新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

話にならない下町ボブスレー側の言い訳

おもに東京都大田区にある町工場が立ち上げた下町ボブスレーネットワークプロジェクトの作製したソリが、五輪ジャマイカ代表に採用されていたのに、急遽ラトビア製の別のソリを利用することになり、下町ボブスレー側が契約違反だとしてジャマイカに違約金の支払いを求める事態に発展しています。

「遅い、安全でない、検査不合格」ジャマイカ側の言い分 - 2018平昌オリンピック(ピョンチャンオリンピック)- 五輪特集:朝日新聞デジタル

朝日新聞はこの件に関してジャマイカ側の言い分を載せており、それによると、(1)下町ボブスレーのソリはラトビアBTC製のソリよりも2秒以上遅かった、(2)下町ボブスレーのソリはレギュレーションチェックでたびたびNGとなることがあり五輪本番もNGとなる危険性があった、(3)下町ボブスレーのソリは安全性に問題があった、という理由を挙げています。

これに対して、下町ボブスレー側が公式ホームページで反論をしています。

ジャマイカ連盟との交渉について | 下町ボブスレーネットワークプロジェクト公式サイト

本来は下町の小さな町工場だったはずなのに、随分とご立派なホームページをお持ちなようで…。自分たちの正当性を訴えようと、情に訴える文章や写真まで多用して、重要個所は太文字で強調…。実に高い情報発信力がお有りのようですね。バックにいるのは広告代理店?それとも政府?

…という第一印象はさておき、とにかくこの反論がまるで反論になってない、苦しい言い訳のオンパレードで、「あ、駄目だ、この人たち…」となってしまい、こんな人たちにソリを押し付けられるジャマイカが本当に可哀想、ジャマイカには是非ともラトビアのソリを使ってメダルを取ってほしいと心から思いました。

スピードについて

事の発端は、輸送時のトラブルにより下町ボブスレーが会場に届かず、ジャマイカ側が急遽BTC製のソリで大会に出場したことでした。下町ボブスレーよりもBTC製のソリの方が性能が良いということが発覚し、結局ジャマイカ側はオリンピックでもBTC製を使うことに決めたようです。しかし、下町ボブスレー側は納得行かず、自分たちのソリが決して遅いわけではないと主張しています。そして、実際にテスト走行をして下町ボブスレーはBTCより速いという結論が出ている、などという主張を展開しています。

しかし、彼らの主張するテストというのが、どうも怪しい。先のホームページには次のような記述が。

このドイツでのワールドカップで7位に上位入賞したことにより、ジャマイカ連盟は下町ボブスレーのさらなる改良の要望などが始まりました。我々としては即対応しオーストリアへ飛び対策を開始しました。ジャマイカ連盟が指名したオーストリア人技術者と共に改良し、オーストリア代表女子選手で12/9のワールドカップにて5位獲得のBEIERL Kartin選手がテスト滑走しました。

テストを行ったのはジャマイカの代表選手ではなく、オーストリアの選手って…。もうこの時点でテストの意味無くないか?*1と思うんですが、さらに呆れ返る内容が続きます。

ジャマイカチームがBTCを持ち去ってしまったため、比較対象はドイツのワルナーというソリにしました。このソリはテストを開催したインスブルックのコースで最速と評価されており、そのソリとリザルトタイムのデータにおいても滑走評価でも同等でした。

は? え? 何言ってんのコイツ? 本来であれば、ジャマイカチームが使いたいと言っているBTCのソリと下町ボブスレーとを比較すべきところを、BTCが無かったから別のソリと比較しましたって…。確かに「このソリはテストを開催したインスブルックのコースで最速」なのかもしれないが、それは理由にならないでしょうが。

下記数値データを参照ください。*2Japanが下町ボブスレー10号機です。この数字・データによりジャマイカ連盟が指名したオーストリア人技術者は「下町ボブスレーはBTCより速く、ワルナーと同等」と評価しました。

こんな比較にもなってないバカなやり方で「下町ボブスレーはBTCより速く」なんて評価出せるわけねえだろ。ちゃんとジャマイカの選手が同じ条件でBTCと下町ボブスレーに乗ってみないと、下町の方が速いなんて言えないだろ。これは例えるなら、「この薬はサルを使った実験で効果が確認された。だから同じ哺乳類である人間でも効果がある」という乱暴な主張をしてるのと同じことですよね。

