新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

2017年下半期アニメ総評

本当に今更かよって感じですが、2017年下半期に見たアニメの総評を書きました。『プリンセス・プリンシパル』『サクラクエスト』『少女終末旅行』については、以下の記事を参照ください。

メイドインアビス

古来より人間は、旅や冒険に心躍らせてきた。まだ誰も知らない場所に行く時の高揚感、新しい発見をしたいという野心、自分の中の世界が広がってゆく喜び。知らない土地で何が起こるか分からない恐怖、無事に帰ることができるだろうかという不安。大自然雄大さ、その中で立ち尽くすことしかできない人間の無力さ、それでもなお新しい世界へ挑もうとする人間の勇気。『メイドインアビス』には、人間と冒険にまつわる全てが詰まっていると言っても過言ではない。

そして、ただでさえ心躍るこの世界を、現代アニメを粋を集めて美しく描いて見せた。岡田斗司夫氏は、優れたアニメや映画はみな世界の美しさをきちんと描いている、『天空の城ラピュタ』然り、『君の名は』然り、『メイドインアビス』もまた然り、と述べているが、確かにその通りだと思った。

ゲーマーズ!

「です!です!」の子が可愛かったこと以外はびっくりするくらいストーリーが思い出せない。キャラクター間での誤解やディスコミュニケーションが積もり積もってしっちゃかめっちゃかになる構成はなかなかチャレンジングで良いと思うが、明らかにやり過ぎである。久しぶりに金元寿子さんの当たり役を見れたのは良かったけど。

NEW GAME!!

この作品の仕事というものへのアプローチの仕方は素晴らしいと思う。ゲーム制作会社という組織の中で理不尽なことや辛いことがあった時に、それをきらら原作漫画にありがちなご都合主義やユルふわな空気で誤魔化したりすることなく、努力で何とかなりそうな部分は全力で努力し、それでも納得できない部分は心の中で何とか折り合いをつけて次に進んでいくという形のストーリーで、大げさかもしれないが「ああ、まさに仕事ってこういう事だよね」という気付きを得られる。

キノの旅

世間では寓話や社会風刺の要素があるラノベとして定評があるが、どうにも各話それぞれに納得できない部分が多い。例えば第3話「迷惑な国」。どんな国も多かれ少なかれ利己的で他国に迷惑をかけているという結論に無理やり持って行こうとしているが、「いや、元からそこにあった国と、そこを無理やり通過しようとする国を一緒くたに語られても…」という気持ちになる。北朝鮮からのミサイルが日本の上空を横切っても「そこに日本列島があるのが悪い」とでも言うつもりか。

あるブログ(『キノの旅』にある「無意識の偏り」|リュウセイグン)では、訪れる国の人々を「普通からは考えられないくらい低レベルに貶める事で無理矢理批判的な方向に持っていってる」と指摘しているが、私も同感だ。結局この作品は、作者の主張や世界観を表現するために都合のいい設定を色々とこねくり回して、表向きは寓話風に取り繕ってるに過ぎず、実態は作者の言いたいことをキノや他の登場人物に代弁させているだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。もちろん、神話やおとぎ話を含む全ての物語にはそういう一面がある。しかし、『キノの旅』はそれがあまりにも露骨すぎると思う。

宝石の国

この作品の見所は何と言っても、フォスフォフィライトを演じた黒沢ともよさんの名演だ。大胆不敵だが臆病でもある、行動は向こう見ずで情熱的だが世界に対して冷めた見方もしている、そんな複雑なキャラクター。冬の間の出来事によってフォスが感じた悲しみと無力感が、彼女の心を不可逆に変えていく切なさ。守りたいと思える国や家族もなく、ただ大好きな先生のために戦うことでしか自らの存在理由を見出せない宝石という存在の寄る辺なさ。私のような素人ではその演技に対して「見事」という以外の言葉が見つからない。具体的に何が凄いのか上手く言葉に出来ないけれど、黒沢ともよは天才であるということだけは分かる。

サクラダリセット

登場人物が自分や相手の行動の意味を論理的に考え、それを言語として紡ぎ出し語り合ってる姿がものすごく違和感ある。この作品を書いた河野裕氏のような小説家なら有り得るのかもしれないが、普通の高校生はそんな風に論理的に物事を考えたりしないし、内面を言語化しようとしても出来ない。登場人物がすらすらと内面を語り出す抒情的なスタイルは、河野氏の小説の特徴だが、私には合わなかった。アニメも12話くらいで見るのを止めた。

結城友奈は勇者である(第2期)

