に記録し「治療法はない」と述べた。古代ローマの医師は、黒胆汁という体液の過剰生産ががんの原因だと考え、何世紀もの間、その間違った仮説が信じられてきた。20世紀初頭、白血病の子どもに様々な化合物を投与し、一時的に症状を緩和させることに成功したが、すぐに白血病が再発し子どもたちは次々に死んでいった。ある種のがんで効果のあった超大量化学療法も、別のがんでは全く使い物にならない場合があった。長年効果があると信じられてきた根治的乳房切除術に、実はほとんど効果がないことが分かった。ある検査技術の有用性を確かめるための「完璧」な臨床試験に致命的な欠陥が見つかり、統計学者や医師は、何が正解で何が間違ってるかも分からない袋小路の中に落ちていった。レトロウィルスがあらゆるがんの原因であるという学説を否定するのに、何十年もの時間が費やされた。

そんな絶望の中で、ある者は、経過を克明に記録し論文にすることで、将来の医学の発展に希望を託した。ある者は、自分たちの間違いを頑なに認めようとせず、古い学説に固執して真実を見誤った。ある者は、失意のうちに研究の現場から去った。ある者は、その失敗から「次」に繋がるヒントを得ようと奮闘した。そして、ある者は、がんの発生メカニズムという根本を解明しなければならないと強く思うようになった。

一九四七年から一九四八年にかけての半年間のあいだに、ファーバーは、ドアが開き――ほんのつかのま、彼を誘惑するかのように開き――そしてまたしっかりと閉まるのを見た。そしてその開かれたドアの向こうに、彼は光り輝く可能性を垣間見たのだ。
(上巻、86頁)

ハルステッドやブルンシュウィクやパックは、大規模な手術にあくまでも固執した。だが、その有効性を証明するはっきりとした証拠はなく、自分たちの信念という孤立した岬に向かって彼らがどこまでも進んでゆくにつれ、証拠などますます見当違いのものに、臨床試験をおこなうことなどますます不可能になっていった。
(上巻、144頁)

そして20世紀後半、人類はついに、論理的かつ包括的ながんの発生メカニズムを解明するに至る。それはすなわち、人間が本来持っている遺伝子の機能が、様々な要因*1によって失われたり、暴走したりすることで、異常な体細胞増殖がスタートしがんになるというものだった。

巻末の解説でも述べられている通り、この物語は「未完」なのだ。人類とがんとの戦いは、これからもずっと続いていく。そしておそらくこの戦いは、人類が存在し続ける限り、終わることはないだろう。しかし、4000年にわたる戦いの中で人類は、知識と経験を積み上げ、勝率の高い方法を選択することができるようになった。戦い方は一つではなく、化学療法や手術や放射線などの多くの選択肢があり、それらを組み合わせることでより効果的に敵を倒せるようになることを学んだ。一言で「がん」と言っても、固形ガンから白血病まで様々なタイプがあり、それらに応じて戦い方を変えなければならないことを学んだ。がんの発生メカニズムを知り、分子標的薬という概念を生み出すことで、がんとの戦いは決して負け戦ではない、戦い方次第でいくらでも希望は見出せる、という確信を得た。*2

それらの知識や経験、失敗や成功の中で、無意味なものなど何一つとして存在しない。本文中にも書かれている通り、「何一つ、無駄な努力はなかった」。これらの全てが、人類にとってかけがえのない財産となり、今日そして将来の人類を支えていくのだ。

われわれが五〇年後にがんとの闘いで使っている道具はがらりと変わっているはずであり、がんの予防と治療の地形も大きく様変わりしているはずだ。 (中略) しかしこの闘いの多くは今と変わっていないはずだ。執拗な努力も、創意も、立ち直りも、敗北主義と希望とのあいだで揺れ動く不安な心も、普遍的な解決策を求める強い衝動も、敗北がもたらす失望も、傲慢とうぬぼれも。
(下巻、402~403頁)

化学史書・生物学史書としてみる本作

本作は、がん研究史・医学史の本であり、フィクションに勝るとも劣らない壮大な戦記でもある。

しかし同時に、がんという一つのキーワードを軸にして、現代化学や分子生物学の歴史を見渡せる画期的な本でもある。

例えば、化学という観点から見たとすると、本文中には無数の化合物が登場してくる。初期の化学療法を支えたが副作用も凄まじかったアミノプテリン、6-メルカプトプリン、シスプラチン。乳がん治療におけるホルモン療法という新しい可能性を切り開いたタモキシフェン。分子標的薬という全く新しい手法によってがん治療の世界に革命をもたらしたハーセプチングリベック。それらは、構造も分子量も性質も全く異なる多様な化合物だ。化学に興味のある学生なら、ここに書かれてある内容を足がかりにして、自分の知識を広げていくことができるだろう。

もちろん、「いや、そんなこと既に知ってる」という人であっても十分に読みごたえがあると思う。例えば、がん遺伝子とかがん抑制遺伝子については教科書で習った、SrcやRasやRbやp53の名前も機能も全部知ってる、という人であっても、それらの「常識」がどのようにして発見・解明されてきたのかを知ることは、とても重要なことだと私は思う。

なので、大学や大学院で化学・生物学・医学を専攻している、もしくは、これから専攻しようとしている学生さんは、是非この『がん 4000年の歴史』を読んでみることをお勧めします。もちろん、全く専門外の人が読んでも良いけれど、ある程度の前提知識*3があった方が、より楽しめると思います。

*1:それには、タバコの煙、アスベスト、ウィルス、ピロリ菌、食生活、紫外線、など様々なものが考えられる。

*2:事実、様々な治療法の普及、予防の徹底、診断技術の向上などによって、アメリカ国内でのがんによる死亡率が徐々に低下して行ってることが統計学的にも確認されている。

