新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『天元突破グレンラガン』『キルラキル』から『ダーリン・イン・ザ・フランキス』へ

ダーリン・イン・ザ・フランキス』第17話

自分たちが生きた証を未来に残すために子どもを作りたいと言ったココロに、9'αが「君…気持ち悪いよ」と吐き捨てる。

まったく下らない。生殖機能なんてものは人間が進化の過程で捨ててきたものだよ? それを否定したらみんな男と女、どちらかの性別にまた縛り付けられちゃうじゃないか。君たちだって普段考えるだろう? 男と女なんて、フランクスを動かす為だけに必要なめんどくさい仕組み…それだけのことさ。

この発言にキレたイクノが9'αを引っぱたく。9'αは続けてこう言う。

そうやって感情に支配されちゃうような性質も人間は捨ててきたんだ。生きる上でとことん要らない部分だからね。なのに君たちと来たら…

いよいよダリフラの根幹にあるテーマが見えてきました。これは本作だけでなく、同じトリガー製作のアニメ『キルラキル』、また、本作製作スタッフの多くが関わった『天元突破グレンラガン』とも共通するテーマです。

グレンラガンにおけるアンチ・スパイラル、キルラキルにおける生命戦維、ダリフラにおけるオトナ。これらの作品において敵は、生存のために無駄なものをそぎ落として洗練、合理化された存在として描かれます。それに対して、主人公サイドは、一見すると無駄とも思える様々な要素から構成され、多様性に満ちています。実はこの多様性こそが、生命の進化にとって、人類の進歩と発展にとって極めて重要なものである、と高らかに謳い上げるのがこの3作品です。

グレンラガンキルラキル

アンチ・スパイラルは、際限のない進化の先に待ち受ける破滅(スパイラル・メネシス)を防ぐために、自らの進化を止めてしまった種族として描かれます。このスパイラル・メネシスは言うまでもなく、現実社会の言葉に直すなら、迫りくる地球温暖化と資源枯渇、人口爆発とそれに起因する飢餓・戦争ということに尽きますよね。主人公・シモン達はそれでもなお、自らの進化を止める事なく、人類の可能性を信じて前に進み続けようと誓います。作中の「ドリル」「螺旋」は、DNAの二重らせん構造、さらには人類の進化と進歩のメタファーです。

そして、キルラキルに出てくる生命戦維とは、要するに利己的遺伝子のことです。リチャード・ドーキンスは著書『利己的な遺伝子』の中で、生命とは遺伝子が次世代に情報を伝達するためのヴィークル(乗り物)なのだと述べました。地球の海の中かあるいは宇宙空間かは分からないけど、最初に自らのコピーを作り出す能力を持った物質(自己複製子)が生まれた。それらの分子の中で、化学的に不安定であったり、自己複製能力が弱い分子は淘汰され、より安定で複製能力の高い分子が残っていった。さらに、様々な刺激から身を守るための有機物(脂質やタンパク質)の膜を持つ自己複製子が現れた。また、自らの生存に有利になるように他の自己複製子を攻撃するものも現れた。このような事が繰り返し起こり、よりたくさんのコピーを作り出せる自己複製子だけが生存競争に打ち勝ち、次世代に引き継がれてた。このようにして、自己複製子とその周りの有機物から成る複合体は、どんどん巨大で複雑なものになっていった。それこそが、今日「生命」と呼ばれているものです。生命とは、本質的に、利己的遺伝子に着られる服です。しかし、人間は地球上で唯一、この利己的遺伝子に反逆することができる生命です。それは、人間が進化の過程で理性を獲得し、「なんだかよく分からないもの」になったからです。

これまで生物は何億年もの間、遺伝子の生存と複製に有利になる行動を「合理的な行動」として選択してきた。それはすなわち、自らの身を守り、他の生物を殺して食べ、生殖して子どもを産むことだ。しかし、理性を獲得した人類は、以上のような合理的行動にとどまらない、ありとあらゆる「わけの分からない」行動を取れるようになった。遺伝子から着られる存在でしかなかった人間は、長い進化の末に自らの存在理由を見いだし、遺伝子を上手く着こなす存在になったのだ!
この壮大な人間賛歌の物語に隠されたメッセージがあるとすれば、我々は人間社会の持つ「わけの分からなさ」を許容する存在であるべきだということに尽きるだろう。それは「多様性」という言葉に置き換えてもいい。人間社会は多様性に満ちているからこそ美しく、また、強いのだ。
『キルラキル』と『利己的な遺伝子』(その2)―遺伝子に「着られる存在」から「着こなす存在」へ - 新・怖いくらいに青い空より引用)

ダリフラと染色体

このようにグレンラガンキルラキルにはDNAや遺伝子に関するモチーフがたくさん出てくるわけですが、ダリフラにも似たようなモチーフが出てきます。それは染色体とその相同組み換えです。

例えば、ヒロ達が着ている制服に付いているXとYの形をした模様は、言うまでもなく人間の性染色体のメタファーです。ステイメン(おしべ)やピスティル(めしべ)という作中用語に代表されるような生殖のメタファーも頻出します。そして、タイトルロゴの赤色と青色のXが混じり合っている図形。これらはすでに多くの記事で指摘されています。

 (順不同)

