新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

世界は不公平だ。それでも頑張る意味はある。―『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』

デジタル大辞泉の解説
こうへい【公平】 すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。また、そのさま。

大辞林 第三版の解説
こうへい【公平】 かたよることなく、すべてを同等に扱うこと(さま)。主観を交えないこと(さま)。

精選版 日本国語大辞典の解説
こうへい【公平】 判断や行動が公正でかたよっていないこと。特定の人のえこひいきをしないこと。また、そのさま。くびょう。

公平(コウヘイ)とは - コトバンクより引用。)

本記事の概要

  • ほぼ全ての人は、「努力すれば能力はその分上がっていく」「能力が上がればそれが正しく評価される」という「公平性」が世界に存在しているという信念(公正世界信念)を持っている。『ユーフォ』で描かれる登場人物の苦悩は、自分達が信じている世界の公平性が実は存在していないかもしれない、という不安や絶望から生じるものである。
  • 公正世界信念というものは、強すぎても弱すぎても、人は健全に成長することが出来なくなる。また、努力や才能といった曖昧な概念を比較検証することは不可能に近いので、何が「公平」なのかについて考えていっても答えは出せず、ただ神経をすり減らすだけで終わってしまう可能性が高い。
  • 『ユーフォ』の登場人物は、「努力が報われない」「正当に評価されない」という経験をし、世界は公平ではないという事実を思い知らされて絶望した過去がある。しかし、たとえ世界が公平でなくても、自分の努力は決して無駄ではない、というふうに発想を転換することで、過去のトラウマや絶望を乗り越える、というのが『ユーフォ』の基本構造である。

公正世界信念について

響け!ユーフォニアム』シリーズについて考える上で「公正世界信念」というキーワードは欠かせないものだと思います。だいぶ前置きが長くなりますが、まずはそこから説明した方がいいでしょう。

人は、それが良いものであれ悪いものであれ、何らかの「結果」には必ず「原因」があると考えています。そして、人が受ける幸福や不幸のようなものにも、何らかの整合性のある「原因」があるはずだ、と考えてしまう生き物なのです。

例えば、「この人は若い頃に遊んでばっかりいて真面目に働いてこなかったから、今こうして貧しい生活をしてるんだ」「あの人は若い頃に努力していっぱいお金を稼いだから、今こうして良い家に住んでるんだろう」みたいな感じで、この人がそういう状況にいるのにはそれなりに納得できる理由があるはずだ、と考えてしまう。

これがさらに行き過ぎると、「あの人は前世で悪い事をしたから、この世ではこんな不幸な生活を強いられているんだろう」みたいな話になる。悪い事したら後でばちが当たるぞ! 良い子にしてないとサンタさんはやってこないわよ! アイツはとんでもない奴だから、いつか他人から愛想尽かされて不幸になるだろう! 映画の入場特典でなかよし川バージョンを引き当てられたのは、これまで真面目に働いてきたご褒美に違いない!神様ありがとう!

こういう思考パターンは、普段意識していなくても、私たちの心の中に怖ろしいほど深く根付いている。その最たる例が、努力(才能)と能力・評価の関係性に関する考え方。努力を続けていれば自分の能力は必ず上がっていき、今できないことも将来できるようになる! そして、努力して能力を高めていけば、それは必ず正当に評価されて、今よりも幸せな生活を送ることができるようになる! …というように、努力すれば誰でも「公平に」能力が上がり、能力が上がれば誰もが「公平に」それに見合った評価を受ける、世の中はそういうふうに「公平に」できているんだ! という思考パターンが我々の頭の中に存在しているわけです。

ところが、実際の世界は決して公平ではないという現実がある。上の例で言うならば、「若い頃怠けてたから貧乏」「頑張ったから裕福」なのではなく、ただ単に「持病のせいでまともな職につけず、かつ、そういった人を救済する社会制度も拡充していなかったので、貧乏になってしまった」だけかもしれないし、「特に努力もせずに親から譲り受けた金で裕福な暮らしをしてる」だけかもしれない。そもそも人の人生なんていうものは、生まれた時代や性別、人種、人体的特徴、親の教育方針、自然災害、病気、交通事故など、個人の努力ではどうすることもできないものでガラリと変わってしまう。