*3:例えば、分子生物学・遺伝学・免疫学などに関する基礎知識

映画『聲の形』を見る前に『たまこラブストーリー』を見直してみた

山田尚子監督の最新作である映画『聲の形』がもうすぐ公開ということで、過去の作品である『たまこラブストーリー』を見直して改めて記事を書いてみますよ~。

公開当時に書いた記事はこちら→『たまこラブストーリー』ネタバレ有り感想―変化を受け入れ、想いを伝えるまでの物語 - 新・怖いくらいに青い空

序盤

アニメ版の『たまこまーけっと』の方は、昔ながらの商店街という「日本的」な空間の中にしゃべる鳥という「非日常」的要素が混在しているというお話で、構造としては『少年アシベ』とか『オバケのQ太郎』にも似てるのかなぁなんて思っていたのですが、映画版では純粋な「ラブストーリー」となっており、デラやチョイちゃんとかの出番が冒頭くらいしか無くて少し寂しかったのですが、まあこれは致し方ないと思います。そんな中でも、冒頭、デラとチョイちゃんによる寸劇とか、下ネタ耐性のないチョイちゃんの圧倒的可愛さとか、色々見所はあったのですが、全部語ってたら話が長くなるので省略します。

場面が変わって、もち蔵が自室からたまこの部屋に向かって糸電話を投げるけど、たまこがそれを上手くキャッチできないという場面。たまこが「相手の気持ちを受け止められずに悩む」という今後のストーリーを暗示させる場面ですが、この映画は小道具を使った象徴的なシーンが随所に登場してくるので、2回3回と見直すと映画館で見ただけでは分からなかった部分がどんどん明らかになっていくので何度見ても飽きないのが良いですね。

その後、「KOI NO UTA」っていうオープニング曲が流れるわけですが、それはたまこの父・豆大さんが高校時代にたまこの母親に贈った曲で、しかも、OP後すぐのシーンでもたまこがその歌を口ずさみながらバトン部の練習をやっていて、もうやめて~お父さんのライフはゼロよ! 黒歴史を蒸し返して来ないで~! って心の中で叫びたくなりました。さて、そのたまこが頭上に投げたバトンをキャッチしようとしますが、やはりさっきの糸電話と同じく上手くいかなくて、みどりちゃんが「必死でつかみに行けばとれるよ」とかアドバイスしていて、これもまさに今後の伏線となる重要な台詞となるわけですね。

そうこうしてる内にかんなちゃんが登場してくるんですが、とにかくこの後の一連のシーンはかんなちゃんの言動がいちいち可愛くて、体育館を黒タイツで滑りながらスススススス~って登場してくるところとか、ステージに上がって高所恐怖症でクラクラしてるのとか、史織に英語で話しかけてスルーされたりとか、階段に座りながらこぶしトントンとか、色々と語りたいのですが語り出したら時間がいくらあっても足りないのでこの辺でとどめておきますね。

そんなこんなで、たまこが皆から留学、建築学科に進学、地元の大学に進学といった進路を聞いて、「みんな色々考えてるんだな」なんて思うシーン。ここでたまこは「自分はこのままでいいのだろうか」みたいな漠然とした不安を抱くわけですが、商店街で会話しながら歩くうちにこうしたアンニュイな気持ちが薄れて笑顔が戻っていく、というのもまた印象的なシーンです。ここから分かるように、たまこにとって商店街とは「変わらない日常」を象徴するものなわけですね。しかし、レコード屋でコーヒーを飲む時に、いつもと違って牛乳を入れずに「苦っ!」ってなってることからも分かるように、変わらないと思っていた日常は少しずつ変化していて、たまこは大人になっていってるのです。

一方、もち蔵の方も、東京の大学に行く事とたまこへの想いを伝えようとして悶々としていて、「たまこが糸電話をキャッチできたら想いを伝えよう」みたいな自分ルール作って糸電話を投げて、本当にキャッチに成功して、うおー!マジかよ!ってなった瞬間、部屋にある鉄道模型が動き出したのは、もう完全にあのラストへの伏線でしたね。でも結局、キャッチしたのは実は妹のあんこでした~ってオチで、「明日の朝、伝えよう」とか考えながら銭湯に行ったらたまこが居て「明日から朝練あるから~」「え?てことは一緒に登校できんやん」みたいな感じで心を折られるのがなんとも不憫ですな。あ、あと、どうでもいいけど、この銭湯での着替えシーンは怖ろしいほどディテールに凝っていて、これぞ京アニの真骨頂と思ったのと、銭湯の前でたまこがもち蔵と会話する時に、私服の襟元から覗く鎖骨はすごくエロかったです。

中盤

そんで、次の日の掃除時間にもち蔵さん、たまこの事メッチャ見てる。それをみどりに指摘されてメッチャ焦ってる。そんなもち蔵の背中を押すようなことをやってしまい「あーあ」と自己嫌悪に陥るみどりちゃんホント素晴らしい。下手なアニメの場合こういうシーンでは、しゃがみ込んで頭を抱えながら「う~わ~やってしまった~」みたいなオーバーリアクションな演出をやってしまうところですが、みどりちゃんの場合は、あくまでも感情を徹底的に自分の中に押し込めたまま、それでも滲み出てきてしまったどうしても口にせずにはいられない思いが、あの「あーあ」という一言に凝縮されていて、本当にもう素晴らしいとしか言いようがないシーンです。

そして、たまこに気持ちを伝える決心がついたもち蔵が、映研メンバーと決起集会、というかただのじゃれ合いやってるシーン、ここもなかなか破壊力大きいですね~。やっぱりですね、男の子っていうのは、こんな風に同性どうしではしゃいでる時が一番居心地がいいんですよ。彼女欲しいしセックスしたい、けれども、同性の友達とくだらない会話してる時間も大好き、っていう面倒臭い生き物なんです。これまでもち蔵はずっと「たまこに恋心を寄せる男の子」としてしか描かれてこなかったんですが、ここに来て、ああ、もち蔵にもこういう素敵な居場所があったんだなあと思ってほっこりします。そんな空間に、幼なじみの女の子が迎えに来るとか、なんというかもう、青春してるなぁ、お前ら…。

