新・怖いくらいに青い空

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科学技術関連で最近気になった記事など(その3)

トムソン・ロイター引用栄誉賞

「トムソン・ロイター引用栄誉賞」(ノーベル賞予測)2016年、日本からの受賞者は3名 - トムソン・ロイター

今年は、ドラッグデリバリーシステム(DDS)の研究において注目されているEPR効果を発見したとして、前田浩氏、松村保広氏が受賞。この他にも、がん免疫療法の本庶佑氏など、合計24人が受賞されています。

今や猫も杓子もDDSの時代。先進国から新興国に至るまであらゆる研究者があらゆるジャーナルにDDS関連の論文を投稿しており、その有象無象の論文の多くがEPR効果について引用しているわけです。なので、まあ、引用数を指標にしてノーベル賞候補を選んだら当然こういう結果になるよなぁ、という感じ。実際に受賞できるかというと、う~ん、どうなんでしょう。

ロジャー・チエン死去

ノーベル化学賞受賞者 ロジャー・チェン氏死去 64歳 - 産経ニュース

緑色蛍光タンパク質GFP)の発見と開発によりノーベル賞を受賞したロジャー・チエン博士が亡くなりました。享年64。ノーベル化学賞を受賞した2人目の中国系アメリカ人でした。

1960年代、下村脩博士はオワンクラゲを研究する過程でGFPを発見しました。1994年、マーティン・チャルフィー博士はGFP遺伝子を線虫や大腸菌に組み込んで光らせることに成功しました。一方、チエン博士の業績は、そのGFPの詳しい発光機構を解明したこと。そして、そのデータをもとにGFPを改良することで、様々な波長の光を放つ人工タンパク質を作り出したり、より発光効率の良いGFPを開発したことです。

もちろん、下村、チャルフィー両氏の業績も素晴らしいのですが、生物学に欠かせないツールとしてGFPをここまで普及させた最大の功労者は、チエン博士だったと言えるかもしれません。ご冥福をお祈りします。

ノーベル医学・生理学賞

オートファジーの仕組みを解明した大隅良典 東工大名誉教授が、2016年ノーベル医学生理学賞を単独受賞ということで、非常に驚きました。近年は多くの研究者が共同で研究を行ったり、多数のライバルがいる中で切磋琢磨しつつ研究が進んで行ったりするので、ノーベル賞も2人または3人が同時に受賞するケースが非常に多くなっています。また、どの分野もノーベル賞候補がいっぱいいるので、似たような分野の研究者を一まとめにして、なるべく多くの人が受賞できるよう配慮されてるように感じます(例えば、去年の医学生理学賞は、寄生虫病治療薬の開発者とマラリア治療薬の開発者が共同で受賞しましたし、2009年の物理学賞は、光ファイバーの開発者とCCDセンサーの発明者が共同受賞しました)。

医学生理学賞について言えば、21世紀に入って単独受賞したのは今年の大隅氏と、体外授精技術を開発したエドワーズ氏(2010年)しか居ません。70年代から90年代までを見ても、利根川進バーバラ・マクリントックスタンリー・プルシナーなど、数人しか居ないんですね。これらの研究者に共通するのは、他の誰も注目していない新領域を切り開いてきたということだと思います。大隅氏も会見で「競争するのは好きじゃないので、まだ誰もやったことがない分野を選んだ」と言っていました。

もちろん大隅氏の他にも、水島昇さんなど、優れたオートファジー研究者が国内外にたくさんいるのは間違いないですが、それらの成果も全て大隅氏の研究があってのものであり、やはり単独受賞しかないとノーベル賞の選考委員が判断するくらいに大隅さんの功績が他を圧倒していたという事なのでしょう。おめでとうございます。

ノーベル化学賞

分子マシンの設計と合成により、英・仏・オランダの研究者が受賞。日本でこの分野の第一人者と言えば新海征治さんだったので、今回受賞を逃したのは残念だったと思います。でも正直、こんな言い方は大変失礼かもしれないけれど、この分野にノーベル賞が与えられるとは思ってませんでした。

例えば、過去の日本人受賞者を見ても、導電性高分子、不斉触媒、MALDI、鈴木カップリングなど、社会の中で幅広く使われている材料・原理・反応を発見した人に贈られていますよね。分子マシンの研究自体は凄いと思うけど、まだまだ応用には程遠いというイメージなので、今回の受賞はちょっとびっくりしました。

将来有望かもしれないけれど応用はまだまだこれからという分野はたくさんあって、思いつく限りで言うと、光触媒(人工光合成)、配位高分子、EPR効果、DNAナノ構造体、金ナノ粒子などです。これらは毎年ノーベル賞候補にはなってますが、ぶっちゃげ受賞の確率はかなり低いし、貰えたとしてもかなり先だと、個人的には思ってました。でも、分子マシンで貰えるのなら、これらの分野も案外早く貰えるのかもしれません。

長谷川豊氏の暴言

長谷川豊氏の暴言を超えて行こう (1/2)
透析患者だった。
ドクター苫米地ブログ − Dr. Hideto Tomabechi Official Weblog : 長谷川豊さんの「患者自己責任論」発言とMXバラいろダンディ降板に思うこと - ライブドアブログ

この件に関してはもう色んな人が意見を書いているので特に何か言うことはないんだけど、一点だけ言うとすれば、何というか長谷川豊みたいに「遺伝か環境か」「自業自得かそうでないか」「善良な患者か横柄な患者か」みたいな単純な図式で物事を二分できると考えてる人って本当に愚かだなあって思います。

