新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『アオイハルノスベテ』、堂々完結!

ついに『アオイハルノスベテ』が完結してしまいました。第1巻と第2巻では、傷ついた仲間のために主人公が立ち上がり、時には日本的な空気の支配とも戦いながら、盛大な「祭り」を仕掛けていく過程が描かれました。その中で、どんな人間であってもその気になれば「祭り」を起こすことができるのだということも描かれました。そして、第3巻と第4巻では、祭り=輪月症候群に注力することの意味が問われました。大人たちは「そんなもの卒業すれば消えてなくなってしまうやん!一体何の意味があるの?」と問いかけます。それに対して登場人物たちは、「人生は将来のためにあるのではなく、いつだって人生は本番なのだ」と返すわけです。自分の心と向き合って、今自分が何をしたいのか、何をすべきなのかを考える。そうして出てきた答えに対して他人がとやかく言うのは間違っている。本作の背後には、こういう強いメッセージ性を感じます。

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しかしそうは言っても、長い人生の中を常に「本番」と思って生きるのは難しい。「祭り」を起こすのだってそう簡単じゃなさそうです。それを実行に移すための大きなモチベーション=駆動力が必要です。本作においてその駆動力とは、間違いなく「死」でした。

先日のブラタモリでは、20年に一度の式年遷宮に合わせて都市計画が駆動することで、伊勢の町が時代に合わせて発展していったことが示されました。なるほど、このように「節目」を設定することは、町だけでなく人にとっても重要なことかもしれません。でも、人では20年は少し長すぎるので、1年とか数年とかの短い期間で区切るのがいいでしょう。しかも、これがただの節目ではなく、「○年後に死ぬ」という究極の節目が存在するのだとしたら、自ずと人の行動は変わっていくのだと思います。そして、その最終形態が、死までの期間を一日に設定することではないでしょうか。要するに、本作で一貫して書かれているもう一つのメッセージとは、明日死んだとしても後悔しないように一日一日を精一杯生き抜きなさい、ということだったのです!

本編全4巻と、丸々一巻を使ったエピローグで、シリアスからラブコメまで全力疾走の素晴らしい作品でした。正直、同作者の前作である『ココロコネクト』に比べると、分量がおよそ半分しかなく、物足りなさを感じる部分もあります。『ONE PIECE』で例えるなら、麦わら海賊団がグランドラインに突入して、さあこれから盛り上がるぞ、っていうところで最終回!みたいな感じです。けれども、文研部を襲う「現象」の形を変えることで無限に話を展開できた前作とは違い、本作は話を長引かせることによってマンネリ化する危険性もあるため、やはりこのくらいの分量で良かったのかもしれないとも思います。

最後にキャラクターについてですが、本ブログでは一貫して幼なじみヒロインである岩佐さんを応援してきて、残念ながら彼女の恋は実らなかったわけですが、それでも私は一点の曇りもないすっきりした気持ちです。それくらいに、大河内さんと木崎さんが魅力的に描かれていました。例えるなら、全盛期の斉藤和巳と松坂の投げ合いを見ているような、たとえ応援している方が負けたとしても「素晴らしいものを見た」と誰もが思えるような清々しい気持ちになるのです。この圧倒的なヒロイン力こそ、本作を土台から支える重要な要素だったと思います。

しかし、いつまでも余韻に浸ってるわけにはいきません。我々も横須賀と同じように、これからの未来について話さなければなりません。庵田定夏さんの次回作についてです。

特集3:『アオイハルノスベテ』|FBonline

まだほとんど情報はありませんが、前二作とは舞台や雰囲気が大きく異なるようですね。次は一体どんな物語を見ることができるのか、続報を楽しみに待ちたいと思います。

『ハイスクール・フリート』で一番萌えるカップリング

ハイスクール・フリート』で一番萌える百合カップリングは、断然、メイタマ(西崎芽依・立石志摩)です。攻撃になるとテンションが高くなるオレンジ色のパーカーを着てる子と、いつも「うい」しか言わない無口な白髪の子、と言えば分かりやすいでしょう。なぜ、このカップリングが一番素晴らしいかと言うと、それは、一見するとあまり相性良くなさそうなのに、実はめっちゃ仲良しでいつも一緒にいる、というギャップが非常に萌えるからです。

メイちゃんの方は、見るからに明るくて積極的で、似たような性格の子と一緒に楽しくおしゃべりしてそうなイメージがあります。一方、タマちゃんの方は、すごく無口で大人しい性格で、友達付き合いとかも苦手そう。普通に考えれば、この2人の波長が合うとは考えにくい。けれども、第4話以降、2人が急に仲良くなって、いつも一緒に行動してる! 萌える!

しかも公式HPによると、メイちゃんの出身は川崎、タマちゃんの出身は千葉県館山市なので、幼なじみというわけではありません。例えば、艦長とモカちゃん、マロンちゃんとクロちゃん、ヒメちゃんとモモちゃん、といったカップリングは、出身地が同じで幼なじみなので、ぶっちゃげ親しくしていて当たり前なんですよね。ところがメイタマは、入学前は一切面識なかったのに、たった2週間の航海の間にめっちゃ仲良くなってる! 萌える!

