新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ラブライブ!』と地理学

無限に見続けられる地図を買ってしまった。

この地図を見てるだけで1日が終わってしまいそうな勢いで、何時間見ていても飽きない。

地図を見て気づいた点は山ほどあるが、特に印象的だったのが、台地と低地の境目に、やたらと神社やお寺が多いということである。

どうしてそういうことが起こるのか、考えられる理由の一つ目として水が考えられる。台地のへりには大地に降った雨水が集まってくるので湧き水などが出やすい。水は清浄さの象徴であり、生命の源でもあると考えられてきたので、そういう場所に宗教施設が作られやすいというのは理解できる。

二つ目の理由として、台地のへりは見晴らしが良いという点が挙げられる。昔は高いビルなどが無かったので尚更だっただろう。神社や寺はその地域の中心となるものであるから、一等地に建てたいという心理も分かる。

ところで、そうした台地のへりに立つ神社の典型例が、秋葉原からすぐのところにある神田明神である。東京23区というのは凄くざっくり言うと、西側が武蔵野台地という高台になっており、東側が低地となっている。秋葉原付近には、その台地が舌状に飛び出した地形がみられる。

下記は国土地理院のHP(https://maps.gsi.go.jp/)で自作した等高線図だが、色が青から黄色・オレンジになるにつれて高度が高くなっていることを示す。地図の右下付近にあるのが秋葉原駅。中央付近に赤丸で囲ってあるのが神田明神である。

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完璧に武蔵野台地のへりにある事が見て取れる。ラブライブで何度も登場したあの階段(正式には明神男坂という)は、低地と武蔵野台地との境目だったのだ。

これはもう、武蔵野台地がμ'sを育てた、と言っても過言ではないだろう。

朝香果林という女

アニメ版ニジガク、二周すると朝香果林の良さが分かってくる。

序盤は、エマといっしょに同好会の復活に向けて動き回る3年生として登場。普段は冷たくて少し怖いイメージすらある果林だが、第3話でかすみんから強奪したコッペパンをちゃっかりエマに分けてあげるなど、エマに対しては優しい一面を見せる。

そして第5話でついに本性を見せる。果林の部屋(意外と散らかってるのがまた良い)でスクールアイドルが載った雑誌を見つけたエマ(雑誌見られて顔赤くしてる果林さん可愛いすぎ)。エマが一緒にスクールアイドルやろうと誘うが、

「無いわよ、興味なんて全然」
「私、読者モデルの仕事もあるし、スクールアイドルやってる暇なんてないの」

いつも手伝ってくれてたから興味あるのかと思ってた、みたいなことをエマが言ったら、

「頑張ってるエマを応援したいと思っただけよ」
「そんな風に思われるならもう止めておくわ」
「もう誘わないで」

うわあ…

こいつ…めんどくせぇ…

振り返ってみれば、ラブライブの3年生は皆めんどくさかった。その中でも一二を争う面倒臭い女が朝香果林なのである。せっかく果林のこと思って誘ってきてくれてるのに、こんなふうに意固地になって反論してくるの、もうヤバいよね…。

そしていよいよ第9話。フェスへの参加が決まった同好会だったが、時間の都合で出られるのは1人だけとなる。周りに遠慮してなかなか誰が出るか決められない部員達。そんな中、果林一人だけが、対立を恐れることなく発言する。

その後、ダンススクールに向かおうとして重度の方向音痴ぶりを発揮する果林さん。そう。ラブライブの3年生はめんどくさい上にポンコツでもあるという伝統がここでも踏襲されている。

で、結局フェスには果林が出場することになるのだが、プレッシャーに押しつぶされそうになった果林さんは本番直前で楽屋から消え、心配してやってきた他メンバーに「ビビってるだけよ」と言い放つ。

果林さん…。あんだけ啖呵切っといて、本番前にこれはカッコ悪いよ…。

でも、その弱さが、人間らしい。

朝香果林は、クールで大人びた自分を演じ続けている人なのだ。いつも冷静沈着でカッコいい自分を演じ続けなければならないという強迫観念。上級生で読者モデルもやってるというプライド。皆の期待を一身に背負い、何としてでもライブを成功させなければという思い。そうしたプレッシャーで心折れそうになった果林は、はじめて他の部員の前で弱さを見せる。

そうして自分の弱さを曝け出し、大切な仲間の存在を意識することで、果林はようやく、なりたかった自分へと近づくのである。そこには、「在りのままでいい」なんて綺麗事は存在しない。勇気を出して一歩を踏み出せば、どんな自分にでもなれる。それこそがシリーズ全体を貫く大きなテーマ。