エウロパの探査

木星の衛星エウロパ、氷の下から海水が200kmの高さに噴出?|ギズモード・ジャパン

この記事を読んで、生物学者の長沼毅さんが言ってたことを思い出しました。長沼さんいわく、エウロパの海を探査することは現在の技術でも十分可能だと言うんですね。

しんかい6500という日本の潜水艦は、高い水圧にも耐えられるのでエウロパの海に入れても大丈夫。で、スペースシャトル級のロケットを使えば、しんかい6500を宇宙に持っていくことは余裕でできる。また、南極のボストーク湖でロシアが3000m以上の深さまで氷を掘ることに成功しているので、この技術を応用すればエウロパの氷を掘って海に到達することも可能。

まあ「言うは易し、行うは難し」ですが、実に夢のある話だと思うんです。でも、エウロパで本当に水が噴き出しているのなら、わざわざ掘削しなくても内部の水を探査することが可能となるので、これはかなりの朗報だと言えると思います。

ゾンビ遺伝子

「死」してから目覚めるゾンビ遺伝子が発見される:研究結果|WIRED.jp

まず大前提として、多細胞生物の場合、心臓が止まって死んだ後も個々の細胞レベルでは生命活動が続いている、ということは皆さんお分かりかと思います。一方で、生物が死ねば、細胞の置かれている環境自体は大きく変化することが考えられます。例えば、酸素の供給が止まり、二酸化炭素濃度も上昇するでしょう。必要な各種栄養素の供給もストップします。

であるからこそ、死の前後で発現してくるタンパク質の種類や量に違いが生じるのは当然と言えば当然であり、その中には、普段はほとんど発現しないけど死後に急に発現量が上がるタンパク質もあるでしょう。なので、この研究自体やこのニュースは非常に意義のあるものだと思いますが、ゾンビ遺伝子なんて言い方をするのは非常に違和感があるんですけどねぇ。

子宮頸がんワクチン

あの激しいけいれんは本当に子宮頸がんワクチンの副反応なのか 日本発「薬害騒動」の真相(前篇) WEDGE Infinity(ウェッジ)
子宮頸がんワクチンデータ捏造疑惑「科学的議論不足」…信大に研究再実験要求 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

この件で一番問題なのは、情報が錯綜して訳分からなくなってることでも、疫学調査で不正が横行していることでもありません。一番問題なのは、この国で、それも政権の中枢で、真実を捻じ曲げてまで子宮頚がんワクチンの普及を妨げようとする勢力がいるということです。

彼らの表向きの主張は「ワクチンには副作用があり危険」ですが、本音は「子宮頸がんワクチンは女性の婚前交渉を奨励することに繋がり社会秩序が乱れる」なのです。そして、こういう主張をしている連中は、親学とか江戸しぐさを学校教育に取り入れようとしている連中と極めて親和性が高いのです。

生物から見た世界

生物から見た世界

生物から見た世界

今、読んでます。アニメ『フリップフラッパーズ』に出てくるユクスキュルの元ネタ。

本の内容を超ざっくり説明すると、世界を認識する方法は生物種によって全く異なる、という事です。生物はこの世にある「客観的事実」を直接認識することはできません。あくまでも光や音や匂いといった「知覚標識」を通して、脳内に再構成された世界を認識しているに過ぎないのです。また、「光を感じる→明るい方へ向かう」「敵の発見→逃げる」「花の形→蜜を吸う」という風に、「世界の認識」には必ず何らかの「行為」が紐付けられています。

今でこそ、分子生物学脳科学の発達によって、この世界認識の概念が正しいことが明らかになっています。しかし、この本が書かれた1930年代当時に、初歩的な動物行動学だけを頼りにして上のような推察ができたというのは、考えてみると実に凄いことだと思います。

『けいおん!』第1期、各話感想

BSプレミアムで4月から『けいおん!』の再放送やってるど、皆さんちゃんと見てますか? 私も久しぶりに『けいおん!』を見て、懐かしいなあと思うと同時に、いろいろ新しい発見もあって、りっちゃんも最高に可愛くて、もう大満足でした。ここでは、第1期の感想や印象に残ったシーンなどを挙げておきます。

第1話「廃部!」

けいおん!』をはじめて見た時は唯が可愛すぎてたまらなかった。特に、職員室でのドジっ子描写(律や澪との初対面シーン)や、入部するのやめますって言ったあと泣きだすシーンとか、うんたんとかが、豊崎さんの名演技とも相まって実に良い感じなのだ。だが、今になって見返すともう、りっちゃん隊員しか目に入ってこない。りっちゃんという存在自体がもう最高に可愛い。澪と一緒に部員を探してる時とか、紬と一緒にマックで作戦会議してる時とか、音楽室の前でモジモジしてる唯に声をかけるところとか、もう律の一挙手一投足が可愛くて仕方がない。特に、唯や紬をなんとしてでも入部させようと奮闘しつつも、ところどころでまだ親しくなる前の初々しい距離感がにじみ出てくる感じが、なんかもう最高に愛おしいです。

第2話「楽器!」

「りっちゃんはドラムって感じだよね」って言われてちょっとムキになってるりっちゃん可愛い。あと、自分が人前に出ることを想像して頭から蒸気を爆発させる澪と、その場面でのデフォルメ感の強い作画が面白い。りっちゃんの私服も可愛かったですね。後から振り返ってみると、第1期はこの第2話と第3話あたりが一番「日常系」らしかったかもしれない。その後は、合宿やら学園祭やら、何かと行事がたくさんあって、すごい速いテンポで話が進んでいったから。

