新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

アニメ『かぐや様は告らせたい』第8話感想

かぐや様は告らせたい』の序盤~中盤にある話の中で、私は期末テスト回「白銀御行は負けられない」が一番好きだ。この回だけは、恋愛頭脳戦や白銀会長への恋心とか関係なしの、かぐやの素の部分が垣間見えていると思うからだ。

かぐやの行動の奥にはいつも白銀会長への想いが隠れている。白銀より優位に立とうとして策を練るかぐや、白銀のことが好きすぎて挙動不審になっているかぐや、作戦行動中に予想外の邪魔が入ってテンパるかぐや…。もちろん、「テストで白銀に勝って恋愛頭脳戦を優位に進めたい」という下心もほんの少しくらいはあったのかもしれない。でも、今回に限っては、白銀のことを告白させたい想い人としてではなく、勉強におけるライバルとして見ていたように思う。

かぐやは、ただ単純に、悔しかったのだ。

天才と称された自分がテストで誰かに負けるということが、涙が出るほど悔しくて、悔しくて仕方がなくて、それでも、悔しがる姿を他人に見せないように、唇をグッと噛みしめて泣くのを我慢している、そんな一人の少女がそこにいた…。

そこには大財閥の令嬢としてのかぐや様も、白銀に恋するお可愛いかぐや様もいない。そういった「肩書き」や「仮面」をそぎ落として、それでもなお残る、とてもプライドが高くて負けず嫌いな、普通の女の子がそこにはいた。

僕は単行本でこの話を初めて読んだ時、もちろんギャグ・コメディとしての面白さを感じてはいたけれども、それ以上に何かとても暖かい気持ちになった。感動すら覚えた。そして、ああ、かぐやも他の子と同じ、ごく普通の女子高生なのだと初めて思った。

昨日映画館で見た『ドラえもん のび太の月面探査記』で、ゲストキャラの故郷として描かれた惑星の名は「かぐや」星。2日続けて「かぐや」にまつわる記事を書くことになったのも、何かの巡り合わせか。

『ドラえもん のび太の月面探査記』の作品構造

「定説の世界」と「異説の世界」

教室で「月にはウサギがいる」と言ってバカにされたのび太は、異説クラブメンバーズバッジで「月の裏側には文明がある」という異説が本当になった世界を創造し、そこでムービットという生物を作り、彼らは月面のクレーターで高度な文明を築くようになる。一方、のび太達の通う小学校に謎の少年・ルカが転校してくる。ドラえもん達とルカは、異説クラブメンバーズバッジを付けて月へ向かい、ムービット達の手厚い歓迎を受ける。

過去・未来、宇宙、地底、海底、雲の上…。ドラえもん映画の舞台となる世界は、時代を超えて我々の想像力を掻き立て、多くの子ども達を魅了し続けてきた。それらの世界の大半は、のび太達が住んでいる作中世界と同一の世界であるとされてきた。例えば、『宇宙開拓史』『宇宙小戦争』『アニマル惑星』『ブリキの迷宮』などは、作中世界における遠い「宇宙」にある星が舞台。『恐竜』『日本誕生』『太陽王伝説』などは、作中世界の「過去」を舞台にしたお話。『銀河超特急』『ひみつ道具博物館』などは、作中世界の「未来」が舞台。『大魔境』『海底鬼岩城』『竜の騎士』は、作中世界の人類に発見されていない地球上の「秘境」を描いている。我々の住むこの世界にはまだ人類の知らない秘密がたくさんあって、そういった未知の世界でのび太達が冒険を繰り広げるというのが、大半のドラえもん映画における基本コンセプトである。

一方で、のび太達が住む作中世界とは全く異なる別の世界を舞台にしたドラえもん映画も、数は少ないが存在する。例えば『魔界大冒険』は、もしもボックスで作り出された魔法世界が舞台。『創生日記』は、のび太が夏休みの宿題で作った全く新しい世界が舞台となっている。『ドラえもん のび太の月面探査記』も、歴代のドラえもん映画では少数派であった、作中世界と地続きでない異世界を舞台にした作品である。

本作でのび太達が普段住む世界を便宜上「定説の世界」と呼ぼう。そこから異説クラブメンバーズバッジを使ってドラ達とルカが向かうのが、ムービット達が住む「異説の世界」である。ムービットと彼らが築く月面文明は、異説クラブメンバーズバッジを付けた者にしか見ることはできないとされている。

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「異説の世界」とは、いわば、人類の想像力が生み出す空想上の世界である。「地球の内部は空洞になっている」とか「火星には火星人が住んでいる」とか「生き物は全て数千年前に神によって作られた」とか、人類が並外れた想像力を駆使してこの世界の理を理解しようとした過程で生まれてきた空想世界である。それは、「定説の世界」からライトを当てて映し出された像のような、実体のないものであるが、それを実体化して見せるのがこの異説クラブメンバーズバッジだと言えよう。

重なり合う2つの世界

物語は「異説の世界」の月面で進行するのかと思いきや、ここから作品構造は複雑さを増してゆく。実はルカとその仲間は、カグヤ星という星で科学者によって作られたエスパルという種族で、彼らの力を悪用しようとするカグヤ星人から逃れ、1000年以上も前から月の地下深くで生活していたのだ。月で暮らしていた11人のエスパル達はカグヤ星人に捕えられ、カグヤ星へと送還されてしまう。

ここで注意しておきたいのは、ドラえもんのび太、その他すべての人類と同様に、ルカ達やカグヤ星人も「定説の世界」に生きているということである。「異説の世界」で生きているのは、あくまでもドラ達が作りだしたムービットだけであって、本筋の物語はあくまでも「定説の世界」で進行しているのだ。

さて、ルカ達を助けるためにドラ達もカグヤ星へと向かう。そこでラスボスとして立ちはだかったのが、カグヤ星を支配しているAI・ディアボロ。絶体絶命のピンチに陥るドラ達だったが、そこに「異説の世界」にしか居ないはずのムービット達が登場する。

実は、ムービットのうちの1匹でのび太によく似た容姿をしているノビットが、定説クラブメンバーズバッジを発明していた。それは、異説クラブメンバーズバッジとは逆で、「異説の世界」の者が「定説の世界」で実体化するという驚くべきアイテムだったのだ。図で説明すると次の通りである。

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上で述べたように、「異説の世界」とは、ドラえもん達が「定説の世界」から映し出した像だった。そして、「異説の世界」で生きるノビットが「定説の世界」へ向けて映し返した像が、上図の紫色で示した部分だ。こうして、2つの世界は混ざり合って、「定説の世界」を変えていく。

このストーリーは色々な現象のメタファーとして捉えることが出来ると思う。例えば、古生物学者は化石などを徹底的に調べて恐竜が生きていた時代を想像する。その想像を基にして、遺伝子工学の発達した未来で生きている恐竜(『ジュラシックパーク』で描かれる恐竜のようなもの)を作り出すことができたら、それは、「異説の世界」から放たれた光が「定説の世界」に映し出す像だと言えるのではないだろうか。あるいは、幽霊が存在するという「異説」を信じている者にとっては、現実の世界でも本当に幽霊がいるように感じられることがある。このように、「異説の世界」は単なる空想上のものではなく、ときには「定説の世界」に介入し、その世界を変化させ得る存在なのだ。

