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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ココロコネクト』と『氷菓』から絆について考える

ライトノベル ココロコネクト 古典部シリーズ

ココロコネクト』における絆

ココロコネクト ステップタイム (ファミ通文庫)

ココロコネクト ステップタイム (ファミ通文庫)

ココロコネクト』のアニメ版がもうすぐ始まりますが、私は最近この作品について色々と考えを巡らせてきて、その中でも私がもっとも気になったというか不思議に思ったのが、なぜ文研部5人の絆はかくも強固で壊れることがないのか、また、そういった強固な絆が生み出される「源泉」みたいなものは一体何だったのか、という部分でして、それについてずっと考えてきたわけです。そして、その問いに答えるためには、ある種の原点回帰、すなわち、文研部5人が出会って間もない頃に彼らが何を考え何を感じていたのか、といった部分を知ることが必要だろうと思いました。先月発売の『ココロコネクト ステップタイム』に収録されている短編『ファーストエンカウンター』は、まさに文研部5人が部室で顔を合わせてから正式に部を発足させるまでの流れを描いた短編であって、そこには私の読み通り、先程の問いに答えるための重要なヒントが書かれていました。

「生徒は必ず何らかの部活に所属していなければならない」という校則のある山星高校で、どの部活にも入部することのできなかった太一・伊織・稲葉・唯・青木の5人は、後藤先生によって一つの教室に集められ、そこでテキトーに活動するように言われたわけですが、当然、彼らはまだお互いの事を何も知らず趣味や性格も全然違うので、部活動へのモチベーションも低く、やりたい事も見つからず、最初の1週間はただグダグダと時間をつぶして終わってしまったわけです。そんな中で、後藤は「流石に何もしないのはまずいので、2日後までに部の方向性を決めるか、別の部に入り直すか、どちらかを選択しろ」と迫ってきて、さらに稲葉も「この部活をやる意味があるのか?」と部員達に問いかけます。部員はみんな静かになってしまって、その場は解散、設立早々に文研部は自然消滅か?、という事態になってしまいます。

太一は自分の今後について考えを巡らせます。友人からはサッカー部に入らないかと誘われている、そこは部員も多く友達もたくさんできるだろう、明確な目標に向かって汗を流す方が健全で有意義ではないか。合理的に判断すれば、文研部に残るよりも、サッカー部に入る方が断然いい。他の部員達も、文研部に残るよりも別の道に進んだ方が良いのではないか、と思い悩みます。しかし、いざ後藤が指定した回答期限日になると、誰かが声をかけたわけでもないのに、部員がみんな部室に集まって、部は存続することになります。太一が何故文研部に残ろうと思ったのか、その理由は次のように書かれている。

合理的に考えることは、とても大切なことだ。無理しない方が、正しい道に間違いなく進むことができる。
でも、どんな合理的な理由だって、たった一つの感覚に敗れ去ってしまうことがある。
それが、『なんとなく』だ。
なんとなくなのだ、本当に。
なんとなく自分は、みんなと一緒にいたいと思った。
部活の内容とか、他の色んなものを、度外視しても構わないと感じた。
けれど『本当の友達』になるような人間との繋がりは、そういうものだと思うのだ。*1

これはまさに「絆」というものの真髄をよく表している文章だと思います。これは、私達の身の回りの「繋がり」について考えてみれば分かりやすい。生まれ育った土地、そこで得られた友人、恋人、家族との絆、そういったものに我々は愛着を感じているわけですが、その感覚の起源を合理的に説明することは極めて難しいと思うんですね。唯一挙げるとすれば、偶然その土地で生まれ、偶然その家族と共に育ち、偶然その友人や恋人と出会った、という事実それ自体にこそ価値が見出され、そこに愛着が芽生えるんだと思いますが、そうだとしてもやはりそこに損得勘定や合理性が入る余地はない。そこには「なんとなく心地良いから」「なんとなく一緒に居たいから」という感性的な理由しか存在しないからこそ、それは論理や合理性や損得勘定を超えたものになるわけです。

氷菓』における絆

さて、上の文章は次のように続きます。

『なんとなく』の絆は破れない。
『なんとなく』は理論や理屈を打ち砕く。
『なんとなく』は方向性の違う者達だって一緒くたにしてしまう。*2

では何故、「なんとなく」の絆は、合理的な判断によって作られた絆よりも強固なのか。関係性が生まれる時の理由(合理的か、「なんとなく」か)によって、絆の強固さが違ってくるのは一体何故なんだろう。そういう疑問を解こうとした時、他者の個性をどこまで許容できるか、という問題が鍵になってくると思います。それを考える上で、まずアニメ『氷菓』の第7話について考えてみたいと思います。

原作小説を読んだ方なら分かると思いますが、第7話のエンディングは原作とアニメとでかなり違っています。原作では、千反田の考える理想的な兄弟の姿が打ち砕かれるバッドエンドなわけですが、アニメ版では足を怪我した妹を姉が背負っている場面を見せ、希望を残したエンディングになっています。その両者の違いについて、ブログ「もす!」では、次のように指摘がされています。