第3話「特訓!」

89点のテストをドヤ顔で唯に見せる律、「テスト前日に泣きついてきたのはどこの誰だ」と皆にばらされて照れる律、澪と紬の点数を見て「ウゲッ!」っていう顔をする律。唯の部屋で退屈そうにあくびする律、テーブルに肘をつきながら周りを見渡す律、落ち着きなく部屋の中を動き回る律、勉強の邪魔をして部屋を追い出される律。素晴らしいとしか言いようがないですね。はあ、もうなんて可愛い生き物なんだ…。

第4話「合宿!」

シリーズ屈指の澪回。せっかく合宿に来たのに遊んでばっかりな軽音部。自分達このままで大丈夫なのだろうかという不安な気持ち。それが夜の花火のシーンで一瞬のうちに浄化されていく。ほんの一瞬だけ光に照らされたステージの先に、澪と視聴者は光り輝く未来を見たのだ。一方、今回も律は異次元の可愛さで、もはやテレビの前で死人が出るんじゃないかというレベルである。海辺ではしゃぐ律、短パン姿の律、澪をからかう律、泣いてしまった澪を慰める律、その全てが愛おしい。

第5話「顧問!」

さわ子先生の本性が分かる回。本で望遠鏡作ってうっとりした顔でさわ子先生を見つめる紬さん可愛い。椅子の上に乗ってアルバム見てるりっちゃんがクソ可愛い。恥ずかしいとか言ってなかなか歌詞を見せようとしない澪と他3人の寸劇が面白い。律の「なぜなら!私が部長だから!」の言い方が可愛い。

第6話「学園祭!」

やはり京アニの文化祭回は神がかってるなぁ。ミニスカポリス姿の和さん見れるだけで行く価値あるだろ。お化け屋敷よりも、その前で受付してる超可愛いりっちゃんを見に行きたい。回想シーンに出てくる小学生りっちゃんマジ天使。ノリノリでMCをしつつ澪の緊張をほぐそうとするりっちゃん天使!大天使! 澪をリードボーカルにしつつ所々でハスキー唯ボイスが挿入される謎のPV風演出は、当時けっこう話題になりましたね。

第7話「クリスマス!」

ドヤ顔でクリスマス会のチラシ(自作)を見せてくるりっちゃん可愛い。教え子のクリスマスパーティーに参加する痛々しいさわ子先生で爆笑。クリスマスプレゼントで海苔を持ってくる高校生っていったい…。初詣に1人だけ晴れ着着てきて「着替えに帰る!」とか言って拗ねちゃう澪ちゃん萌え。

第8話「新歓!」

年末年始の話をやった次の回はもう4月というテンポの速さ。和が一緒のクラスだと分かって安心し涙目になる澪可愛すぎワロタ。ニワトリの着ぐるみ着た唯を見て逃げ走る憂が可愛い。憂と一緒に部活見学に来た純ちゃん可愛い。結局軽音部に入部しなくて申し訳なさそうにしてる純ちゃん可愛い。あと、梓と一緒に部活見学してた子(名前不明)が可愛い。

第9話「新入部員!」

徹底的にユルい空間を描くことで、その背後にある努力の存在を逆説的に示しているのが、この第9話の特徴ですね。唯もふざけてばかりいるようで実は部のために頑張ってる。律だって部長としてみんなのことを気にかけながら頑張ってる。けど、入部したばかりの新入生にはそれが上手く伝わらないということもまた事実。梓の中で「自分はここに居ていいのだろうか?」という不安がじわりじわりと押し寄せてくる描写をきちんと描いたことで、最後の演奏シーンが輝いて見えるようになる。

第10話「また合宿!」

あずにゃんの律先輩ディスり、からの、律先輩登場が最高に笑える。澪になでなでされて喜ぶ梓と、それを恍惚とした眼差しで見つめるムギちゃん萌えた。線香花火に「ガンバレ!ガンバレ!」って声をかけるムギも萌える。合宿を通して梓がこれまで見えなかった先輩達の一面を垣間見るという構成は、ベタかもしれないけど良かった。

第11話「ピンチ!」

神回。最高という言葉では言い表せないくらいの神回。普段は明るくていつも笑顔で満ち溢れている律が、この日だけは不安と嫉妬の入り混じる悲しげな表情をしている。それは、誰が悪いというわけでもない、ただちょっと感情の歯車が狂ってしまっただけなんだけど、それでもこのどうしようもなく込み上げてくる感情が、律と視聴者の心をえぐっていく。でも、最後にはやっぱり元いた場所へ、自分にとって最も心地の良い、大切な人の隣へと戻っていく。表向きは大ざっぱで元気いっぱいだけど、実はとても繊細で寂しがりな律と、そんな律のことをよく理解してずっと側にいてくれる澪。この2人の関係性が本当に尊くて素晴らしいとしか言いようがない。原作漫画の雰囲気をあえて壊し、シリアスな場面を描くという選択をしたからこそ、こういう名場面が生まれた。日常系アニメでこれに匹敵する神回は、もう二度と見れないかもしれない。