ムービット達の援護によってついにディアボロは破壊され、カグヤ星に平和が訪れる。月に戻ったルカ達エスパルは、普通のカグヤ星人のように体が成長し、限りある短い人生を生きる存在でありたいと願う。その願いをドラえもんは異説クラブメンバーズバッジを使って実現させ*1、彼らが人類に見つからずに平穏に暮らせるように、バッジを学校の裏山に埋める。

ルカや他のエスパル達は、ムービットと同じく「異説の世界」の住人になったのだ。「異説の世界」を映し出す出発地点には、もはやドラえもんのび太達の姿はない。彼らは他の全ての人類と同じように、「異説の世界」に干渉できない「定説の世界」に戻り、2つの世界は完全に断絶したのだ。

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これは、とても切なくて悲しい結末に見える。しかし、希望は残されている。ドラえもんの台詞にもあったように、人類の歴史は異説が切り開いてきたもの、人類はこれまでずっと「定説の世界」と「異説の世界」を融合させながら進歩してきた存在だからだ。それについては、次章以降で詳しく説明しよう。

その前に、これは完全に余談ではあるのだが、本作も歴代のドラえもん映画と同様に学校の裏山が重要な舞台として描かれていたのがとても印象的だった。例えば、『銀河超特急』でドラえもんのび太銀河鉄道に乗車したのは夜の裏山であった。『アニマル惑星』でピンクのもやが現れたのも裏山。『鉄人兵団』でリルルとしずかちゃんが出会ったのも裏山だった。『雲の王国』や『竜の騎士』は、物語のラストシーンで冒険を終えたドラえもん達が裏山に帰還する。ドラえもん映画では、のび太達が普段住む日常の世界と異世界とを繋ぐ場所として、学校の裏山が象徴的に描かれているように思う。

世界が作り変えられる時

さて、本作の物語構造を「科学と人類の進歩」という観点から考察すると、次のようなことが言えるだろう。

まず最初に、我々が住んでいる「世界A」がある。そこに住む誰かが「異説B」を提唱し、それを元にして「世界B」が出来あがる。「世界A」と「世界B」という対比は、人類の歴史の中で出てきた色々な当てはまるだろう。例えば、「天動説」と「地動説」、「創造説」と「進化論」、「量子論相対性理論の世界」と「量子力学の世界」。こうして「世界B」ができると、「もし『世界B』が正しいならば、○○○である」という形式の「定説C」ができる。「定説C」を元にして「世界C」ができる。この「世界C」とは、具体的にはどういうものだろう。例えば、「進化論」で言えば、「ヒトがサルから進化したことを示す化石(ヒトとサルの中間に位置する生物の化石)が見つかる」という「世界C」が考えられる。また、「相対性理論の世界」で言えば、「実際に空間が重力によって歪む現象が観測される」という「世界C」が考えられる。これらの「世界C」が実際に正しかった(「世界A」と「世界C」が等しかった)ということは、もはや説明するまでもないだろう。

しかし、「異説B」から作り出される「世界B」「世界C」が常に正しいとは限らない。例えば、SF作品やファンタジー作品の中の「世界B」は、「世界A」とは大きくかけ離れている。宗教や疑似科学が作り出す「世界B」も、「世界A」の実相とは違っているだろう。登場した当時は正しいと信じられていても、時を経るにつれて実は間違いだったの判明する「世界B」も数多く存在する。

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例えば、「あらゆるガンはウイルスによって引き起こされる」という「世界B」を考えてみよう。この「世界B」から作り出される「世界C」は、「世界A」と重なり合う部分(A∩C)とそうでない部分とがある(A∩CおよびA∩C)。例えば、動物の中にはガンを引き起こすウイルスというものも発見されているし、人間でもヒトパピローマウイルスは子宮頸ガンを引き起こす(A∩C)。しかし、肺がん患者のほぼ全員が喫煙者であるなどの事実が示すように、ある種のガンはウイルスというよりも環境要因によって引き起こされているように見える(A∩C)。また、「世界B」が正しいならば、「あらゆるガン患者の病巣から特定のウイルス抽出できて、しかも、それを別の動物に投与するとガンが発生する」という「世界C」が有り得るはずだが、そのような事実は確認されていない(A∩C)。ゆえに、今日では、ほどんどの科学者が「あらゆるガンはウイルスが原因」という「世界B」は正しくないと考えている。しかし、一昔前までは、このような「世界B」が正しいと信じて研究をしていた学者が大勢存在していた。また、理論物理学における「超ひも理論」のように、現代の科学では「世界A」と「世界C」が重なり合うのかまだ分かってないものも数多く存在する。

そのような中で、先ほど挙げた「地動説」や「進化論」のように、異説から定説へと変わった世界については、下のような図で説明できるだろう。

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例えば、進化論を例に挙げるなら、まず、「全ての生物は神が作った」という「世界A」の中で、ダーウィンらが「生物は長い時間をかけて変異と淘汰を繰り返し進化してきた」という「異説B」を唱える。この「異説B」が作り出す「世界B」では、例えば「中間種の化石が発見されるだろう」とか「実際に遺伝子に変異が生じるメカニズムが解明されるだろう」という「定説C」ができる。ここから映し出される「世界C」が実際に「世界A」の中で見出され、さらに、「世界A」のありとあらゆる事象が実は「定説C」によって説明できる、実は「世界A」と「世界C」は等しい、という事が分かるようになる。「世界C」は「世界B」が正しいと仮定して作られた世界なので、「世界A」と「世界C」が等しいならば、「世界A」と「世界B」もまた等しい。ここまで来ると、「異説B」は定説となり、「世界A」と「世界B」は完全に融合する。

ここでいう「世界C」のことを簡便な言葉で言い表すと「予言」ということになるだろう。そう、作中のエスパルの一人・アルの能力が予知能力である象徴的理由はここにある。「世界B」から生み出される「予言」が当たった時、「世界A」と「世界B」は融合し、人類は進歩する。人類の歴史とは、このような作業を何度も何度も繰り返し、世界を作り変えていくことに他ならない。

本作が教えてくれること

「世界A」と「世界B」を融合して世界を作り変えていく営みを「進歩」と捉えることもできるが、必ずしもそうではないケースも存在する。作中でディアボロが行ったように、時の権力者が都合の良い「異説」を作り上げて、それが「定説」となるように仕向ける場合も多く存在する。例えば、「我々ドイツ人こそが最も優れた民族である」とか「白人は黒人より優れている」とかいう「世界B」が正しいとされた時、それがホロコースト奴隷制度という負の歴史を生み出したのだ。優性主義とか自民族優先主義の真に怖ろしいところは、それが「科学的に正しい」という衣を身にまとって忍び寄ってくるからだ。

