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新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『結城友奈は勇者である』最終回感想―「大好きな仲間のため」という思考停止の言葉

『結城友奈は勇者である』最終回まで視聴しましたが、以前の記事「『結城友奈は勇者である』の気持ち悪さ - 新・怖いくらいに青い空」で述べたような本作に対する違和感は、減少するどころかますます増幅されてるように感じます。

結局最終回で強調されていたのは、友奈たちが最後まで戦い抜くことができたのは、大赦や神樹様のためではなく、大好きな仲間のために戦っていたからだという点だと思います。大好きな人がいれば無限に力と勇気が湧いてくるし、諦めずに戦いに勝つことができるというある種の根性論みたいなものになっていて、「え? そういう事を言いたかった作品だったの?」と疑問に思ってしまいました。

そんな単純な精神論で話を終わらせていいのか、という率直な感覚はこの際どうでもいいです。問題は、じゃあ「仲間のため」なら何をやっても許されるのかという部分ですよ。例えば、結界を破壊した東郷さんだって、突き詰めれば大好きな仲間のためにこれが最善の方法だと思っていたわけですよね。また、「仲間のため」という理由はそのまま、容易に「社会のため」「国家のため」に転換してしまいます。仲間とこれからも生きていくためには、そのための社会が必要で、それを動かすための国家(=大赦・神樹様)が必要になるわけですから。そして、おそらく神樹様も、友奈たちが仲間のために戦わざるをえないから、結果的に国家が守られるという事を全て分かった上で、彼女たちの自己犠牲精神を利用している。心底邪悪な神です。

だから、友奈たちの「大好きな仲間のため」に戦うという行動は、必ず「社会のため」「国家のため」に帰着してゆく。また、大切な仲間がいて戦う理由がある人には戦う「義務」があるという話になってゆく。そういった危険性を無視して、単純に自己犠牲を美しいものとして描くのは、ある種の思考停止じゃないでしょうか。現実の日本でも最近、政治家はやたらと「国益」という言葉を使っていますが、「国益を守るため」というのもまた、思考停止の言葉だと思います*1

しかも満開の後遺症も全て完治し、寝たきりになった友奈も最後には目覚めるというご都合主義。もし友奈が完治しないまま終わったとしたら、それはそれで物語として成立し得たと思います。「確かに人間の自己犠牲精神は素晴らしい。でも、犠牲になった人の家族や友人は一生それを背負って悲しむことになる。そのような自己犠牲を前提とした社会は本当に正しいのだろうか?」 という感じの問題提起をして終われば、それはそれできれいな物語になるじゃないですか(それを実際にやったのが『イリヤの空、UFOの夏*2です)。でも、友奈たちが満開した後、何の犠牲もなしに完治したとしたら、それはただ単に自己犠牲精神を賛美するだけの作品になってしまう。

ではどうすれば良かったのかと言えば、例えば、友奈たちがもっと大きな理想や理念のため(例えば世界平和のためとか、暴力による支配や軍国主義を打破するため)に戦っていたのなら、また別の意味で良い作品になったんじゃないでしょうか。本作のキャラ原案を担当したBUNBUNさんが以前、『ニーナとうさぎと魔法の戦車*3というラノベの挿絵を描いておられましたが、そちらをアニメ化した方が格段に良かったと今でも思っています(というか、今からでも遅くないからアニメ化してくれないのか?)。

最後に蛇足ですが東郷さんの話を。アニメ前半では、いかにもネトウヨが好きそうな国防大好き・軍国主義大好き描写を所々に入れてきて辟易していたのですが、アニメ終盤、友奈ちゃんのためにヤンデレ化し世界を滅ぼそうとする所などはなかなか良くて、逆に高感度アップでしたね。これは、普段横暴なジャイアンが映画版ではやけに良い人に見える原理、橋下市長がたまに良い事をするとメッチャ良い人に見える原理*4に近いものがあります。そのジャイアンも最後は友奈ちゃんに諭されて元に戻ってしまいましたが、ヤンデレ東郷vs友奈でもう一波乱起こせば2期もいけるんじゃないでしょうか。

*1:関連記事:「国益に反して何が悪い?」池上彰が朝日叩きとネトウヨの無知を大批判! |LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見

*2:関連記事:誰かの犠牲の上に成り立つ平和とは―『イリヤの空、UFOの夏』が描く「日本人の罪深さ」 - 新・怖いくらいに青い空

*3:関連記事:『ニーナとうさぎと魔法の戦車』に描かれた反戦・反核の思想 - 新・怖いくらいに青い空

*4:例えば私は、桜宮高校の体罰問題が発生した時に入試中止を強行しようとした彼の判断は今でも正しかったと思ってますし、他の市長だったらこれほどの強権発動は出来なかっただろうと思っています。