第12話「軽音!」

この最終回を見て「ああ、やっぱり第1期は完全に唯の物語だったんだなあ」と思った。これまでただ何となく毎日を過ごすだけだった女の子が、高校生になり、自分が本当に夢中になれる特別な居場所を見つけていく物語。ステージの上で泣く唯の姿は、軽音部に入る前の唯の残滓だ。他人に頼りっぱなしで、やりたい事も見つからなくて、自信も持てなかったかつての自分。でも、軽音部に入って、大切な仲間と出会い、大きく飛躍を遂げた今の自分。その感謝と喜びが全て凝縮されて歌となり発散されるからこそ、最後のライブがアニメ史に残る名シーンとなったのだろう。

第13話「冬の日!」

りっちゃん隊員を愛する全ての人が歓喜したであろう奇跡の神回。ラブレターを読んでちょっとドキドキしちゃってるりっちゃん、登下校時にキョロキョロと周りを見回すりっちゃん、前髪を下ろしたりっちゃん、弟と仲良く街を歩くりっちゃん。もう最高すぎるだろ…。くそう…くそう…。俺もりっちゃんの弟として生まれたかった…。

第14話「ライブハウス!」

梓が唯に向かって「湿布か!?」ってツッコミ入れるところが良かった。何というか、紆余曲折あったけどようやく部に打ち解けてきたんだなあ、という感じがしてホッとする。大晦日に唯の家で百合寸劇やってる律澪が素晴らしすぎて「もう結婚しちゃえば?」とすら思える。

総評

全体的な感想から言うと、まあ、「りっちゃん可愛い」としか言いようがないんだけどね。あと、日常系アニメと言いつつも、非日常のイベント(合宿、学園祭、新歓ライブ、クリスマス)を軸に話が構成されていて、『ゆゆ式』や『きんいろモザイク』のような後発の作品とは雰囲気が異なっているように感じる。これが2期になると、特別なイベントも何もないごく普通の日常が描かれるようになる。個人的には、2期は話が間延びし過ぎな気もするので、この第1期くらいのあんばいがちょうど良いと思う。

第2期と劇場版については、まだBSでの放送が終わっていないので、それが終わり次第、感想を書く予定です。

(以下追記)

第2期の感想はこちら↓

権力者の抱える孤独とルサンチマン―『いでおろーぐ!』第5巻感想

いでおろーぐ!』第5巻、素晴らしかったです。この手のラノベに有りがちな非常に無難なエンディングになるかと思いきや、まさかラストであんな大どんでん返しが待っているとは…。

「非リア充」的なものの中にある「リア充」性

このシリーズで一貫して書かれていたのは「非リア充」的なものの中にある「リア充」性だったと思います。主人公である高砂と領家は、コミュ障で友達もなかなか作れなくて、校内でイチャイチャしているカップルを遠目で見ながら「リア充爆発しろ!」と叫ぶ典型的な非リア充として描かれています。そして彼らは、反恋愛主義青年同盟部の一員として急進的な反恋愛主義とリア充撲滅を掲げて活動していきます。ところが、いざ仲間を集めて活動を展開していくと、話がどんどんおかしくなっていきます。あれ?確かに動機や目標は普通の人と大きくかけ離れているけれど、一つのことに懸命に取り組み、その中で仲間との友情を育むその姿は、もはや、彼らがあれほど忌み嫌っていた「リア充」そのものじゃね? 要するに、彼らが反恋愛主義活動に邁進すればするほど、彼らの生活は灰色からバラ色へと変わって行き、リアルは充実していく。事実、活動を続けるうちに高砂と領家は両想いの関係になり、自分の思想信条と恋愛感情との間で葛藤するようになります。ここに反恋愛主義の抱える根本的矛盾が潜んでいるのです。

しかし第4巻までは、誰もこの「根本的矛盾」に正面から向き合ってきませんでした。むしろそれは、「いやいや、反リア充活動してるお前らが一番リア充行為してんじゃねえかwww」という一種のギャグとして機能していました。本人たちも、鍛錬だとか偵察だとか色々な言い訳を頭の中で捏ね繰り回して、デートとか合宿とかを繰り返していて、「お前ら傍から見たら完全にバカップルやん!」と言いたくなることばっかりし始めます。しかも、それを指摘されたら、そのバカップル行為すら「敵である生徒会を欺くための演技」という風に自己解釈して、自分の中の感情を必死で否定して、のらりくらりと批判を受け流しながらここまで来たわけです。

ところが、第5巻ともなると、もう彼らの中にある気持ちを自他共に認めざるを得ない状況になってしまいます。作戦失敗の責任を取って議長を辞任すると言う領家に向かって高砂は、「もしお前が辞任したら俺はお前を部から追放する、その後自分も部を辞めてお前に告白する、そしたら俺達はあれほど忌み嫌っていた「リア充」に成り下がるだろう、それでもいいのか?」などと言って脅しをかけます。うわあwww完全に開き直りやがったwww そんな感じでこの第5巻で彼らは、文化祭打倒運動と称して生徒会活動の妨害や演説・ビラ配りを続けつつ、一方ではクラスのあるいは生徒会の一員として文化祭運営に勤しむという、実に典型的な「リア充」的活動を繰り返しているのです。もう倒錯しすぎて訳分かんねえよwwwっていう感じになっていますね。

こうして、最初は「友達ができない」「恋人ができない」という非リア充的なルサンチマンを原動力として活動していたはずなのに、同志と共に活動に邁進するうちに次第に私生活がリア充的なものに変わっていく、という前代未聞の倒錯的状況が出来上がってしまったのです!