科学論の世界でも「何故、本来ならこういう比較実験をすべきなのに、それをしてないの?」と言いたくなるような論文は山ほどありますが、その理由はたいてい、(1)そういう比較をすることが技術的・時間的・金銭的に難しいからか、(2)比較はしたが思うような結果が得られなかったのであえて論文では触れていないか、どちらかです。もし前者なら、その理由をちゃんと明記すべきなのにそうしないのは何故?となるし*3、後者だったら、もう彼らの主張は全く聞く価値のない信用できないものということになります。

でも、もっと許せないのはその後の発言。

BEIERL Kartin選手の滑走後のコメントでは「下町の方がハンドルが繊細など操作の特性はそれぞれ特徴があるが、性能は同レベルで、振動も気にならない。」と言っております。我々もこのデータを根拠としてジャマイカ連盟に伝えています。

「下町の方がハンドルが繊細」…。なんか、スゲー重要そうなことがしれっと書かれてるんですけど…。

ただ、ジャマイカ連盟とは下町ボブスレー採用の契約を結んでいるのであり、本来なら他のソリとテストをして”比較”するという事自体受け入れがたいのですが、選手のため、下町ボブスレーをさらに速くするために全力を挙げました。以後スピードについてはジャマイカ連盟より言及されていません。

ちょっとこれはもう信じられない主張ですよね。「比較するという事自体受け入れがたい」って、お前ら何様のつもりなの? というか、すでにある高性能のものと比較しないで、それよりも良いものを作ることなんて出来るんでしょうかね? どんな企業であっても、他社の製品を取り寄せて自社製品と比較することは当たり前に行っているはず。市場で売られている他社の製品を買ってきて、分解して、徹底的に調べて、自分たちの製品との比較をする。そうでなければ、他社のものと比べて自分たちの方が優れているなんてことは証明できないでしょう。他との比較をせず、それでも自分たちの製品の方が優れていると言い張るのは、もう、自分たちの製品を使えと無理やり脅してるのと同じではないでしょうか。

はっきり言って下町ボブスレーは、技術者なら絶対に守るべき最低限の科学的態度すらも放棄して、ひたすら自分たちが正しいという理屈を捏ね繰り回してるだけです。

その他の問題点

レギュレーションチェックで不合格になったことについても、下町側は次のように主張して問題はなかったと言い張っています。

レギュレーションチェックを短期間の中で3回にわたり行いました。1回目に受けた指摘はすべて対応済みで、2回目は審判員から「ソリは問題ない」とスムーズに合格しました。合格したレギュレーションの証明証の書類を請求し、揃い次第送ってもらえる手配となっています。3回目は2点の軽微な修正を指導されました。パンバーの厚みがわずかに足らないという指摘にはCFRPシートを貼ればOKといった軽微なもので対応は万全です。

「パンバーの厚みがわずかに足らない」って本当に「軽微な修正」なのかなあ? CFRPシート、つまりカーボン製のシートを貼って厚みを増せばOKってことらしいけど、そのシートを貼ることでソリの形も変わるし重量も重くなるわけでしょう…。あと、「2点の軽微な修正」のもう1点はどこ行った?

また、安全性についても次のように述べています。

契約の第4条にあるのですが、ソリ引き渡し後の責任はジャマイカ連盟にあり、またジャマイカスペシャルと呼ばれている女子選手用の9号機と10号機に関してはジャマイカ連盟の要望どおりに製作した形状であります。男子用の6号機と8号機は下町モデルです。9号機のジャマイカモデル製作後に、2017年にもジャマイカ選手の要望を反映して再度10号機を製作しました。だからといってただソリを製作しハイどうぞということではなく、協力を表明し最大限対応してきました。

わざわざ向こうから「だからといってただソリを製作しハイどうぞということではなく」とか言って読者からの反論を予想したかのような記述をしてるのは何か笑えるけど、そもそも、ジャマイカ側の要望に合わせて作ったソリなんだからこっちは悪くないという主張も苦しいと思うんですけどねえ。この書き方だと、ジャマイカ側が要望していたものと違うものを作製して引き渡してる可能性を排除できないですよね。

まとめ

正直、レギュレーションと安全性だけなら下町ボブスレーの言い分にも多少は納得していたかもしれない*4。でもこの人たちは、スピードの比較という点で、明らかにトンチンカンなことを言っている。