第1期の頃にはかろうじであった物語上の整合性すらかなぐり捨てて、ひたすら女の子を酷い目に遭わせることだけに特化した悪趣味なアニメ。皆に本当のことを話すと呪いが伝染してしまうので友奈が一人で苦しまざるを得ないという設定。なるほど、よく考えたものだ。人は目的(女の子を酷い目に遭わせること)さえあれば無限に想像力を働かせることができるのだなあと逆に感心してしまった。

『少女終末旅行』最終話―絶望的だが最高のハッピーエンド

アニメ化されたエピソードより先の部分がホームページ上で見れるので、『少女終末旅行』アニメ版だけ見て満足してる人は必ず原作の方も読みましょう。

少女終末旅行 | くらげバンチ

その原作が先日ついに最終回をむかえたわけですが、何かこう、心にとてつもなく大きな余韻を残す美しいラストでした。

正直、最終話に至るまでの数話は、読んでいて辛かった。ケッテンクラートが壊れ、徒歩での移動を余儀なくされた2人は、歩きながら様々なものを捨てていきます。銃も、食料も、本も、過去の記憶さえも失いながら、ユーリとチトは前へ進みます。これはまさに人生の本質、人生とは何かを得て、そしてそれを失っていく過程に他ならない、ということを強く感じさせます。

都市の最上部に着いた時にはもう、あらゆる持ち物を失って、明日の生活すらままならない絶望的な状態に。2人の胸に、本当にこれで良かったのか、何か別の選択肢もあったのではないか、という思いが去来します。それでも満天の星の下で、生きるのは最高だったという2人…。もちろん後悔もある。すべてが順風満帆だったわけではない。それでも、人生の最後に、生きるのは最高だったと言えたなら、それはもう間違いなくハッピーエンドなのでしょう。

物語のラスト、まるで世界の中に溶け込んでいくかのように眠りについた2人。これから2人がどうなるのか、それは一切示されていない。もしかしたら、このまま二度と目を覚まさないのかもしれません。しかし、たとえそうだったとしても、この絶望的で、それでいて穏やかな結末が、2人にとって最高の終わり方だったのだと信じたい。

3月に単行本6巻と設定資料集が発売されたらまた記事を書くと思いますが、今日はひとまず原作最終回を読んで思った事について、取り急ぎご報告まで。

最近読んだ本まとめ(2)

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

人間は中学生くらいになると、学校では教えてもらえないこの社会の構造や生きるために大切な事について、自ら吸収していけるようになる。この世には貧富の格差があるという事、数え切れないほど多くの人々の有機的なつながりによってこの現代社会が成り立っているという事、そして、人生の中のあらゆる出来事は決してやり直すことのできない一期一会のものであるという事。世間では中高生に読んでほしい名著と言われるが、私は日本中にいる教育関係者にこそ是非とも読んでもらいたい。人生にとって一番大切なものは、学校で教わることではなく、学生自らが思考し、日々の生活の中で掴み取っていったものの中にある、という教育の本質が見事に書かれている。そして、真に優れた教育者とは、単に学生にものを教えるだけではなく、本書に出てくる叔父さんのように、学生が自発的に学んでいく過程をサポートできる人なのだと思う。

本書の舞台である第二次大戦直前の学校のあり方について多くの人が誤解している事があると思う。それは、戦前の教育の問題は全て軍国主義的・国粋主義的な教育指針によって個性を抑圧するような教育が横行していた点にあり、それらの反省を踏まえた上で今日の教育があるのだ、という「教育史観」である。しかし、私から言わせれば、日本の教育現場が抱える問題は、戦前も戦後も一貫して全く変わっていない。確かにGHQの指示によって軍国主義的・国粋主義的な教育内容は改められたのかもしれないが、敗戦という大転換点を境にして教育の形がガラリと一転したという見方は間違っていると思う。丸山真男が本著のあとがきで次のように述べている。

日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、その傾向が教育の平等化によって加熱されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。そうして、こういう「知識」――実は個々の情報にすぎないもの――のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育の復興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、――そのイデオロギー的内容をぬきにしても――あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。
(『君たちはどう生きるか』、324~325ページ)