リア充」的なものの中にある「非リア充」性

一方、第1巻から高砂達の敵として立ちはだかる生徒会長・宮前の方では、高砂達とは全く逆の変化が生じていたのです。つまり、「リア充」的なものの中にある「非リア充」性が、この第5巻では強烈なインパクトを持ってついに表出してきたというわけです!

これまで宮前は、恋愛至上主義を掲げて生徒たちに恋愛の尊さ、素晴らしさを説いて回り、高砂達の反恋愛主義活動に強い敵意を向けてきました。生徒会長としての人望も厚く、常に明るい輪の中心にいる彼女は、見るからにリア充然としています。ところが実際の宮前さんは、生徒会長としての多忙な日々に追われまともに恋愛もできてないし、有能すぎるが故に表裏なく話のできる友達も多くないようです。さらには、高砂と領家が一緒にバカップル行為をしているのを見て、それを羨ましがるような様子も見せています。極めつけが、今回の文化祭でした。文化祭全体の準備や反恋愛主義活動の取り締まりに追われ、自分のクラスのことには手が回らない状態になってしまい、さらに当日は過労のために倒れてしまって思うように仕事ができません。ここでまさに「リア充」と「非リア充」の不思議な逆転現象が発生しているのです。

そして第5巻のクライマックス。これまでずっと生徒会活動を手伝ってくれた(と宮前が思い込んでいた)領家が実は反恋愛主義活動団体のリーダーだったと分かると、ついに宮前の怒りが爆発。全校生徒に向かって「リア充爆発しろ!」と叫んだ後、反恋愛主義を標榜しながらリア充行為に手を染めてきた領家と高砂自己批判を要求します。さらには、こんな輩に反恋愛運動は任せられないと言って、領家を反恋愛主義青年同盟部議長の座から引きずり降ろし、自分が後任の議長になって完全に部を乗っ取ってしまったのです! こうして宮前もまた、高砂たちとは別の意味で完全に開き直り、今後は反恋愛主義活動に邁進すると誓うのです。

権力者の抱える孤独

宮前という人は結局、恋愛至上主義の信奉者でもなく、反恋愛主義や非リア充に対するヘイトスピーカーでもなかったのです。彼女はきっと、自分の心の中で沸々と湧き上がるルサンチマンの存在を認めたくなかっただけなのです。「彼氏が欲しい!友達が欲しい!リア充になりたい!」という強い欲求、さらに、その欲求が満たされないことによって次第に強まっていく僻み、妬み、嫉妬、悲しみ、怒り、その他あらゆる負の感情。でも、そういった負の感情が自分の中にあることを認めてしまったら、「自分は非リア充である」という耐え難い事実を認めてしまうことになる。であるからこそ、宮前は自分の中にある負の感情を必死に押し殺し、その感情の矛先を反恋愛主義者や非リア充へと向けてきたのです。

その姿を見て私は、映画『J・エドガー』の中で描かれる元FBI長官、ジョン・エドガー・フーヴァーのことを思い返さずにはいられません。彼もまた、同性愛者としての自分のアイデンティティを公表することができずに、偽りの自分を必死に演じながら生き続けた人でした。そして、やはり自分の中にある「弱さ」を認めることができず、FBI長官としての職権を乱用して、どうしようもない感情の矛先を他人へと向けたのです。これは、よく考えてみると実に怖ろしいことです。似たような現象は、様々な場所でいつ何時起こってもおかしくないし、万が一、自分が権力を手にした時、同じことをしないという保障はどこにもありません。

結局、宮前やフーヴァーが必死に壊そうとしたもの、それは、自分が望んでも手に入れることのできなかったものに他なりません。本当は自分も、反恋愛主義青年同盟部に入って感情の赴くままに自由に生きたい。でも、自分の立場とかプライドが邪魔をして、それができなかった。だからこそ宮前は、自分が手に入れられなかった自由を手に入れた人達を、心の底から羨み、妬み、それを必死に壊そうとしたのです。しかし、第5巻のラストでついに宮前は、自分を閉じ込めている檻から脱出し、感情を爆発させることができたのです。そして、それを可能にしたのは、宮前と領家との間の、立場や思想信条を抜きにした、正真正銘の心の交流だったのだと思います。

最初のうちは、宮前は、学校という社会の中で非リア充たちを生き辛くさせている元凶、主人公たち非リア充の敵としてしか描かれませんでした。しかし、物語が進むにつれて、非リア充側にリア充性が付与されるようになり、逆に、リア充である宮前の側の非リア充性にも焦点が当たるようになっていく。そして、文化祭での非リア充描写やその後の心の叫びを通すことで、最初は敵キャラでしかなかった宮前が、すごく魅力的で共感を呼ぶキャラクターへと変身していきました。まさに、ライトノベル5巻分を使った大どんでん返しです。今後の展開がどうなるのか、全く予想もつきません。

『響け! ユーフォニアム2』第4話と原作小説との比較

みぞれの独白と自己嫌悪

アニメの第4話に全体的に足りないのは、各登場人物から放たれる「毒」と、それが自分や相手を容赦なく傷付けていく様だと思います。第4話にしてようやく明かされるみぞれ先輩の心の叫び。希美のことが大好き、自分には希美しかいない、自分が吹奏楽を続けているのは全て希美のため。希美にとって自分は、大勢いる友達の中の一人で、退部することすら教えてもらえない、取るに足らない軽い存在。そんな事実を思い知らされることがたまらなく辛い! みぞれが見せる希美への強い執着。ここまでは原作もアニメもほとんど同じなんですが、ここから原作では次のような台詞が続きます。