本来であればBTC製のソリと比較すべきなのに、それをせずに別のソリと下町ボブスレーを比較している。しかも、そのテストに参加したのはジャマイカの選手ではない。にもかかわらず、この無意味なテストの結果から「下町ボブスレーはBTCより速い」という自分たちに都合のいい結論を導き出している。そして、「比較するという事自体受け入れがたい」などという、ものづくりに携わってるものなら絶対言わないような発言をして、BTC製のソリと下町ボブスレーとを比較する作業ですら放棄しようとしている。

その上、下町の町工場が作った事になってるけど実際は大企業もプロジェクトに参加している、公式Twitterアカウントが五輪開催国である韓国を揶揄するような発言をしている、という事実も明らかになって、「あ、こいつらの言ってる事は全く信用できないんだな」って思うようになりました。

残念だけど、下町ボブスレーはマーケティング的な失敗だと思う
道徳の教科書に載った「下町ボブスレー」が公式ツイッターで保守速報を拡散&他国チームを「笑い者」呼ばわり | BUZZAP!(バザップ!)

下町ボブスレーの関係者も、おそらく自分たちのソリの性能が他社製よりも劣る(劣るは言い過ぎとしても不利になる要素はいくつかある)ということを理解しているんじゃないでしょうか。それでもなお、自分達の正当性を必死にアピールする。それは企業の営業担当者であれば求められるスキルなのかもしれません。しかし、技術者であれば、それはちょっと違うんじゃないの?と言いたくなります。

下町ボブスレーは、ジャマイカ側の不義理を並べ立て、自分たちがいかに酷い目にあってるかを必死にアピールしていますが、そもそも、自分たちが本当に納得できる高性能なソリを開発できたのであれば、今こんなことにもならなかったでしょうし、ジャマイカ以外の国も下町のソリを採用していたでしょう。下町ボブスレーの関係者には、利根川進博士の「自分を本当に納得させることができれば、人を納得させることは簡単である」という言葉を送りたい。

*1:しかも、ジャマイカが出場するのって、女子2人乗りじゃなかったっけ? なんでテストをするのがBEIERL Kartin選手一人だけ?

*2:上記HPでは、ワルナー製と下町ボブスレー製のタイムが書かれた紙の写真が添付されている。

*3:一応言っておくと、「ジャマイカチームがBTCを持ち去ってしまったため」は全く理由にならない。後述するように、ソリの研究開発をするのであれば、当然、他社のソリを手に入れて、自社製と比較したデータを取っておくのが当たり前だから。

*4:そもそも私はボブスレーの関係者じゃないので、パンバーの厚みが足らないのが本当に軽微な修正で済むのかも分からないし、ジャマイカ側が言っている危険性がどれほどのものなのかも分からない。

2017年下半期アニメ総評

本当に今更かよって感じですが、2017年下半期に見たアニメの総評を書きました。『プリンセス・プリンシパル』『サクラクエスト』『少女終末旅行』については、以下の記事を参照ください。

メイドインアビス

古来より人間は、旅や冒険に心躍らせてきた。まだ誰も知らない場所に行く時の高揚感、新しい発見をしたいという野心、自分の中の世界が広がってゆく喜び。知らない土地で何が起こるか分からない恐怖、無事に帰ることができるだろうかという不安。大自然雄大さ、その中で立ち尽くすことしかできない人間の無力さ、それでもなお新しい世界へ挑もうとする人間の勇気。『メイドインアビス』には、人間と冒険にまつわる全てが詰まっていると言っても過言ではない。

そして、ただでさえ心躍るこの世界を、現代アニメを粋を集めて美しく描いて見せた。岡田斗司夫氏は、優れたアニメや映画はみな世界の美しさをきちんと描いている、『天空の城ラピュタ』然り、『君の名は』然り、『メイドインアビス』もまた然り、と述べているが、確かにその通りだと思った。

ゲーマーズ!

「です!です!」の子が可愛かったこと以外はびっくりするくらいストーリーが思い出せない。キャラクター間での誤解やディスコミュニケーションが積もり積もってしっちゃかめっちゃかになる構成はなかなかチャレンジングで良いと思うが、明らかにやり過ぎである。久しぶりに金元寿子さんの当たり役を見れたのは良かったけど。

NEW GAME!!

