新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『少女終末旅行』最終巻―孤独と絶望が教えてくれた私達のかけがえのなさ

ついに『少女終末旅行』が完結した。

なぜ世界は滅んでしまったのか…。なぜこの世界には私達しかいないのか…。

そんな疑問を抱えたまま、ただひたすら終末世界で旅を続けるチトとユーリを見て、私はどうしても、彼女たちを現実の地球に生きる我々人間と重ね合わせてしまっていた。

この広大な宇宙で、私達以外に知的生命体は存在するのだろうか? いるとすれば、彼らはどこにいるのだろう? 彼らとコンタクトをとることは可能だろうか?

科学技術が発達した現代においてもなお人類に残された大きな謎。それを解くこともできぬまま、地球という星で終末へと歩き続けているのが、私たち人間なのだろう。

チトが壊れゆくケッテンクラートを前にして何もできず泣き出してしまったように、我々もまた、個人の力ではどうすることもできない大きな流れに乗って、無力感に苛まれながら終末へと突き進んでいく存在なのだろう。

系外惑星の探査技術がこのまま進歩していけば、そう遠くない未来に地球外文明は見つかるはずだ、という楽観的な見方をする人もいる。しかし、目下のところ、他でもない地球文明の寿命の短さが、地球外文明との邂逅を不可能にする一番の要因なのだ。

私は以前の記事でドレイクの式というものを紹介した。

その記事からの再掲となるが、天文学者フランク・ドレイクによると、「銀河系に存在する地球と交信可能な地球外文明の数」をNとおいたとき、

N = R・Fp・Ne・Fl・Fi・Fc・L

と表され、右辺に並ぶ記号の意味はそれぞれ、

  • R: 銀河系の中で1年間に誕生する恒星の数
  • Fp: 恒星が惑星を持つ確率
  • Ne: 一つの恒星系が持つ生命誕生の可能性のある惑星の数
  • Fl: 生命誕生の可能性のある惑星で実際に生命が誕生する確率
  • Fi: 誕生した生命が知的生命へと進化する確率
  • Fc: 知的生命による技術文明が星間通信を行う確率
  • L: 技術文明の存続期間(年)

を意味する。詳細は前述の記事に譲るが、私なりに各数値を概算し式をまとめると、

N = 0.001×L

となる。つまり、「銀河系に存在する地球と交信可能な地球外文明の数(N)」は、「文明の存続期間(L)」にどういう値を入れるかによって大きく変わってくる。もし、この宇宙に地球外文明が無数に存在したとしても、その文明や我々地球文明の存続期間が短ければ、お互いを発見することなど夢のまた夢になってしまうのだ。

チトが言っていたように、「見て触って感じられることが世界のすべて」(『少女終末旅行』、第6巻、134ページ)なのだ。

チトとユーリは、自分たちが孤独ではないと知りたかったのだ。

また、たとえ孤独であったとしても、なぜ自分たちが孤独でなければならなかったのかを知りたかったのだ。

彼女たちがカナザワやイシイやヌコに出会えたことはとても幸運なことだった。だが、彼らはすぐに遠くへ行ってしまい、チトとユーリは再び2人きりになって、世界のことなど何も分からぬまま終末を迎えることになってしまった。

それでも、彼女たちの心は、どこまでも穏やかで、満ち足りていた。

この世界で生き残っているのがもう自分たち2人だけだという事実が、逆説的に、自分たちがここにいるという事のかけがえのなさを示していたからだ。そして、そんな奇跡的な世界で自分たちが旅を続けてこれたことが「最高だった」と気付いたからだ。

そして希望がなくなって初めて、自分の本当の想いが分かるのだ。
地図をなくしたことで、地図を書いていた時間、連れといた時間そのものが尊いものだったと気付くのだ。
飛行機を失ったことで、夢に向かっていた日々そのものが幸せだったと気付くのだ。
生きる道も進む道も全て閉ざされたことで、2人で旅して生きてきたことがただただ最高だったと気付くのだ。
少女終末旅行 最終回 ~絶望と仲良く~ - 忘れ物を探すためにより引用)