メインで活躍した回が2回(第5話と第9話)くらいしかないのに、この内面の掘り下げ方は凄くないか? 本作では侑ちゃんはずっと聖人君子だったし、かすみんは最初から最後までウザかったけど、それが一種の個性として機能していた。ところが、果林の場合は、とても一言で言い表せない、深みのあるキャラクターとして描かれていたように思う。

2期でどういう描かれ方をするのか、今から楽しみでならないですね。

『SSSS.DYNAZENON』とYoutuber文化

『SSSS.DYNAZENON』第6話は、いわゆるYoutuber的なもの、仲間内で盛り上がるネタを投稿して再生数を稼ぐ行為に対して、極めて示唆的な描き方をしているように思います。
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またこれは、同じTRIGGER製作のアニメ『SSSS.GRIDMAN』第4話におけるYoutuberの描かれ方と通じるものがあります。
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そこには、昨今のYoutuber文化のような物への批判的姿勢があります。要するに、Youtuber的な「ノリ」がいじめやセクハラ等と表裏一体のものであることが、しっかりと描かれているのです。

その直後に教室でクラスメイトの女子2人にいじられる蓬くんを描くのも非常に示唆的だと言えます。
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蓬くんは笑っているけれども、これだって見ようによってはいじめに近いものだと捉えることもできるわけです。いじめかそうでないかの線引きはとても曖昧で、簡単に決められるものではない。だからこそこの問題は難しい。

これはとても現代的でチャレンジングなテーマであるように思うけれど、これが本筋のストーリーとどのように関連してくるのか、後半がとても気になる。

『スーパーカブ』第6話のプロぼっち精神

スーパーカブ』第6話、鎌倉への修学旅行当日に発熱し欠席となった小熊ちゃん。結局、すぐに平熱に戻り、なんと、自分のスーパーカブで鎌倉へ向かうというとんでもない行動に出る。時折礼子に電話をかけながら鎌倉を目指す小熊だったが、一方そのころ礼子はというと…

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バスの車内、礼子だけ一人で座ってる…
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鎌倉の大仏に来たのに、周りにクラスメイトが誰もいない…

おい、スタッフ! これ絶対わざとやってんだろ!

やべえよ…やべえよ…。礼子さん、完全にぼっち状態じゃねえか…。ていうか、もし小熊がカブで駆けつけて来なかったら修学旅行の間ずっとぼっちだったって事だよね、これ。

ところが礼子さんは一切気にしてない様子。そりゃそうだよな…。夏休みにバイク改造して富士山に突撃するようなヤベー奴だもん。クラスメイトからどう思われようが気にしないのだろう。

そんで小熊ちゃんが合流し旅館でくつろいでる時には、

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旅館の部屋、奥にいる同室の子たちとは話す素振りすらなし
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露天風呂、やはりクラスメイトは誰もいない…

もうこの一連のシーンだけで、ああ、この子たちクラスで浮いてるんだっていうのが分かる。

でも、この子達にとっては、クラスメイトからの目とかどうでもよくて、ただ自分の好きなことを貫き通してるこの時間が最高なんだな、と思う。

これは『宇宙よりも遠い場所』と同じ構造ですよね。第4話の「ざまあみろ」と言う台詞を聞いて、その共通点に気付いた人は多いと思うけど。

それだけに限らず、最近このテーマはトレンドじゃないですか? 例えば『ゆるキャン△』。シマリンもなでしこも、一人でキャンプをすることを恥ずかしいとは一切思ってないし、寂しいとも思ってない。彼女たちにとっては、1人だろうが何人だろうが、ただ自分の好きなことを一生懸命やってるだけなんですよ。

例えば、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』。メンバーは同じ同好会に入っていても目指す方向性もやりたい事もバラバラ。でもそれが悪いことだとは考えず、皆が時には協力し、時には自分一人で、やりたいことを貫いていく。

これらのアニメに共通しているのは、自分が本当にやりたい事をやろうとする時、人は孤独なのだということをしっかりと描いていることですよね。そして、そんな風に孤独と向き合った先で出会う、共通の趣味や目標を持った同志というのは、普通の友達とは全然違う特別な関係になるんだということも、しっかりと描かれる。

見事としか言いようがないですね。仕事が忙しくてなかなか本を読めない日々が続いていますが、是非とも原作小説も読んでみたい。

『氏名の誕生』が面白い

尾脇秀和著『氏名の誕生』、想像以上に面白かった。

現代に生きる我々は、自分達の名前は姓(ファミリーネーム)と名(ファーストネーム)がセットになって構成されていて、それが古代からずっと続いてきたものだと考えている。しかし、江戸時代、武士達の名前はだいたい以下のような感じだった。

  • 水野 越前守 源 忠邦
  • 大隈 八太郎 菅原 重信
  • 西郷 吉之助 藤原 隆盛

現代人からしたら「は?」という感じである。このうち、前半2つだけが日常的に使われる名前で、後半2つは正式な書面に押印する時などしか使わないものだった。なんでこんな事になってしまったのか、そして、明治以降どのような変遷があったのか、本著ではこの経緯が丁寧に解説されていく。

