新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『継母の連れ子が元カノだった』第3巻感想

誤解を恐れずに言えばこの手の作品は奇抜な設定をバーンと掲げて一発ギャグ的に出て消えていくような作品だと思う。にもかかわらず、3巻まで来ても面白さは全く変わらないどころかむしろ増している感すらある。「親の再婚相手の連れ子がなんと元カノだった!なんてことだ!」という最大瞬間風速だけが売りの作品だったら、ここまで面白くはならなかっただろうし、3巻まで発売されることも無かったかもしれない。

タイトルだけを見れば本当に出オチだけの作品みたいに見えるのに、中に書かれていることは実に繊細で、精緻で、心にグッとくる何かがある。それは、大切な関係性がほんの少しの綻びで簡単に崩れていってしまう切なさや悲しみであり、そこから登場人物それぞれが抱え込むことになる後悔や自責の念であり、それでもなお相手と向かい合い新しい関係を築いていこうとする誠実さやいじらしさである。

その中でも第3巻で焦点が当てられていたのが、主人公の友人ポジションで第1巻から登場していた南暁月と川波小暮の関係性である。


世間にあふれている人と人との関係性は、「恋人」とか「友達」といった言葉に当てはめられ、さらにそこには「恋人とはこういうものである」「友達とはこうあるべきだ」という世間一般の認識が付随してくる。そうやってあらゆるものを言葉によって細分化し定義していくのが人間という生き物なのかもしれない。

例えば、イヌとオオカミは生物学的には同じ種であるが、人は野生の森で生きる大型のものをオオカミと呼び、人間に飼われている方をイヌと呼ぶ。その二つを分ける科学的な根拠や整合性は一切存在しない。それはただ単純に、人が生活する上で便宜上必要だったから分けられたというだけに過ぎない。それは「恋人」と「友達」あるいは「幼なじみ」という関係性においても同様である。

子どもの頃の暁月と小暮の関係は、そうした世間一般の定義に縛られない自然なものだったのだと思う。しかし、いつの頃からかその関係性が「幼なじみ」という枠にはめられ、それが「恋人」という関係性に変わっていく中で、世間一般の「恋人とはこうあるべき」という固定概念的なものに絡め取られていった時、二人の関係はあっという間にボロボロに崩れていく。その関係性の回復が第3巻のメインストーリーだった。

一方で、2人とは対照的に、最初から関係性の定義に縛られることなく「我が道を行く」という感じなのが東頭いさな氏である! いやもうヤバいだろコイツ…。彼女にとって、世間一般でいう「恋人」とか「友達」の定義なんてものは一切無関係。水斗にふられようが何しようがおかまいなしに家へ上がり込み、距離感ほぼゼロで水斗とイチャつき出す。本当にもう、いさながヤバいと言うべきか、このキャラを考え出すことのできる作者がヤバいというべきか…。