このまま人類が核兵器を持ち続け、戦争をし、地球環境を破壊し続ければ、私たちは孤独のうちに終末を迎えるだろう。それこそが人類に待ち受けている究極の「絶望」に他ならない。そこで人類は「絶望と仲良く」なるのだ。

私達人類もまた、滅ぶことが確定した絶望的状況になって初めて、この地球という星のかけがえのなさに気付くのだろうか。

私達が地球上に誕生したこと、そして、その地球上でこれまで連綿と歴史を紡いでこれたことが、有り得ないほど多くの奇跡の上に成り立つ尊い出来事だったのだと気付くだろうか。

チトとユーリに訪れた穏やかな終末を見届けることができて本当に良かった。我々人類にいずれやってくるであろう終末の時もまた、こんなふうに穏やかであってほしいと願わずにはいられない。

少女終末旅行 6巻(完) (バンチコミックス)

少女終末旅行 6巻(完) (バンチコミックス)

TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集

TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集

『ゆるキャン△』総評―「一人で過ごす尊い時間」と「みんなと過ごす尊い時間」

ゆるキャン△』、本当に、良かった。圧倒的な今期No.1のアニメだった。

ゆるキャン△』には2つの時間が流れている。「一人で過ごす尊い時間」と「みんなと過ごす尊い時間」だ。そして、この2つを相反するものとして描くのではなく、見事に両立させ、時には同時に描きさえした。

一人で過ごす尊い時間

ゆるキャン△』の特徴として、リンのソロキャンに代表されるような、一人で過ごす時間をしっかりと描いている、という点がよく挙げられるが、実はこれは、完成度の高い日常系アニメに共通する特徴だったりする。『けいおん!』も、『Aチャンネル』も、『ゆゆ式』も、一人の時間をわりと丁寧に描いている。しかし、そうは言ってもやはり、それらの作品のメインは友達と過ごす楽しい時間を描くという点になってしまうのだが、『ゆるキャン△』の場合は半分が「一人で過ごす尊い時間」で構成されていると言っても過言ではないだろう。

「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで…」(『孤独のグルメ』第1巻より)

そう言う井之頭五郎にとっては、一人で食事をしている時が最も豊かで尊い時間なのだろう。私にもそのような時間がある。仕事帰りに立ち寄った居酒屋で静かにお酒を飲んでいる時、家でお酒を飲みながらアニメを見てる時、休日に何となく訪れた町を散策する時。きっと誰もがそういう時間を持っている。家でゆっくりお風呂に入る時間が好きだという人もいれば、一人で映画を観たり音楽を聴いたりするのが好きな人も、なかには、一人で黙々と仕事をするのが好きという人もいるだろう。

その一人の時間は、誰かと過ごす時間とはまったく別物の尊さを持っている。その2つは対立するものではないし、どちらがより優れているとか優劣を決められるようなものでもない。けれども、それを描くアニメは本当に少ない。一人で過ごす時間の素晴らしさを価値観の異なる他人に説明することが極めて難しいからだ。

本作はその難しいことを見事にやってのける。リンが黙々とテントを組み立て、薪を割り、火をおこし、静かに本を読む、その一連の所作。キャンプ場を散策している時のモノローグ。温かい食事をとっている時の表情。その全てが、我々一人ひとりの心の中にある「一人で過ごす尊い時間」を思い起こさせてくれる。

誰にも邪魔されることのない、独りで、静かで、豊かな冬の旅。リンにとってはこのソロキャンこそが、何物にも代えがたい尊い時間なのだ、ということが画面全体から伝わってくる。その旅には、明確な目的も計画もない。ただ、感情の赴くままに、好きなところに行き、好きなことをする。おそらくリンは、旅先で起こる予想外のトラブルや失敗でさえもひっくるめて、その旅全てを全身で楽しんでいるのだ。

そしてまた、そういう予想外のトラブルに見舞われた時のシマリンが最高に可愛いのだ!

