私は平成ガメラシリーズが結構好きで何度も見直してるんですが、特に第1作目の『ガメラ 大怪獣空中決戦』は、怪獣どうしの対決シーン以外でも印象に残っているシーンがありすぎて、見るたびに新しい発見があります。例えば、
ギャオスに襲われても全く物怖じしない長峰さん*1 & ヘタレ気質全開の大迫刑事、という見事な対比とか、
電車の中で呑気に「怪獣が東京に来れば面白いんだけどなあ」とか言ってるサッカーファン、その後、電車ごとギャオスに拉致られて伏線回収とか、
松尾貴史演じるタクシー運転手が浅黄のために検問所突破*2、そして「ははははは!いっぺんこういうことやってみたかったんだよ!」*3とか、
巨大化したギャオスを撃退しようとしたけど結局失敗*4して、「もう太陽も我々の味方をしてはくれないようだ」からの「ガメラは今、どこにいるんでしょうか」、か~ら~の~
「身勝手すぎます!!!」
とか、別に名シーンというわけじゃないんだけど、何故か印象に残ってるシーンがいっぱい詰まってるわけです。
私にとって『孤独のグルメ』もまた、そういう作品の一つです。読んで感動したり大爆笑したりするわけじゃないけど、何故か心に残る台詞の数々、印象的なシーンが各話に最低1か所はあります。
- 作者: 久住昌之,谷口ジロー
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2015/09/27
- メディア: 単行本
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『孤独のグルメ』を読んでつくづく思うのは、出てきた料理を口に運ぶことだけが食事なのではなく、その料理に辿り着くまでの過程、店の雰囲気、その時の心理状況、そういったもの全てを噛みしめることも含めて「食事」なのだということです。食事の良し悪しを決めるのは、食材や料理人の腕だけとは限らない。横柄な態度の店員がいれば、美味しいハンバーグランチも喉を通らなくなるし、部下に無理やり酒をすすめる客を見たら、お茶漬けも食べずに帰りたくもなる。逆に、何の変哲もない普通の料理でも、普段見ることのできない景色を見ながらだと美味しく感じられたりする。全く期待していなかった状況で思った以上に美味しい料理が出てきたら、その「驚き」も料理に花を添える調味料になる。これらの事実は当然我々が実体験として何となく知っていることなのですが、それを漫画として書き起こすことによって、我々読者は「そうそう、こういう事ってよくあるよね!」という気付きを与えられるのです。
もちろん、そのような気付きが得られたからといって、別に、心が洗われるような清々しさを感じるとか、人生観が変わるような衝撃を受けるとかいうような事はありません。煎じ詰めれば「だから何?」という話です。それでも、この気付きを与えられる感覚が楽しくて、ついつい見返してしまうのが『孤独のグルメ』という作品でもあります。
私はかつて飲食店でバイトしたことがあるのですが、まあお店には色々な客が来ます。中には、いくらなんでも
「身勝手すぎます!!!」
って言いたくなるようなタチの悪いお客さんもいるんですが、そういう客は大抵、べろんべろんに酔っぱらったおっさんでした。こういう人は、ただ出された物を食い散らすだけ、気に入らないことがあればキレるだけで、動物と何ら変わらないので、五郎のように食事を通して様々な「気付き」を得るという豊かな経験はできないでしょう。これは、五郎は酒が飲めないという設定とも関係してくることです。
そう考えれば、平成ガメラを見る行為も「食事」と同じようなものです。冷静になって考えれば、タクシー運転手がヤバいとか、サッカーファンがギャオスに食われたとかは、作品の本質とは全く関係ない。中山忍さんの、「身勝手すぎます!!!」が有ろうと無かろうと、作品の良し悪しには何の関係もないわけです。けど、そういう問題ではないんです。私が思うに、こういった本質と関係のない些細な台詞や仕草が、平成ガメラシリーズという作品の「味」を決定づける重要なファクターになってることは間違いないのです。
よく映画通の人が言ってるような「細部まで凝ってるから素晴らしい」という話とも少し違うんですよね。例えば、『孤独のグルメ』では「このわざとらしいメロン味!」という台詞がありますが、「わざとらしい」はどう見ても褒め言葉ではありません。でも、五郎はこのメロンソーダを通じて「小学生の時、映画館でよく飲んだっけ」という気付きを得るわけです。
このような、本筋とは関係のない些細な情報まで(良いものも悪いものもひっくるめて)じっくり噛みしめながら咀嚼していくというのが、食事や映画を「楽しむ」ということなんじゃないかと思います。