「気持ち悪い。こんなふうに友達に執着するなんて」
「そんなことないです」
久美子は静かに首を横に振った。それ以来、どうしていいかわからなかった。震えていたみぞれの声に、微かな嗚咽が混じる。途切れ途切れの言葉が、久美子の鼓膜を激しくぶつ。
「私は気持ち悪いと思う。自分自身が、気持ち悪い」
彼女は自身の膝へとその顔を埋めた。黒髪が、少女の横顔を完全に遮る。
(第2巻、259ページ)

ああ、みぞれ先輩…。苦しい…ただただ苦しい…。みぞれの放つ毒が希美に届くことはありません。むしろ、みぞれは自分が放つその毒によって苦しんでいるように見えます。こんなにも友達に執着してしまう自分自身が「気持ち悪い」、この強烈な自己嫌悪の言葉があるのとないのでは、やはりシーン全体の印象が変わってくると思います。そして興味深いことに久美子は、この「気持ち悪い」を間髪入れずに否定しているのです。それはきっと、久美子もまた、本当の自分を見せることのできる唯一無二の存在である麗奈に、どうしようもなく執着しているからなのでしょう。

優子の嫉妬と献身

さあ、ここから優子先輩が登場。ここでの彼女の台詞もまた、強力な毒が内包されています。なんで私じゃダメなのか。何も言わずに辞めていった希美なんかよりもずっと、みぞれのことを見てきたのに。こんな風に直接口に出して言うことはありませんが、優子の台詞には確実に、希美への嫉妬という毒が含まれています。けれども優子は、そんな気持ちを心の奥底に沈めて、みぞれがきちんと希美と向き合えるようにエスコートしてくれるのです。アニメ版では、優子によって暗闇から引きずり出されたみぞれが、一人で希美の目の前に立って話し始めていますが、原作ではそこがちょっと違っています。

「きちんと話してみ」
「で、でも、」
「大丈夫、うちがついててあげるから」
優子は力強く断言すると、ずいずいとみぞれを希美のほうに差し出した。みぞれがうろたえたように視線をあちらこちらに巡らせる。彼女の細い指が、落ち着きなさそうに優子のセーラー服の裾をつかんでいる。
(第2巻、265~266ページ)

この場面の素晴らしさ、皆さんお分かりいただけますか? 小説の中のみぞれは、希美に「なんで辞めるとき私を誘わなかった?」と聞いてる間、ずっと優子のセーラー服を掴んでるんですよ。そして、誤解が解けて、良かった、また希美と友達に戻れる、また一緒に部活ができる、と安堵した瞬間、そのセーラー服からみぞれの手が離れるのです! なんてことだ…。優子先輩が可哀想すぎる…。

この描写があるからこそ、その後のあすか先輩の「みぞれちゃんはズルい性格してる」「優子ちゃんは保険」という台詞が活きてくるんですよね。ああ確かに、原作のこの場面を読めば、みぞれは優子を保険としてキープしていて、希美とまた一緒に話せるようになった途端に、優子を切り捨てているように見えなくもない。もちろん、あすかの言ってることは0か100かという極論だし、久美子も「先輩は穿った見方をしすぎ」と言っています。けれども、怖ろしいことに、あすかの言ってることが100%間違ってると断言できる材料はどこにも無いのです。

みぞれの気持ちに気付かない希美

さらに原作とアニメで違うのは、みぞれと再会した後の希美の台詞と、それを聞いている時の久美子の心境です。アニメ版では、希美が「もしかして、仲間外れにされたって思ってた?」と言った後、みぞれが泣きだしてしまい、希美は割と真剣に謝っています。しかし原作では、謝る時の台詞のトーンが全く異なっています。

「もしかして、それでハブられたとか思わせちゃった? ちゃうねんで、そういうんと全然。みぞれのこと嫌いとか、そんなんじゃまったくないから! ごめんな、勘違いさせちゃって」
焦ったように告げる希美の声は、どこまでも軽やかで美しかった。互いに対する熱量が、みぞれと希美ではまったく違うのだ。だから、彼女はこんなにも無邪気な顔ができる。ごめんね、気づかなかったよ。くすぶった過去も、そんな言葉ひとつで片付いてしまう。
べつに、大丈夫。そう、みぞれが小さく首を横に振った。
「勘違いなんて、してない」
「ほんまに? わたし、やばいことやってへん?」
「うん、大丈夫」
みぞれはそう言って、わずかにその目をすがめた。よかったー、と希美がはにかむような笑みをこぼす。その光景に、久美子は静かに目を伏せた。きっとこれから先、みぞれの抱える想いを希美が知ることはないのだろう。そう考えると、少しだけ舌の裏側がざらりとした。
(第2巻、267~268ページ)

この描写、本当に凄いと思いませんか。希美は、自身が放つ毒によってみぞれがずっと苦しんでいたなんて気付かずに、「どこまでも軽やかで美し」い口調のまま話し続けるのです。希美のその軽やかさが、その無邪気さが、あまりにも残酷すぎて、久美子は目を伏せるしかありません。何が「よかったー」だよ! みぞれは1年間もお前のせいで悩んでたんやぞ!