特に、タイトルロゴのXXは、生殖細胞減数分裂する時に起こる相同組み換えを模しているように見えます。具体的には、組み換えの過程で見られるホリデイ構造と呼ばれるDNA高次構造を表しています。

この相同組み換えによる遺伝子のシャッフルこそが、人間(に限らず有性生殖を行う全ての生命)における遺伝的多様性の源泉です。

有性生殖をする生き物の場合、母親由来の染色体に乗っている遺伝子セットと、父親由来の染色体に乗っている遺伝子セットを持っており、これが相同組み換えによってランダムにシャッフルされるため、生じる配偶子には事実上無限の組み合わせで各遺伝子が乗っていることになります。また、染色体が2セットあるという事は、どちらかの染色体上の遺伝子が生存に不利な変異を受けても、もう一方の染色体上の遺伝子がカバーすることができるので、結果的に多様な遺伝子が淘汰されずに受け継がれるということになります。

他にも様々な利点が有性生殖にはあって、例えば、生物のある特徴Xを決定づける遺伝子としてA、B、Cの3種類があり、それらを別々の個体が1個ずつ持っていると仮定しましょう。無性生殖では、それらがいっぺんに揃って特徴Xが現われることは、極めて確率が低いことです。しかし、有性生殖なら、別々の個体の染色体にA、B、Cをそれぞれプールしておくことができれば、ある一定の確率でそれら3つが揃う個体が出現してきます。つまり、突然環境が変わって特徴Xが必要になった時に、臨機応変に対応できるのは有性生殖の方なのです。

さらに、生物の置かれた環境が変わって、生存に不利な遺伝子が逆に有利な遺伝子に変わったと仮定しましょう。その時、無性生殖では、その遺伝子を持つ個体の子孫にしかその遺伝子は受け継がれません。一方、有性生殖では2体の個体が生殖に関わり、それが何世代にもわたって続くため、有利な遺伝子がその生物種全体に広がるスピードは、無性生殖よりも圧倒的に早いということが分かるでしょう。

つまり、有性生殖という手段は生物にとって、

  • 生存に不利な遺伝子の変異に強くなる
  • 集団内に多様な遺伝子をプールできる
  • 生存に有利な遺伝子をいち早く伝播させることができる

というメリットがあると言えるでしょう。

進化と多様性

ここで、そもそも進化とはどういうものなのか、説明しておいた方がいいでしょう。結局のところ、進化とは次の3つの原理から成るものです。

まず第一に、生物の持つ特徴は遺伝情報という形でコピーされ次世代に受け継がれます。この時、そのコピー精度は極めて高く、生物の情報はほぼ完璧に子へと伝播されます。ライオンが突然シカを産んだり、ニワトリの卵からカエルが生まれてきたりしないのは、遺伝情報のコピー精度が極めて高いからです。

しかしそうは言っても、ごくごくまれにミスが生じて、遺伝子情報が変化する場合があります。ミスの発生確率は極めて低いのですが、生物が持つDNAの量は膨大なので、子と親の遺伝子にはわずかですが違いが見られることになります。例えば、灰色の羽をもつ虫から、若干黒よりの灰色とか、若干白よりの灰色とか、いろんなバリエーションを持つ子どもが生まれることになります。つまり、世代が変わることで遺伝情報は「発散」し、多様性が増すことになります。これが第二の原理です。

そして第三に、この地球上では生物が生きていくために必要な資源に限りがあるため、その資源を巡って生物間で生存競争が行われる、ということが挙げられます。上の原理により遺伝情報に多様性が増しても、生存に不利な遺伝子は淘汰され、多様性は喪失します。これは遺伝情報の「収束」と言い換えることができるでしょう。

この「発散」と「収束」を繰り返しながら、より生存に適した遺伝子が生まれ、それが次世代に受け継がれるというのが進化の概要です。では、この進化において有性生殖は、どういう点で無性生殖よりも優れているでしょうか。

まず「発散」について。無性生殖の場合、この発散は完全に偶然頼みということになります。紫外線だが化学物質だか分からないけれど、とにかく何らかの原因によって遺伝子が変異するのを待たなければなりません。有性生殖の場合も、遺伝子の変異自体は偶然頼みなのですが、過去に起きた変異をプールしておくことができ、かつ、その変異を相同組み換えによってシャッフルすることができるので、効率的に「発散」を行うことが可能になります。

そして「収束」についてですが、これは環境変化があった場合を考えてみれば分かりやすいでしょう。生存に有利な遺伝子のみが生き残るという収束の作用は、突き詰めれば、最も生存に適した一種類あるいは僅か数種類の遺伝子しか生き残らないということになり、遺伝子の多様性は著しく低下します。このような状態で地球環境の劇的な変化が起こると、生物種はその環境変化に対応できずに絶滅してしまう可能性が高まります。有性生殖では、上の特徴Xの例で説明したように、多様な遺伝子を集団内にプールすることができ、さらに、後にそれらの遺伝子のどれかが必要になった時に、それを集団全体に効率よく伝播させることができるので、絶滅を回避できる可能性が上がります。

まとめ

以上をまとめると、有性生殖は、進化における「発散」の作用を促進する起爆剤となり、「収束」の作用の行き過ぎを抑制する緩衝材となるのです。そのように考えれば、9'αが行ってる事がいかにトンチンカンで的外れな事かが分かると思います。

