新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『シャーマンキング』と正義について―ラキストの「相対主義」と、マルコの「愛=正義論」

アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。

これは、アンパンマンの作者・やなせたかし氏が取材で語った言葉だ。漫画やアニメの世界で「正義」というものを論じる際、絶対的な正義というものを否定し、人それぞれに別々の正義があるのだとする相対主義的な立場と、相対主義をある程度認めつつも、それを超えた絶対的な正義を見出そうとする立場とがある。*1 例えば、やなせ氏の場合は後者の立場を採っていて、お腹が減って泣いている子供に自分の顔を食べさせるアンパンマンを、絶対的な正義として描いている。

「正義の相対化を採る立場」と「絶対的な正義を見出そうとする立場」との対比を最もよく描いた少年漫画として『シャーマンキング』がある。*2 つまり、ラキストの思想が前者を、マルコの思想が後者を代表している。

ラキストという男は元々X-LAWSの創設者だったが、その後ハオ一派に寝返る。その理由は、ハオ一派との戦いを通じて、彼らにも彼らなりの正義があると気付いたからだ。この世に正義と悪が存在するように見えるのは、その背後にある武力その他の格差と無関係ではない。ラキストいわく、「正義が勝つのではない。人は、勝った者を正義というのだ」。彼が言っているのは、この世に絶対的な正義・悪など存在せず、ただ強者と弱者、勝者と敗者がいるだけ、ということ。そしてこれは、二十数巻にも及ぶ本作ストーリーの中でずっと示唆されてきたことでもあった。シャーマンファイトの参加者には、皆それぞれにシャーマンキングになりたい理由、つまり正義があった。

こういった相対主義を乗り越えようとするのであれば、「相対主義じゃ結局何も決められない」みたいな冷めた見方では駄目だ。そこはやはり、上記のやなせ氏のように、何か絶対的な正義を見出す必要がある。ラキストの相対主義に対して、マルコは「愛」というものに正義の根源を見出した。幼くして母を亡くしたマルコの親の代わりになり、「無償の母なる愛」を注いでくれたラキストのその行為こそが「正義」の源であり、そういった「愛」に背くことそこが「悪」なのだ、と。そして本作のラストでは、麻倉葉をはじめとする登場人物が、ハオに特大の愛をぶつけることで、彼の魂を救済して見せた。つまり、マルコの思想はそのまま、作者である武井宏之氏がこの作品で伝えたかったこととも直結してくるだろう。

では、本作を読んだ後に私自身が正義についてどのように考えたかという事なんだけど、正直、ラキストの主張もマルコの主張も、どちらも間違っているとは言えないと思う。世界がますますグローバルになって、文化や思想の差異に対する理解が深まるにつれて、ラキスト的相対主義はますます説得力を持つようになってきた。しかし、弱い立場に置かれた人々へ向けられた無償の愛(例えばマザー・テレサがやったようなこと)は、やはり国境や民族の壁を越えて「正義」であり続けるだろう。これは、どちらが正しいか、と論争するような問題ではないのかもしれない。正義が一つでないことはもはや自明、それでもやっぱり無償の愛は絶対的な正義だ。『アンパンマン』と『シャーマンキング』で述べられていることは、結局そういうことだと思う。

*1:作中に出てくる正義・悪という図式が自明なものとして扱われている作品については、そもそも「正義」を論じているわけではないので、上記2つのいずれにも当てはまらない。

*2:シャーマンキングという作品は、1998年から週刊少年ジャンプに連載されていたが、2005年に一旦打ち切りとなったため、2008年から2009年にかけて発表されたシャーマンキング完全版によってようやく物語は完結を見た。この記事では、完全版の方で追加されたストーリーを中心に解説してゆくこととする。