現代という時代は、「世界は公平である」という誤解が蔓延りやすい時代なのかもしれない。ほんの数百年前まで、乳幼児死亡率は今と比べ物にならないほど高く、運よく大人になれても結核などの感染症で人は容易く死んでしまう時代だった。ところが、医学の進歩とともに人の寿命は延び、それと同時に産業革命と社会の資本主義化が進んだことで、世界は豊かになった。そうなってくると、自分の人生は自分でコントロールできる、努力次第で何にでもなれる、という気持ちが芽生えるのも無理はない。

しかし実際には、人間は成長するにつれて「世界は依然として不公平である」という事実を思い知らされる。心の中で信じてきた「努力→能力→評価」という関係性=世界の公平性がガラリと崩れ落ち、自分の努力は本当に報われるのだろうかという不安や、どうせ何やっても救われないんだという絶望感に襲われたりする

『ユーフォ』の登場人物もまた、そうした「努力は報われないかもしれない」という不安や絶望の中にいる人として描かれる。例えば、傘木希美。同時期に吹奏楽を初めて同じように努力してきた鎧塚みぞれと傘木希美だが、圧倒的に実力があるのはみぞれの方で、音大に行くことを進められるほど。じゃあ自分は一体何なんだろう? 本人の力ではどうすることもできない無力感に襲われているからこそ、映画『リズと青い鳥』で希美は「みぞれはズルいよ」と言うのである。

例えば、中世古香織。1年生の頃からトランペットで部内No.1の実力者だったけれど、上級生を優先する部の方針もありソロは吹けなかった。3年生になり滝先生が着任すると部の方針は変わったが、今度は高坂麗奈にソロの座を奪われてしまう。彼女もまた、年齢(高校に入学した年度)という、個人ではどうにもならない高い壁に阻まれ、努力が報われなかった人だと言える。

『誓いのフィナーレ』で言うならば、本番直前に顎関節症になり結局3年間で一度もコンクールメンバーになれずに引退した加部友恵も、そういう人物として描かれている。

「努力」の量を測ることの難しさ

ところで、ここまで読んできた方なら容易に想像つくと思いますが、この「公正世界信念」というものが強すぎる、つまり「世界は公平であるに違いない!」と信じ切ってる人は相当ヤバい奴です。こういうタイプの人間は、自分に実力があり周りから評価されているのは、自分が誰よりも努力して腕を磨いてきたからだと信じ切っている。なので、今自分が評価されているのは、もちろん本人の努力もあるのだろうけど、運や周りのサポートがあってのことだという事実を忘れがちになる。また、自分より実力のない者は、単に努力が足りなかったのがいけないんだ、という思いやりに欠けた思考に陥りがちになる。逆に、自分が評価されなかった場合には、焦って「もっと努力しなければ」という方向に思い詰めてしまう。『ユーフォ』シリーズで言えば、麗奈や佐々木梓には、これに近い危うさのようなものがあります。

一方で、この手の信念が全くない人というのも、それはそれでマズいという事も容易に想像できるでしょう。だって、努力したって無駄!仮に実力があったとしてもそれがちゃんと評価されるとは限らんし…みたいな発想になっているので、実際にその人は努力しないだろうし、したがって成長することもできなくなる。滝先生が着任する前の全然やる気がなかった中川夏紀先輩は、このタイプに近いかもね。

ようするに、両極端なのはいかんよ~、という話なのだけれど、『ユーフォ』という作品はそこからさらに一歩進んで、そもそも公平かどうかなんて簡単には決められないよ、という視点が入ってくるのである。

