新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『すべての人類を破壊する。それらは再生できない。』感想

西部劇はアメリカ人の心の原風景を描き出す。『オトナ帝国の逆襲』は、大人が抱く60年代へのノスタルジーとそこからの決別を描く。『すべての人類を破壊する。それらは再生できない。』は1990年代後半の空気感を描き、見る者に強烈な懐かしさを抱かせる。

トレーディングカードゲームマジック:ザ・ギャザリング』を題材に、1990年代後半に生きる中学生の甘酸っぱい青春を描く本作。もちろん、このカードゲームをやったことのある人も、ない人も楽しめる作品になっている。

2020年現在に30代くらいの世代には間違いなく刺さる強烈なノスタルジー。一体何なんだろう。この作品の何がそこまで私の心を揺さぶるのだろう。

阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、長引く不況、連日報道される少年犯罪、そのような中で誰もが未来に対してどこか懐疑的になっていた時代、それでも、日本の人口は2005年までは増え続けており、パソコンや携帯電話が家庭にまで広く普及し始め、まだまだこの国は発展していくんだという期待に満ち溢れていた時代。そこにあるのは、徹底した矛盾。輝かしい21世紀がすぐ目の前に迫っているという希望と、ノストラダムスの大予言に代表されるような漠然とした不安が同居しているような時代だった。

あるいは、インターネットやスマートフォンSNSが普及する前の時代、各個人が必死に情報を掻き集めて能動的に動かなければならなかった時代の雰囲気が、我々に懐かしさを感じさせるのかもしれない。SNSを使えば簡単に同じ趣味を持つ人と語り合える、欲しい情報が自動的に情報が入ってくる、そういう時代を我々は生きている。だが、ほんの20数年前まで、それこそ作中に出てくる喫茶店のような場所に自ら出向いていって直接顔を合わせて交流することが当たり前だった。

そして、そのような90年代末の風景が、もう二度と戻ってこないものだと知っているからこそ、この作品に強烈なノスタルジーを感じるのだろう。

ここで一つ思考実験をしてみたい。

約1000年後、31世紀に生きる人が過去のことを知ろうとした場合、一体どういうことが起きるだろうか。

弥生時代以前のことについては、土の中に埋まっている土器や装飾具、様々な骨などから、なんとか推測することしかできない。

奈良時代から19世紀くらいになると、文学や歴史書が数多く残されていて、そこから人々の生活の様子をある程度知ることが出来るようになる。それでも、当時書かれた文字記録の大半は、長い年月の間に失われてしまう。

19世紀後半になると、音や映像で記録を残すことが可能になる。しかし、初期の写真や映画のフィルムに使われているセルロイドは劣化しやすく、21世紀の現在ですら、すでに大半の記録は失われてしまっている。ましてや31世紀には、この時代の映像記録はほとんど残らないだろう。なかには、デジタル化され半永久的に保存されるものもあるだろうが、それらは全体のごくごく僅かでしかない。

では、本作の舞台である1990年代についてはどうだろう。この時代、VHSが普及し、鮮明なカラー映像を記録として保存できるようになる。しかし、VHSも所詮はアナログの記録媒体でしかないので、映像は再生するたびに擦り切れ、経年劣化によって映像は色褪せていく。この時代の映像記録は、今後100年から200年のうちに、ほとんど全てが破壊される。それらは再生できない。31世紀まで残るのは、デジタル化されたごくごく僅かの記録だけになる。

それらとは対照的に、21世紀以降については、膨大な数の映像記録が31世紀まで生きているだろう。それらは初めからデジタル機器を使って保存されたものであり、再生機器さえ用意できれば、一切劣化することのない鮮やかな映像を1000年後でも見ることができる。31世紀に生きる人々は、その鮮やかな映像記録を見て、人々の息遣いや空気感を、まるで昨日の出来事であるかのように感じることができるだろう。

21世紀後半以降になると、バーチャルリアリティの技術は格段に進歩し、人々の五感に関わる全てのものを未来永劫保存することができるようになる。そんな世界では、過去は常に現在と地続きのものとなり、ノスタルジーという言葉すら無くなるかもしれない。

1990年代末とは、鮮明かつ詳細な当時の空気感が永遠に失われてしまう最後の時代である。

我々は、そのことを無意識に理解しているからこそ、本作に心を揺さぶられるのかもしれない。

『巴里マカロンの謎』感想

巴里マカロンの謎 (創元推理文庫)

巴里マカロンの謎 (創元推理文庫)

さて、〈小市民〉シリーズとして実に11年ぶりの新刊にして、初の短編集である。忘れかけている細かい設定なども思い出しながら読み進めていったが、まあ、何というか、小佐内さんも小鳩君も言動が可愛すぎませんかね?