この作品の仕事というものへのアプローチの仕方は素晴らしいと思う。ゲーム制作会社という組織の中で理不尽なことや辛いことがあった時に、それをきらら原作漫画にありがちなご都合主義やユルふわな空気で誤魔化したりすることなく、努力で何とかなりそうな部分は全力で努力し、それでも納得できない部分は心の中で何とか折り合いをつけて次に進んでいくという形のストーリーで、大げさかもしれないが「ああ、まさに仕事ってこういう事だよね」という気付きを得られる。

キノの旅

世間では寓話や社会風刺の要素があるラノベとして定評があるが、どうにも各話それぞれに納得できない部分が多い。例えば第3話「迷惑な国」。どんな国も多かれ少なかれ利己的で他国に迷惑をかけているという結論に無理やり持って行こうとしているが、「いや、元からそこにあった国と、そこを無理やり通過しようとする国を一緒くたに語られても…」という気持ちになる。北朝鮮からのミサイルが日本の上空を横切っても「そこに日本列島があるのが悪い」とでも言うつもりか。

あるブログ(『キノの旅』にある「無意識の偏り」|リュウセイグン)では、訪れる国の人々を「普通からは考えられないくらい低レベルに貶める事で無理矢理批判的な方向に持っていってる」と指摘しているが、私も同感だ。結局この作品は、作者の主張や世界観を表現するために都合のいい設定を色々とこねくり回して、表向きは寓話風に取り繕ってるに過ぎず、実態は作者の言いたいことをキノや他の登場人物に代弁させているだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。もちろん、神話やおとぎ話を含む全ての物語にはそういう一面がある。しかし、『キノの旅』はそれがあまりにも露骨すぎると思う。

宝石の国

この作品の見所は何と言っても、フォスフォフィライトを演じた黒沢ともよさんの名演だ。大胆不敵だが臆病でもある、行動は向こう見ずで情熱的だが世界に対して冷めた見方もしている、そんな複雑なキャラクター。冬の間の出来事によってフォスが感じた悲しみと無力感が、彼女の心を不可逆に変えていく切なさ。守りたいと思える国や家族もなく、ただ大好きな先生のために戦うことでしか自らの存在理由を見出せない宝石という存在の寄る辺なさ。私のような素人ではその演技に対して「見事」という以外の言葉が見つからない。具体的に何が凄いのか上手く言葉に出来ないけれど、黒沢ともよは天才であるということだけは分かる。

サクラダリセット

登場人物が自分や相手の行動の意味を論理的に考え、それを言語として紡ぎ出し語り合ってる姿がものすごく違和感ある。この作品を書いた河野裕氏のような小説家なら有り得るのかもしれないが、普通の高校生はそんな風に論理的に物事を考えたりしないし、内面を言語化しようとしても出来ない。登場人物がすらすらと内面を語り出す抒情的なスタイルは、河野氏の小説の特徴だが、私には合わなかった。アニメも12話くらいで見るのを止めた。

結城友奈は勇者である(第2期)

第1期の頃にはかろうじであった物語上の整合性すらかなぐり捨てて、ひたすら女の子を酷い目に遭わせることだけに特化した悪趣味なアニメ。皆に本当のことを話すと呪いが伝染してしまうので友奈が一人で苦しまざるを得ないという設定。なるほど、よく考えたものだ。人は目的(女の子を酷い目に遭わせること)さえあれば無限に想像力を働かせることができるのだなあと逆に感心してしまった。

『少女終末旅行』最終話―絶望的だが最高のハッピーエンド

アニメ化されたエピソードより先の部分がホームページ上で見れるので、『少女終末旅行』アニメ版だけ見て満足してる人は必ず原作の方も読みましょう。

少女終末旅行 | くらげバンチ

その原作が先日ついに最終回をむかえたわけですが、何かこう、心にとてつもなく大きな余韻を残す美しいラストでした。

正直、最終話に至るまでの数話は、読んでいて辛かった。ケッテンクラートが壊れ、徒歩での移動を余儀なくされた2人は、歩きながら様々なものを捨てていきます。銃も、食料も、本も、過去の記憶さえも失いながら、ユーリとチトは前へ進みます。これはまさに人生の本質、人生とは何かを得て、そしてそれを失っていく過程に他ならない、ということを強く感じさせます。

都市の最上部に着いた時にはもう、あらゆる持ち物を失って、明日の生活すらままならない絶望的な状態に。2人の胸に、本当にこれで良かったのか、何か別の選択肢もあったのではないか、という思いが去来します。それでも満天の星の下で、生きるのは最高だったという2人…。もちろん後悔もある。すべてが順風満帆だったわけではない。それでも、人生の最後に、生きるのは最高だったと言えたなら、それはもう間違いなくハッピーエンドなのでしょう。