確かに、男と女がいなければ子孫を残せないという仕組みは、「めんどくさい仕組み」に見えます。キルラキル風に言えば「なんだかよく分からないもの」に見えます。しかし、この面倒くさくてよく分からないものが、生物の進化において決定的に重要だったからこそ、我々は今もなおこの手段を使い続けているわけです。

さて、進化生物学の知見をそのまま人間や人間社会に適用するのは少々乱暴である事は承知の上で、あえて教訓めいたことを言うとすれば、それは「社会を持続可能なものにするために多様性というものが極めて重要である」ということが言えるでしょう。

自民党一強の時代が続く中で、多様性というものがどんどん蔑ろにされているように感じます。今すぐ役に立つ研究やビジネスに繋がる研究ばかりを重視する科学技術政策、伝統的な家族観や恋愛観を押し付ける管理主義教育、そういった政策は短期的には有効でも、長期的には日本という国に計り知れない悪影響をもたらすでしょう。

ダーリン・イン・ザ・フランキス』を17話までに見て、そんな危惧を感じずにはいられません。

アニメ版『ゴールデンカムイ』第2話を見て感じた事

捕まった白石が「そのアイヌはお前さんの飼い犬か?」と言った後に、杉元が白石のあごを掴むシーン。杉元の顔にまったく迫力が無くて一気に残念度が増した。あそこは、最大限の怒りをこめた修羅の形相でなければならないのに…。ギャグで白石が調子乗って怒られてるのとはわけが違うのに…。

そもそも原作ではこの後に杉元の回想が始まって、とある理由によりほとんど追放同然で生まれ故郷を出る羽目になり、恋心を抱いていた幼馴染とも別れざるを得なかったという過去が語られる。このように突然差別される立場に置かれた経験があったからこそ、杉元は、アイヌ民族への差別や偏見が色濃く残っていた当時であっても、アシリパを一人の人間として尊重するし、彼女を「犬」呼ばわりした白石に激怒するのである。

この物語の根幹にかかわる重要な描写をまともに表現できないのって、アニメ製作者としてダメダメすぎると思うんだけど…。

顔芸がいまいちだった件については、回を重ねるごとに良くなってきてるので、今は心配していない。

『かぐや様は告らせたい』―世界に絶望した人が世界は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」と気づくまでの物語

石上優の物語

かぐや様は告らせたい』単行本第9巻で、この作品は単なる名作というだけでなく、ついに漫画史に残る伝説となった。

体育祭で何故かリア充ウェイ系たちの巣窟である応援団に入ることになった石上。リレー本番に起きたある出来事によって、過去のトラウマが蘇る。ある少女を守るためにとった石上の行動を、クラスメイトも大人も誰も理解してくれず、石上は世界に絶望する。真相に気付き石上を絶望の淵から救い出した白銀会長が、体育祭当日もまた石上に声をかけ、石上はようやく冷静さを取り戻す。レースに負けたにもかかわらず石上のことを気遣う応援団の面々を見て、石上は思った。

あぁ そうか この人たち 良い人だ
見ようとしてなかったのは僕だ
ちゃんと見るだけで こんなに風景は変わるのか
(第9巻、第90話より)

自分のことなんかまったく見向きもしてくれないと思っていた人たちが、石上に優しい言葉をかけてゆく。石上のことを毛嫌いしていたクラスメイトの小野寺さん*1ですら、彼を励ます言葉をかける。

一度は世界から見放され絶望した人が、誰かに救われて、少し見方を変えてみると、実は世界はそんなに悪いところじゃないんだと気づく。このタイプの作品には名作が多い。

例えば、古典部シリーズ。小学6年生の折木奉太郎は、とある出来事をきっかけにして「やらなくてもいいことはやらない」をモットーに生きるようになる。

あの一件以降、俺は同じクラスの中に、要領よく立ちまわって面倒ごとを他人に押しつける人間と、気持ちよくそれを引き受ける人間がいることに気づいた。そして六年生になってから、いや物心ついてから、自分がだいたい後者だったことに気づいた。いったん気づくと、あのときも、あのときも、そういうことだったのかと次々に思い当たった。
(『いまさら翼といわれても』、264ページより)

奉太郎の場合は、石上のように何か特別大きなトラウマがあって世界に絶望したというわけではない。本当に些細な出来事が積み重なってそれらが奉太郎の頭の中で結び付けられて「そういうことだったのか」と気づいた瞬間に、彼は「長い休日」に入るのである。

関連記事:(ネタバレ注意)〈古典部〉シリーズ『長い休日』考察―努力と友情、そして信仰の危機 - 新・怖いくらいに青い空
関連記事:〈古典部〉シリーズ『いまさら翼といわれても』各話感想 - 新・怖いくらいに青い空

しかし奉太郎の姉・供恵は、奉太郎の休日を終わらせてくれる人がいつか現れるだろうという事を示唆している。その人とは言うまでもなく千反田えるのことだ。まさに古典部シリーズとは、奉太郎が古典部メンバーとの交流を通じて世界に対する信頼を取り戻していく物語なのだ。