まず、小市民として平穏な生活を送るためにお互いが困っていたら協力し合うという互恵関係の一環として、放課後に2人でスイーツを食べるために名古屋まで行くという、その行動がすでに回りくどくて可愛い。

そして、何かあるたびに小佐内さんがいちいち可愛いことしてきて、それが小鳩君の視点から語られているのが、これぞまさに〈小市民〉シリーズだという感じである。

では、ここで、小佐内さんの可愛いシーンランキングを見てみよう。

第3位。マンションのオートロックの自動ドアの前で「開けゴマ」とか言ってる小佐内さん。可愛い後輩のピンチを救うためにその子の家を訪れるという場面なのに何やってんのお前?

第2位。小鳩君にマカロンについて意気揚々と解説してくる小佐内さん。「これこそがマカロンです」は流石に爆笑するわ。

そして、第1位。ドヤ顔で決め台詞を言おうとして噛む小佐内さん。その後、何事も無かったかのようにしれっと言い直してるのも最高に萌える。

という感じで小佐内さんだけでも十分可愛いのだが、本書で登場する新キャラ・ゲストキャラもまた実に良い味を出している。

小佐内さんのことを「ゆきちゃん先輩」とか言って慕ってくる古城秋桜ちゃんホント可愛い。というかこの2人が合わさって行動している時の破壊力がハンパない。文化祭でキャンプファイヤーがあるからって、その火でマシュマロを焼こうという思考に至るのはマジでヤバいと思う。

あと、個人的にイチオシなのは『伯林あげぱんの謎』に出てきた真木島さん。先輩との連絡役を買って出ているのにその先輩からメールを無視されて、その事を部の皆に知られたくなくて、支離滅裂な嘘付いて誤魔化そうとしてるのがホンマ萌える。

何というか、米澤氏の作品は本当によく人間の心理を突いていると思う。それはささやかな虚栄心だったり、保身だったり、そういう誰にでもあり得る微妙な心の動きを小説に落とし込むのが、圧倒的に上手い作家なのだ。これは仕方のないことではあるのだが、主人公である2人がある種キャラクター然として描かれているのに対して、1回か2回しか登場しないゲストキャラはこういう人間臭い描写に満ちていて、どの話も実に見ごたえがある出来だった。

『恋する小惑星』聖地巡礼

そうか~。イノ先輩、飛び地ガチ勢だったんか~。はぁ~素晴らしい。

早速、何人かが場所を特定しているようである。

私も一応撮影はしてきた。イノ先輩が記念撮影してた三叉路。

f:id:kyuusyuuzinn:20200118132907j:plain

40キロの速度制限表示はもちろん、その後ろの標識の曲がり具合とか、看板とかが完全にアニメと同じである。

この近くに住居案内板があった。地図の中央上付近、斜めに走る道どうしが合流している箇所が、写真の場所である。

f:id:kyuusyuuzinn:20200118134132j:plain

これを見ると境界線がとても分かりやすい。川越市の一部が盲腸のように飛び出して、ふじみ野市側に突き出ている。厳密に言えば飛び地ではないのだろうが、面白い境界線であることは間違いない。境界線が何故このような形になっているのかは、調べてみたが分からなかった。

『劇場版 メイドインアビス 深き魂の黎明』感想

昨日、劇場版『ハイスクール・フリート』を観た後に続けて『メイドインアビス 深き魂の黎明』を観たのだが、

もうね…本当にね…

きついっす…。

となりのトトロ』は『火垂るの墓』と同時上映だったと言われているが、それに匹敵する落差である。本編が始まる前に『マルルクちゃんの日常』という短編があるのだが、スタッフの名前を見ると演出と絵コンテが『ゆゆ式』のかおり監督である。本編の方もかおり監督が作ってくれてたらどれだけ良かったことか!