カイロを使っても全然温まらなかった時の「思ったより効かん」。苦労して辿り着いた温泉が閉店だった時の「おい、マジか」。その声、表情、もう最高である。なんというか、特に感情的になるわけでもなく、いつもと変わらないテンション低めな感じだが、言葉の端々から伝わってくる「やっちゃった」感、みたいなものが伝わってくるのがなんかもう最高に萌えるのだ。

みんなと過ごす尊い時間

さて、上で見たように「一人で過ごす尊い時間」をきちんと描いて見せた上で、そこからさらに「みんなと過ごす尊い時間」をも見事に描いていくのが、本作の驚くべき点だろう。しかし、みんなと過ごすと言ってもそれは、みんなが同じ方向を向いて何か同じことをするという描写とは少し異なる。

この「相手の一人時間を大事にする」が如実に表れているのは、四尾連湖でリンとなでしこがキャンプをする回だろう。いっしょにキャンプはしてるけど、テントは別々だし、ボートに乗るのもなでしこだけ。リンとなでしこは一緒に行動はするが、いわゆる一蓮托生という関係ではない。その点が『メイドインアビス』や『少女終末旅行』とは大きく異なる。

そのあたりの距離感については、スタッフ側もかなり意識しているようである。

関連記事:「ゆるキャン△」京極監督に聴く「作り手の頭の中だけで作られたキャラクターではない」 - エキサイトニュース

リンやなでしこにとっては、相手と一緒だから「楽しい」のではなく、自分が「楽しい」と思えるものを相手と共有する、という感覚なのだろう。

だからこそ、彼女たちにとっては、物理的な距離は関係ない。遠く離れていてもLINEで心を通わせることができる。誰にも縛られない単独行動が大好きだけど、そうやって感じた喜びや幸せはやっぱり誰かと共有したいと思うシマリン。うきうきしながらLINEで写真を送ったり、定点カメラに向かって手を振ったりするシマリンの、なんと愛おしく可愛いことか!

そして、自分が「楽しい」だけでは駄目で、相手もまた「楽しい」と感じていなければ意味がない、そんなふうに考えるからこそ、相手を尊重し、相手のために出来る限りのことをしたいと願う。でも、相手に踏み込んでいくべきか、踏みとどまるべきか、その見極めは難しい。

第10話、的確なアドバイスをくれた千明に、リンが少し気恥ずかしそうな緊張した声色で「とにかく助かった、ありがとう」とお礼を言う。「あ、あのさ、今度、野クルでクリスマスキャンプするんだけど…」と言ってリンを誘う千明の声と表情もまた、どことなく緊張しているように感じられる。

そうか。そうだったんだ。千明もまた、リンとの距離感を測りかねて、悩んでいたんだ…。なんて繊細で、人間味に満ちた描写だろう。

一人で過ごす時間の尊さも、それをみんなと共有することの素晴らしさも、他者とかかわることで生じる緊張も、相手を思いやる配慮も、それらすべてがあったからこそ、最終回のクリスマスキャンプが最高に輝いて見えるのだ。

みんなと食べた食事の美味しさ、吹きすさぶ風の冷たさ、たき火や温泉の暖かさ、夜空や富士山の美しさ、朝日の眩しさ、となりにいる友達の笑顔と笑い声、そのすべてを5人が共有する。そして、我々視聴者もまた、彼女たちが感じた感動や幸福感を画面を通じて感じ取る。

心温まるとはこういう体験のことを言うのだろう。数年に一度と言われる寒波の中で、一人静かに『ゆるキャン△』を見るという体験は、私にとってもまさに「一人で過ごす尊い時間」となったのである。

『からかい上手の高木さん』の素晴らしさ―微妙なラインを突く表情、ギャップ萌えに頼らない構造、可愛い男性主人公

この作品の素晴らしいところは次の3点に集約される。第一に、西片をからかう時の高木さんの表情や声が、過度なデフォルメ化やカリカチュアライズを使うことなく、一定の抑制のきいた形で表現されている点である。艦これに敷波という子がいる。その子についてのニコニコ大百科の記述はまさに正鵠を射ている。