聲の形』もそういう作品である。今まで応援団メンバーの顔を見ようともしなかった石上が「ちゃんと見る」ことで世界が変わって見えた、それと非常によく似た表現が『聲の形』にもある。それは下記参考記事でもすでに指摘されている。

参考記事:「かぐや様は告らせたい」9巻 ※今だとkindle unlimited読み放題対象になってるゾ - この夜が明けるまであと百万の祈り

ここで間違えてはいけないのは、石上や奉太郎や石田将也が完璧に世界に対する信頼を取り戻したというわけではない、という点だろう。彼らの目には世界は依然として醜く理不尽なものとして見えている。それでも、自分のことを見ていてくれる人、自分のことを理解してくれる人もいる。自分が彼らに呼びかければ、彼らもきっと呼び返してくれる。彼らは、『TRAIN-TRAIN』(THE BLUE HEARTS)の歌詞にあるように、世界は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」ということに気付いたのだ。

そのことが最もよく表現されているのが『ココロコネクト』である。文研部と対峙することになった宇和千尋もまた、ある意味世界に対して絶望している人物として描かれる。しかし、千尋のことを責めずに接してくれる文研部の面々を見て、千尋は考えを改めていく。

自分は世界の見方が間違っている?
自分は世界に見放されていると思っていたけれど。
でも本当は。
そうじゃなく、自分は世界に愛されているんじゃないのか?
(『ココロコネクト ニセランダム』、235ページより)

しかし、文研部はいつでも千尋を優しく迎え入れてくれるわけではない。千尋が何もしなかったら冷たくあしらわれるが、千尋が進んで行動を起こせば文研部もちゃんとついてきてくれる。それを見て、千尋はようやく気付いた。

世界は自分のことを見放して、厳しく当たりなんかしない。
かといって優しくて、自分に楽で簡単な人生を歩ませてくれる訳でもない。
世界はあるがままに、いつだって誰にだって平等に存在する。
(『ココロコネクト ニセランダム』、254ページより)

世界に絶望した人間が、いったん世界全肯定!まで行って、そこから「世界はあるがまま」まで戻ってくるという、2段構えの変化をやってのけたのは私の知る限り『ココロコネクト』だけなので、この作品は他に類を見ない名作なのだ。

関連記事:『ココロコネクト』の思想2―「世界を変える」ということ、「仲間を信頼する」ということ - 新・怖いくらいに青い空

ココロコネクト』は分かりやすい例だが、上で挙げた他作品もすべてそうである。石上や奉太郎や将也もまた、世界は光輝く素晴らしい場所だと思い直したわけではなくて、「世界はあるがままに、いつだって誰にだって平等」だと気付いただけなのだ。結局、身に起こる出来事は確率の問題であり、ものすごく理不尽な経験をすることもあれば、逆に自分だけものすごく良い思いをすることも時にはある。でも、全体的に見れば、世界はだいたい「平等」にできている。

そして、ここからが重要なところなのだが、他人は自分に手を差し伸べてくれるかもしれないが、そこで救われるかどうかは結局自分次第なのである。他人は優しい言葉をかけてくれるし、適切な助言をしてくれる。でも、そこから一歩踏み出して、自分が変わろうとしなければ、結局救われることはない。彼らはそういう事実に気付いたのだ。

とらドラ!』もそういう物語である。

3月のライオン』も典型的なそういう物語である。

響け!ユーフォニアム』にも、一部似たようなテーマがある。

最近で言えば『宇宙よりも遠い場所』もそういうお話である。

かぐや様は告らせたい』もまた、世界に絶望した石上優という青年が、白銀に手を差し伸べられて、勇気を出して一歩前に踏み出すことで、ようやく世の中は「いい奴ばかりじゃないけど悪い奴ばかりでもない」と気づく物語だったのだ。

四宮かぐやの物語

そしてもちろん、白銀に救われたのは石上だけじゃない。

かぐや様は告らせたい』の登場人物は大まかに2通りに分けられる。世界をポジティブに捉えているのが白銀や藤原であり、世界に対してネガティブなのが石上やかぐや様だ。(伊井野ミコについてはちょっと話が複雑になるので後述する。)

そう。かぐやと石上は同じタイプの人間なのだ。かぐやも、両親の愛情をあまり受けずに育ち、幼い頃から大人達の醜い姿をずっと見続けてきて、世界に対して絶望していた人なのだ。そこから救い出した人というのが、他でもない白銀なのである。

私 この世に良い人なんていないと思っていたんです
だから会長が良い人ぶる度に その分心の奥底には醜い企てがあるのだと思い込んで
醜い部分をあぶりだしてやろうなんて思っていたんです
でもそれは何時までたっても見つけられなくて
そのうち根負けして 会長みたいなタイプも世の中には居るんだと認めたんです
そしたら 世の中意外と打算無しに動いてる事も多いと気づき始めて
見える景色が 少しだけ変わったんです
(第9巻、第86話より)

同じ人に救われた者どうしとして、かぐやと石上との接点はこれからますます増えるだろう。本誌掲載の最新話、石上の前でジタバタしながら子どものように悔しがるかぐや様を見て、ああ、この2人は本当に良い関係になったな、と思った。あれだけ白銀の前では本心を隠して、決して弱みを見せないようにしている人が、石上の前ではあんなにも感情を爆発させて喚き散らすなんて…、ああ、本当に素晴らしい関係だなあと思う。