さあ、ここから超重要なシーンですよ~。河川敷で餅みたいな石を拾ってもち蔵に見せるたまこ。この餅も「変わらない日常」を象徴する小道具ですね。足を滑らせたたまこがその石を川に落とすことで、これまでの「日常」は終わり、この瞬間に空気がガラっと変わって、もち蔵の告白タイムへと移る、という見事な演出です。そして、驚いたたまこが川に落ち、ここからみんな大好き「かたじけねぇ」の時間です。「かたじけねぇ」「先に失礼するでござんす」からの~、河川敷シャカシャカ走りからの~、光の中を必死に駆け抜けるたまこさんの可愛さといったら、京アニヒロインの中でも一二を争うレベルだと思います。また、たまこさんの可愛さに隠れてしまってますが、夕日に照らされた水面とか、小石やたまこが落ちた時の水の質感とか、水に濡れた制服の感じとか、京アニ特有の優れた水の表現が堪能できる名シーンでもありますね。

で、家に帰り着いたたまこですが…、あんこに話しかけられても「かたじけねぇ」、急に思い出したかのように顔を赤くしカーテンを閉める、「もち」が全部「もちぞう」になってる、バトンについてるボールが餅に見えて上手く受け取れない、教室ではもち蔵と顔を合わせないようにじっと椅子に座ったままで、……本当に…もうねぇ……何?この可愛い生き物!? もち蔵の言葉を受け止められなくてテンパりまくってる状態のことを、私は勝手に「かたじけねぇ状態」と呼んでるんですが、かたじけねぇ状態のたまこは本当にもう奇跡の可愛さですよね。

そんで、昼休みにかんなちゃんから苦手なものは「心を強く持って克服」するんだとアドバイスを受けた後、帰り道にばったり遭遇したもち蔵と話をしようとしますが…。「オウ、ワルイナ、モチゾウ!アリガトヨ」って、全然克服できてないじゃないですか(笑)。銭湯で会った時も「ゲンキカモチゾウ、ワタシハゲンキダ、ジャアナ」って、まだ「かたじけねぇ状態」継続してる(笑)。翌日、仕事を休んで朝の商店街を散歩したたまこは「みんないつも通りだ」と思って一旦安心するわけですが、学校では史織さんから「留学するか悩むより、行ってみちゃおうかなって」と決意を聞かされ、再び商店街を歩いた後には「みんなにもいろんな事があったのかなあ」なんて考えるようになるたまこ。そして、そこで再び登場する親父の黒歴史カセット! たまこが徐々に変化を受け入れていく過程の描き方が実に丁寧で良いですね。

だがしかし、その後、爺ちゃんが餅を詰まらせて病院へ運ばれ、そこでヘタレもち蔵が告白を「無かったことにしてくれていい」とか言い出したせいで、たまこの心はまた掻き乱されてしまうのでした。もち蔵との事を皆に相談し、母親が死んだ時に餅を使って励ましてくれたのが実はもち蔵だったということも分かり、さあいよいよ返事をしなければとなるわけですが、ここでまた例の「かたじけねぇ」状態が再発動ですよ! かんなちゃん主導で、廊下でばったり作戦とか、メールで返事作戦とか、家の前で返事作戦とか、いろいろやるわけですが、たまこが完全にテンパっちゃってことごとく失敗。もう、かわいいのうwwwかわいいのうwww

そんな中、みどりがもち蔵に向かって「見直した」と言う名シーン。あのトイレの前の会話で、みどりちゃんはもち蔵を試していたんです。気持ちを伝えるなんて私にはできないけど、アンタはできるの?どうせできないだろ? けど、もち蔵はみどりを乗り越えてたまこに気持ちを伝えてしまった。ゆえにこの台詞は、「(私にはできないことをやってのけたから)見直した」という意味であり、みどりのもち蔵に対する事実上の敗北宣言でもあるのです。嗚呼、なんて切ないんだ……

一方たまこは黒歴史カセットを聞きながら、あんこに中学の制服を着せたりしてて、制服あんこちゃんが可愛すぎて観客全員ニヤニヤしている中、カセットのB面に続きがあることが発覚。そうか、お母さんもかつて勇気を出して相手に気持ちを伝えたんだ。お母さんだけでなく、お父さんも、商店街の皆も、こうやって誰かに気持ちを伝えてきたからこそ、今があるんだ。その事に気付いたたまこは、ついにもち蔵の気持ちを受け止め、返事をする決心を固めるわけです。

終盤

そしてフェスティバルの本番。「上を向いて歩こう」の曲に合わせて踊りながら、たまことみどりがお互いに目配せするところとか、バトンをキャッチした瞬間たまこが一瞬だけ驚きと喜びの混じった良い表情になるところとか、さすが京アニという感じの素晴らしい演出でした。こうして、バトンをキャッチすることに成功したたまこは、わざと休校の連絡をもち蔵に回さないようにして、自分の気持ちを伝えようと心に決めます。

そして当日、みどりちゃんが京都駅で2人が会うという最高の舞台を演出してくれます。それは、新たな世界へと旅立つ2人を見送ると同時に、みどり自身もまた未来に向けて大きく飛翔する再スタートの瞬間でもあったのです。だからこそ、そんなみどりちゃんを見てかんなちゃんは「今、ちょっと良い顔してますよ」と言うのです。かんなちゃんもまた、高所恐怖症を克服しようと木に登ることで、新しい一歩を踏み出すのです。史織もチョイちゃんもまた、同様でしょう。みんな、たまこともち蔵に寄り添ってくれてありがとう。2人の背中を押してくれてありがとう。幸せになれよ…。

そしてついにクライマックス! 新幹線に乗る寸前でもち蔵を捕まえたたまこは、相変わらずたどたどしいけれども、今度はきちんと自分の気持ちを伝えます。もち蔵が投げた糸電話をちゃんとキャッチして、ようやく「大好き」と伝えることに成功します! 長かった…。自分の気持ちを伝えるというただそれだけのことを、これほどまでに丁寧に、時間をかけて描き切ったアニメ作品というのは、他に例がないのではないでしょうか。

そしてそして、2人にとっての新しい人生の1ページが始まった瞬間、聴こえてくるエンディング曲「KOI NO UTA」のなんとカッコいいことか! お父さん、ごめんなさい! 黒歴史とか言って散々バカにしてごめんなさい! 自分の気持ちを歌にして伝えたお父さんはすげえよ。それに歌で返事したお母さんもすげえよ。勇気を振り絞ってたまこに好きだと伝えたもち蔵もすげえよ。それに対してずっとずっと葛藤しながら最後にようやく大好きと伝え返したたまこもすげえよ。なんかもう見てるこっちが赤面するくらいこっぱずかしい事だけど、でも黒歴史なんかじゃねえよ。みんなすげーカッコいいよ。相手に気持ちを伝えるって素晴らしいことだよ! そう心の底から叫びたくなるような素晴らしいエンディングでした。

2人がこれからどうなるのか、それは映画の中では描かれません。でもきっとこの2人は、デート、キス、セックスと段階を経ていくたびに、ヘタレもち蔵が周囲から背中を押されて、たまこが「かたじけねぇ、かたじけねぇ」言ってるんだと思うと、もう可愛すぎて、可愛すぎて……

爆発しろ!