そんなどうにも目立たないポジションにあることはキャラ付けにも反映されているのか、ややツンデレっぽいところがあるが目立つほどではなく、控えめで自己評価が低そうなところもあるが名取や羽黒ほど極端なわけでもなく・・・とたいへん微妙なラインの性格付けが為されている。が、そういった微妙なラインをつく台詞が意外な破壊力を発揮し、実際に使っている提督の間でひそかに「実はすごくかわいい照れ屋さん」として知られている。
敷波(艦これ)とは (シキナミとは) [単語記事] - ニコニコ大百科より引用)

高木さんにもこの「微妙なラインをつく」魅力がある。このすばのアクア様のようにドヤ顔で「プークスクス!」と煽ったりしない。あくまでも冷静に、的確に西片をからかっていく。それが他の作品にない独特の味となっている。

第二に、安易なギャップ萌えを一切利用していない。例えば他の作品の場合、

  • 主人公より優位に立とうとして背伸びする→失敗して赤っ恥をかく→ギャップ萌え
  • いつも冷静でクール→好きな人のことになると途端に慌てふためき出す→ギャップ萌え
  • いつもは本心を見せず素直じゃない→特別な日で珍しくデレてる→ギャップ萌え

という図式で成り立っている。その最たるものが『かぐや様は告らせたい』だと思う。一方、高木さんにはそうしたギャップ萌え要素がほとんど存在せず、西片の前で普段と違う姿を見せることはない。高木さんは高木さんのままで高木さんとして純然と西片の前に現れ続ける。何故そのような構成にすることが可能なのかというと、それは高木さんが西片に好意を持っていることが読者から丸分かりだからだ。いちいちギャップ萌え要素を入れて読者を萌えさせる必要すらない。高木さんは決して本心は見せないが、内心では実は大好きな人と一緒に過ごすのが嬉しくて舞い上がってるんだ、ということを読者が想像するだけでもう一種の「ギャップ萌え」として成立してしまうのが、本作のすごいところである。

第三に、高木さんにからかわれる西片がとにかく可愛い。本作を見ているのは主に男性だと思われるので、男性キャラの可愛さと作品の魅力には何の関係もないのでは、と思うかもしれないが、それは大間違いである。例えば、往年の萌えアニメ、『ゼロの使い魔』『ハヤテのごとく!』『かんなぎ』『バカテス』、みんな男性主人公が可愛い。『たまこまーけっと』『中二病でも恋がしたい』『氷菓』『GOSICK』『SAO』『ニャル子さん』『この美術部には問題がある』『だがしかし』、ヒロインだけでなく主人公も可愛い作品というのは枚挙に暇がないのである。近年では『メイドインアビス』や『ゲーマーズ!』等がそうである。『からかい上手の高木さん』もそういった作品群に連なる作品である。

起こり得たかもしれない愛の形―『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想

人間のグループ間には遺伝的差異が注目に値するほど無いということ (中略) は、ア・プリオリな、あるいは必然的真理ではなく、進化史における偶然の事実である。世界はもっと違った形で秩序づけられたかもしれないのである。例えば我々の祖先であるアウストラロピテクスの一種または数種が生き残った場合を考えてみよう―― (中略) 我々ホモ・サピエンスは、知的能力がはっきり劣った人間種を相手にした時、道徳的ジレンマに直面したに違いない。彼らを我々はどのように遇したであろうか――奴隷? 撲滅? 共存? 召使としての労働力? 居留地? 動物園?
(S・J・グールド著『人間の測りまちがい 下』233ページ)

さよならの朝に約束の花をかざろう』と『アンドリューNDR114

人間よりはるかに長い時を生きるイオルフの民は、人間から「別れの一族」と呼ばれ、人里離れた村で布を織り静かに暮らしていた。彼らの力を利用しようとして侵略してきた人間によって土地を追われ、独りぼっちになったイオルフの少女マキアは、偶然、両親に先立たれた小さな赤ちゃんを見つけエリアルと名付ける。すくすくと成長していく子・エリアルと、見た目はずっと少女のままの母・マキア、2人は共に苦労を重ねながら激動の時代を生きてゆく…。