我々が間違った方向に世界を作り変えてしまわないようにするには、一体どうすればいいのだろう。おそらく、一番大事なことは、今の世界(定説の世界)で正しいとされていることが絶対的に正しいと妄信しないこと、常識や権威といったものが本当に正しいのかどうか常に自問自答し続けることだと思う。私が在籍していた大学に、かつて著名な化学の教授がいた。その教授は「俺はMALDI*2なんてもの信用しない」と言っていたのに、田中耕一*3ノーベル賞を取るとコロッと態度を変えたという。ノーベル賞という権威を自分の価値判断の基準にしているという、科学者として非常に残念な態度である。

今現在「異説」とされているものも、将来「定説」になるかもしれない。藤子・F・不二雄は、SFとは「すこし・不思議」という意味だと述べたそうであるが、彼のSFとは、将来「定説の世界」になるかもしれない「異説の世界」を私達に見せてくれるものなのかもしれない。もし人類が道を間違えることなく世界を良い方向に変えることが出来たなら、藤子・F・不二雄が『ドラえもん』の中で描き出した輝かしい「異説の世界」は、将来きっと「定説の世界」になるだろう。

*1:カグヤ星人にとってエスパルは1000年以上も前にカグヤ星を立った伝説上の存在であり、「そんな存在は実在しないし実在したとしても我々と同じような人間だろう」という異説が出回っていたため、エスパル達の「普通の人間になりたい」という願いも異説クラブメンバーズバッジで叶えることができたのだ。

*2:タンパク質などの生体高分子とマトリックスと呼ばれる試薬との混合物にレーザーを照射させて、生体高分子をバラバラにすることなくイオン化させて分子量を測定できるようにする技術。

*3:MALDI法の開発の功績により2002年にノーベル化学賞を受賞した。

『響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ』の佐々木梓さんがヤバすぎて魂が震える!

闇が深いっ! 闇が深すぎるっ!!

いよいよ4月に『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』の公開が迫ってきたので、これを機に『響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ』を読んでみたのですが、まさか、まさか、こんなにも深い闇が存在していたとは…

青春が光だと言うのなら、その背後には必ず闇がある。作者・武田綾乃はその闇をこれでもかと描き出していく。

しかし、それにしても…。もう何なんだろう、この人。

佐々木梓さん、闇深すぎだろ…。

あるブログ(参考記事1)では、梓について、登場人物みんなヤバい奴である『響け! ユーフォニアムシリーズ』の中でも断トツでヤバい奴だと評していますが、私もそれが紛れもない事実だと確信いたしました。

今日は、黄前久美子と並ぶ『響け! ユーフォニアムシリーズ』のもう一人の主人公・佐々木梓について、徹底的に解説していきましょう。

梓と志保

物語は、立華高校吹奏楽部のトロンボーンパートに所属する1年生、佐々木梓、名瀬あみか、戸川志保、的場太一の4人を中心に進行していきます。

本作の主人公である梓は、中学時代は黄前久美子高坂麗奈らと同じ吹奏楽部に所属し、吹奏楽とマーチングの名門・立華高校に進学しました。休日も一心不乱に楽器を吹き続ける練習の虫で、1年生の中ではトップの実力を持っています。

名瀬あみかは、高校から吹奏楽を始めた初心者で、楽器のことを一から懇切丁寧に教えてくれる梓のことをとても慕っています。

一方、戸川志保は、圧倒的な実力を持つ梓を前にして、嫉妬にも似た感情を抱くようになります。さらには、梓が初心者であるあみかの面倒を甲斐甲斐しく見てあげてるのに対して、志保は自分のことで精一杯であみかの事を疎ましく思ってしまい、そういう感情を抱いてしまうことに対しても自己嫌悪の念を募らせていきます。そして、梓が「いい子」であればあるほど自分がどんどん惨めになっていって辛い、という心情を梓に打ち明けます。

それに対して、梓はこう返します。

「べつに、いい子ちゃうよ」
志保の腕の輪郭を指先でたどりながら、梓は告げる。
「うちはね、自分のためにみんなの手助けをしてんの」
頼られてる自分が好きやねん。そうひと息で言い切り、梓は意識的に人当たりのいい笑みを浮かべた。ふうん、と志保は目を逸らしたままつぶやく。(中略)
「私、梓のことちょっとだけわかったような気ぃするわ」
そう微笑む志保は、どこか安堵しているようだった。
(『響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ 前編』、141~142ページ)

「自分のためにみんなの手助けをして」いる、「頼られてる自分が好き」という梓の言葉に「安堵」する志保。この場面は、彼女の心境の変化を絶妙に捉えています。志保は梓と同じく中学時代から吹奏楽をやっていたので、初心者であるあみかを助けてあげなければならない立場にいます。少なくとも、志保自身はそう思っています。しかし、実際にはほぼ梓ひとりであみかを指導するような状態になっています。なので、自分は責任を放棄しているのではないか、自分はとても悪い奴なのではないか、という思いが志保を苦しめていました。

ところが梓は、あみかを助けるのは「自分のため」だと言います。そこに志保は、梓という人物が抱える「ヤバさ」の萌芽を見て取ります。それゆえに志保は、あみかの事をつきっきりで指導できる梓の方が異常なのであって、自分のこの感情はむしろ正常なのだと「安堵」することができたのです。

この時点ではまだ読者には梓のヤバさは見えていませんが、志保はもう既に、梓の心の中にある底知れない闇に気付きつつあるわけですね。では、梓の何がヤバいのか、それはこの場面以降で明らかとなっていきます。

梓とあみか

さて、梓はコンクールのAメンバーに選ばれた後もこれまで同様にあみかを指導しようとします。そんな梓を見かねて志保と太一は、あみかの指導なら他の奴でもできるから梓は自分の練習に専念しろ、と忠告してきます。それを聞いて、梓さんは何故かマジギレ状態に。

「だから、やってるやんか。うちはちゃんと自分のやるべきことやってからあみかに教えてる。文句言われる筋合いなんかない!」
カッと頬に熱が走る。込み上げてきた感情は、怒りというよりは苛立ちだった。声を荒げた梓に、あみかがビクリと身体を震わせる。その目が、太一を捉えた。普段ならば柔和な笑みを浮かべているその唇も、いまはすっかり青ざめている。
「私、梓ちゃんの迷惑かな?」
「あみか、なんで的場に聞くん? うちは迷惑ちゃうって言ってるやん」
(中略)
「佐々木にとっては迷惑やないかもしれん。でも、俺らにとっては迷惑や」
「どうして?」
「このままやと、名瀬は佐々木なしではやっていけへんようになるから」
それのどこがいけないことなのだろうか。だって、梓はあみかから離れるつもりはない。このままでなんの問題もないじゃないか。
(『同 前編』、265~266ページ)