例えば、黄前久美子は努力している、夏紀先輩も同じくらい(もしかしたらそれ以上)努力している。それでも、2年生の時、コンクールメンバーに久美子は選ばれて、夏紀は選ばれない。この世は、同じように努力しても一方は報われ、もう一方は報われない、そういう不公平な世界なのか? そういうふうに捉えることも出来るけど、本当にこの2人の努力量は同じか? 夏紀は高校に入ってからユーフォを始めたけど、久美子は小学生の時からずっとユーフォを演奏している。努力というものを人生のトータルの練習時間で捉えるなら、久美子だけが選ばれるのはやっぱり公平なことなのだという風にも考えられないか?

鈴木美玲と鈴木さつきのエピソードもまた、典型的な公平さにまつわるエピソードです。美玲は短時間で効率良く練習を進めるタイプで、自主練で放課後遅くまで残るようなことはしない。さつきは、先輩と一緒に遅くまで練習しているから、実力は美玲より下だけど先輩から好かれてるし、すごい努力してる良い子って思われがち。それが美玲にとっては凄く面白くない。心に積もり積もった不満がサンフェスの日に一気に爆発し、泣き出してしまう。

努力の量を測る上で時間というものは最も分かりやすい判断基準。だから、さつきの方が努力してると評価されがちだけど、その時間をどう使ったかも大事な要素。作中で滝先生が言っていたように、ただ漫然と演奏しているだけでは駄目で、いかに集中して効率よく練習するかということが重要。だからこそ、さつきの方が先輩から好かれているという事実に、美玲は納得がいかない。

でも、これをさつきの視点から見たらどうなるだろう。「みっちゃんは私や葉月先輩より全然練習してないのに実力があって本当にズルい。おまけに奏ちゃんや久美子先輩と仲良くなって私の悪口言ってるらしいじゃん、ホント最悪マジ何なのアイツ!」 もちろん、さつきが本当にこう思ってるというわけではなく、あくまでもこんな感じに関係がこじれてしまう可能性もあったという話です。

「公平」の反対が「不公平」なのではなく、各々の心の中に、各々が思い描く「公平さ」があるだけなのです。

どっちがより努力してるかなんて誰にも分からない。同じように、「才能」というものも簡単に比較できるものではない。才能とは何かと考えた時、多くの人は、少ない努力で多くの成果を上げられる場合に「あの人は才能がある」という言葉が用いられる、と考えます。しかし、上で見てきたように、その努力という言葉はとても曖昧な概念でした。だとしたら、努力という言葉で表現される才能という言葉もまた、すごく曖昧で漠然とした何かです。希美は「自分は才能がない」と嘆きますが、「それって本当なの?」「そもそも才能って何よ?」という疑問はずっとずっと付きまとってきます。

何が「公平」で、何が「不公平」なのか

【注意】 この先、『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』のネタバレがあります。見たくないという人は「ネタバレ部分終了」と書かれた場所まで飛ばしてください。

さて、ここまでは、努力・才能というものをどう測るかという話でしたが、先日発売されたばかりの『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』では、各人の能力をどう評価するか、その評価は本当に公平なのか、という視点が入り、話がどんどん複雑化していることが分かります。

久美子が3年生になり、釜屋すずめが入部してくる。彼女はチューバの初心者ではあったが、どんどん上達して1年生でありながらコンクールメンバーに選ばれる。一方、2年生になった鈴木さつきはすずめより演奏は上手いにも関わらず、何故かメンバーには選ばれない。久美子が滝先生に何故かと問うと、滝先生は「すずめの演奏はもちろん課題も多いけど、彼女はきれいな音を維持したまま音量を出せるという長所がある。彼女の欠点となる部分も、今年の選曲であれば、あまり問題にはならない」というような事を言う。つまりこのエピソードは、綺麗な音を正確に出すことだけが「実力」なのではなく、音量とか、選曲との相性など、様々な要素が複雑に絡み合って「実力」というものが判定されるということを示している。