でも、この残酷さを感じてるのはあくまでも久美子(と優子)だけなのです。みぞれ本人はきっと、再び希美と話すことができて、また一緒に音楽ができると分かって、今はただもうそれだけで満足で、演奏の雰囲気までガラッと変わるくらいに舞い上がってしまっている。このままでもいい、ただ一緒にいられるだけで私は幸せ。だから、みぞれは希美に自分の気持ちを伝えることはないし、希美がみぞれの気持ちに気付くこともない。表面的に見ればハッピーエンドなんだけど、実は、二人の間にはまだ大きな断絶がある。こんなどうすることもできない歪さを目にして、久美子もかける言葉が見つからない。

一方、アニメでは希美が、完璧ではないにせよ、みぞれの心情を理解していますよね。何も言わずに退部したことでみぞれを傷付けてしまったという事実に気付いて、ちゃんと真剣に謝っています。なので、「少しだけ舌の裏側がざらりとした」なんていう久美子の複雑な心境が描かれることもありません。

みぞれの謝罪

もう一つ、原作と大きく異なるシーンがあります。それは、みぞれもまた希美に対して「誤解しててごめん」「ずっと避けててごめん」と謝ったことです。希美が無自覚のうちにみぞれを傷付けていたのと同様に、みぞれがずっと希美を避け続けることで希美を傷付けていた可能性は十分にあると思います。だからこそ、あのような謝罪シーンが挿入されたのかなあ、と思います。

と同時に、京アニのスタッフは「そんなに希美が大好きなら、自分から『何で辞めたの』って聞きに行けば良かったんだよ。そして、希美の気持ちはどうであれ、『私は希美と一緒に演奏したい』と我がままを通すべきだったんだ」というような事を言いたいのかなあと、ふと思いました。

もちろん、みぞれがそうしなかったのは、現実を思い知らされるのが怖かったからという理由もありますが、逆に言えば、「そうする必要がなかったから」とも言えるんじゃないでしょうか。つまりみぞれ先輩は、希美が居なくなってからも、それなりに吹奏楽部の活動を楽しんでたんですよ、きっと。優子が言っていたように、部活を続けてこれたのは希美だけが理由ではない。ちゃんと優子という大切な親友と苦悩を共にし、喜びを分かち合っていたんだ。たとえそれが希美のいない間の「保険」だったとしても。

京アニによる改変の意味

要するにアニメ版では、各キャラクターの仕草や言葉の中にある「毒」の成分がかなり希釈されているし、その毒が自分や相手を攻撃していく描写も減らされているのです。京都アニメーションは、時々、こういう原作改変をしてきます。例えば、『氷菓』の第7話では、非常に暗い原作小説のラストを変えて、かなり救いのあるハッピーエンドにしています(関連記事:氷菓 第7話「正体見たり」 感想! - もす!)。映画『聲の形』でも、原作漫画にあるような、目を覆って「うわあ」って言いたくなるようなきつい場面&胸糞セリフが、割と少なめになっています。

では今回、なぜ京アニはみぞれと希美の再開シーンを原作通りにやらなかったのか。おそらく、作品全体の流れやテーマから考えて、このシーンにそこまで深い意味を持たせる必要は無いと判断したんじゃないでしょうか。ぶっちゃげ原作第2巻では、このシーンが実質クライマックスなんじゃね?っていうくらい凄い熱量があります。この作品が切ない百合小説だったなら、誰もが手放しで称賛したでしょう。しかし、この作品全体のテーマとかバランスとかを考えて見た場合には、「う~ん、そこまでこの場面に、熱量をかける必要があるのか?」と疑問を持つ人がいてもおかしくないでしょう。

ただ、誤解とすれ違いの中で苦しみ続けたみぞれとその苦しみに全く気付けない希美という圧倒的な断絶・距離感・温度差、そこから生まれる切なさや言いようのない割り切れなさ、そんな状況を見つめる久美子の複雑な心境、そういった一連の描写は本当に見事なので、それがカットされたのは少し惜しい気もします。

原作小説の持つテーマとは何かとか、実際原作では再会シーンがどんな感じだったのか、について知りたい方は、私が以前書いた記事(『響け! ユーフォニアム』の2年生組の関係性が尊すぎて生きるのがつらい! - 新・怖いくらいに青い空)を読んでもらうといいと思います。

アニメ特有の表現

すでに多くのブログなど(例えば、響け!ユーフォニアム2 4話の感想と光と影の演出に着目して語ってみた - 物語る亀)で指摘されているように、光と影を用いた演出が見事でしたね。教壇の下の暗闇にいるみぞれを、優子が引っ張り上げて光の中へを連れ出していく。この印象的なシーンを入れることで、優子の果たした役割が視覚的にはっきりと分かるようになります。しかし、優子によって救われたみぞれは、すぐに優子のもとを離れて、希美と二人で新しい場所に旅立つのです。ユダヤの民をエジプトから連れ出したモーセが結局最後まで約束の地に辿り着けなかったように、みぞれを救い出した救世主である優子自身は決して救われることはないのです。

そして、これも既に指摘されているとは思いますが、窓枠を巧みに使った表現技法も良かったですね。練習中に再開したみぞれと希美は太い窓枠によって隔てられていますが、それは言うまでもなく2人の間にある「断絶」を表現しているわけです。その後、オーボエを持ってきた希美と怯えるみぞれが再会するシーンでも、十字架に見立てられた神々しい窓枠が2人を隔てています。そして、泣きだしたみぞれのもとに希美が近づくことによって、ようやくこの断絶が解消されるのです!