君たちはどう生きるか』が書かれて80年、丸山眞男があとがきを書いて35年以上が経過したが、指摘された問題点は今も全く変わっていない。要するに、日本の教育界というものは右も左も、生徒にとって必要だと思う知識を上から叩きこむことには執心しても、生徒が自ら学び考える機会を与えることは一切考えてこなかったのだ。この国では、どんなに立派な理念を掲げても、それはあっという間に陳腐で無意味な「詰めこみ教育」に成り下がるのだ。例えば、近年散々言われている「大学では社会で役に立つ人材を育てよう」という理念(それに対する賛否は別にしても、日本中の有識者が集まって作り出された立派な理念)は、経営学自己啓発・マネジメントとかいう言葉を表層的になぞるだけの無意味な授業に変わり、挙句の果てには就活で役に立つ自己アピールや面接の練習に成り下がった。日本会議とか自民党とかが愛国心を高めるような教育を推進すべきだと言い続けているが、それも遠くない未来に、歴代の天皇の名前を書かせる暗記テスト(私達の祖父母が戦前に受けたのと同じようなもの)に成り下がるだろう。これは断言してもいい。

君たちはどう生きるか』が多くの人に読み継がれているという事実は、裏を返せば、本著が掲げた理想の教育の姿が未だに実現されてないということなのではないだろうか。

おはよう、愚か者。おやすみ、ボクの世界

電撃小説大賞を受賞した作者のデビュー作『ただ、それだけでよかったんです』に勝るとも劣らない衝撃的な作品。まるで映画『ゴーン・ガール』のように、物語が進むにつれて読者の中で登場人物の印象がガラリと変わるように設計された文体、ミスリードの仕方は天才的技法としか言いようがない。それでいて最後には、人は何かを捨てることで大人になるのだという悲しい現実が突きつけられ、読後には何とも言えない余韻だけが残る。

では、登場人物たちは大人になる中で一体何を捨て去ることになったのだろう。それは、自分は特別な存在だという「有能感」だろうと思う。自分だけがあの人のことを分かってあげられる、自分は皆から必要とされている。そういった有能感がボロボロに崩れ去り、実は自分もこの世界に大勢いる取るに足らない人間の一人なのだと思い知らされるという挫折の中で、人は成長していく。

作者はこれからも長く優れた作品を発表し続けるだろう。その発表の場がライトノベルに留まるかどうかは分からない。桜庭一樹のように、ゆくゆくは一般向けの小説を出して芥川賞直木賞をとるかもしれない。

iPS細胞

iPS細胞 不可能を可能にした細胞 (中公新書)

iPS細胞 不可能を可能にした細胞 (中公新書)

数あるiPS細胞関連の新書の中では、この中公新書が出した解説書が一番読みやすく、押さえていくべきポイントをしっかり押さえていると思う。中でも興味深かったのは、山中伸弥教授がiPS細胞を開発する過程ではなく、その成果を発表するまでの流れが詳しく書かれていたことだ。

マウスのiPS細胞作製に成功した山中は、さっそく論文を投稿しようと考えるが、普通に投稿してしまったら査読中にデータを盗まれてしまう怖れもあった。そこで、米国の学会で成果を報告し、自分のプライオリティを証明した。その際、使用した4つの遺伝子の名前を明かさないなど、技術が盗まれないように細心の注意を払った。その発表をCell誌の編集者が聞いていたおかげで、実に素早く論文を発表することもできた。さらに、ヒトiPS細胞の作製にも成功し論文投稿の準備に入ろうとしていた頃、出張先でどこかのグループもヒトiPS細胞作製に成功しているらしいという噂を聞きつけ、飛行機の中で大急ぎで論文を書き上げたという。

こういう咄嗟の対応力を見ていると、やはり山中氏は良い意味で日本人離れした研究者だと思う。他を圧倒するような知識と技術力を持っているのはもちろんだが、自らの成果を最も効果的に発表するために巧妙な戦略を立て、貪欲にNo.1を狙っていこうとする姿勢を兼ね備えている。まさにノーベル賞を取るべくして取った人物だと言えるだろう。山中氏がたとえ幹細胞研究の道に進んでいなかったとしても、別の道で世界的な偉業を成し遂げただろう。

相撲協会の謝罪が白々しいと感じるのは過去の八百長を認めようとしないから

結局これに尽きると思います。

もちろん、暴力と八百長問題は基本的に別物だと思うし、暴力の方は完全な犯罪で、2007年には死者まで出しているのでより深刻な問題だと思うけれど、結局、過去の八百長を認めようとしない相撲協会が何度「申し訳ありませんでした」「再発防止に努める」と言ったところで全く心に響かない。社員の過労死が問題になってもなお長時間労働を改めようとしないブラック企業が言う「再発防止に努める」に通じる白々しさがある。