ヤベぇよ、ヤベぇよ…。あみかへの独占欲強すぎだろ…。梓さん怖ぇよ…。彼女の台詞ももちろん怖いのですが、本作で何よりも怖ろしいのは、梓の心境を表している地の文の箇所です。「それのどこがいけないことなのだろうか」「このままでなんの問題もないじゃないか」は流石にヤバすぎる。

さて、日に日に梓への依存度を高めていっているあみかですが、さすがにこのままではヤバいと思い、梓に自分の正直な気持ちを打ち明けます。

「このままじゃ、自分の足で立てなくなっちゃう。家に帰って布団に入ったときにね、思うの。梓ちゃんがいまいなくなったら、私、生きていけないんじゃないかって。それが、怖いんだよ。迷惑をかけすぎて、いつか梓ちゃんに愛想尽かされちゃうんじゃないかって。そしたら、どうしたらいいんだろうって。そればっかり思うの。だって私、なんにも返せない。梓ちゃんは私にいろんなものをくれたのに、私は梓ちゃんになんにもあげられない」
(『同 前編』、284ページ)

中学時代までほとんど友達がいなかったあみかにとって梓は、初めてできた親友で、ずっと一緒にいたいと思える大好きな人です。吹奏楽の初心者だったあみかがここまで挫けずにやってこれたのも、梓がいてくれたおかげです。でも、その梓なしでは生きられないと思い詰めるほどに依存してしまって、梓がいなくなってしまうことへの恐怖や不安や罪悪感で胸が張り裂けそうになっているのが今のあみかです。

彼女と同じような気持ちに苛まれた人は決して少なくないでしょう。自分一人の裁量で自由にできる仕事が増えれば増えるほどストレスは軽減される、という心理学の研究結果があります。もちろん、仕事というものは自分一人では完結しないという側面もあるにはあるのですが、誰かの手を借りなければ何も仕事が進まない、自分一人では何もできないという状況に置かれると、多くの人がかなりのストレスを感じてしまうこともまた事実です。

こんなふうに複雑な感情を抱えて苦しむあみかを前にして、梓はまたしてもとんでもない事を考えています。

「べつに、なんにも返さなくてええねんて。見返りなんて求めてへんから」
与えた言葉は正解だったのか。あみかはそこで黙り込んだ。その後頭部をなでると、彼女はおずおずと顔を上げた。泣いたせいか、その目は赤く充血している。黒い睫毛に縁取られた双眸は、ガラス玉をはめ込んだみたいにキラキラしていた。泣いているあみかの顔が、梓は好きだ。すがるように梓の腕をつかむ、その頼りない手が好き。か弱い彼女は梓を心の底から必要としてくれている。その事実があるだけで、梓は救われる。だから、あみかはこのままでいい。自分の足で立つ必要なんて、これっぽっちもない。
(『同 前編』、284~285ページ)

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

ここに至ってようやく一つの事実がはっきりとしてきます。この二人の関係は、あみかが梓に依存しているだけでなく、梓もまたあみかに依存しているという共依存関係だということです! 共依存百合…。これはとんでもない事になってきたぞ…。

持つ者と持たざる者

ここで『響け! ユーフォニアムシリーズ』について振り返ってみると、才能ある者とそうでない者、「持つ者」と「持たざる者」との対比、というのが大きなテーマとなっていたことに気付きます。

その中でも、シリーズを通してよく描かれていたのは、「持たざる者」が「持つ者」に向ける嫉妬や、それに付随した自己嫌悪の感情だったように思います。例えば、北宇治高校における希美とみぞれの関係性はまさにそうですし、立華編でも名瀬あみかや高木栞先輩などがそういう感情を抱いているキャラクターとして描かれています。

しかし、本作で中心に据えられているのは、それとは全く逆の感情、すなわち、「持つ者」が「持たざる者」に向ける感情なのではないでしょうか。要するに、人間とは、常に誰かより優位に立ちたいと願う生き物であり、自分より弱い立場の人から頼られたり必要とされたりするのが嬉しくて仕方ない生き物なのです。そして、この幸福感を得ようとして、弱い者への庇護欲や独占欲を際限なく肥大化させていく怖ろしい生き物です。

梓のあみかへの感情もまた、そういった歪んだ庇護欲や独占欲を内包しています。そして、あみかの方もまた、梓から庇護されることによってある種の安心感や幸福感を覚えているでしょう。これらの感情や関係性は、先に述べた嫉妬や自己嫌悪以上にヤバいものです。何故ならば、そこには強い者と弱い者という明確な力の差が存在し、強い方が弱い方の行動をコントロールできてしまうからです。それは、一歩間違えれば、パワハラや洗脳にも結びついてしまう危険性を孕んでいます。

しかし、そんな危険な共依存関係は唐突に終わりを迎えます。

「私、カラーガードを希望することにしたの」
息を呑む。衝撃が全身を支配し、梓から思考する時間を取り上げた。
(中略)
「私、一人で頑張ってみるよ」
こちらを安心させるように、あみかが笑う。屈託のないその笑みが、梓の心臓を締め上げた。あみかの柔らかな唇が、梓に現実を突きつける。
(『同 前編』、336ページ)

梓さん、完全に魂抜けてるじゃねえか! ライザから結婚すると伝えられた時のオーゼンみたいになってんぞ! ヤバい、ヤバい!

こうして梓のもとを離れたあみかは、小川桃花先輩とマンツーマンでカラーガードの特訓を行います。その指導は実に苛烈なもので、ついにあみかは泣き出してしまいます。その様子見て桃花に文句を言いに行こうとした梓を志保が必死に止めます。そして志保は、あみかをいつまでたっても初心者扱いするのはやめろと迫り、さらに梓の心の内を次のように正確に指摘します。

「梓は、頼られたいからってあみかの足を引っ張ってるんちゃうの? ほんまはずっと、あみかに下手くそな初心者のままでいてほしいと思ってるんやろ。自分があの子に頼られたいから」
(『同 後編』、69ページ)

これを聞いて梓さんはイライラを募らせ、さらに志保が「梓がこのままだとあみかだって迷惑だと思う」と言ったところで、梓さん、ついにブチ切れ。

「わかってへんのは志保やろ。うちがあみかのこといちばんわかってる。あみかには、うちがおらんとあかんねんて!」
(『同 後編』、70ページ)

梓さん…。アンタはあみかのお母さんか! いつまでたっても子離れできない過保護な母親みたいになってんじゃねえか…。この梓の態度にさすがに志保もキレて、衝動的に梓をビンタしてしまいます。

ヤバい感情をこじらせていく梓とは対照的に、あみかは着実に梓から巣立っていきます。最初のうちは怒られてばかりだった桃花先輩とも良好な師弟関係が出来始めていて、それを見た梓はまた複雑な思いを抱きます。

ぐすんと鼻をすすっていたあみかが、ゆっくりと顔を上げた。涙に濡れたその瞳には、おそらく目の前の桃花しか映し出されていないだろう。(中略)
「ありがとうございます、桃花先輩」
――ありがとう、梓ちゃん。そううれしそうに笑うあみかの記憶が、梓の脳裏を掠めていく。嫌だな、と漠然と思った。苦々しい感情が、梓の下の上を転がっていく。
(『同 後編』、148ページ)

さあ、ここからが本当の地獄だ。あみかと桃花の師弟関係を見せつけられた梓が、とんでもない暴挙に出ます。

なんと、あみかが一緒に帰ろうと言ってきても梓はやんわりと拒否、学校ではあからさまにあみかを避けるようになり、会話も実によそよそしくなっていったのです!

