新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

荒川弘私論―『百姓貴族』と「自然への介入」について

荒川弘先生の『百姓貴族』が面白かった。やはり『鋼の錬金術師』で描かれている生死観・倫理観は、作者が子供の頃から農業と関わる中で培ったものなんだろうなと思った。彼女の作品の根底には、人知の及ばないものに対するある種の諦観と、自然との共生という思想が常に流れている。

百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

本作でも描かれているように、農業は常に自然と向き合う職業であって、だからこそ、人の思い通りに行かないことが多い。台風で放牧地が水につかったり、せっかくジャガイモを収穫しても規格外で捨てなければならなかったり、作物を野性の害獣に荒らされたり。どんなに科学技術が進んでも、我々が自然の恵みを受けて生活しているという事実は変わるなんてことはなく、その自然を完全に人間がコントロールできるなんてこともない。「どんなに頑張っても自分達にはどうすることもできない部分があるんだ」という認識。これは『鋼の錬金術師』でも常に根底にあって、例えばエド達も、自然の法則を捻じ曲げて死者を蘇らせようとした結果、とてつもない代償を負うことになるわけだ。

で、実を言うと、人知の及ばない部分があるという認識こそが、あらゆる倫理の源になっている。例えば、社会の中にある格差のことを考えてみよう。もし、「あの人達が貧しい生活をしているのは、彼らの努力が足りなかったからだ」ということが分かっていたのなら、そういう格差を「不平等だ」とか「正義に反する」などとは誰も思わないだろう。しかし我々は、そういう格差構造が個人ではどうすることもできない要因によって決まってしまう、ということを知っている。確かに、個人の努力も一つの要因ではあるが、それ以外にも、偶然性の要素や、親の経済力・家柄・性別・人種などといった要素によって、個人の人生が決まってしまうこともある。極端な話、我々がこうして豊かな生活を享受できるのは、この21世紀に日本に生まれたからであって、これがアフリカやらカンボジアだったなら、日々の食事にも困る貧しい生活を強いられていたかもしれない。

だからこそ、「彼らが貧しい生活をしているのは自己責任」という言説には「思い上がり」が含まれている。それは、弱者を見下して優越感に浸っているからではない。「自らの努力・行動によって、自らの人生をコントロールできる」という認識こそが思い上がりなのだ。「個人や人類にはどうすることもできない領域がある」という認識を忘れた人は、どこまでも残虐になれる。『鋼の錬金術師』における軍上層部のように。

では、人類は、自然の為すがままを受け入れて生活するべきなのか。いや、そうではない。例えばエドの義手や義足だって、広く捉えるなら自然に介入する行為なわけだ。人類はこれまで、人知の及ばない自然への畏怖を持つと同時に、その自然を科学技術を使って改変してきた。要はそのバランスが重要なのだ。自然への介入が行き過ぎると、上で見たような思い上がりに繋がる。かといって、自然が生み出した結果を全て受け入れていたら、今日の豊かな生活は成り立たない。

そういう微妙なバランスの上に成り立っているのが農業なんだと思う。雨・土・日光といった自然の恵みを利用する一方で、害獣や台風など自然に翻弄されることもある。けれども近代農業は、品種改良や機械化といった形で自然に介入するという側面も大きい(というか、そうしないと成り立たない)。本作でも、大規模な機械を使って農作業をしたり、安全のために牛の角を切ったりする場面が紹介されている。

では、そういった自然への介入は、どこまで許されるのだろうか。それはやはり、人が生きてゆく上で最低限必要な範囲内で、ということになるだろう。例えば、本作では、怪我をしてしまったり、高齢で乳が出なくなってしまった牛を、と殺場に運ぶ場面も描かれる。農家としては経済性も追求しなくてはならないわけだから、昨日までお世話になった牛でも、乳が出なくなったら即食肉として出荷してしまう。残酷ではあるが、農家にも生活がある。こういった効率的な農業によって、日本の食卓が支えられている。我々が自然の一員として、自らの生存のために自然に介入する行為は、やは不可欠なものだ。「人が生きてゆく上で最低限必要な範囲」を超えた自然への介入(例えば、人を支配したいというような欲望を満たすための自然への介入)こそ、非難されるべきものだろう。

どうすることもできない自然への畏怖と、それでもなお生きるために自然に介入しようとする意志。その二つを併せ持つのが人間という生き物だ。そして、そのことがしっかり描かれているからこそ、荒川弘先生の作品は深い。