それは、単なる先輩後輩の関係でもなく、もちろん恋愛関係でもない。同じ人に救われた者どうしだからこそ分かり合える「同志」のような関係だろう。これからは、かぐやと石上の絡みにも注目して見ていきたい。

伊井野ミコの物語

上では登場人物が大まかに2通りに分けられると言ったが、では、伊井野ミコの場合はどうだろうか。彼女の場合はまた少し特殊で、世界は公平であり平等であると信じたがっている人だと思う。普遍的な正義や人類の英知としての法律といったものの中に自分と両親との繋がりを見出し、それに従って生きることが自分の使命なのだと妄信している。そして、自らも正しくあろうと行動しているので、どんなに罵倒され傷付いても、いつか必ず報われる日が来ると信じている。

よく言えば真っ直ぐで芯の強い人であり、悪く言えば「幼い」ということである。作者もあとがきの人物評で結構辛辣なことを書いている。

孤独心から両親との繋がりを「正義」の中に見出し、以降正しさに固執する。
だが、それは「正義の為の正義」であり、それは「幼い」と言って差し支えない未熟なものである。
(第8巻、巻末より)

この書き方から察するに、ミコはこれから、自分の中の正義を否定され、自分の信念や価値観がボロボロに崩れ去るような経験をするのではないだろうか。

白銀たちと出会ったミコは、現在のところずっと、自分が貫いてきた正義が報われる経験をしている。生徒会長選挙の壇上で堂々と論戦できたことをきっかけとして、実は多くの人が自分のことを応援してくれていたのだと気づき、揺らぎかけていた世界への信頼を取り戻している。

だとすれば赤坂アカという作家は、ミコの成長を描くために、これからミコの正義が一度完全に否定されるような話を描くだろう。それは、彼女が周りから全否定されるだけでなく、ミコ自身も自身の正義の正しさを信じられなくなるような、大きな転換点として描かれるだろう。

その時、ミコを絶望の淵から救い出すのは、会長ではなく、石上だろう。石上が傷付いて立ち上がれなくなった時に白銀から受け取ったものを、今度は石上がミコへと渡すのだ。

かぐや様は告らせたい』という作品は、円環の物語でもある。誰かにしてあげたことは、巡り巡って自分に帰ってくる。誰かから発せられたSOSはきっと誰かに届く。そうして救われた人が、今度は別の誰かのSOSを聞いて助ける側に回る。そういうふうにして世界が回っているということを描く優しい物語なのだ。

これからますます『かぐや様は告らせたい』の展開に目が離せなくなるに違いない。

*1:というか、それは単に石上の視点から見た小野寺さんの印象であって、本当はちょっと言い方がキツイだけで普通に良い人なのかもしれない。

『リズと青い鳥』は傘木希美の嫉妬と敗北と諦めの物語である

映画冒頭、学校の階段や廊下を一緒に歩く希美とみぞれ。2人は決して並ぶことはなく、常に希美が前を行く。朝の音楽室、みぞれが希美に寄りかかろうとする瞬間に、希美は席を離れて行ってしまう。みぞれが一人で希美の方を見ている時も、希美の周りにはいつも仲のいい後輩や友達が集まっている。希美が声をかけてきただけで頬が紅潮し嬉しそうにするみぞれ。それらの描写をこれでもかと入れてくることで、原作やTVアニメ版を見てない人でも、みぞれと希美との間にある温度差、感情の一方通行性が手に取るように分かる作りになっている。原作で言われているように「互いに対する熱量が、みぞれと希美ではまったく違う」(『響け! ユーフォニアム 2 北宇治高校吹奏楽部のいちばん熱い夏』、267ページより)ということを、観客に見せつけてくる。

冒頭に出てくる「disjoint」の文字。これは数学でにおける「互いに素」の意味であり、「disjoint sets」となると、重なり合う部分のない、つまりA∩Bとなる部分がない2つの集合のことを指す。映画の前半は、希美とみぞれの、常に近くにいるようでなかなか重なり合わないdisjointな関係を描き出している。

しかし、北宇治高校吹奏楽部のコンクールでの自由曲『リズと青い鳥』をめぐって、2人の関係は緩やかに変わっていく。

リズが青い鳥を鳥籠から解き放つ理由が分からない、鎧塚みぞれはそう語った。しかしそれは当たり前なのだ。みぞれがリズなのではなく、実は青い鳥で、傘木希美こそがリズなのである。リズには羽がなくて、大空を自由に飛び回ることなど夢のまた夢で、町の外れの小さな家で、地べたに這いつくばって生きていくことしか出来ない、ちっぽけな存在。だからこそ、自分が望んで止まなかった羽と自由を持つ青い鳥に、自分とは違う幸せを掴んでほしいと願い、リズは鳥籠を開けるのである。それは単に、青い鳥のことを思ってそうしたという以上に、青い鳥に対する嫉妬や羨望や、籠に閉じ込めておきたいという黒い願望、そして、自らの境遇に対する嘆きと悲しみ、その先にある諦め、そういったものを全て乗り越えた先に、青い鳥を解き放つという行動があるのである。