お前さあ…。マジでさあ…。どんだけあみかを振り回せば気がすむんだよ! この塩対応にショックを隠せないあみかは、最近梓と上手くいっていないと志保に相談しに行きます。

ここまで来るともう、梓という猛犬に振り回される志保と太一が可哀想になってきます。2人は、梓への対処という点では本当によくやってる方だと思います。あみかや梓のために、慎重に言葉を選びながら、梓がしていることが如何にヤバいことなのかを必死に分からせようとしてくれています。

でも、残念ながら、この2人の言葉は全然梓には届かねえんだわ!

「私はあのとき、距離を取れって言ったんであって、心を閉ざせって言ったつもりはないんやけど」
「閉ざしてないよ。さっきだって、普通に話せてたやん」
「あれが普通なわけないやん。もしあれが普通やって思ってるとしたら、梓は無意識のうちにあみかを拒絶してるんやわ」
無意識だとか、そんな理不尽な単語を出されては困ってしまう。反論のしようがないからだ。眉尻を下げた梓に、志保の眉間の皺はますます深くなっていく。
(『同 後編』、195~196ページ)

ここで述べられている通り、事ここに及んでもまだ梓は自分の中にある庇護欲や独占欲を自覚していません。その事を志保に指摘されると「反論のしようがない」とか言って黙ってしまいます。もう、どうすんだよ、これ…。

梓と芹菜

もうしっちゃかめっちゃかな事になりつつある梓とあみかの関係ですが、ここでまた衝撃の事実が発覚!

梓の回想シーンの中で、彼女が中学時代にも同じような過ちを犯していたことが判明します。

中学時代の梓のクラスメイトだった柊木芹菜は、空気を読まずにズバズバと本音を言ってしまう性格が災いして、クラスの中で孤立していました。そんな中、梓だけは芹菜に話しかけ続け、次第に2人は親友と呼べる間柄になっていきます。

2人が親友になってしばらく経つと、芹菜には他にも多くの友達ができていきます。ここで例のごとく、芹菜への感情をこじらせていった梓による「急によそよそしくなる」攻撃が発動! これに怒った芹菜が帰り道で梓を押し倒し、こう詰め寄ります。

「私が気ぃつかんとでも思った?」
こちらを見下ろす芹菜の視線は、ひどく冷ややかだった。雑草についた水滴が、梓の首筋を微かにくすぐる。
「何を、」
「佐々木が私を捨てようとしてるってこと」
(中略)
「私の、何が気にくわへんの。ここまでアンタのこと好きにさせて、やのに気に入らんかったら距離とんの」
こぼれ落ちそうなほど大きな瞳が、夜の海みたいに揺らめいている。目の表面に張られた薄い水の膜は、少し刺激を加えただけで簡単に壊れてしまいそうだった。
(『同 後編』、204~205ページ)

もうね…。本当にね…。

愛が重いっ! エモさが凄いっ!

ヤベえよ、これ…。完全に恋人同士の修羅場じゃねえか…。

続けて芹菜は、梓の心の奥底にある核心部分に切り込んでいきます。

「私がみじめじゃなくなったから、だからもう用済みになったんやろ」
芹菜の細い喉が震える。絞り出された声は掠れていた。
「どうせ、最初から気まぐれやったんやろ。友達ができひんかわいそうな子に、暇潰しぐらいの気持ちでちょっかい出してただけなんや。だから、友達ができた私はもう用済みになった。そうやろ? こんなんやったら、最初から信じひんかったらよかった。そしたら、こんなふうに苦しむこともなかったのに。アンタは初めから、自分の自尊心を満たすために私を利用してただけなんや」
興奮したように、芹菜はそうまくし立てた。その口ぶりは、推測ではなく断定だった。違うよ。そう否定したいのに、唇が凍りついたように動かない。何が彼女をそこまで傷つけたのか。何が彼女をここまで怒らせているのか。梓には理解できなかったからだ。
(『同 後編』、205~206ページ)

「歴史は繰り返す」とよく言われますが、梓があみかにやった事というのは、まさに、中学時代の梓が芹菜に対してやった事と全く同じ。自分より立場が下の人に近づいて、自らの庇護欲と独占欲を募らせた末に、相手が庇護の対象じゃなくなるとサッと離れていく、ということを繰り返しているのです。しかも、その全てを全く無意識のうちにやってのけるのです!

自分の気持ちと向き合う怖さ

そんな梓にも、ついに自分の心と向き合う瞬間が訪れます。梓にとって憧れの先輩である瀬崎未来は、今でこそ部で一番の実力者ですが、入学当初はあみかと同じく初心者で、栞に面倒を見てもらう立場でした。だからこそ彼女はあみかの気持ちをよく理解できるし、今のあみかと梓との関係を、昔の自分と栞との関係に重ねて見ていたのです。そして、優しく梓に語り掛けます。

「あみかだって、きっとそう思ったんやと思うよ。あの子は多分、梓と同じ目線に立ちたいって考えたんやと思う。だから、カラーガードになった。ちゃんと自分の意思で、やりたいことを決めた。けどさ、梓にはそれが怖かったんやろ? 自分が必要とされなくなるのが嫌やった。……違う?」
(中略)
「……先輩の、言うとおりです」
認めた途端、左頬がじんとうずいた。志保に叩かれた場所だった。
「中学生のころ、うちには大好きな友達がいたんです。その子は教室でひとりぼっちで、友達が全然いなくて。でもうちだけには気を許してくれてて。その子が必要としてるのが自分だけだってことが、すっごく気持ちよかった」
(『同 後編』、221ページ)

何故梓はこれほど長い間自分の気持ちに気付けなかったのか。それは、そうすることが自分の中の最も醜い感情と向き合う事に他ならないからです。あみかや芹菜に必要とされていることがたまらなく気持ちいい、そんなヤバい感情が自分の中にあるという事実を認めることが出来なくて、必死に目を背けていたのがこれまでの梓だったのです。

例えるならば、それは、小さい子どもが虫を殺すことに快感を覚えたり、映画やマンガの残虐なシーンに憧れたりするのと同じような、本来であればあってはならない感情、決して他人に明かしてはいけない感情である、という深層心理が梓の心に蓋をしていたのでしょう。

しかし、先輩から指摘される形でついに自分の心と対面した梓は、自分は自己満足のために芹菜やあみかを利用した酷い奴だ、という強い自己嫌悪に陥ります。それに対して、未来先輩はこう言ってのけます。