しかもメイタマは、「ミミちゃん→マッチ」とか「クロちゃん→副長」のような、一方通行的な「憧れ」による関係性とも異なります。どちらか一方がもう一方に惹かれてるという関係ではなく、お互いが対等な関係で、ごく自然に一緒に行動している! 萌える!

というわけで、メイタマ素晴らしいです。皆さんも、是非、この2人に注目して作品を見ていきましょう。

水素水メーカー・株式会社伊藤園について調べてみた

沿革

参考HP:沿革 | 会社データ | 伊藤園
参考HP:業界トップクラス*の水素濃度「高濃度水素水」|伊藤園|健康体
参考HP:「水素水」4月11日(月)より販売開始 | ニュースリリース | 伊藤園

1966年にフロンティア製茶株式会社が設立され、茶葉の製造・販売を始めます。1969年に社名を株式会社伊藤園に変更します。

1980年代に、缶入り緑茶飲料の製造を開始。1989年には主力商品である「お〜いお茶」の販売を始めます。

その後、ペットボトル緑茶の製造販売など、次々に事業を拡大。緑茶のみならず、紅茶・ジュース・コーヒーなども手掛ける総合飲料メーカーとなります。

2015年より、独自の水素封入方式で「水素」を溶け込ませた「水素水」を発売しています。HPによると、業界トップクラスの水素濃度を誇り、水素を逃がさない頑丈なアルミ容器を採用しているそうです。

経営理念

参考HP:経営理念 | 会社データ | 伊藤園
参考HP:「水素水」について | 飲料関連のご質問 | よくいただくご質問 | お客様相談室 | 伊藤園

「お客様第一主義」を掲げ、伊藤園に関わるすべてのお客様を大切にすることを経営の基本としています。

また、製品開発理念として、「自然」「健康」「おいしい」「安全」「良いデザイン」の5つを挙げています。

水素水を例にとっても、自然の水素という安全な材料を使って、通常の水と同様においしさと健康効果があり、一目で水素が多く含まれていると分かる良いデザインになっています。この事からも、5つの製品開発理念に沿って新商品が開発されていることが分かります。

また、上記HPには、

伊藤園は、「STILL NOW」を合言葉に「今でもなお、お客様は何を不満に思っているか・・・」という問題意識を常にもち続けます。(中略)営業の現場から絶えず寄せられるお客様の要望や不満は、製品開発にも活かされています。

と書かれているので、今後も積極的に消費者の意見を取り入れながら、より優れた水素水を開発していってくれることでしょう。

採用情報

参考HP:人事メッセージ | 採用情報 | 伊藤園

伊藤園は「実力主義」を掲げ、学歴・性別・国籍・年齢を問わず社員全員に平等にチャンスを与える社風だそうです。

また、「Voice制度」というものがあり、全ての社員が新商品の提案や売り場の改善すべき点・成功事例などを会社に提案できるそうです。

このような開かれた社風の中で水素水に関わる仕事がしたい!と思う人は、是非、伊藤園にエントリーしてみてはいかがでしょうか。

注釈

この記事は、伊藤園のホームページに書かれてある内容をそのまま紹介してるだけであり、決して伊藤園や水素水を批判しようとするものではございません。伊藤園や水素水を悪く言うなんて許せない!というクレームにはお答えいたしかねますので、あらかじめご了承ください。

『くまみこ』に描かれた現代日本の田舎の闇

見る前はただの萌えアニメと思っていたが全然違った。これは実に考えさせられる作品だ。考えれば考えるほど、熊出村という村はひどい所である。まちに向かってセクハラ発言しまくりのクソじじい。若者とクマに神事を押し付けて自分達は何もせずにのうのうと暮らしてる老害ども。ガスも引けない、コンビニもない、道もまともに整備されてない不便な土地。そんな場所から抜け出して都会に行きたいとまちが願うのは当然だろう。しかし悲しいことに、まちは村での暮らししか知らない。街に出て自分を変えようと頑張ってみても、いつも空回りするばかりで、最後には必ず村に戻ってきてしまう。

極めつけが第6話だろう。ショッピングセンターで強烈な田舎コンプレックスに襲われ、まともに買い物もできず、心も体もボロボロになって村に帰ってきたまち。普通の人ができて当たり前のことができないという恥ずかしさ。このままではいけない、何とかして現状を変えたいという焦り。でも、どんなに頑張っても自分を変えられない、この村に留まり続けるしかないという悲しみ。それらの感情が一気に押し寄せてきて、まちはナツに抱きついて一晩中泣き続ける。それはまるで、こみ上げてくる感情を発散し、代わりに心の中を「諦め」で満たすことで、心の平穏を保とうとする作業のようだ。

そんなまちの姿を見て、彼女の感情が伝染したかのようにナツもまた泣き出す。無限の可能性を秘めた女の子が、未来もない希望もない寂れた村に縛られ、そこから抜け出そうと必死に足掻き苦しんでいる。こんなゴミみたいな村に閉じ込められているせいで、本来まちが得るはずだった幸せが今この瞬間にも失われようとしている。まちのことを誰よりも愛し、彼女の幸せを願っているナツだからこそ、彼女の置かれている状況があまりにも可哀想で、ナツは涙を流さずにはいられないのだろう。