原子レベルまで粉々に砕け散って餅の上に蒸着しろ!

はぁ……

………

…たまこ、

…もち蔵、

……幸福に暮らせよ。

そして、『聲の形』へ。

と、まあ、こんな感じで、見終わった後に幸せな気持ちになるのが『たまこラブストーリー』という作品なわけですが、さあ、次は『聲の形』ですね。僕が考えるに、『聲の形』もまた、伝えるということ、そして「黒歴史」と向き合うということが大きなテーマとなっている作品で、特に後半部分は、自分の過去と向き合うことの辛さ、苦しさを徹底的に描きつくした作品です。

自分の過去と向き合うってスゲー苦しいよ? お前が思ってるよりはるかにしんどいよ? 世間の目って物凄く冷たいよ? 誰も理解してくれないよ? 死にたくなるくらい辛い事これから沢山あるよ? それでもお前は過去と向き合える? 目の前にある扉を開けることができる?

そう突きつけられた主人公たちが、それでも自分の思いは必ず誰かに届く、そうすれば必ず道は開けると信じて、胸を張って扉を開けるまでを描いた物語です。

でも実際のところ、京アニ山田尚子監督がこの作品をどう描くのかは分からないし、原作漫画と映画とではやはり雰囲気が違ってくると思いますので、映画館でそれをしっかり見届けたいと思います。

アニメ・マイベストエピソード5選

このたび、ブログ「物理的領域の因果的閉包性」で行われているマイベストエピソード企画に参加させていただきました。今回は、私が今まで見てきた中で特に印象に残っているアニメのベストエピソードを5つ紹介したいと思います。

クレヨンしんちゃん』、「赤ちゃんが生まれそうだゾ」「赤ちゃんが生まれるゾ」「赤ちゃんが生まれたゾ」

上の3話は、1996年9月放送の『クレヨンしんちゃんスペシャルの中で放送されたお話で、「クレヨンしんちゃん みんなで選ぶ名作エピソード ひまわり&シロ誕生編」というDVDにも収録されている。TV放送当時の私はまだ小学校低学年。おそらく私は、ひまわりの誕生をリアルタイムで見た記憶を鮮明に覚えている最後の世代だろう。

ある平日の昼下がり、急に産気づいたみさえは、さすがに2人目の出産だけあって実に手際よく各方面に連絡を入れ、産婦人科へと向かう。会社を早退したひろしと、幼稚園から帰ってきたしんのすけも、遅れて産婦人科へ向かうのだが、その道中で埼玉紅さそり隊、園長先生、よしなが先生、まつざか先生、ネネちゃんのママ、オカマのセールスレディーなど、お馴染みのゲストキャラが次々に登場してきて、まさにオールスター勢揃いといった感じである(当時はまだオカマという言葉がごく当たり前に子供向けアニメでも使われていたのだ。良くも悪くも自由で規制の緩やかな時代だった)。

病院の屋上で、ひろしとしんのすけが2人だけで話をするシーンは今見ても感慨深い。少し前まで降っていた雨は完全に止んで、頭上には美しい星空と大きな満月。しんのすけが生まれたのも満月の夜だった、あの時は仕事で遅くなって後で母ちゃんに恨まれたっけ、と語り始めるひろし。そんな矢先、赤ちゃんの泣き声が聞こえ、大急ぎで分娩室に駆けつけた二人は、そこでようやく、生まれてきた新しい命と感動の対面を果たす。

子ども向けアニメであるにも関わらず、一人の人間の誕生という出来事をこれほどまでに丁寧に描き切ったアニメは、他に類を見ないのではないだろうか。世間では『オトナ帝国』とか『暗黒タマタマ』といった、野原一家の絆を描く劇場版エピソードが有名だが、それも全て、この感動的な誕生のエピソードがあったからこそ輝くものだと思う。

天元突破グレンラガン』、第27話、「天の光は全て星」

グレンラガン』とは、人類が暗黒の時代から抜け出し、近代そして現代へと大きく飛躍していく壮大な物語である。今どきそんな単純な進歩主義など誰も信じていないけれども、せめてアニメの中でだけは、どこまででも進歩し続けることのできる輝かしい人間の姿を見ていたいのである。

もちろん人類の進む未来は決して明るいばかりではなく、際限のない進化の先にはスパイラル・メネシスという破滅が待ち受けている。それでも人類は、自らの意志によってこの茨の道を選択し、知恵と勇気によって輝かしい未来を切り開くことができるはずだ。そんな希望に満ちた人間賛歌を謳い上げてこのアニメは幕を閉じる。見終わった後、これほどまでに深い喪失感に襲われる作品は、今後二度と出てこないかもしれない。

ゼロの使い魔~双月の騎士~』、第12話、「さよならの結婚式」

ゼロの使い魔』とは、自己犠牲の物語だと思う。自分の命を賭けてでも「やるべきこと」が果たして存在するか、なんてこと考えたこともないであろう現代日本に住む普通の高校生が、異世界に行き、異なる価値観の中で生活し、戦争を経験していく中で、大切な人と出会い、愛し合い、その人のために命を賭ける。この第12話は、愛と成長と自己犠牲の物語としての『ゼロの使い魔』を最も良く体現した話であり、才人とルイズの関係が決定的に変わるターニングポイントとなった話でもある。