「利用して何が悪いん?」
予想外の反応に、梓はとっさに顔を上げた。頬の筋肉をこわばらせる梓とは対照的に、彼女の声音は軽やかだった。
「だってさ、友達同士なんてそれでもべつによくない? 互いに得るものがあるならいいやんか」
「ですけど、」
「だいたい、利用するってだけじゃないやろ? 好きじゃないと、そもそもそこまでいろいろやってあげられへんって」
(『同 後編』、223ページ)

我々はよく、たった一つの真実が心のベールによって隠されていて、そのベールを一枚ずつ引き剥がした先で見えてくるものこそが唯一絶対の真実である、というような勘違いをしてしまうことがあります。しかし、人間の心とは果たしてそんなに単純なものなのでしょうか。

例えば、自己犠牲というものを考えてみましょう。有名人がボランティアや募金活動をしているのを売名行為だと言って批判する人が大勢いますが、それは「不純な動機が少しでもあれば、それは自己犠牲じゃない!」みたいな極論に陥った人の思考です。「自分の顔と名前を売り込みたい」という動機と、「困っている人を助けたい」という動機は、決して二律背反なものではないのです。そして、前者のような動機がほんのちょっとでも混ざっていれば、彼の中にある善意は完全否定される、なんていう極論は空虚で無意味なものでしかありません。

梓と芹菜の関係もまた、歪んだ共依存のような関係だと見ることもできれば、本当にお互い大好きだったから一緒にいたと見ることも出来ます。梓があみかに対して抱いていた気持ちも、そこに庇護欲や独占欲があったと取ることも出来るし、ただ単に好きだったからで説明出来たりもします。

こうした未来先輩のアドバイスのおかげで、梓は立ち直り、後にあみかや芹菜と仲直りすることもできました。

あみかと芹菜のヤバさ

さて、これまで延々と梓の中にある庇護欲と独占欲の問題について掘り下げてきましたが、本当にヤバいのは梓だけだったのかと考えてみると、どうも、あみかと芹菜も相当ヤバいぞと言わざるを得ないわけです。

例えば、中学時代に修学旅行の計画を立ててる場面。梓は芹菜から「アンタ」と呼ばれるのが気に食わなかったので「ちゃんと名前で呼んで」と言いますが…

「……佐々木」
「え、まさかの苗字呼び? 名前で呼んでくれへんの?」
「名前は嫌」
そうぴしゃりと言い放ち、芹菜はその目をわずかに細めた。値踏みするように、その視線が梓の友人たちに向けられる。彼女たちは計画を立てるのに夢中になっていて、こちらの視線には気がついていないようだった。
「ほかの子らはさ、みんなアンタのこと名前で呼んでるやんか。だから、私は呼ばない。ほかの子と一緒なんは、嫌やから」
(中略)
「なんかそれ、告白みたい」
「は?」
「ほかの子と一緒にされたくないって、つまりはうちの特別になりたいってことやろ?」
そう問うと、今度こそ芹菜は耳まで赤くなった。その熱を隠すように、芹菜が顔を背ける。
(『同 後編』、139~140ページ)

さらに、梓と芹菜で前髪の話をしている時には…

「うっとうしそうやなとは思っててん。なんで前髪伸ばしてたん?」
「顔、見られたくなかったから」
「なんで? 美人やのにもったいない」
素直な感情を口にしながら、梓は芹菜の前髪を持ち上げた。黒髪の隙間からのぞく瞳が、きょろりとうろたえたように動いた。その顔が、突然ぼっと赤く染まる。火照る頬をごまかすように、芹菜は梓の手を払いのけた。
「佐々木のそういうとこ、めっちゃ質悪いと思う」
「なんで? 思ったこと言ってるだけやのに」
「そういうとこ!」
芹菜が唇をとがらせる。その必死さが可笑しくて、梓はつい噴き出した。
(『同 後編』、177~178ページ)

もうね…、芹菜さん、どんだけ梓のこと大好きなんだよ! しかも、その後、ハサミを取り出して梓に向かって「私の髪切って」とか言い出しますからね、この子は。

芹菜のヤバいところは、普段はクールぶってるのに、梓に何か言われたらすぐ顔に出ちゃうところです。それを隠そうとしてテンパっている姿も、梓さんサイドの庇護欲をそそることでしょう。ホンマ、そういうとこだぞ、柊木。

次、あみかちゃんの番です。

トロンボーンパートの1年生だけで練習している時に、太一と志保が喧嘩しそうな空気になってきたので、梓が気を使って2人ずつに分かれて練習しようと提案します。梓が志保を連れて立ち去ろうとすると、あみかが声をかけてきます。

「待って、」
振り返ると、あみかが必死な面持ちでこちらに手を伸ばしていた。その小さな手が、梓のシャツの袖をつかむ。クン、と後方から引っ張られ、梓は思わず足を止める。
「どうしたん?」
こちらの問いに、あみかは何も言わなかった。彼女の手にこもる力が、よりいっそう強いものとなる。振り返るが、下を向いているあみかの顔は髪に隠れてほとんど見えない。
「……あみか?」
名を呼ぶと、ぐすんと鼻をすする音が聞こえた。まさか、泣いているのだろうか。慌てて振り返ろうとした梓の背に、あみかが額を強く押しつける。すがるようにシャツに指を引っかけ、彼女はささやくような声でつぶやいた。
「待って。私を捨てないで」
「何言うてんの」
その大げさな言い方に梓は思わず苦笑したが、あみかからの返事はなかった。
(『同 前編』、127~128ページ)

何これ? こんなんされたら誰だって母性くすぐられるやん…。梓が居なくなることが怖くて仕方がない、ずっと私のそばにいてほしい、という感じで梓への依存度MAXなのが本当にヤバいです。(この状況のヤバさを自覚していたからこそ、あみかは後にカラーガードに志願したのだとも言えるでしょう。)

はっきり言おう。梓も相当ヤバい奴だけど、あみかと芹菜の方もたいがいだわ。こいつらの行動、尻尾振りながら飼い主のあと追いかけていく子犬じゃん。首輪で繋がれて梓に飼育されたいですっ!っていうオーラ全開になってるやん。

ここで、梓の中学時代の部活動を見てみると、同じトロンボーンパートにいるのは塚本修一、部内でよく話す友人はあの黄前久美子。…うん、どう考えても子犬って感じじゃないわな。ぶっちゃげ、こんな可愛げのない奴らと一緒にいて何が楽しいの?って感じだわ。

その反面、部活を終えて教室に戻るとそこには梓のことが大好きな芹菜が待っていてくれて、高校ではあみかがいつも梓の後ろを付いてきてくれるわけですよ。こんなことされたら、そりゃ、梓も舞い上がってしまいますわ…。これはもう仕方のない事ですよ。

梓と未来

ところで、2人の健気な恋人に囲まれて梓はさぞかし満足しているだろうと思いきや、実は梓の本命は別の人物だったのです! 上でも登場した、同じトロンボーンパート所属の瀬崎未来先輩です。