また、福岡の高校からユーフォニアムの実力者である黒江真由が編入してきて、久美子は強い焦りを覚える。京都府大会のソロパートの座はなんとか久美子が獲得したけれど、部内では「今年転校してきた真由なんかより久美子部長の方がソロを吹くべき!」みたいな空気があることを久美子自身が感じ取ってしまう。自分は実力があったからソロに選ばれたのではなく、そういう部の空気を滝先生が忖度してソロに選ばれたのではないか…。そういう不安が久美子を苦しめていく。

『誓いのフィナーレ』も含め、これまでのエピソードはずっと、滝先生の判断は絶対的に正しいという前提のもとで進んできた。ところが、その顧問の判断ですらも、絶対的な物ではないということが『最終楽章』では描かれていくのです。

『最終楽章』のネタバレ部分終了

こうした事例は、もちろん学校の部活だけに限る話ではない。この社会のありとあらゆる場面で、似たような事例が出てきます。

アテネ五輪前の選考レースで高橋尚子は日本人トップとなったが、オリンピック代表に選ばれたのは別の選考レースで結果を残した他の3選手で、前回大会金メダルという高橋の過去の実績は考慮されなかった。一方、北京オリンピック前の国内大会で谷亮子は破れたが、過去の実績が評価されてオリンピック日本代表に選ばれた。これらの事例に対して公平か不公平か判断することなどできるだろうか。結果から言えば、アテネ五輪女子マラソンでは野口みずきが金メダル、谷は北京で銅メダルだった。結果が良ければ選択が公平だったということになる? もし結果が逆だったら、公平・不公平の判断も逆になる? そんな単純なものではないだろう。

クロスカップリング反応の開発の功績によりリチャード・ヘック根岸英一鈴木章ノーベル化学賞を受賞したが、この分野では彼ら以外にもたくさんの研究者がいて、偉大な業績を残している。ノーベル賞の同時受賞は3人までと決まっているが、何故この3人だったのか。彼らと彼ら以外を分けたものは何だったのだろう(なかには、受賞時にすでに亡くなっていて受賞を逃した人もいたかもしれない)。iPS細胞の論文を山中伸弥と共同で書いた高橋和利は、何故ノーベル賞を貰えなかったのだろう。高橋は山中の助手だったから貰えなかったのか? でも、天野浩は赤﨑勇の助手だったけどちゃんと2人ともノーベル賞を貰っているけど…。選考委員の判断について色んな人が色んな推察をしているけれど、本当の真実を受賞者や候補者が知ることはできない。ノーベル賞の選考過程が公開されるのは、受賞から50年後と決まっているから。

単純な組み合わせの問題を考えれば、不確定要素の数がn個増えると、世界の複雑さは2のn乗倍に膨れ上がります。何かを評価する時の判断基準は一つではない。どちらががより努力してるかなんて簡単には決められない。何をもって「実力」と言うかも、時と場合によって変わる。評価する側が常に正しいなんていうことも有り得ない。これだけ多くのファクターが複雑に絡み合っている中で、何が「公平」で何が「不公平」かなんて、そもそも決めること自体無理じゃね?っていうことです。

そういう状況下で、「あれは公平だ、正しい」「これは不公平だ、間違ってる」と言ってまわることに一体何の意味があるのだろう。もちろん、世界には理不尽で正義に反することも存在していて、それは改善されなければいけない、というのもまた事実。でも、上で述べたようなもっと曖昧なケースで、各個人が好き勝手に公平か不公平かを判断していった先に、一体何が残るというのだろう。そういう状況で公平性に固執するということは結局、人と人との対立を深め、自分の中に負の感情を溜め込んでいってしまうだけではないだろうか。