と同時に、この第12話は、漫画やラノベをアニメに起こし直す難しさがよく現れている回であるとも言える。放送後、ネット上では「酷い原作改変」「30分の間に話を詰め込みすぎ」「2人の再会が唐突過ぎて感動が半減している」といった意見が飛び交っていた。私は、そういった意見を見て原作に興味を持つようになり、書店で『ゼロの使い魔』を第1巻から購入した。これが、私が生まれて初めて読んだライトノベルになった。ゆえに、このお話は、作中における重要なターニングポイントであると同時に、私個人にとっても極めて重要なターニングポイントだったと言えるだろう。

ゼロの使い魔』と故ヤマグチノボル先生については、原作小説が完結した後にまた記事を書く予定です。

けいおん!』、第11話、「ピンチ!」

こちらも、上の『ゼロ魔』と同じく、ネット上で賛否両論となった話だった。卒業式や文化祭を除けば『けいおん!』の中で最もシリアスなエピソードであり、また、キャラクター間の感情のすれ違いを最も鮮明な形で描いてみせた回だったので、賛否両方の意見が出てくるのはある意味仕方のないことかもしれない。けれども、私はこの第11話が大好きなのだ。

だって、我らが田井中りっちゃんが可愛すぎるのだから! 普段は明るくていつも笑顔で満ち溢れている律が、この日だけは不安と嫉妬の入り混じる悲しげな表情をしているわけですよ! そして後日風邪をひいて澪に甘える時の「寝るまでそばに居てよ~」という声のなんと可愛いことか!

りっちゃんは今も昔も地上に舞い降りた天使そのものであり、律澪は圧倒的正義である。振り返ってみれば、私に百合の素晴らしさを知らしめてくれたのは、このエピソードだった。

とらドラ!』、第9話、「海にいこうと君は」

僕は生粋のみのりん派です。やっぱり、みのりん派にとってこの第9話は外せないと思うんですよね。

亜美の別荘で夏を満喫なんていう素敵イベントを前に、テレビの前のみのりん派の諸兄はもうテンションMAXで、完全に竜児に感情移入して画面を見つめてるわけです。で、電車の中で幽霊を怖がる姿とか、別荘に着いてテンション高めな感じとか、もう、みのりんの一挙手一投足が可愛くて仕方ないわけです。そんな中で、夜、2人きりで良い雰囲気になって、「高須君、抹茶おいしい?」「小豆はイマイチだ」から始まる竜児とみのりんの会話! 絶妙なタイミングで流れる美しいBGM!

もう、こんな可愛い彼女が欲しくて仕方がなくなるわけです。いや、彼女なんて贅沢な事は言わないから、みのりんと同じクラスになって、ひと夏の思い出を作りたい! そんな気持ちにさせてくれる素晴らしいエピソードで、その後も第16話とか19話とか21話とか、名作と言われてる回が数多く存在する作品ではありますが、やっぱり第9話は本当に素晴らしいと思うのです。

天皇陛下が生前退位について言及するのは「天皇の政治介入だ」とか言ってる人って何なの?

天皇陛下が生前退位のご意向を示されているという最初の報道があった後、宮内庁は、陛下が政治的な発言をしたと疑われるのを怖れて、「そのような事実はない」と否定していた。そして、そのような宮内庁の対応を「適切だ」と言ってる専門家やコメンテーターもたくさんいた。8日のお気持ち表明では、天皇ご自身も「退位」について直接言及するのを避けられ、安倍総理もその後の会見で「ご発言を重く受け止める」と言葉を濁した発言をしている。こんな感じで奥歯に物がはさまったような言い方をしてる人達が気にしているのは、憲法第4条にある天皇は「国政に関する権能を有しない」という文言だと思う。要は、陛下のご意向に沿って皇室典範という法律が変更されたりしたら、憲法違反になる可能性があるということなんだろう。

でも私はあえて言いたいんだけど、じゃあ仮に、陛下のご意見を聞いて国会とかが「はい、分かりました。皇室典範を変えます」ってなった時に、「これは天皇の政治介入だ!」って問題にする人って誰? そもそも、天皇のあり方みたいなものに陛下が言及されることは、本当に政治介入に当たるのか? 私は、皇室のこれからの姿みたいな課題について陛下自らがご意見を述べることは何ら問題ないことだし、たとえそのご意向を踏まえて法律が改正されたとしても、憲法違反でも何でもないと思ってます。

まず第一に、天皇はそもそも国会で議決権も持たないし選挙権・被選挙権すら無いのにどうやって政治介入なんかするの? 天皇陛下や皇族の方々が何かご意見を言った場合でも、じゃあそれに沿って法律を変えましょうって実際に決めるのは、国民の代表である国会議員なわけですよね。極端な話、一般国民が議員に陳情に行くのとかと同じですよね。そういうのって、本当に政治介入って言えるのか?

もちろん私も、天皇が「日本国憲法を変えるべき」とか「あの人を総理大臣にしてほしい」とか言ってたら、ちょっと不味いと思いますよ。でも、天皇の退位という、ご自身やご家族の今後に関わる重要な案件については、むしろ何か言わない方が不自然だし、それを政治介入とか言うのはなんか無理があるんじゃないですかね。陛下のご意見を伺いつつ、国民の代表者たる国会議員が粛々と手続きを進める、ということで何ら問題はないと思います。

それと、今回の件が政治介入と受け取られるなら、極端な話、被災者に「がんばってください」とお声をかけられるのも、政治介入と受け取られる可能性がありますよね。だって、国会議員が「陛下もそうおっしゃているのだから、もっと被災地を助ける法律を整備しないといけない」とか思って新法ができる可能性もありますよ。被災地を訪問するのも、相撲を観戦するのも、病気の治療を受けるのも、外国の要人と面会するのも、熊本に行ってくまモン体操を見るのも、全部が全部、天皇の政治介入だと受け取られる可能性があります。私は、天皇陛下がご自身の退位について言及されるのがダメで、ハゼ科の魚についてご発言されるのはOK、ということに対する納得のいく説明を今まで一度も見たことがありません。

ここからは完全に個人的な想像ですが、今回の件で天皇の政治介入云々言ってる人って、要するに、天皇陛下に退位してほしくないんでしょ? 未だに天皇は神様だと考えているから、最期まで天皇であってほしいとか思ってるんでしょ? もし、陛下が退位について言及されたら、さすがに国会もその意向を無視するわけにはいかないから、退位が認められる可能性が高い。だから、そうならないように政治介入なんて理由を付けて、陛下の真意が表に出てくるのを何とか回避したいんでしょ?って思います。

『シン・ゴジラ』感想―日本が世界に示した第3の道、それはパンドラの箱を開けたのか?