みぞれがリズの気持ちを理解できないのは、みぞれには羽があるからである。希美とは違い、音楽を駆使して遠くの世界まで飛び立つことのできる天賦の才能があるからである。しかし、これは希美にとっては、とてつもない痛みと苦しみをともなう残酷な事実である。

進路を決めかねていたみぞれに新山先生が音大への進学を進めてくる。みぞれが持っていた音大のパンフレットを見て、一気に表情が曇り、とっさに自分も音大に行くと言ってしまう希美。新山先生も酷いものである。みぞれには自分から音大行きを進めたくせに、希美が音大行きたいと言ってきても塩対応。まあ、担任でもないのに生徒からいきなりそんなこと言われても困るだろうけど。とにかく、そんな事を通じて希美はみぞれとの才能の差をまざまざと見せつけられていきます。

新山先生との面談を通してようやく自分の演奏を確立したみぞれは、全体練習でその才能を希美に見せつける。今までとは別人のように堂々と感情豊かにオーボエを吹くみぞれと対照的に、希美のフルートはみぞれの迫力に押され気味で今にも消え入りそうな弱々しい音。演奏後、部屋を飛び出して一人で泣く希美。この瞬間こそが、彼女にとっての決定的な敗北の瞬間であり、同時に彼女は、みぞれと並び立つという夢を諦め、みぞれを籠から解き放つと決めたのだ。

希美にハグしながら好きなところを次々に語っていくみぞれ。一方の希美は、喉の奥から絞り出すように一言だけ「みぞれのオーボエが好き」と答える。毎日一番近くで聞いていた音、でもそれは、どんなに手を伸ばしても届かない、聞くたびに自分の才能の無さを思い知らされる残酷なオーボエの音。それでも希美は、自分の中にある嫉妬や、無力感や、焦りや苛立ちや、挫折感や絶望感や、その他あらゆる感情を心の中にしまい込んで、その音を「好き」だと言うのである。

映画の前半で希美は吹奏楽部の練習が好きだと言っていたが、おそらく彼女は、吹奏楽部での部活動、そして音楽そのものを嫌いになってしまう瀬戸際まで来てしまったのだろう。もちろん希美も演奏が下手なわけではないが、みぞれと比べれば差は歴然であり、音大からのスカウトとかも箸にも棒にも掛からない状況。みぞれには、希美にはない天賦の才能があり、おまけに、音楽のために他のすべてを犠牲にする覚悟がある。そしておそらく、原作でも映画でも詳しくは触れられていないが、みぞれは家族や周りから期待され十分な経済的援助を受けて音大に行けるのに対して、希美の家は娘を音大に送り出すのは少し厳しいかもという感じだろう。このまま神経をすり減らしながら希美がみぞれと同じ道に進んでいたら、希美は遠くない未来に音楽が嫌いになっていただろう。だからこそ、希美はここで諦めて、大空に別れを告げ、別の道に進むことを決意したのだ。それは、後ろ向きな理由ではなく、この大地の上に堂々と立って、未来に向かって歩いていくために諦めたのである。

一方のみぞれもまた、希美とは異なる道を歩み始める。剣崎梨々花をはじめとする同パートの後輩と仲良くなったのが、その端緒だろう。クライマックス、図書館で本を借り、みぞれは音楽室へ、希美は図書館の机へと、別々の道に進み始めたのが、2人の関係性の変化を最もよく表しているシーンだろう。

一連の出来事を通じて絆を深めた2人は、「disjoint」ではない、A∩Bとなる部分を持つ「joint」な関係になったのだ。だが、それは2人が完全に重なり合っているという意味ではなく、多くの重なり合わない部分も当然存在しているのだ。みぞれが希美に向ける感情と、希美がみぞれに向ける感情には違いがある。みぞれは大空を自由に飛べるが、希美は飛べない。みぞれには才能があるが、希美には無い。2人はこれから、別々の大学に進み、別々の人生を歩みだす。

だが、それでも、2人の人生は時々重なり合う。エンディング曲を聞きながら、私はそう確信していた。

最近読んだ本まとめ(3)―『がん消滅の罠 完全寛解の謎』『人間の測りまちがい 差別の科学史』『真実の一〇メートル手前』

※本の内容に関するネタバレがありますのでご注意ください。

がん消滅の罠 完全寛解の謎

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)

まさか一般向けのミステリー小説でがんの術中散布説が出てくるとは思わなかった。これは、腫瘍を外科手術で除去する際に一部のガン細胞が血中に流れ出てしまい転移を引き起こすことがあるのではないかという説で、現在はあくまでも仮説にすぎないものである。しかし、がんの転移という現象が外科手術という人為的な操作によって引き起こされるかもしれないという情報を冒頭に入れることで、がんの進行を自由自在にコントロールするトリックの存在を読者に示唆している。

さて、ストーリーはこのがんの進行をコントロールするトリックの解明に焦点が移っていくわけだが、その一つは、免疫抑制剤を利用したものだった。ある患者に他人由来のガン細胞を注射すると、通常は免疫系が働いてそのガン細胞は増殖しないが、同時に強力な免疫抑制剤を投与すると、免疫系が働かなくなり全身にがんが転移したように見える。その後、免疫抑制剤の投与を止めればがんは免疫系によって除去されていくという仕組みだ。なるほど筋は通っている*1。 しかも、やはり作品冒頭に、マウスを使ったがん研究の方法に関する説明がなされており*2、トリック解明に必要な情報はあらかじめ読者に提示するという推理小説の原則もきちんと守られている。