物語のラスト、まるで世界の中に溶け込んでいくかのように眠りについた2人。これから2人がどうなるのか、それは一切示されていない。もしかしたら、このまま二度と目を覚まさないのかもしれません。しかし、たとえそうだったとしても、この絶望的で、それでいて穏やかな結末が、2人にとって最高の終わり方だったのだと信じたい。

3月に単行本6巻と設定資料集が発売されたらまた記事を書くと思いますが、今日はひとまず原作最終回を読んで思った事について、取り急ぎご報告まで。

最近読んだ本まとめ(2)

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

人間は中学生くらいになると、学校では教えてもらえないこの社会の構造や生きるために大切な事について、自ら吸収していけるようになる。この世には貧富の格差があるという事、数え切れないほど多くの人々の有機的なつながりによってこの現代社会が成り立っているという事、そして、人生の中のあらゆる出来事は決してやり直すことのできない一期一会のものであるという事。世間では中高生に読んでほしい名著と言われるが、私は日本中にいる教育関係者にこそ是非とも読んでもらいたい。人生にとって一番大切なものは、学校で教わることではなく、学生自らが思考し、日々の生活の中で掴み取っていったものの中にある、という教育の本質が見事に書かれている。そして、真に優れた教育者とは、単に学生にものを教えるだけではなく、本書に出てくる叔父さんのように、学生が自発的に学んでいく過程をサポートできる人なのだと思う。

本書の舞台である第二次大戦直前の学校のあり方について多くの人が誤解している事があると思う。それは、戦前の教育の問題は全て軍国主義的・国粋主義的な教育指針によって個性を抑圧するような教育が横行していた点にあり、それらの反省を踏まえた上で今日の教育があるのだ、という「教育史観」である。しかし、私から言わせれば、日本の教育現場が抱える問題は、戦前も戦後も一貫して全く変わっていない。確かにGHQの指示によって軍国主義的・国粋主義的な教育内容は改められたのかもしれないが、敗戦という大転換点を境にして教育の形がガラリと一転したという見方は間違っていると思う。丸山真男が本著のあとがきで次のように述べている。

日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、その傾向が教育の平等化によって加熱されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。そうして、こういう「知識」――実は個々の情報にすぎないもの――のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育の復興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、――そのイデオロギー的内容をぬきにしても――あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。
(『君たちはどう生きるか』、324~325ページ)

君たちはどう生きるか』が書かれて80年、丸山眞男があとがきを書いて35年以上が経過したが、指摘された問題点は今も全く変わっていない。要するに、日本の教育界というものは右も左も、生徒にとって必要だと思う知識を上から叩きこむことには執心しても、生徒が自ら学び考える機会を与えることは一切考えてこなかったのだ。この国では、どんなに立派な理念を掲げても、それはあっという間に陳腐で無意味な「詰めこみ教育」に成り下がるのだ。例えば、近年散々言われている「大学では社会で役に立つ人材を育てよう」という理念(それに対する賛否は別にしても、日本中の有識者が集まって作り出された立派な理念)は、経営学自己啓発・マネジメントとかいう言葉を表層的になぞるだけの無意味な授業に変わり、挙句の果てには就活で役に立つ自己アピールや面接の練習に成り下がった。日本会議とか自民党とかが愛国心を高めるような教育を推進すべきだと言い続けているが、それも遠くない未来に、歴代の天皇の名前を書かせる暗記テスト(私達の祖父母が戦前に受けたのと同じようなもの)に成り下がるだろう。これは断言してもいい。

君たちはどう生きるか』が多くの人に読み継がれているという事実は、裏を返せば、本著が掲げた理想の教育の姿が未だに実現されてないということなのではないだろうか。

おはよう、愚か者。おやすみ、ボクの世界

電撃小説大賞を受賞した作者のデビュー作『ただ、それだけでよかったんです』に勝るとも劣らない衝撃的な作品。まるで映画『ゴーン・ガール』のように、物語が進むにつれて読者の中で登場人物の印象がガラリと変わるように設計された文体、ミスリードの仕方は天才的技法としか言いようがない。それでいて最後には、人は何かを捨てることで大人になるのだという悲しい現実が突きつけられ、読後には何とも言えない余韻だけが残る。

では、登場人物たちは大人になる中で一体何を捨て去ることになったのだろう。それは、自分は特別な存在だという「有能感」だろうと思う。自分だけがあの人のことを分かってあげられる、自分は皆から必要とされている。そういった有能感がボロボロに崩れ去り、実は自分もこの世界に大勢いる取るに足らない人間の一人なのだと思い知らされるという挫折の中で、人は成長していく。