この映画を見て『アンドリューNDR114』を思い出した人もいるだろう。人型家事ロボットのアンドリューはマーティン家に買われ、そこで人間に匹敵する創造性を発揮し木工職人として成功する。ロボットなので寿命もないアンドリューは、アーティン夫妻に先立たれ、さらにその娘アマンダも亡くなり孤独を味わう。アマンダの孫ポーシャと結婚したアンドリューは、やがて人間になりたいと願うようになり、科学者の協力を得て人間と同じような寿命を得る。ベッドの上で最愛の妻とともにこの世を去ることで、ようやくアンドリューの願いは叶えられる…。

結末はまったく異なるが、この2つの映画は人間より長い寿命を持った者が宿命として背負う別れの苦しみを描いている。人間のように思考し恋もするが寿命がないロボット、見た目は人間と同じだが何百年もの時を生きるイオルフ…。

起こり得たかもしれない人類の姿

SFが「起こり得るかもしれない人類の未来」を見せてくれるものだとしたら、ファンタジーは「起こり得たかもしれない人類の姿」を見せてくれる。

現在の人類が当たり前と感じている特徴、様々な倫理観、恋愛観、生死観はどのようにして生まれたのだろう。なぜ人は我が子に愛情を注ぎ守ろうとするのか、なぜ人は結婚という制度を持つのか、そして、なぜ人はせいぜい100年くらいしか生きられないのか。生物学、進化生物学、文化人類学など様々な観点からそれらの疑問を説明することができるだろう。しかし、私たち人類の持つ特徴や価値観は、突き詰めて考えれば、地球環境の変化や文明の発達した場所といった、本当にささいな偶然によって誕生し発達したものとしか言いようがない。

そういった偶然の最たるものは、この地球上に人類がホモ・サピエンスただ一種しか生存していないという事実だろう。そもそも種というのはどうやって分かれるのかと言うと、元々1つの種だった生物群が高い山脈や海などによって2つ以上のグループに分かれて、遺伝子にそれぞれ異なる変異が蓄積することで、やがて各グループが別々の種へと変わるのである。だから、大陸の形や気象条件などが少し変わっていたら、ホモ・サピエンスとは異なる別の人類が今も生きていたかもしれないのだ。

さよならの朝に約束の花をかざろう』は、まさにそういう「起こり得たかもしれない人類の姿」「複数種の人間が共存する世界の姿」を描いて見せた。そして、種*1の違いという取り払うことのできない大きな壁に阻まれてもなお消えることのない愛の形があることを示してくれた。

そのような愛の形があるという事実は、我々人類に困惑をもたらすかもしれない。それは、現実世界の同性愛のように差別と偏見に晒されるかもしれない。それでも、マキアとエリアルとの間にあるものが愛でなくてなんであろう。寿命という大きな壁をもってしてもなお消えることのないものが愛でなくてなんであろう。我々観客の心をこれほどまでに揺さぶるものが、現実にありふれている異性愛や同性愛や親子愛や兄弟愛とまったく変わらない普遍的な愛でなくて一体なんだというのだろう。

まとめ

もし地球上に複数種の人類がいたら、という我々の想像力を掻き立ててくれる見事なファンタジー作品で驚いた。岡田麿里氏の初監督作品ということは勿論知っていたが、それ以外の情報は一切入れずに先入観なしで見れたのも良かったのだろう。

問題点を挙げるとすれば、ストーリーが全く奇をてらう事もなく単調で、マキアとエリアルが出会った瞬間からもうラストが想像できた点だろう。

だが、一つ一つの場面は見ごたえがあるものばかりで、特に、初めてお酒を飲んでベロベロに酔っぱらったエリアルが家に帰ってくるシーンが本当に素晴らしかった。足元がおぼつかずに家の物を壊してしまうエリアル、ランプから燃え移った火を必死に消そうとするエリアルエリアルを引っぱたくマキア、そのどれもが、これまで普通の親子として暮らしてきた2人の関係が不可逆的に変わってしまった事を物語っていて、観客は何とも言えない悲しみを覚える。

