新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『弱キャラ友崎くん』と定性・観察の科学

人生をcontrollableなものと見なす日南葵の思想

北与野に住む高校生・友崎文也は、アタファミというオンライン格闘ゲームで日本一の実力を誇るゲーマーだが、実生活では友達も1人もいない根っからの非リア充で「人生はクソゲー」だと思っている。一方、友崎のクラスメイトで、アタファミで友崎に次ぐ実力を持つ女子高生・日南葵は、勉強でも部活でもトップの成績を叩き出し、クラスの誰からも好かれる完璧なヒロインで、「人生は神ゲー」と言って譲らない。ひょんなことから大宮駅で出会い、お互いの人生観をぶつけ合うことになった2人は、勢いそのまま師弟関係を結び、日南は友崎をリア充にするためにありとあらゆる特訓を課すこととなる…。

作品から溢れ出る大宮・与野への愛…。最初は、舞台が千葉から埼玉に変わっただけで、中身は『俺ガイル』(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』)のフォロワー的な作品かと思っていたが、どうもそうではない。むしろ、やってることは『俺ガイル』と正反対のようにも見える。

そもそも『俺ガイル』的なものとは何か。それは、リア充・ぼっち・スクールカーストといった言葉によって表現されるクラス内のランク付けを明確に描き、かつ、それらのランクで上位にいる人達が当たり前に信じている恋愛・友情・青春の価値を揺さぶるようなテーマ性を持つ作品群のことである。その根底には、リア充リア充でいろいろ大変そうだし、俺ら非リア充は非リア充どうしでまあテキトーに楽しく過ごせればいいんじゃね、というような諦観がある。

ところが本作で日南は、人生というゲームは努力と工夫次第でいくらでもレベルアップできると説く。実際に彼女は、中学時代から努力に努力を重ねて、今の地位を獲得したのだという。そこには、人生に対する諦めも冷笑もない。あるのは人生を徹底的にcontrollableなものと見なす日南葵の思想である。

日南の思想を支えるのは、合理性を徹底的に突き詰めた科学的思考である。日南はまず、どうして友崎はリア充になれない弱キャラなのか、どうして自分が誰からも愛される強キャラでいられるのか、その理由を徹底的に分析して見せる。それはまさに、多くの研究者が日頃行っている定性的な観察そのものだと思う。

定性と定量

定性とは、化学用語で物質の成分を調べることであるが、より広義の意味で言えば、対象の性質や特徴を調べること、要するに観察という言葉と大差ないと考えていいだろう。これらの対義語が定量であり測定である。例えば、「ある液体にある固体を加えると液体が赤色に変化した」というのが定性(観察)で、そこから一歩進んで「固体を何グラム入れると赤くなるのか」「赤色というのは光の吸収波長でいうと何ナノメートル付近なのか」「その時温度やpHはどれだけ変化したか」というように数値を使って現象を理解しようとするのが定量(測定)である。

現代の科学というものは基本的に全て定量的な議論をしなければ成り立たないものである。例えば、「この水の中にどういう化合物が含まれているか」という一見すると定性的なテーマであっても、その中身はというと、試料を液クロにかけてリテンションタイム○○分のピークを分取して、それを質量分析にかけると分子量は○○で…、というように数々の定量的な操作を通して化合物を同定していくということなのである。

こう書くと、定性というものは定量よりも一段低いものと思う人もいるだろうが、実際は、中谷宇吉郎が『科学の方法』という著書でも書いているように、定性という作業がなければ対象を正しく定量することは不可能である。例えば、ある対象物の調査をする時には、その対象物の何をどのように測定するかという実験計画を立てる必要があるが、適切な実験計画を立てるためには事前にその対象を徹底的に観察しておかなければならないのである。例えば、物の質量を測るにしても、体重計とか精密天秤とか、色々な方法がありその中から適切なものを選ばないといけないのであって、ただ闇雲に「とりあえず測ってみよう」で上手くいくこともゼロではないにせよ、ほとんどの場合は、事前に観察をして対象の性質をある程度知っておかないと測定は無意味なものに終わってしまう。

もう一つ、定性・観察には重要な役割があり、それは自然の中にある何かを、視覚や聴覚や言語といった人間が理解できる対象として再構築するという働きである。世界の中に溶け込んでいる対象物は、人間が観察することによって初めて世界から切り離され、人間が理解できる形に定義されていく。

例えば、緑色蛍光タンパク質GFP)という光るタンパク質がある。観察したいタンパク質の遺伝子の近傍にGFP遺伝子を組み込むと、そのタンパク質とGFPの複合タンパクが作られ、鮮やかな緑色を呈した顕微鏡写真を取ることが出来る。「それまで見ることのできなかったタンパク質が光った」というのは、現象を数値で表しているわけではないので、完全に定性的な仕事である。しかし、これまで見えなかったものが見えるようになる、観察できるようになるということは、とてつもなくインパクトがある事なのだ。どんなに膨大な数値データも、1枚の写真が放つ強烈なインパクトには勝てない。GFPは文字通り、私たち人類の見る世界を変えたのである。

弱キャラ友崎くん』に見る定性・観察の科学

さて、話を『弱キャラ友崎くん』に戻そう。日南は実に様々な課題を友崎に課しているが、課題解決の第一歩はいつも決まって「観察」である。日南はまず友崎に、クラスの人間関係やパワーバランス、クラスメイトの人となりとか、そういったものを徹底的に観察するように言う。そしてその後必ず「どうだった?」と友崎に問い、それを受けて友崎は観察したことを頭の中で整理しながら何とか言葉を紡ぎ出す。そんな過程を何度も何度も繰り返すことで問題点を洗い出し、解決の糸口を見出していく。