仲のいい兄弟もいれば、仲の悪い兄弟もいる。兄弟と呼ばれる関係にある人たちなんて、世の中に何十億人といるのです。千変万化ですよ。
だから原作のこのエピソードは、確かにすごく面白かったけど、考え方的には納得しかねるものでした。善名姉妹や折木姉弟は確かに仲良しでないかも知れないけど、そうじゃない兄弟だっているのに。
(中略)
浴衣を貸してと言えない関係……であることには間違いがないのだろうけど、それは梨絵が自分の持ち物に対して少し潔癖で、嘉代があまり強く言えない性格であることの結果にすぎない。しかもこれは、一面的な見方でしかないわけです。
兄弟だって、親子だって、友達だって、恋人だって、ある一面では嫌だと思っている部分の一つや二つはあるものです。*3

このブログでは、仲の良い兄弟なんて所詮枯れ尾花だという奉太郎の考え方に、2つの観点から疑問を呈しています。1点目が、仮に善名姉妹の仲が悪いとしても、それをもって「世の中の全ての兄弟もそういうものだ」という風に一般化するのは無理がある、というもの。2点目が、着物を貸し借り出来ない関係にあるからといって、仲が悪いとは言い切れない、というもの。ここでは2点目が重要で、要するに、梨絵が着物を貸そうとしないのは、彼女が潔癖だからか、単に独占欲が強いからかは分からないけれども、彼女が「貸したくない」と思うこと自体はある意味どうすることも出来ない事なわけです。これは食べ物の好き嫌いに例えれば分かりやすいと思いますが、例えばピーマンが嫌いな人がいて、その人にピーマンの美味しさや栄養学的な価値を語って食べるように説得したとしても、やはりそう簡単に食べられるようにはならないわけですね。それと同じように、善名姉妹が着物の貸し借りをできないのもある意味仕方のないこと、どうすることも出来ないことだと言えるわけです。だからこそ、貸し借りができないことを理由として「善名姉妹は仲が悪い」と断定した原作は間違っているのだ、とこのブログでは暗に原作を批判しているわけです。*4

まとめ

以上で見えてきたのは個人の好き嫌いは理論や理屈を超えるということでした。ちょうど、ピーマンが嫌いな人に「ピーマンは栄養価が高いからちゃんと食べるべき」という理屈を述べても無駄なのと同じように。これは、人間関係の中で生じる対立にも、同じことが言えると思います。「あの人のこういう考えは間違ってる」「あの人のこういうところが気にくわない」「あの人のこういう性格は良くない」といった感情も、個人の好き嫌いに由来するものである以上、理論や理屈を超えるものなんですね。であるからこそ人間関係の中で生じる意見の食い違いや対立も、理論や理屈を超えるものなわけです。ゆえに、集団の中で対立が生じることは、避けることのできない仕方のないことだと言えるわけです。『ココロコネクト』では、文研部が巻き込まれた現象によって、部員間に対立が生じてしまうわけですが、これもやはり、理論や理屈を超えたものである以上、避けることはできないんですね。

では、理論や理屈を超えた対立にぶち当たった時、それを克服して絆を維持するには何が必要なのか。これはやはりその関係が生まれ続いてきた根本的な理由、すなわちあの「なんとなく」という理論や理屈を超えたものが必要になるんじゃないかと思うのです。理屈を超えた対立は、理屈を超えた何かでしか解消できない。だからこそ、「なんとなく」の絆は破れないんじゃないかと思います。

結局、完璧な人間など存在しないし、完璧にお互いを理解しあえる人間関係も存在しないわけですから、絆を維持する上で結構重要になってくるのがいかに相手の欠点を許容できるか、「たとえそういう欠点があったとしても、やっぱり絆を維持したい」と思えるか、それが重要になってきます。合理性や損得勘定だけでできた関係は、結局、合理性や損得勘定を超えたところにある対立を克服することができないわけですね。だからこそ、強固な関係(対立が生じても切れることのない関係)は、その根源として、合理性や損得勘定を超えたものを持っていなければならない。

例えば今、原発事故によって放射能に汚染され故郷を奪われた多くの住民が、その故郷への帰還を待ち望んでいます。これについても、合理性だけで考えるなら、帰還するという選択肢はなかなか取れないんじゃないかと思います。常に放射能津波の恐怖が付きまとう町に住むよりも、もっと便利で仕事もある別の町に移り住む方が合理的ではないでしょうか。それでも、多くの住民が帰還を望んでいるのは、そこに合理性を超えた愛着があるからです。

だからこそ、関係性の成立時に「なんとなく」という「理論と理屈を超えた」理由を有する文研部は、強固な絆を築くことができたのだと思います。結局、今の段階で私が導き出した答えがこれになります。間もなく『ココロコネクト』の物語もクライマックスを迎えると思われますが、そこでたとえ何があったとしても、文研部5人の絆は決して揺るがないという確信が私の中にはあります。

*1:第7巻、70〜71P

*2:第7巻、71P

*3:引用:http://mikihara.blog70.fc2.com/blog-entry-2965.html

*4:しかし、だからと言って、原作の結末よりアニメの結末の方が良いと断定することは出来ないと思います。どちらが良いかは、それこそ個人の好き嫌いの問題であり、私は「なんとなく」原作の方が好きです。