作者はこれからも長く優れた作品を発表し続けるだろう。その発表の場がライトノベルに留まるかどうかは分からない。桜庭一樹のように、ゆくゆくは一般向けの小説を出して芥川賞直木賞をとるかもしれない。

iPS細胞

iPS細胞 不可能を可能にした細胞 (中公新書)

iPS細胞 不可能を可能にした細胞 (中公新書)

数あるiPS細胞関連の新書の中では、この中公新書が出した解説書が一番読みやすく、押さえていくべきポイントをしっかり押さえていると思う。中でも興味深かったのは、山中伸弥教授がiPS細胞を開発する過程ではなく、その成果を発表するまでの流れが詳しく書かれていたことだ。

マウスのiPS細胞作製に成功した山中は、さっそく論文を投稿しようと考えるが、普通に投稿してしまったら査読中にデータを盗まれてしまう怖れもあった。そこで、米国の学会で成果を報告し、自分のプライオリティを証明した。その際、使用した4つの遺伝子の名前を明かさないなど、技術が盗まれないように細心の注意を払った。その発表をCell誌の編集者が聞いていたおかげで、実に素早く論文を発表することもできた。さらに、ヒトiPS細胞の作製にも成功し論文投稿の準備に入ろうとしていた頃、出張先でどこかのグループもヒトiPS細胞作製に成功しているらしいという噂を聞きつけ、飛行機の中で大急ぎで論文を書き上げたという。

こういう咄嗟の対応力を見ていると、やはり山中氏は良い意味で日本人離れした研究者だと思う。他を圧倒するような知識と技術力を持っているのはもちろんだが、自らの成果を最も効果的に発表するために巧妙な戦略を立て、貪欲にNo.1を狙っていこうとする姿勢を兼ね備えている。まさにノーベル賞を取るべくして取った人物だと言えるだろう。山中氏がたとえ幹細胞研究の道に進んでいなかったとしても、別の道で世界的な偉業を成し遂げただろう。

相撲協会の謝罪が白々しいと感じるのは過去の八百長を認めようとしないから

結局これに尽きると思います。

もちろん、暴力と八百長問題は基本的に別物だと思うし、暴力の方は完全な犯罪で、2007年には死者まで出しているのでより深刻な問題だと思うけれど、結局、過去の八百長を認めようとしない相撲協会が何度「申し訳ありませんでした」「再発防止に努める」と言ったところで全く心に響かない。社員の過労死が問題になってもなお長時間労働を改めようとしないブラック企業が言う「再発防止に努める」に通じる白々しさがある。

まあ実際、今回の相撲協会側の対応にも問題があったのは事実で、本来被害者であるはずの貴ノ岩貴乃花を悪者にしようとしているとか、事件の背後にあるモンゴル人力士間の八百長を隠そうとしているとか、本当か嘘か分からない情報が出回っているけど、それらは正直どうでもいいと思う。むしろ私の中では、現役力士も親方衆も、加害者も被害者も、日本人も外国人も、みんながみんな過去の八百長について公式には口を閉ざしている、そういう体質の協会が出す「謝罪」に一体何の意味があるのだろう、と感じてしまう気持ちの方が大きい。

2010年に八百長問題が発覚した時、八百長の仲介役だった恵那司のメールを見れば、極めて巧妙な八百長のシステムが出来あがっていたことが分かる。そんな巧妙なシステムがあの時代にだけ存在したなんてことは絶対に有り得ない。あれは力士の間で脈々と受け継がれてきたものだ。事実、2010年以前にも八百長を告発した人はいたし、千代の富士八百長をやっていたのも公然の秘密とされていたではないか。

にも関わらず、相撲協会は2010年に「八百長は新たに発生した問題で、過去には一切八百長はなかった」と言っている。もちろん、当時の理事長はガチンコ力士として知られていたし、今の八角理事長や貴乃花親方も自身は八百長に関与していなかったのかもしれない。しかし、あれだけ複雑で大規模な八百長のシステムが存在していて、知らなかったはずがないのだ。百歩譲って、現役の若い力士や単なる相撲関係者なら、そういうシステムがあると知らなかったという事も考えられるが、長年角界の中枢にいる親方衆が知らなかったなんてことあるわけがない。

だから、八百長問題という1つの話題について言えば、相撲協会は確実に「嘘」をついている。私の中でその認識が根底にあるから、今回の件で相撲協会が何度謝罪しても、まだ何か隠しているんじゃないか、本当は反省してないんじゃないか、という疑念を拭えない。