また、作中で示されるがんの進行をコントロールする方法がもう一つあって、そちらもなかなかに考え抜かれた驚くべきトリックであった。この作品の真に驚くべきところは、そういったトリックが何ら荒唐無稽なものではなく、現在の科学技術を駆使すれば十分に実行可能であるという事だろう。しかし、すでに医療関係者がブログで述べているように(例えば、岩木一麻「がん消滅の罠 完全寛解の謎」(ネタバレ注意):北品川藤クリニック院長のブログ:So-netブログ)、「他人由来のガン細胞が生着するほど強力な免疫抑制剤を利用してそれがばれないというのは不自然」「がん細胞を注射しただけで通常のがん転移と同じような広がりでガン細胞が見えるようになるのか疑問」といった指摘もされており、ツッコミどころが全くないというわけではない、という事は公平のために記載しておく。

作中では最後に、さらに研究を進めてこのトリックを応用すれば、任意の人の任意の臓器にがんを発生させることも、それを増殖させたり寛解させたりすることも、自由自在に行えるようになるだろうと示唆されている。これは考えてみれば実に怖ろしいことである。ある生物学者は著書の中で「我々は結局、生命の有り様をただ記述する事しかできないのだ」という趣旨のことを述べているが、そんなナイーブな認識が許される時代はもう過ぎた。私たちはすでに、生命現象をコントロールし、他の生物や人体を改変することができる、使い方によってはとても怖ろしい力を手にしている。その力は我々人類が制御することのできない、まさに「がん」のようなものだ。

そして、その力は人の心でさえも変えてしまう。作中のトリックを考案した全ての元凶である西條先生の当初の目的は、娘を殺した犯人を見つけ出し復讐する、そのために政府や警察に影響力を及ぼしたい、というものであった。しかし、困窮した患者にガン細胞を注射し生命保険に加入させることで結果的にその患者を経済的に救うような活動をしていたり、日本の薬事行政や労働政策にまで口出ししたりする姿は、やはり復讐という当初の目的を大きく逸脱しているように思う。これは、他人に自分の人生を翻弄され絶望した男が、逆に他人の人生をコントロールする力を得て、その力に酔いしれていく物語なのかもしれない。

人間の測りまちがい 差別の科学史

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

近代科学が進歩することで古臭い迷信や偏見が打破されより良い社会が実現する、と無邪気に考えている人たちにとてつもない衝撃を与えてくるのが本作だろう。この本を読めば、科学は時として迷信を再生産し、新たな偏見や差別を生み出すことすらある、そして人はある任意のデータから自分にとって都合のいい結論をいとも簡単に導き出すことができる、ということが分かる。19世紀から20世紀にかけて、多くの学者が脳の大きさ、人相、IQなどによって人間の知能を測ることができると考え、それらの間違った仮説に基づいて知能が劣っているとされた人種や民族が差別された。そして、いったんそのようなレッテル貼りが行われると、その結論とは異なる不都合な真実が出てきても、それを都合の良いように解釈して切り捨てていまい間違いが長い時間訂正されないままになってしまう。

例えば、昔の骨相学では、高い地位にいる白人は脳が大きく、アジア人・黒人・貧しい人・犯罪者などは脳が小さいとされていた(実際には、脳の重量は体格などによって変わるし、当時の測定では頭蓋骨から正確に脳の重量を測ることなどできなかった)。ところが、墓から掘り出してきた高い地位にいる人々の頭蓋骨を調べてみると、明らかに犯罪者のそれより小さいものがあった。普通に考えれば人種や職業の違いと脳の大きさには何の関係もないという結論になるはずなのだが、当時の学者は、いや、昔の骨は保存状態も悪いし、それらは死因も違うので単純比較はできない、などと言い訳をして自説の正当性を曲げなかった。

例えば、20世紀前半のアメリカ軍で実施された知能テストでは、アングロサクソン系の白人移民が最も知能が高く、南欧系、アジア系、黒人は低い、という結論が得られていた。一方、アメリカでの生活が長い人ほど知能テストの結果も良いというデータも得られた(つまり、当時の知能テストは英語やアメリカの文化をある程度知っていなければ答えられないものであり、アメリカに来て間もない移民にとって不利なテストであった)。しかし心理学者たちは、より知能がある者はより早い時期にアメリカに移り住み、より知能の劣った者は最近になってからようやくアメリカに移住してきたのではないか、という今では考えられない仮説を述べ、知能テストの不備を認めなかった。

彼らは結局のところ、意識的にせよ無意識にせよ、心の中にある偏見に基づいて調査をし、その偏見の目を通してデータを解釈し、その偏見と合致する結論を導き出したに過ぎない。「先入観はデータの中にもぐりこんで、一巡して同じ先入観へと戻る」(上巻、172ページ)。しかし、何よりも怖ろしいのは、それらの非科学的、いや、もはや犯罪的ですらある研究が、単なる疑似科学ではなく、当時としては最先端の極めて客観的で科学的な研究であると見なされていたということである。