これまでの岡田磨理作品と言えば、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『ブラック★ロックシューター』『心が叫びたがってるんだ。』に代表されるように、「傷付け合う事を過度に怖れるのはやめよう」「まずは自分の気持ちをはっきりと相手に伝える事が大事」的なテーマの作品が多かったように思う。それらの作品は、物語が進むにつれて登場人物が自分の気持ちを積極的に相手に伝えるようになっていき、複雑に絡み合ったディスコミュニケーションの糸が解かれることでカタルシスが得られるという構造になっている。一方で『キズナイーバー』や『迷家-マヨイガ-』はそこからさらに一歩踏み込んだテーマ性が付与されていたように感じるが、アニメの出来は2つともお世辞にも良いとは言えず、興行的にも振るわない結果となってしまった。

関連記事:『キズナイーバー』と『異能バトルは日常系のなかで』の共通点 - 新・怖いくらいに青い空

さよならの朝に約束の花をかざろう』は、上で述べたような作品群とは全く異なる系統の作品であり、岡田磨理氏の新たな可能性を垣間見たような気がした。

*1:ここでいう種とは、白人・黒人などという場合に使う現実世界のいわゆる人種ではなく、純粋に生物種という意味。

『スロウスタート』第7話―ムキになって勝負を仕掛けにいく栄依子と、それを余裕で受け流す榎並先生、その関係性が素晴らしい!

アニメ『スロウスタート』、第7話が最高だった。

なんというか、栄依子は自信に満ち溢れていて、花名とは対極に位置するキャラとして描かれている。栄依子は「自分には人を引き付ける魅力がある」ということをかなり明確に自覚していて、その状況をやはり自覚的に楽しんでいるようなフシがある。実際、栄依子はクラスメイトの懐にぐいぐい入り込んで、彼女たちを自分の虜にしてしまう。

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ところが榎並先生には、栄依子の作戦がまったく通用しない。栄依子がぐいぐい突っ込んでいっても暖簾に腕押し。まるで柳の枝のように、大人の余裕でひらりとかわしていく。それどころか、スカートの件で一度はメンタルゲージ劇下げされたりもしてる。栄依子にとってはそれがたまらなく悔しい。だからますます先生にちょっかいを出したいと思うようになる。隙あらば先生に突っかかっていく栄依子は、表情は余裕しゃくしゃくという感じではあるが、内心はかなりムキになってたと思う。

だから、栄依子の榎並先生への感情は単なる恋愛感情とは違う。常に自分の優位を保っていたいというプライド、大人をからかって遊びたいという子どもっぽい感情、先生の事を深く知りたいという好奇心、そういったものの延長線だと思う。

そして第7話でついに、栄依子に反撃のチャンスがおとずれる。べろべろに酔っぱらって栄依子を家に上げてしまった先生が、栄依子の前で初めて動揺した様子を見せる。しおらしくなった先生を見て笑う栄依子のなんと嬉しそうなことか。この時、栄依子は初めて先生に「勝った」と思ったであろう。ところが、この優位は長くは続かない。ナチュラルに顔を近づけてきた先生にドキドキしてしまい逃げるように部屋から立ち去る栄依子。彼女自身が言っているように、まさに「勝ち試合だと思ったら最終回で逆転食らった」状態。

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そもそも榎並先生は一連のやり取りを「勝負」だと考えてすらいない。ムキになって勝負を仕掛けに行ってるのは栄依子だけ。いつも落ち着いていて大人びた印象の栄依子だが、実は主要キャラの中で一番子どもっぽいのかもしれない。

だがしかし、自分の作ったネックレスを先生が付けているのを見て、栄依子の感情はより一段上のものへと変容する。まさにOP曲の歌詞にあるように、ポップコーンのように目覚めてしまう。この気持ちをどうしても誰かに伝えたくて、花名に秘密を打ち明ける。心の中で「いつか私も話せるかな、自分の秘密を」とつぶやく花名を見て、彼女の抱える不安や恐怖の大きさが再認識され、視聴者は突如現れた百合空間から解放され、本作の主題へと帰ってゆく。

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本当に素晴らしかった。日常系アニメでこれほどの神回は数年に一度あるかどうかっていうレベルだと思う。第3話も素晴らしかったが、第7話はそれをはるかに凌駕している。