シン・ゴジラ』観て来ました。いやぁもう凄いとしか言いようがないですね。僕の中でNo.1の特撮映画ってずっと『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年公開)だったのですが、それが更新されそうな勢いです。とにかくこの興奮が冷めないうちに記事を書きたいと思います。以下の内容はネタバレ全開なので、まだ見ていない方は決して読まないようにお願いいたします。

蒲田に出現した巨大生物

まず、本作で驚きだったのは、初登場時のゴジラの形状ですね。物語は、東京湾岸で謎の巨大生物が登場するところから始まるのですが、その時点ではまだ尻尾の一部が確認できるくらいで、一体何なのかよく分からない。やがてそれが、川を遡上し始めて、その勢いでボートやら橋やらが次々に飲み込まれていく。すでに他の方が指摘しているように、その光景はまるで、あの東日本大震災で発生した巨大津波を彷彿とさせます。そしてついに、蒲田付近で陸に上がった巨大生物は、我々が想像していたゴジラとは似ても似つかない姿をしていたんです。そいつは、例えるなら、全身ゴツゴツとした50メートル級のツチノコのような姿。しかも、巨大な口とエラがあり、地面を這うように動くという、実におぞましい姿をしています。

「え?なんやコイツ?」と観客が動揺している中、なんとこの未確認生物が急速に変身し始めるのです。日本政府が都市部で自衛隊の攻撃はできないとか、住民の避難がまだ終わってないとか、もたもたしてるうちに、そいつは手が生え、二本足で立ちあがるようになり、ここでようやく我々がよく知っているゴジラの姿になるのです。ゴジラの変身ということであれば、これまでのゴジラシリーズでもリトルゴジラとかゴジラジュニアとかが登場していたわけですが、今回のゴジラは水生生物から両生類的な姿へ、そして二足歩行のゴジラへと、わずか1日で劇的な「進化」をとげていて、進化学や生物学の常識が全く通用しない「怪物」として描かれています。

ゴジラ出現で右往左往する日本政府

ゴジラの変身シーンだけでも凄いのですが、最も特筆すべきはその見せ方にあります。まず映画の冒頭、東京湾アクアラインのトンネルが壊れて周辺から大量の蒸気みたいなのが噴出してきて、政府が「海底火山の噴火やな」とか言って国民に発表しようとしてる矢先に、主人公の矢口(官房副長官)が「いやネットの動画に変な巨大生物みたいなの映ってるで」と必死に訴えるんだけど、周りは聞く耳持たず結局「ただの噴火ですから安心してください」みたいな発表がされる。その後すぐに奴が川を遡上し出して「ほらやっぱ生物だったやんヤバいヤバい」ってなってるところで、今度は「あれは水生生物っぽい形してるから上陸はしないやろ」っていう御用学者の言葉を真に受けちゃって、環境省の若手女性官僚の「いやこれ上陸も有り得るで」という反論は無視され、「上陸はしませんから安心してください」みたいな記者会見をやりだす。その間にも、ゴジラは進化を続けていて、ついに蒲田に上陸して……。という感じで、政府の対応が後手後手に回っていく様子がこれでもかと映され続ける。

形式ばかりの会議で時間を費やしている間に被害がどんどん拡大して町中大騒ぎになってるのに、政府は「著名な生物学者を官邸に呼んでアイツの正体を確認しよう」なんて悠長なこと言ってて、案の定、呼ばれた生物学者も「分かりませ~ん」となり時間を浪費しただけに終わる。ようやく自衛隊に出動を要請しようということになるんだけど、「この場合って防衛出動は認められないんじゃね?」とか「市街地で自衛隊が武器ぶっ放すのは憲法違反じゃね?」とか「とりあえず住民の避難が終わってから攻撃に移ろう」とか、政治家と役人がああでもないこうでもないと議論を繰り返すばかりで攻撃が全然始まらない。で、ようやく軍用ヘリがゴジラの前にやってきて発射するという段階になるんだけど、ヘリのパイロットがまだ避難してないご老人を発見、その報告が超特急で官邸に上がってきて、総理は「攻撃中止!」と決断する。で、その直後にゴジラが進化して、周りのビルとかがもうメチャクチャに破壊されて、観客も「ああもうメチャクチャだよ!」とうなだれる。

そんな政治家や官僚たちの右往左往っぷりを、ゴジラそのものよりも多くの時間を割いて映しているのが、本作の序盤なのです。これはもう完全に、東日本大震災の時の首相官邸そのものですよね。事実、この事態は「想定外」すぎて法律やマニュアルもないし…なんて言い訳してる政治家も出てきます。

これがハリウッド映画なら、絶対にこういう描き方はしなかったでしょう。ハリソン・フォード演じる大統領が強いリーダーシップをとって国民を導き、メリル・ストリープ演じる参謀役が大統領に的確な情報を与え、デンゼル・ワシントン演じる軍司令官が見事な手腕で現場を動かす。でも、日本には、そんなリーダーは誰一人いないんだ…。本作はまさに、大災害の象徴であるゴジラが出現した時、日本政府はどうなるのか、という問題に対する最もリアルで明確な回答になっているのです。

街を破壊し尽くすゴジラ、そして、絶望

さて、蒲田や品川で大暴れしたゴジラは一旦海に戻り、日本政府が次こそ万全な体制でゴジラを迎え撃とうと準備を開始します。矢口率いるチームがゴジラの解析を行い、自衛隊も準備を進めます。そしてついに、ゴジラが今度は鎌倉に上陸、神奈川を縦断し東京に迫ります。自衛隊は多摩川の河川敷でゴジラを殲滅しようとします。軍用ヘリと戦車とミサイルを大量投入しますが、ゴジラには傷一つ付けることができません。とうとう多摩川を突破され東京に侵入してきたゴジラ。住民の避難が完了していないということで攻撃は一時中断、政府機能も立川の広域防災基地へ向けて移転を開始します。日本政府の対応に痺れを切らした米国は、B-2爆撃機によるゴジラ攻撃を決定。日が暮れた後、東京のど真ん中でゴジラと米軍が対峙します。爆撃機がゴジラに傷を負わせて「お、いいぞ」となった次の瞬間、観客全員が言葉を失うような衝撃的シーンがやってきます。

