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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『銀の匙』第3話考察―人間の残酷さと理解の不可能性

親鳥が自分の子孫をなるべく沢山残すためにとるべき最適の方法とは、どのようなものだろうか。リチャード・ドーキンスは著書『利己的な遺伝子』の中で、それは、親鳥が育てることのできるヒナの数よりも1羽だけ多い卵を産むことであると述べている。そうすれば、もしその年エサが豊富にあって子育てに余裕があった場合には、通常よりも1羽多い子孫を残すことができる。全部のヒナを育てられない場合には、最も生育の遅いヒナを早急に切り捨てて、他の兄弟たちに少しでも多くの栄養が行き届くようにするだけだ。こうして、兄弟間の生存競争に敗れた個体は死に、丈夫で健康な子孫だけが生き延びる。

以上は親鳥の側から見た進化上の戦略の話であるが、逆に、兄弟間の競争に敗れた弱いヒナの側から見るとどうだろうか。そのヒナは、たとえ親鳥から見捨てられたとしても、自分が生き延びるための最大限の努力を続けようとするだろうか。ドーキンスは、必ずしもそうとは限らないと述べている。もし弱いヒナが犠牲になり、その分のエサが他の兄弟に回されたとしたら、他の兄弟の生存確率は高くなるだろう。そして、犠牲になるヒナの遺伝子は当然、生き延びる兄弟の中にも入っているのだ。

彼は自ら名誉ある死を選ぶべきなのである。そうすることによって彼は、自己の遺伝子に最も大きく貢献しうるからである。(中略)彼の死によって救われる個々の兄弟姉妹の体には、彼の遺伝子が五〇%の確率で入っており、一方、育ちそこねた彼の体内でその遺伝子が生き残れる可能性のほうは、いずれにしろごく小さいというのが、その理由である。
(『利己的な遺伝子』、P206~207)

ドーキンスが言ったようなケースが実際にあるのかどうか、私には分からない。ただ、自らの遺伝子を後世に残すという生物の究極目的に照らし合わせるならば、生育の遅れたヒナは自らの生存のために努力するよりも、他の兄弟の中にある自分の遺伝子が生き延びることができるように、自ら死を選んだ方が良い場合もあるということだ。アニメ第3話の豚の親子の行動も、そのような観点から見ることができるのではないか。

これが子豚の性質だ。一度ココと決めると、劣った環境に居続けてしまう。最初の競争からはじき出されただけで、ココで良いと決めてしまう。お前たちはこうなるなよ。

八軒が「豚丼」と名付けた子豚は、まるで自らの成長をあきらめ、他の兄弟の成長を邪魔しないように行動しているようにも見える。人間ならば、たとえ競争に敗れて諦めたとしても他にも様々な生き方があるが、自然界で諦めた者に待っているのは死のみだ。そういう意味で、自然界は非常に残酷な弱肉強食と淘汰の理の上に成り立っている。

しかし、そんな残酷なシステムを最もよく体現しているのが、人間という生き物に他ならない。豚がどんなに努力して成長しても、最後には人間によって皆ポークにされてしまうのだ。自らの生存のために、家畜を狭いところに閉じ込めて殺し、動物を乱獲して絶滅に追い込み、木を伐採して動物の住処を奪う。これほどまで残酷なことをする生物は他にいないのではないか。そもそも、人間がこうやって地上に君臨できているのは、効率よく他の生物を殺し、自らの活動範囲を広げることのできる知恵を、進化の過程で獲得したからだ。しかしその知恵があったからこそ、私たち人間は、「他の命を奪わなければ生きていけない」という宿命、生きている以上決して逃れることのできない「罪」の存在に気づくことができたのだろう。生物学者の長沼毅さんはこれを「動物の業(ごう)と性(さが)」と呼んでいる。

人間の気持ち一つで一生を左右されるんだもんなあ。馬の気持ちが完璧に分かったら、俺ら気がおかしくなるかもしれん。

動物の業(ごう)と性(さが)を自覚するという事は、同時に、人間は他の生物なしには生きることもできない不完全な存在なのだという事実を知ることでもある。我々は自然の恵み無しでは生きて行けない不完全な生き物だ。であるからこそ、自然の理や動物の気持ちを完璧に理解できると考えるのは傲慢なことなのだろう。

存在を知ってからたった二ヶ月の千反田に、「そういうやつではないか」とは何様だ。(中略)
そうだ。千反田の行動は、その目的がはっきりしている分、ときどき読めることがある。しかしだからといって、心の内まで読み切れると考えては、これはあれだ、大罪を犯している。「傲慢」ってやつだ。
(『遠まわりする雛』、P99)

毎日馬の世話をしている叔父さんや獣医さんですら、馬の気持ちを完璧に理解することなどできない。それどころか、我々人間は、同じ人間どうしでも理解できずに、戦争や対立が繰り返し起こっている。自分の家族や恋人の気持ちですら、完璧に理解することはおそらく不可能だろう。であるからこそ、私たちは、たとえ相手のことを理解できなかったとしても、頭ごなしに否定したり「自分の方が正しい」と一方的に主張したりするのではなく、節度ある対応を取らなければならない。

しかしそれは、どうせ他者と分かり合うことなど不可能なのだ、と諦めてしまう消極的な態度とは少し異なる。大事なのは、相手のことを少しでも理解しようと努める謙虚さであり、自分の過ちを認めることのできる素直さなのだ。その事実に気付けたからこそ、八軒と駒場は和解することができた。そして、それを教えてくれたのは、人間の持つ残酷さを自覚し、馬に対する感謝と謙虚さを持ち続ける叔父さんの生き方だったのだ。