まあぶっちゃげ、光と影の表現も、窓枠などを使って断絶を表現するのも、京アニに限らずいろんなアニメで使い古されているので、特に目新しさを感じるものではありません。でも、小説の名場面をアニメでしかできない表現で再構成する技法は、さすがとしか言いようがないですね。

それと、細かいところですが、みぞれが久美子に心情を話すシーンで中学時代の回想が入ったのは凄く良かった。これがあるのとないのとでは、台詞の重みが全然違うと思います。

お祭りで一人だけふんどし履いてる吹雪という概念

今日は上のマンガを見て思ったことを書きます。

なんて言えばいいんだろうなあ…。この概念の良さを上手く言葉にするのは難しいのだけれど…。

吹雪は、周りに娯楽施設もほとんどないド田舎の出身なんで、年に数回行われる村の祭りとか大好きなんですよ。で、艦娘になって、「今度、鎮守府で秋祭りやるから」って聞かされてメッチャ楽しみにしてたわけです。しかも、村にいる時は同年代の子とかあんまり居なかったから、仲間と一緒にわいわいガヤガヤ準備する文化祭的なノリも新鮮で、そうそれ自体もメッチャ楽しくて、前日とかワクワクしすぎてなかなか寝付けなかったりするわけです。

そんなこんなで、お祭り当日になって、法被とふんどし付けて意気揚々と部屋を飛び出したまでは良いんですが…。なんか、他の艦娘たちはせいぜい制服の上から法被を着てる程度で、ましてや、ふんどしまで付けてる子とか誰も居ないわけです。みんな吹雪の格好見るたびに「ちょwwwなんだよそれwww」みたいな感じで笑うし、「うわ~女子なのにふんどしとかあり得ないわ~マジで引くわ~」とか心無いこと言ってきたりするんですよ。

で、それを聞いた吹雪は、「あれ?村では毎年この格好だから何とも思わなかったけど、冷静になって考えたらこの歳にもなってふんどしってメッチャ恥ずかしいことなのかな?」みたいなこと考え始めて、時間が経って人がどんどん集まってくるにつれて羞恥心が沸々と湧き上がってきて、表情がどんどん曇ってゆくんです。一人だけ「異質」な格好をしているという恥ずかしさに押しつぶされそうになって、お祭りを楽しもうなんていう気持ちはもう完全に消えてしまって、一刻も早くこの恥ずかしさから解放されたいという気持ちしかなくて、やがて、何も知らずに一人はしゃいでいた昨日までの自分がバカみたいに思えてきて…。お祭りを他の誰よりも楽しもうとしていたのに全然楽しめなくなってる自分がいて、その周りには一点の曇りもない笑顔で祭りを心の底から楽しんでいる他の艦娘達がいて…。ふんどしなんていうしょうもない理由のせいで周囲から浮いてしまっている自分がたまらなく情けなくて、恥ずかしくて、悲しくて…、ついに耐えきれなくなって泣き崩れてしまう吹雪ちゃん、ホント尊いと思います。

誤解の無いように言っておきますが、ここで述べているのは、吹雪が他の艦娘と比べて「子どもっぽい」から可愛い、という話ではありません。吹雪と同年代の艦娘で吹雪より「子どもっぽい」艦娘なんてたくさんいると思います。同様に、特I型駆逐艦を愛する提督たちがよく言っている「芋っぽい」という概念とも少し違うんですよ。う~ん、うまく説明するのが難しいんだけど…。

例えば、昭和のある時代の子どもって、冬でもピチピチの短パン履いてたし、下着も白のブリーフでしたよね。でも、今の子どもで、そんな格好してるのってほとんど居ないですよね。なら、昭和の子どもは今の子どもより子どもっぽかったり芋っぽかったのでしょうか? そういうわけではないですよね。これはただ単に、昔はブリーフとか短パンを着るのが当たり前だったというだけの話です。

吹雪の場合も同じだと思うんですね。吹雪の生まれ育った村では、お祭りで女子がふんどし付けるのは、「付けても付けなくてもどっちでもいいけど、まあお祭りだし、本人がそうしたいって言うんなら付けてもいいんじゃね?」みたいな感じです。つまり吹雪にとって、それは、ごく自然な当たり前の光景として、これまで認知されていたわけです。しかし、、艦娘になり都会に出て初めて、それが実は普通とは違う、ともすれば物凄い恥ずかしいことなんだと気付くわけです。この「気付き」によって生まれる羞恥心や葛藤、繊細な心が揺さぶられていく様こそが、吹雪という少女の持つ最大の萌えポイントだと思いますね。上でも述べた「芋っぽい」と同じように、何かこの概念を一言で表せる言葉があれば便利なのですが、今のところそんな言葉は思いつかないですね。

さらに、この概念は、別の事例でも当てはまると思います。例えば、休日に皆で海水浴に行くことになって、吹雪はめっちゃテンション高めで服の下から水着きてたりしてて、海(鎮守府の周りとは違うちゃんとした海水浴場)に着いて一目散に服を脱いでスクール水着姿で遊び始めたわけですが、更衣室で着替えてやってきた他の子達はみんなスク水じゃない普通の水着を着ていて、「ぎゃはははwww学校の授業でもないのにスクール水着とかwww小学生かよwww」とかバカにされて、顔真っ赤になって泣きそうになってる吹雪ちゃんとか、すごく良いと思いませんか。