この本を読んで「昔はこのような疑似科学が蔓延し人々が差別されていたが、科学が進歩することで無知蒙昧な言説は否定されよりよい社会が実現した」みたいな感想・結論を出す人がいるとすれば、その人はこの本の内容を全く理解していない、完全な誤読である。真っ当な研究者であれば、この本を読んで自分もここに書かれた研究者と同じような過ちを犯してないだろうか、と立ち止まって考えてみるだろう。

真実の一〇メートル手前

いつも思うのだが、米澤穂信氏の小説は余計な情報がほとんど無く洗練された文章だと感じる。例えば、早坂真理は何故失踪し自殺するほど追い詰められなければならなかったのか、会社の倒産に関して真理は何か法に触れるようなことをしていたのか、その辺りの詳細は一切書かれていない。早坂真理は今どこにいるのか、というただ1点のみに焦点を絞って物語は展開していく。そのような作品構造は、逆に言えば、一言一句全てに何らかの意味があるということであり、どんなに些細な文章でもそれが後々の伏線になっていたりするから、実に唸らされる。例えば、事件当事者の筆跡を調べるために万智がわざと間違えた日付のサインを書かせるシーンがあるが、それより前のページにはちゃんと当日の日付が読者に分かるような文章が入れられている。

このようにミステリーとしての基本を忠実に押さえつつも、根底には一つの大きなテーマがしっかりと存在している。それを一言で言うなら、ジャーナリストという職業が背負う「業」と「矜持」、という言葉に尽きるだろう。何らかの事実を伝えることは、誰かを救う事にもなるかもしれないが、同時に誰かを傷付ける事になるかもしれない。その二重性のことを作中では「綱渡り」と表現されている。全くの偶然なのだが、上で紹介した『人間の測りまちがい 差別の科学史』と本作は、非常に似通ったテーマを持っていると思う。人の目は真実を見ることはできない。自分にとって都合の良いもの、見たいものだけが見える。これは、科学であれ、報道の世界であれ、結局は同じなのだ。例えば、ある物の長さを測るという単純な作業ですら、測定時の気象条件や測定方法の違いによって長さは微妙に変わってくるし、その計測に使うモノサシ自体の目盛にも一定の誤差が存在する。しかし、だからと言って、「結局、科学や報道では真実は分からない」みたいな冷笑を向けるのは、明らかに間違った態度だと思う。真実の10メートル手前で必死に目を凝らして考え抜いた上で、どうやらこれが確からしいと思われる「真実」を世に発表する。そこにこそ、科学者として、ジャーナリストとしての、矜持のようなものが宿るのだ。

まあ、そんなことを万智本人に言っても絶対恥ずかしがって「いや、そうじゃない、自分の仕事はそんな高尚なものじゃない」とか言ってメッチャ反論してくるだろうけど(萌)。

しかし、その反論があながち間違いじゃないかもしれないと読者に感じさせてくるのが、とてもゾッとするのだ。例えば、駅のホームで犯人をおびき寄せるために演技をしていた時、歩道橋の上で推理通りに証拠品が見つかった時、そして『王とサーカス』の後半、少年の安否を調べる事よりも自分の仕事を優先していた時、彼女の胸にジャーナリストとしての矜持に悖る何かが去来していなかったと断言することはできるだろうか。いや、そんな問いに結論を出すことなど誰も絶対にできないだろう。他でもない万智自身が、結論を出せないのだから。これがまさに、米澤穂信作品に潜む強烈な「毒」である。

収録作品の中で白眉と言えるのは『名を刻む死』だろう。隣人を見殺しにしてしまったと思い悩む少年に向かって、珍しく大声で「違う!」と叫び、少年が傷付かないような「結論」を与えようとする万智。その姿はとりもなおさず、彼女が高校時代に経験した少女との別れについて、何度も何度も思い悩み、いまだに結論を出せていないことを物語っている。そもそもこの種の苦悩は、解決することが極めて難しい部類の苦悩だろう。何故ならば、彼らにとっては、その苦悩を和らげる結論を導き出そうとしている自分自身が許せないからだ。これは、救われることがまた新たな苦悩を生み出すという、入れ子のような構造をした苦悩なのだ。改めて、万智が高校時代に感じた衝撃の重たさを見て取ることができる。『王とサーカス』はそれ単体でも読めるが、本作は先に『さよなら妖精』を読まなければ良さが半減するだろう。

*1:私が学生時代に所属していた研究室ではガン細胞株を培養していたのだが、ある時、指導教官に聞いてみた事がある。ここにはヒトの乳がん細胞から作られた細胞株がありますけど、これを誤って飲んだり自分の体に注射してしまったらどうなるのですか?やはりガンになってしまうのでしょうか? もうだいぶ昔の話なので先生の回答がどのようなものだったか詳しくは覚えていないが、たしか、その細胞は他者由来の細胞なので実験者の体内に入ったとしても増殖することはなく安全である、というような話だったと思う。

*2:通常のマウスにガン細胞を注射してもガン細胞は増殖しないが、実験で使うマウスは免疫系が働かないように改良されたマウスを使っているので実験が行える、ただしそのマウスを他の病原菌などから守るために実験は外部と遮断されたクリーンルーム内で行わなければならない、という説明。