未来は普段はとても厳しい先輩なのですが、それは意識的に厳しく接しようと努めているだけで、本当はとても繊細な人だということが分かってきます。

「なんか一人で長々と関係ない話しちゃったな。こういううざい先輩にはならんとこうと思ってたんやけどなー、どうにも上手くいかんわ」
「いや、未来先輩に対してうざいと思ったことないですよ。うち、先輩のことめっちゃ好きなんで」
相手の反応がなかったことを不思議に思って顔を上げると、顔を真っ赤にした未来と目が合った。(中略) 彼女は赤い顔を慌てたように両手で隠した。赤くなった耳までは、その手をもってしても隠し切れてはいなかったが。
「先輩、何照れてるんですか」
「そりゃ照れもするよ、面と向かってそんなこと言われたらさ」
未来の足がじたばたと上下する。その仕草があまりにも子供っぽかったものだから、梓はつい口元を綻ばせた。
(『同 後編』、127ページ)

おいおいおいおい! 未来先輩の反応可愛すぎだろ…。どんだけ純情な乙女なんだよ…。

こんな先輩に梓も負けじとガツガツ踏み込んでいきます。

「うちも、未来先輩のことめっちゃ好きです」
(中略)
梓の発した言葉に、未来は顔を赤らめた。照れているのを隠すように、彼女は冗談めいた口調で言う。
「はっはっは、そうでしょ? やっぱりね、こんないい先輩、ほかにはなかなかおらんからね」
「ほんまにそう思います。私、先輩に一生ついていこうって思いました」
「ここで一生を使っちゃうの? 早ない?」
「早くないです」
(『同 後編』、226ページ)

梓…お前マジでどんだけ他人の人生弄べば気がすむんだよ! 未来先輩は高校入ってからずっと部活に打ち込んできて、たぶん恋愛経験とかほとんどないピュアッピュアな女の子やねん。そんな子に向かって「先輩に一生ついていこうって思いました」とか、これもうプロポーズしてんのと同じだから! マジでちゃんと責任とれよ、お前。

この世に、梓×あみか派、梓×芹菜派、そして、梓×未来派という、決して交わることのない3つの派閥が生まれた瞬間である。こうして、また次の世界大戦が始まるのです…。

最近読んだ本まとめ(5)―『系外惑星と太陽系』『抗生物質と人間』『すごい分子』

系外惑星と太陽系

系外惑星と太陽系 (岩波新書)

系外惑星と太陽系 (岩波新書)

太陽系外惑星の発見は我々の宇宙観を変える大きな出来事として語り継がれていくだろう。天文学者がずっと問い掛けてきた「我々が生きるこの惑星という存在は非常に珍しいものなのか、それとも、この宇宙ではありふれたものなのか」という疑問の答えが後者である、ということがようやくはっきりとしてきたのだ。

一方で、太陽系外惑星の発見は、人類が全く想像もしなかった惑星の姿を描き出すことになった。恒星のすぐ近くを短い周期で公転する巨大ガス惑星、いわゆるホットジュピターというものがたくさん発見されたのだ。これは、恒星の近くには地球のような岩石惑星があり、その外側に木星のようなガス惑星が形成される、という太陽系のモデルしか知らなかった人類にとって、あまりにも衝撃的な結果だった。

しかし、ここで注意しなければならない事がある。太陽系外惑星を発見する方法としてよく用いられるのはドップラー法とトランジット法である。ドップラー法は、恒星が惑星の重力に引きずられて揺れ動く際に発生するドップラー効果を観測する。トランジット法は、惑星が恒星と地球との間を通過する時に更生の光がわずかに弱くなる現象を利用する。これらの方法は、大きくて恒星に近い距離を周っている惑星を発見することは容易だが、恒星から離れたところにある惑星を見つけるのは難しい。

ゆえに、最初のうちは最も観測しやすいホットジュピターが数多く見つかり、センセーショナルに報道もされるが、それは宇宙全体の惑星の平均的な姿とはかけ離れている。事実、観測技術が進歩するにつれて、地球と似たような岩石惑星も多数発見されるようになってきた。

これはどんな分野にも言えることだが、目の前に提示された事実だけを見てそれが全てだと判断することは非常に危険である。これは、集団の中では声のデカい人の意見が通りやすいが、それが必ずしも集団全体の意見を反映しているわけではない、という事と似ている。太陽系外惑星の科学は、科学者にとって大切なんだけれども忘れがちな教訓を思い起こさせてくれる。

抗生物質と人間 マイクロバイオームの危機

1990年代から2000年代は、人類がヒトやその他生物の全遺伝情報の解析に注力した時代、つまり、ゲノムの時代だった。しかし現在は、個々の細胞や組織がどのような遺伝子を転写・翻訳しているのかを調べる時代、つまり、トランスクリプトームやプロテオームの時代である。語尾のオーム(-ome)は、ギリシャ語で「全体」を表す言葉である。しかし、そう遠くない未来に、腸内細菌がヒトに与える影響を調べる時代、マイクロバイオームの時代がやってくるかもしれない。

本著では、抗生物質の歴史と腸内細菌研究の歴史が概説され、抗生物質がヒトに害をなす細菌を殺すのと同時に、ヒトにとって有益な腸内細菌まで殺してしまうという危険性を指摘している。著者によると、以下のような事実により、抗生物質の投与(によるマイクロバイオームの変化)とある種の病気や肥満との関連性が明らかになりつつあるという。

  1. 抗生物質が発見されて以降、人類の肥満率が急増した
  2. 家畜に抗生物質を投与すると体重の増加が見られるようになる
  3. 抗生物質を投与されたマウスほど肥満になりやすい
  4. クーロン病のモデルマウスに健康なマウス由来の腸内細菌を移植したらクーロン病が治った
  5. 生後間もなく抗生物質の投与を受けた子どもほど肥満になりやすい

これだけ見ると、確かに腸内細菌・抗生物質・疾患の間には密接な関係がありそうだと思える。しかし、腸内細菌が死滅したことによって一体どういう不都合が生じ肥満が生じるのか、という具体的なメカニズムは書かれていない。唯一、腸内細菌の死滅によって免疫系に異常が生じることが関係しているのではないか、といった事が書かれているが、漠然とした表現にとどまっており、著者もその他の研究者も結局のところまだ詳細なメカニズムは掴みきれていないのだろうと思われた。

また、仮に腸内細菌と病気との間に関連が認められたとしても、それがどの程度の関連なのかについては慎重に議論されなければならない。例えば、肥満に関わる遺伝子というものがすでに発見されているが、だからと言って肥満が全て遺伝や遺伝子疾患で説明できるなどという人はいないし、多くの人が肥満は食事や運動不足と関連があるという事実を経験的に知っている。なので、マイクロバイオームの研究が進んだとしても、それで全てが説明できるなんてことはまず有り得ないだろうと思う。