ゴジラが口から白いガスのようなものを出して、それがドライアイスみたいに街中に広がっていく。やがて、ゴジラの口から真っ赤な炎が噴き出し、白いガスに引火したかのように街が一瞬で炎に包まれます。真っ赤な火炎放射は、やがて黄色い光線となり、その光線に当たったビルや爆撃機は粉々に砕け散る。さらにさらに、背びれの間からも同様の光線が無数に放出され、街も、爆撃機も、閣僚たちが乗ってるヘリコプターも、あらゆるものが砕け散り、炎に包まれていく……。この瞬間、私はただ茫然自失となり「あ…終わった…日本終わった…」とつぶやく事しかできませんでした。

これまでのゴジラというものは、言うなれば「竜巻」のようなもので、通った所だけ局所的に破壊していくものでした。要するに、「悪い子はいねがー」と暴れまくる妖怪を見ながら、人々が「こっちくんな、こっちくんな」と祈ってるのが、それまでのゴジラの襲撃だったわけです。でも、火の海になった東京を悠然と闊歩するゴジラを見て、「運が良ければ助かるかも」という希望的観測は一瞬で消し去ります。それは、日本に襲い掛かった圧倒的な「絶望」に他なりません。

初代『ゴジラ』とオキシジェン・デストロイヤー

エネルギーを使い果たしたゴジラは東京駅付近で休眠状態に入ります。その間にゴジラを抹殺しようということで、国連やアメリカはゴジラに対する核攻撃を強く主張、2週間後に核攻撃を開始すると日本政府に通達します。矢口やカヨコ(米大統領特使)は、唯一の戦争被爆国である日本で再び核を使用することに反対し、別の道を模索します。矢口のチームによるゴジラの解析によって、ゴジラのエネルギー源は体内にある核融合炉であり、それが正常に作動するためには血液の循環が不可欠であるということが判明。そこで、血液凝固剤をゴジラに経口投与しゴジラの活動を停止させようという計画がスタート。さらに、とある科学者が残した解析表をもとにして、ゴジラの細胞膜に作用し血液凝固剤の効果を高める物質も発見されます。こうして、ゴジラに対する人類の反撃が始まるのです。

ゴジラをよく知ってる人なら、ここまでのストーリー展開が完全に、1954年に公開された初代『ゴジラ』と同じである、ということに気付いたでしょう。最初のゴジラ上陸で、日本人がゴジラの恐ろしさを思い知らされる。そして、国を挙げて次の攻撃に備えるためにあらゆる手段を尽くす。でも2回目の上陸で東京は火の海になり、日本の持てる力を全て使い果たしてもゴジラには敵わないことが分かり、人々は絶望感に包まれる。そんな時、一発逆転の「最終手段」が登場、人類はそれに一縷の望みを託してゴジラとの最終決戦に臨む。どうでしょう。まさに『シン・ゴジラ』と初代『ゴジラ』は瓜二つだと思いませんか。

初代の『ゴジラ』においてゴジラと対峙するための「最終手段」となったのは、言うまでもなくオキシジェン・デストロイヤーです。それは、その名の通り、水中の酸素を一瞬で破壊し、その場にいる生物を白骨化させる大量破壊兵器です。オキシジェン・デストロイヤーの使用、それは、人類が核兵器以上の強大な力を手にすることを意味する、まさにパンドラの箱だったのです。しかし開発者の芹沢が、その箱を開けることを許しませんでした。映画を見た方ならご存じの通り芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーに関する全ての資料を破棄し、ゴジラとと共に自らも命を絶つことによって、この技術が悪魔の手に渡ることを食い止めたのです。

ラジオの実況が人類の勝利を高らかに喜ぶ傍らで、芹沢の婚約者だったヒロインが泣き崩れる、そんな印象的なシーンで初代『ゴジラ』は幕を閉じます。それは到底、勝利などと呼べるものではない。人類は今こうしている間にも自らの持つ力によって自らを滅ぼしかねない、そんな薄氷の上を歩いているのだという怖ろしい事実が、観客に突きつけているのです。

科学技術観の変化と核抑止論

一方、『シン・ゴジラ』では、2つの道が提示されました。そのうちの一つが、ゴジラに対して核兵器を使用するというものでした。21世紀の現代において、オキシジェン・デストロイヤーや芹沢博士のような人物が登場することは有り得ません。何故ならば、現代において何か新しいものを作り上げようとした時に、たった一人の科学者だけで完結するなんてことはまず有り得ないし、他を圧倒する突出した「天才」という存在も誕生しにくくなっているからです。というか、1954年の時点で、芹沢氏のような科学者像はフィクションの世界にしか存在していなかったんですけどね。

よく考えてみれば核兵器というもの自体が、米国がその当時の最高の科学者・技術者・開発資金・開発環境をそろえて国策として作り出したものですよね。開発に決定的に大きな役割を果たした何人かの科学者はいましたが、原爆は彼らだけで開発されたわけではなく、おそらく何千何万という技術者や政治家が関わっている。そんな大きな流れの中では、科学者個人の倫理観なんて一瞬で吹き飛んでしまうんですね。よしんば誰かが開発を拒否しても、また別の誰かがその代わりに原爆を開発するだけです。

だからこそ、核やその他の大量破壊兵器というものは、一度でも使ってはいけないんですよ。現実の社会に芹沢氏は存在しないので、「今回だけだから」は絶対に通用しない。通常兵器では敵わない強力な怪獣を倒すため、それは、大義名分としてはこの上ないものです。けれどもどんな理由であれ、一度でもそれを使ってしまったら、きっと人類はその甘い味を忘れられなくなる。これからますますその甘い誘惑に抗えなくなって、社会は再び混沌に包まれるでしょう。