というわけで『くまみこ』は、現代日本の田舎の闇を描き、田舎から必死に抜け出そうとして失敗する少女の悲しみと絶望を描いた作品だったのだ! ……いや、これは冗談ではないですよ。私は割とマジで、こういう風に作品を解釈しています。

『やがて君になる』の魅力

「特別」を知らない侑

『やがて君になる』読み返してます。これは読めば読むほど深みにはまっていく怖ろしい漫画ですね。個人的にこの漫画の一番素晴らしいところは、主人公・小糸侑のキャラクターだと思っています。一言で言えば、侑は「特別」なものを持つことができない人なのです。

より正確に言うなら、恋愛とか部活とか生徒会活動といった、普通の中高生が必ず経験する事柄に「熱中する」「夢中になる」といったことが決定的にできない人なんですね。これは何も恋愛のことだけではなくて、部活でも勉強でもいいし、将来の夢のために頑張るということでもいい、とにかく「これだったら自分は頑張れる」「他の全てを犠牲にしてでもこれに集中したい」と思えるような「特別」なものを皆が持っている。ところが侑には、その「特別」が分からない。全てのことを一歩下がった所からまるで他人事のように見つめることしかできない。つまり侑は、学校という空間で経験し得る様々なこと(勉強・部活・学校行事・その他全て)に「熱を上げる」ということが、本質的に無意味なことである、という事実を心の底から知ってしまってるんですね。

「特別」を知っている七海先輩

しかし世間というものは、侑に「特別」を知ることを強要してくるのです。何か一つ夢中になれるものを持っていることが、「普通」であり「自然」であり「当たり前」であるという洗脳を、事あるごとに浴びせ続ける。そして、何か一つのことに全力で取り組むのという事、みんなで一致団結して一つのものを作り上げるという事は素晴らしいよね、という無言の圧力がこの社会にはあって、それに逆らうと物凄く生きるのが難しくなるという現実がある。だからこそ侑は「特別」を知りたい、つまり、誰かのことを好きになりたい、と強く願うのです。

けれどもただ一人、七海先輩だけが、侑に「そのままでいいんだよ」と宣言します。「特別」を知らない侑のままでいい、いやむしろ、今の侑のことが好きだ、と全力の愛で侑を肯定してくれるのが七海先輩なのです。

ところがここに、七海先輩の抱える本質的矛盾=ズルさが存在しているのです。要するに、七海先輩はすでに「特別」を知ることの快感を知っているのです。侑にとって七海先輩は、特別を知らないありのままの自分を肯定してくれた唯一の人物、だから七海先輩も自分と同じ人種に違いない、そんな風に思っていた。ところがフタを開けてみれば、七海先輩は、侑のことを好きになるという特別、生徒会長になって皆の期待に応えるという特別、姉の代わりに文化祭の劇をやるという特別、そういった沢山の「特別」を持つ喜びを知っているくせに、侑には「自分のことを好きになるな」「特別を持つな」と要求してくるのです。それゆえに、侑は七海先輩のことを「ズルい」と感じてしまうのですね。

なぜ侑は七海先輩から離れられないのか

それでも侑は、七海先輩から離れることができない。生徒会長選挙の応援演説も引き受けるし、劇も手伝うと約束してしまう。それは何故なのでしょう。それはおそらく、七海先輩の持つ「特別」が「偽物」であることを侑だけが見抜いているからです。

彼女の「特別」の中で、「本物」と呼べるものは侑への恋心だけで、他の生徒会活動とか劇をやりたいとかは全部「偽物」なのです。それらは、彼女の心の底から湧き上がる自発的な意志によって発動しているものではなく、周囲の期待に応えなければならないという強迫観念とか、姉の代わりにならなければならないという焦燥感などによって生み出された、偽物の特別なのです。つまり七海先輩は、「特別」を持つことの喜びだけでなく、「特別」を持ち続けることの苦しみを誰よりも深く理解している。そして、表向きは学校生活の中のあらゆる事に熱を上げているように見えて、実際には心の中は氷のように冷え切っている。

それゆえに、侑と七海は一見すると全然違うように見えて、心の奥深くでは凄く似た者同士であり、互いに惹かれ合ってしまう。そして何より、侑は、凍りついた七海の心を溶かすことができるのは自分だけである、すなわち、自分が七海先輩にとって「特別」な存在であるという事実に、間違いなく喜びを感じている。そして、自分が「特別」を獲得できるかもしれない唯一の場所である七海先輩の傍に、ずっと居続けたいと強く願ってしまう。

という感じで、二人の関係性がどのようなものなのか推理しつつ、絶え間なく繰り出される二人のイチャイチャっぷりに悶絶しながら何回も読んでしまうのが、『やがて君になる』の魅力でございます。3巻以降、この関係性がどうなってしまうのか、果たして侑は「特別」を知ることができるのか、これからも目が離せません。