科学の目的は真理の探究、日南と友崎の目的は課題の解決と人生におけるレベル上げ。目的は違うが、目的を達成するために観察を重視する姿勢は全く同じである。それは本作の文章にもよく表れている。

俺はただ、茫然としてしまった。
だって日南は、日南葵は。
自分が隠している真相、つまり、普段みんなに見せているキャラクターはすべて仮面で、本当はゲームのように自分を操作し、ただそれをプレイし続けているということ。
その真相に正面から突然、無理やり、片手を突っ込まれたにもかかわらず。
そんなことはまったく意にも介さず、片手間に、造作もなく、まるで雑魚を蹴散らす魔王のように、つかまれた真実を魔法のように虚構へと変え、『悩みを打ち明けてくれたクラスメイトの相談を真摯に受け止める、学園のパーフェクトヒロイン』というロールプレイを、完璧にこなしてみせたのだ。
(第3巻256ページ)

そして俺は、それがどれだけ大きい意味を持つのか理解できていながら。
たぶんこの一点に関しては、俺とこいつはわかりあえない、とどこかで予感していながら。
でもその言葉を、伝えるしかないと思った。
「誰と仲良くなるとか、誰かに告白するとか……そういう人との『つながり』を。
『課題』とか『目標』で判断しているのが、そもそもおかしいんじゃないのか」
(第3巻291ページ)

たまちゃんはいやがらせを受ける前からずっと、言っていることの芯は変わっていない。なにひとつ、ブレちゃいない。芯だけは、なんにも、変わっていないのだ。
だけど少し前までは届かなかったたまちゃんの言葉が。
こうしていまは、これでもかってくらいに強く、まっすぐに、みんなに響いている。
(中略)
自分の心のまんなかにある、いちばん大切な芯だけは決して折らず。
それを伝えるための手段と、人とつながるための心構えをこれでもかってくらいに変えることで、自分のいちばん大切な部分をそのまま伝えるというところに、辿り着いていたのだ。
(第5巻300~301ページ)

弱キャラ友崎くん』の文章は6.5巻(短編集)を除いて全て友崎の一人称で進む。そして、印象的な場面では必ずと言っていいほど、文章の途中でもお構いなしに句点と改行が入れられ、全体としては1つの文章なんだけどそれがいくつかのブロックに分かれたような形をしている。それはまるで、目の前にある現象を友崎が必死に言語化していった過程を見ているかのようだ。

目の前で起こった出来事を食い入るように観察して。

まるで一つ一つの言葉の意味を自分に言い聞かせるように、慎重に、丁寧に言葉を紡ぎ出していくことで。

この世界の理を何とかして理解しようとした、その友崎の必死さ、気迫が、痛いほど強く伝わってくる文章だと思う。

今もなお明らかにならない日南の本当の姿

こうして巻を重ねるごとに科学的思考力を鍛えられた友崎は、日南の協力無しでクラス内の問題を解決できるまでに成長していく。しかし、友崎にも読者にも、まったく観察することのできない大きな謎が浮かび上がってくる。それは、日南葵の心の中である。

作中に描かれる日南のストイックさは尋常じゃないレベルである。陸上競技で全国レベルの実力を見せ、学力でも校内1位をずっと維持し続けた上に、アタファミで全国2位になり、生徒会長にまで上り詰め、友崎の指導教官までしてくれる。他人の見えない所でとてつもない努力を重ねているのは、誰が見ても明らかだが、何故そこまで頑張れるのか、そうなったきっかけは何だったのか。それが、6巻(短編集を射れれば7巻)まで読んできても全く分からないのだ。

そもそも、日南がクラス内で見せる顔は全て、人生というゲームにおいて彼女が作り上げた「キャラクター」であり、本当の感情が露わになることはほとんどない。例えば、日南は友達から無類のチーズ好きということで知られているが、それも、そういう隙を見せた方が人から好かれやすいと計算して彼女が作り上げたキャラでしかないのである。6.5巻のモノローグを除けば、日南の素の部分が垣間見えるのは、3巻の肝試しで怖がっていた(あれが演技じゃなくてガチだったということは、文章をよく読めば分かるようになっている。)のと、5巻でたまちゃんが苛めを受けて泣いた後に激昂し、執拗に報復を行った時くらいだろう。

日南にとって人生はゲームをプレーするのと同じ感覚なのだ。こうすれば上手くいく、こうやれば勝てる、という無数のデータが頭の中にあって、それをただ実践しているだけ。そこには、レベルが上がっていく達成感がある。けれども、日南が本当にやりたいことは未だに見えてこない。最近のアニメで例えるなら、『ココロコネクト』の永瀬伊織とか、『やがて君になる』の七海燈子先輩に近いだろう。クラスメイトとの交流も、部活動も、学校行事も、全てにおいてキラキラと輝いているように見えて、実は、日南の心は氷のように冷え切っている。

彼女をここまで突き動かしたものは何だったのか。人生をゲームと同様のものだと解釈し、人生は神ゲーであり、controllableなものであると見なすにに至った、彼女の思想の源泉はいったい何なのか。それは今のところ、一切計り知れない。

日南葵とは、いったい何者なのか。

おそらく、物語はこれから、この謎を解き明かす方向に切り込んでいくだろう。そして、その謎を解き明かすために友崎が用いるのは、日南から教わった観察力、科学的思考力であるに違いない。