日本の技術者魂が生み出した「第3の道」

しかし本作では、オキシジェン・デストロイヤーと核兵器に代わる「第3の道」が用意されました。それは、1人の天才が作り上げた最強兵器ではない。圧倒的なパワーを持つ大量破壊兵器でもありません。ただ、世界中のスパコンを使ってゴジラを解析し、日本中のプラントを総動員して血液凝固剤を作り、それを東京まで運び、作戦決行までに万全の準備を整えるだけ。そこには芹沢博士に相当する人はいません。ただ、各人が自分の置かれた環境で自分のできる事を実行し、それらをチームプレーと創意工夫によって統合していく。地味で根気のいる作業ですが、結局、日本人にはそれしか無いのです。

僕は今回の熊本地震を経験して、その事を本当に実感したのです。地震が発生した直後から、国と県が指揮を取り、消防・警察・自衛隊が被災地に入り、救出作業を進めて行く。わずか数日後には、スーパーにおにぎりや飲料水やパンやお惣菜やその他日用品が山のように並べられる。あっという間に主要な道路や鉄道が復旧し、復興に向けた準備が進行していく。もちろん、全てが完璧に機能しているわけではないし、完全な復興にはまだまだ時間がかかるでしょう。でも、何か緊急事態が発生した時に、まるで人が変わったかのように一致団結して、普段なら考えられないくらいの猛スピードで突き進んで行ける。こんなことのできる国が、日本の他にあといくつあるのでしょう。

本作においてゴジラとは、人類の愚かさによって生み出された核兵器の象徴であると同時に、人類が決して逃れることのできない大災害の象徴でもあるのです。そして、その脅威に対抗するために日本という国が取るべき道は、結局、上で述べたような地道で泥臭い「第3の道」しかないのです。それを可能にするのは、その場にいる一人ひとりの「この国を救いたい」という思い、もっと突き詰めるならば「愛国心」と言っても過言じゃないでしょう。

細かいことは気にしちゃいけないクライマックス

さあ、映画のクライマックス、日本の持てる技術を全てつぎ込んだゴジラ冷温停止作戦、通称・ヤシオリ作戦が始まります。映画を見た方なら分かると思いますが、このシーンの圧倒的熱量を上手く文章にすることは到底できません。でも、あえて言葉で表すなら、まあこんな感じです。

無人新幹線爆弾、ドーン!

無人爆撃機、ドーン!!

高層ビル爆破、ドーン!!!

ゴジラが倒れた! 今だ! 凝固剤注入!

またゴジラが動き出したぞ!

無人在来線爆弾、ドーン!!!!!

よし! とどめだ! 凝固剤注入!

……なんというか、もう何でもありのハチャメチャ状態です。「なんかCGがショボい」「無人在来線爆弾って何だよ」「ゴジラが都合よく血液凝固剤を飲みんでくれるとか有り得ないだろ」「無人在来線爆弾って何だよ」「周囲に瓦礫散乱してるのによくあの車ゴジラに近づけたな」「無人在来線爆弾って何だよ」などなど、色んなツッコミどころが登場してきますけど、

こまけーことはどうでもいいんだよ!

ここは、21世紀に生きる我々がゴジラと対抗する唯一の手段を提示する場面なんだ! 人類を破滅に導く核兵器でもない、1人の天才科学者でもない、他の誰でもない、名もなき日本人全員が、力を合わせて脅威に立ち向かいそれに勝利する! この圧倒的な熱量の前にしたら、数々のツッコミどころの存在なんて小さ……くはないけれど、まあ、心の片隅に追いやってしまえるくらい、すごいシーンだったと思いますよ、うん。

日本は「パンドラの箱」を開けたのか?

こうして東京駅付近で冷温停止状態となったゴジラを見つめて「我々はゴジラと共存していかなければならない」と言う矢口。東京の中心でいつまた暴れ出すかも分からない強大なエネルギーと共存せざるを得なくなった劇中の日本人。その姿を見て、観客は福島第一原発のことを思わずにはいられません。原発推進派だろうが反対派だろうが関係なく、日本人一人ひとりが今後何十年と向き合わなければならない「現実」を叩きつけて、この映画は幕を下ろします。

でも、映画を見終わってしばらくすると、私の中で一つの疑問が湧きあがります。果たして、ヤシオリ作戦は成功だったのだろうか。ヤシオリ作戦は、現代におけるオキシジェン・デストロイヤー(=核兵器に代わる大量破壊兵器)を生み出したのではないだろうか。日本は、結局のところ、ゴジラを制圧することによって「パンドラの箱」を開けてしまったのではないだろうか。

確かに、ヤシオリ作戦で使われている技術一つ一つは、人類を破滅に導くような強力な新技術ではありません。でも、たとえ既存の技術の寄せ集めであっても、それによってゴジラという強大な力を制御することに成功した。これはもう、とてつもない「新技術」と言って間違いはないと思います。

例えば、この技術を応用して、ゴジラの持つ強大なエネルギーを発電に利用しようとしたら、どうなるだろうか。そうすれば、原発を使うよりもはるかに安くて簡単に電気を生み出せるかもしれないけれど、ひとたび大事故が発生すれば日本だけでなく世界全体が滅びてしまう、そんな危なっかしいものに日本や世界が依存せざるを得ない状況が作り出されるのではないだろうか。

例えば、ゴジラの休眠と暴走を自在にコントロールできる技術が出来たら、そして、ゴジラの「進化」ですらコントロール可能になり、小型化したゴジラを自由に移動させることができるようになったとしたら、どうなるだろうか。そうなった時、日本は、核兵器以上に強大な、今度こそ本当に人類を破滅に導くであろう大量破壊兵器を手にすることになる。

もちろん、反核の誓いを破って東京を放射能まみれにするよりも、ヤシオリ作戦による冷温停止の方がはるかに優れた選択だとは思う。けれども、たとえそれが日本のためという純粋な善意の結果であっても、長期的に見ればそれがとてつもない破滅をもたらすという危険性は確実に存在する。原爆の開発者ですら、きっと、最初は「祖国を救いたい」という純粋な気持ちでそれを開発したのだ。

果たして、日本は「パンドラの箱」を開けたのだろうか。その答えがどうなるのかは、今後の日本や世界の対応にかかっている。そして、その問いに答えを出すことができるのは、矢口やその仲間たちではなく、彼らの何十年か後に生まれる次の世代の人達なのだ。