まず、ややこしいので名前の要素を4つに分けよう。

  • ①水野 / ②越前守 / ③源 / ④忠邦

本当は③のうしろに朝臣(あそん)などの敬称が入る場合もあるが、ややこしいので省略する。

そもそも平安・鎌倉時代、日本人の名前は③④だけから成っていた。藤原道長紀貫之菅原道真源頼朝とかいう有名な名前も全部このタイプである。その名前の前に、○○守とか、○○大臣、ナントカ納言といった敬称、要するに天皇から与えられた役職名を付けるようになった。日本には昔から、位の高い人物の名前を直接呼ばないようにする習慣があったため、この敬称(②)が、名前のような使われ方をし始める。ところが、例えば同じ藤原姓で同じ役職の人間が複数いては実に紛らわしい。そのため、居住地・任官地などをさらに前に付けて区別するようになった。これが称号と呼ばれるもの(①)であり、我々が一般的に苗字と呼んでいるものの始まりである。

戦国時代になって朝廷の力が衰えると、誰彼構わず「我は○○の守である」などと自称し始めたが、徳川幕府が成立すると「さすがにそれはヤバくね?」ということになり、幕府が武士の名前を一元管理するようになった。大名など位の高いものは「○○守」など、より位の低い武士なら例えば浅野「内匠頭」、吉良「上野介」というように、朝廷が形式的ではあるが役職を与え、それが彼らの名前として機能した。この時代、「名は体を表す」というのが当たり前だった。

そして当時、武士は、幼少期⇒青年期⇒朝廷から許された官職名、というふうに改名を重ねていくのが当たり前だった。だから教科書でよく出て来る水野忠邦も、幼名は於菟五郎と呼ばれ、その後何度か改名があり、老中の頃は越前守だったのである。忠邦という本名が日常生活の中で使われることは基本無い。いや、当時はどっちが本名かという認識すら無かっただろう。この人の名前は「水野 越前守」であり、他に③④がある、みたいな認識だった。ちなみに④のことを名乗(なのり)と言い、これは親などによって付けられるものではなく、占い師の助言などを受けて自分で付ける名前である。つまり、子どもの頃には④は存在しない。当時は、あくまでも成長や出世とともに変化する②が名前だという認識なのである。

一方、官職名を付ける事を許可されない下級武士なども「官職風」の名前を付けた。なので、平安時代には存在しないインチキ官職名が無数に存在していた。そういった風習は庶民にも取り入れられ、~衛門、~助、~兵衛など、語尾に官職風の漢字を入れ、「~」のところに個人の趣味や語呂に合わせて名前を入れるのが当たり前になった。この頃、官職とは関係ないが、生まれた順番を示す太郎・次郎・三郎などの名前も広がり、②の一種とされるようになった。当時の一般庶民からしたら、普段使うのは②だけ。①は知っていても普段はほとんど使わない。③にいたっては全く分からない、④などそもそも設定しない、ということが多かった。

つまり、①②こそが名前の実体であり、③④は何かよくわからない、というのが江戸時代の大半の人々の認識だったのである。

こういう状況で明治維新を向かえると、新政府に担ぎ上げられた公家集団は昔ながらの③④を重視しようとした。ところが、庶民も士族も、①②の組み合わせこそが真の名前だという認識のもとでずっと暮らしてきた。この認識の齟齬によって明治初期に大混乱が発生するのである。体制の変更によって名前を何度も変えさせられた者、江戸時代に付けていた名前を無理やり変えさせられた者などが出てくる。政府としては、国民を管理するために各人の③④を把握しておきたい、けど、「いやそもそも俺、名乗とか知らねーし」みたいな事例が続出する。もうしっちゃかメッチャかの事態。その内容は本著に詳しく書かれている。

そうした中、「もう官職風の名前(②)と名乗(④)を分ける意味なくね?」という声があがる。そして、人の名前として、まず姓として①を使い、下の名前は②か④どっちを使っても良い、というルールになった。大久保利通西郷隆盛伊藤博文などは①④の組み合わせ、板垣退助小村寿太郎などは①②の組み合わせである。そして、一般庶民も苗字の使用が義務付けられ、多くの人は昔から家に伝わる苗字を採用したが、自分の名字が分からない者はこの時新たに苗字を創設した(当然ながら、庶民には④など馴染みの薄いものだったから、多くの国民が①②の組み合わせを選択した)。これが、明治期に起きた名前の一大変革である。

こうしてみると、日本人の名前というあまりにも身近なものに対して、自分がいかに何も知らなかったかがよく分かる。まさに目から鱗の読書体験だった。