新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ウマ娘 シンデレラグレイ』感想

次にくるマンガ大賞で2位となった実力は伊達ではない。主人公・オグリキャップだけでなく、全てのウマ娘たちが、まさに命がけで死闘を繰り広げる。これぞスポーツ漫画の醍醐味。だが、それにも増して、このコロナ禍だからこそ光るテーマ性がこの漫画にはある。

オグリキャップは、地方競馬で圧倒的な実力を発揮し、中央へ転進する。しかし、最も歴史のあるクラシック競走に出場するためには、その前年にクラシック登録というものをしなければならなず、その規則のためにオグリキャップ日本ダービーへの出走を逃す。この描写は今日のコロナ禍におけるアスリートの置かれた状況と似たものがあると感じずにはいられない。

これは確か為末大さんが言っていた事と思うが、オリンピックに出場するアスリートが一番恐れているのは、「世界一」を決める場という五輪の性質が失われる事だという。多くのアスリートにとっては、自身が負ける事や、無観客での開催になることは、最重要の事柄ではない。しかし、コロナ禍のために十分に練習が出来ない国が生じたり、そもそもコロナのせいで五輪に参加できない選手が出てきたりすることは死活問題になる。何故ならば、アスリートにとっては、一流の選手が全員そろって公平な条件下で勝負をする、ということが何より重要だからだ。そういう環境が整わない状況でたとえ金メダルを取ったとしても、それは真の王者とは言えない、と考えるのがアスリートなのである。

本作は、己の肉体と技術を極限まで鍛え上げるというだけでなく、本人の努力ではどうすることもできない高い壁と対峙せざるを得ない、というアスリートの本質をよく体現している。だかこれは、コロナ禍が始まる前からずっと変わらないことだとも思う。

マイケル・サンデルが著書の中で取り上げたケーシー・マーティン裁判というものがある。プロゴルファーであるケーシー・マーティンは先天性の障害があり長距離を歩行することができない。そのため、プレー中にカートを使用する事を認めてほしいと訴えたが、ゴルフ協会はそれに反対し裁判にもなった。結局マーティンは裁判で勝利したが、判事の意見は割れた。判事の一人はこう述べた。「そもそもあらゆるスポーツのルールは恣意的に決められるものであり、何が公正か等を判断することなど出来ない。与えられたルールに則って戦うというのがスポーツの本質である」。

だが、これは本当か。スポーツのルールには、著しく公平性を欠いてはならない、選手や審判や観客の安全が確保されなければならない、といった大前提があるものの、それさえ守っていればあとはどんなルールでも良いのか。いや、それはちょっと違うだろう、とサンデルは述べる。例えば、野球のDH制。投手に代わって打撃専門の選手が打席に立てば、打線の繋がりが良くなって試合がよりエキサイティングになる。また、守備が苦手な選手でもDHによる出場機会が与えられる。つまり、スポーツのルールは、観客がより面白いと感じるものでなければならない、という側面を持つ。その競技をより面白くエキサイティングなものにするために、ルールは日々更新されていくものである。

本作は、競馬という競技に限らない、スポーツにおけるルールというものの本質を実によく描き出している。