まあ実際、今回の相撲協会側の対応にも問題があったのは事実で、本来被害者であるはずの貴ノ岩貴乃花を悪者にしようとしているとか、事件の背後にあるモンゴル人力士間の八百長を隠そうとしているとか、本当か嘘か分からない情報が出回っているけど、それらは正直どうでもいいと思う。むしろ私の中では、現役力士も親方衆も、加害者も被害者も、日本人も外国人も、みんながみんな過去の八百長について公式には口を閉ざしている、そういう体質の協会が出す「謝罪」に一体何の意味があるのだろう、と感じてしまう気持ちの方が大きい。

2010年に八百長問題が発覚した時、八百長の仲介役だった恵那司のメールを見れば、極めて巧妙な八百長のシステムが出来あがっていたことが分かる。そんな巧妙なシステムがあの時代にだけ存在したなんてことは絶対に有り得ない。あれは力士の間で脈々と受け継がれてきたものだ。事実、2010年以前にも八百長を告発した人はいたし、千代の富士八百長をやっていたのも公然の秘密とされていたではないか。

にも関わらず、相撲協会は2010年に「八百長は新たに発生した問題で、過去には一切八百長はなかった」と言っている。もちろん、当時の理事長はガチンコ力士として知られていたし、今の八角理事長や貴乃花親方も自身は八百長に関与していなかったのかもしれない。しかし、あれだけ複雑で大規模な八百長のシステムが存在していて、知らなかったはずがないのだ。百歩譲って、現役の若い力士や単なる相撲関係者なら、そういうシステムがあると知らなかったという事も考えられるが、長年角界の中枢にいる親方衆が知らなかったなんてことあるわけがない。

だから、八百長問題という1つの話題について言えば、相撲協会は確実に「嘘」をついている。私の中でその認識が根底にあるから、今回の件で相撲協会が何度謝罪しても、まだ何か隠しているんじゃないか、本当は反省してないんじゃないか、という疑念を拭えない。

アニメ版『少女終末旅行』感想―原作を効果的にアレンジすることでより重厚感のある作品となった

この記事の結論は表題の通り。原作を読んだ方にとっては言うまでもない事だが、原作でも、

  • ユーリが銃でパイプを打ち抜きお湯を出すシーン
  • 2人がカナザワとで出会うシーン
  • カメラのタイマー機能を使って2人が写真を撮るシーン
  • 2人が巨大な管の上を歩いて食糧生産工場に向かうシーン

は存在する。しかし、

  • 寒さで震えながらパイプを撃とうとするユーリにチトが肩を貸してあげるシーン(第2話)
  • ユーリがカナザワを警戒してしばらくの間ずっと銃口を向けているシーン(第3話)
  • 写真撮影の前にチトがユーリの髪を直してあげるシーン(第4話)
  • 高い所を怖がるチトを励ますためにユーリが「いっちに!」「ワンツー!」とか言ってるシーン(第7話)

といったシーンは全てアニメ版オリジナルであり、これらの何気ないシーンが追加されることで、2人がいかにお互いのことを大切に思っているかが、より鮮明になった。

原作のアレンジと言えば、最終回Aパート、カメラの中にある写真と動画を見るシーンも素晴らしいとしか言いようがない。ショパンノクターンを背景にして映し出される人類の歴史。映像の中にある人々の生活は愛に満ちている。子供の成長を喜び、大切な人と共に過ごし、死者を弔う人々の姿。しかし、そんなにも愛に満ちた世界にあっても、人と人との争いはついに無くならなかったのだ。おそらく彼らは、現実世界の私達と同じように、愛する子どもたちの未来を思い、地球の美しい自然に心打たれ、それらの大切なものが失われてしまうかもしれないという恐怖に打ち震えるたびに、何度も何度も争いを止めようとしただろう。それでも、人のDNAに刻まれた欲望、他者を殺し、他者の物を奪おうとする本能は、どうやっても抗えないほどに強く、人は破滅の道を突き進んでしまったのだ。人類が辿った悲しい歴史を強く感じ取ることができ、作品の印象ががらりと変わる。

また、最終回Bパート、謎の生物に食われたユーリを助けるために銃を手に取るチトの描写も実に良い。これまでずっと銃を持っていたのはユーリの方で、チトは最終話にして初めて銃を持って戦うことになる。転んだはずみで銃が暴発し、チトが泣いたのは、1人になって心細いためだけではないだろう。チトはこの時、本当の意味で銃の重みを実感し、人を殺すことさえできる強力な武器がいま手元にあるという恐怖から泣いていたようにも見える。この1シーンを入れるだけでキャラクターの心理描写にぐっと重みが増すのだ。