そして、これは著者自身も口酸っぱく書いていることだが、これらの研究は、抗生物質の使用を全面的に禁止しようなんていうバカげた主張をするのが目的ではない。薬剤耐性菌の問題とも絡んで、あくまでも不必要な抗生物質の乱用こそが問題なのであって、「抗生物質は全部ダメ!」みたいな極論を言い出す人が居たとしたら、それはオカルト・疑似科学の類と同じであろう。

すごい分子 世界は六角形でできている

著者の佐藤健太郎氏は有機化学美術館というブログでも秀逸な記事を多数書いている。彼の記事や著書の面白いところは、何と言っても膨大な知識に裏打ちされた「化学トリビア」だろう。その中でも本著は、sp2炭素の化学、要するに、芳香族性を有する化合物に焦点を絞って書かれているようだ。

著者は、炭素は自然のレゴブロックのようなものだと述べている。人類は炭素を駆使して様々な形や機能を持った分子を自由自在に作り上げることができる。本著を読むと、人間の好奇心・探究心とは、かくも凄いものなのかと驚かされる。芳香環どうしをつなげて行ったらどうなるのか? 本来平面の芳香族化合物を捻じ曲げたら? 芳香環の中に炭素以外の元素を入れたら? 誰も見たことのない化合物を作って、その性質を調べてみたい。炭素と炭素を自由自在につなげてみたい。希少な化合物を安く大量に作りたい…。そんな人類の情熱が、数え切れないほどたくさんの新しい物質を生み出し、新しい分野を生み出していく。

そこには、自然の原理を解明したり人類の進歩を目指したりする他の学問とは少し毛色の異なる何かがある。まるでレゴブロックで遊ぶ子どものような、自由さとワクワク感に満ちた研究だ。しかし、研究者個人の遊び心からスタートしたような研究であっても、それが後に人類に多大な貢献をする場合があるから面白い。

例えば、本来平面的な形の芳香族化合物を曲げるのは極めて難しい。だからこそ多くの研究者が、まるでエベレストに挑む登山家のように、野心を抱いてそれを作り上げようとしてきた。彼らはきっと「それは一体何の役に立つのか」なんて最初は考えていなくて(研究費を獲得するために建前として少しは考えていたかもしれないが)、ただ純粋に自分がやりたい研究をしていたのだろう。けれども、そうやって作られた新しい化合物は、他の化合物とは反応性やその他の物性がまるで異なっていて、そこから様々な応用研究が生まれたりしている。

そのような有機化学の奥深さを知れば知るほど、今の日本政府がやっているような、最初から何の役に立つかとかビジネスになるかとかばかりを考えて研究者を選別し金を配るような政策が、いかに馬鹿げたことであるかがよく分かる。

アニメ『かぐや様は告らせたい』第1話感想

記念すべきアニメ第1話のサブタイトルは「映画に誘わせたい」「かぐや様は止められたい」「かぐや様はいただきたい」であり、全て原作にもあるタイトルとなっている。『かぐや様』原作漫画のサブタイトルは、いくつか例外はあるものの基本的に「○○は□□たい」(人物+行動)みたいな文章になっているが、原作第1話の段階ではそのようなルールが確立する前だったので「映画に誘わせたい」というサブタイトルになったものと考えられる。

なので、アニメ化にあたって「かぐや様は誘わせたい」などというようにサブタイトルを変えてくるかと思ったが、あえて原作と同じにすることで、アニメは原作を忠実に再現したものであることを強調しているようにも見える。

もう一つ、原作読者が驚いたのは、「かぐや様はいただきたい」(お弁当回)をあえて第1話に持ってきたことだろう。原作の順番で行けば、ババ抜きや映画館に行く話が入るはずなのだが、それらをあえて省略してお弁当回を1話に持ってきているのだ。この回は原作漫画の序盤でも特に人気の高いエピソードであり、作者自身が作品の転換点になった回であるとインタビューで述べている。

連載序盤は頭脳戦っていう看板が大きくあったから、思いつく限り頭脳戦のネタをやっていってたかな。でもだんだんとキャラクターについての理解が深まっていって、「この子はこういう表情を出す子なんだ。じゃあこの子がもっと恥ずかしがったり、怒ったり出来る場面を作ろう」という感じに、頭脳戦よりも感情優先になっていきましたね。転換点になったのは単行本1巻5話の「かぐや様はいただきたい」かな。
【インタビュー】『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』赤坂アカ「毎週、神が降りてくるのを祈ってる。」|コミスペ!より)

あのお話を描いたあと、最初はどうしてこんなにキャラが面白い動きをしてくれたのかわからなかったんですよ。分析をしていく中で、「キャラの感情を引き出せている」という部分にたどり着いて。そこから「今回はこんな恥ずかしがらせ方をしてみよう」「こうやってテンパらせよう」と感情の部分に重きを置くようになりました。
テレビアニメ「かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~」特集、赤坂アカインタビュー - コミックナタリー 特集・インタビューより)

このように、副題にあるような恋愛「頭脳戦」を重視するのではなく、「キャラの感情を引き出す」という方向に作風をシフトさせるきっかけとなったのがこの回なのだ。まさにコペルニクス的転換と言えるだろう。この回が無かったら名作ぞろいのヤングジャンプの中で本作がここまで注目されることも無かっただろう。

それにしても、感情が引き出された状態のかぐや様は、何故こんなにもお可愛いのだろう。それは、ぶっちゃげて言えば、普段クールで聡明なかぐや様が別人かと思うくらいポンコツになっているからである。このポンコツかぐや様のお可愛さこそが、本作の一番の魅力と言っても過言ではない。私の個人的な統計によると、『かぐや様は告らせたい』の原作話のうち実に1/4がポンコツかぐや様回である。

一言でポンコツと言っても、その種類は実に様々であり、代表的なところを挙げれば、

  1. 御行のこと好きすぎて頭おかしくなってるかぐや様
  2. マウント取りに行って返り討ちに合い涙目になるかぐや様
  3. 世間知らずで行動がどこかズレてるかぐや様
  4. 深読み&論理の飛躍が酷すぎてしっちゃかめっちゃかなかぐや様
  5. 予想が外れてテンパるかぐや様
  6. 高速手のひら返しかぐや様

などがある。しかも、これらは毎回単体で登場するのではなく、2個か3個まとめて合わせ技一本という形になっているので、膨大な組み合わせが可能で、作品のマンネリ化を防いでいるのである。

例えば今回のお弁当回で言えば、御行のこと好きすぎて頭おかしくなってるかぐや様(藤原に嫉妬)、世間知らずで行動がどこかズレてるかぐや様(タコさんウインナーへの憧れ)、高速手のひら返しかぐや様(絶交とか言ってたのにウインナーくれたらすぐ仲直り)が含まれている。

本作から放たれる悶絶必死のお可愛さは、ただそこに偶然存在していたわけではない。作品を面白いと思うのには、理路整然とした理由があるのだ、ということを改めて実感した。