まず何よりも強烈なのは、地上波では放送できないんじゃないかと思えるようなグロテスクな描写の数々。冒頭のクオンガタリは序の口でしかない。リコの歯は折れるわ、レグの腕はもがれるわ、そして、プルシュカは…。さらにグロさを際立たせているのは音の使い方である。明らかに水とは異なる、ドロドロしたものが出す音は、観客に強烈な嫌悪感を抱かせる。

そして、人としての倫理観が完全に欠落したボンドルドという存在。彼に良心の呵責などという言葉は一切存在しない。自分のしていることの意味をナナチやレグに説明することすらしない。ただ、そこにあるのは純粋な好奇心。そのためには自分の娘ですらも利用する。この胸糞の悪さ。

だが、この狂気は本当にボンドルドだけのものなのだろうか。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した科学者は、短命である人が多い。十分な装備もないまま危険な試薬や放射線を浴び続けたからである。冷戦期、ソ連は2000発以上のロケットを打ち上げ、アメリカも(アポロ計画だけで)280億ドルもの大金を使ったと言われている。今考えてみればそれはもう狂気の沙汰としか言いようがないが、そのおかげで今の便利な生活があるのだ。新しいものを創り上げようとする時、まだ見ぬ世界を知ろうとする時、人は狂気に取りつかれるのかもしれない。そして、どんな犠牲を払ってでも好奇心を満たそうとするその性質こそが、我々人を人たらしめたものなのかもしれない。

そんな重たい内容の中でも、TV版同様にレグきゅんの可愛さはもう最高という他ないレベル。ことあるごとにモフモフのナナチの腕を触ってくるレグきゅん、リコがナナチに抱きついてる横で自分も触りたいみたいな顔してるレグきゅん、ナナチを抱き寄せて匂いを嗅ぐレグきゅん、ナナチに抱きつきながら勃起してるレグきゅん…。もうね、本当にね…お前は一体何がしたいんだ?

かくして観客は皆、最高に可愛いレグきゅんの姿に癒されつつ、「カートリッジ」という言葉を聞くたびにトラウマが蘇ってくる身体にされて、映画館をあとにすることとなる。

『がっこうぐらし!』、堂々完結

ゾンビ映画の伝統を踏襲しつつも、それを超えるテーマ性が付加された見事なエンディングだった。

ジョージ・A・ロメロが製作したゾンビ映画の金字塔『ゾンビ』(原題: Dawn of the Dead)では、人間というものの愚かさや醜さが徹底的に描かれている。欲望のおもむくままにショッピングモールにやってくるゾンビの群れは、言うまでもなく当時の大量消費社会の中で踊らされるアメリカ国民のメタファーである。

登場人物たちは入口にバリケードを作ってゾンビの侵入を防ぎ、モールの中で束の間の快適な生活を送る。そこにギャング集団がバイクで乗り付けてきて、モールの中で暴れまわる。立て籠もってたメンバーの一部は怒り狂って彼らに攻撃を仕掛ける。ここにあるのは俺たちの物だ!お前らには渡さない! そういって敵を深追いしていった彼らはゾンビに襲われ、自らもゾンビとなってモールの中を彷徨い歩くことになる。

彼らをゾンビにしたのは、心の中に深く刻まれた所有欲である。豊かな生活がしたい、美味しいものをお腹いっぱい食べたい、自由に好きなものを買えるお金が欲しい、そういう欲望が奪われそうになった時、人は簡単に理性を失い、まるで獲物を狩る獣のように他人に襲い掛かる。

そこには、資本主義というもの、より広く言えば、人間の理性というものに対する徹底した懐疑が存在する。

がっこうぐらし!』もまた、1巻からずっと人間の醜さを徹底的に描き出し、その地獄のような世界で懸命に生きようとする由紀たちの姿を描いてきた。

何度も傷付き、何度も裏切られて、それでもなお由紀たちは信じ続けた。人は困難にぶつかった時、手を取り合い助け合うことができる。人が協力して知恵を絞り、必死に考え抜けば、苦しみや悲しみの少ない社会を創り上げることができる。私達は、破滅的な戦争や環境破壊を回避するために、正しい選択をすることができる。

由紀たちが信じていたのは、人間の理性である。冷静に物事を観察し本質を見抜く能力、他者を思いやる心、そういうものが我々には備わっているという事を彼女たちは信じ続けた。確かにこの世界は醜くて地獄のような場所かもしれないけれども、世界は少しずつ良い方向へ変えることができる、そう信じ続けたからこそあのエンディングがあるのだ。

由紀たちが生きる未来が、明るく希望に満ちていることを願う。