「頑張るって何ですか?」

では、公平さをめぐる袋小路的状況を打破するには一体どうすれば良いのでしょう。その答えを『誓いのフィナーレ』は見事に描いていると思います。

まず、第一歩目として、自分の心に築かれた公正世界信念がいったんボロボロに崩れ去る経験が必要なのではないでしょうか。これまで自分は努力すれば絶対に成功すると思ってきたけれど、実はそうじゃない。努力して報われる人もいればそうでない人もいる。実力が正しく評価されるとは限らない。世界は、怖ろしいほどに不公平だ…。希美も、香織も、加部ちゃん先輩も、みんなこういった真実を思い知らされ、世界に絶望した人として描かれているのです。『ユーフォ』に出てくる一人ひとりが、過去に同じように絶望を味わったのだと思います。例えば麗奈は、中学時代に自分一人だけが頑張っても全国大会には行けない、という事実を嫌というほど思い知らされています。そして『誓いのフィナーレ』の裏主人公とも言える久石奏も、中学時代に後輩でありながらAメンバーに選ばれ、後で陰口を叩かれたという経験を通して、世界に絶望している人として描かれます。

で、次のステップとして、そもそも公平か不公平かなんて考えだしてもきりがないですよ~、という事実に気付くことが必要だと思います。折しもイチロー選手が引退会見の時、「自分が他人より努力してきたかなんて分からない。あくまでも秤は自分の中にある」という話をしていましたが、まさに、他人と比較するのではなくて、自分が納得できるかどうかの方が大事なんだよ、ということなんですね。自分の方が努力してるのに評価されなくて悲しいと言って美玲が泣き出した時、久美子は彼女を立ち直らせるために巧妙に論点をずらしています。いや~そんなことないよ~、みんな美玲ちゃんのこと大好きだよ~。美玲ちゃんだって、自分から歩み寄っていけば先輩とも仲良くなれるはずだよ~、まずは皆から「みっちゃん」って呼んでもらうようにしようか。…この回答に奏は不満顔でしたが、美玲にとってはこれが最適解。答えの出ない問題を延々考えていた美玲の思考はリセットされ、美玲は次第に周りと打ち解けていきます。

そして、最後のステップとして、努力しても結果が出ないかもしれない、どんなに頑張っても報われないかもしれない、たとえそうだとしても、努力することに意味がある、という風に自分が納得できれば、その人は救われるのではないでしょうか。作中、ふてくされた奏が「結局、実力があるかどうかじゃなくて、皆が納得できるかどうかの方が大事なんでしょ」と久美子に詰め寄っていましたが、奇しくもこの「納得」というのが重要なキーワードです。

では、どうやって人を納得させるかという話になるんですが、これはもう方法は人によってバラバラとしか言いようがありません。最もよく使われるレトリックは、努力すれば報われるかもしれないけれど、努力しなかったら100%報われないですよ、というものですよね。それ以外にも、例えば、自分が努力してやれるだけのことをやりきれば、たとえそれで失敗しても後悔はしない、というのも挙げられます。田中あすかが退部するのを引き止める時、久美子は「後悔するってわかってる選択肢を、自分から選ばないでください」と叫んでいますが、まさに、このレトリックだったというわけです。

そして、奏を救うために久美子が使っているのは、「あなたがかつて置かれていた状況と今の状況は全然違うんですよ」という説得方法なのです。確かに中学時代のあなたは大変辛い思いをしましたよね。ぶっちゃげ私も、あなたの努力が報われるかどうかなんて分かんないし、それは誰にも分かりません。でも、これだけは確実に言えます。あなたがいた中学と北宇治とでは、状況が全く違います。部員の意識も、部の方針も、練習環境も、何から何まで違うのはあなたも分かってますよね。だから、中学時代に努力が報われなかったからといって、それがここでも同じだとは限らないですよね。もしかしたら上手くいく可能性だってあるじゃないですか。ほら、努力してみようって思ってきたでしょ?

これを見事な正論と見なす人もいれば、ただの屁理屈、言葉のあやだと見なす人もいるでしょう。でも、一番大事なことは、この言葉を聞いて奏が納得できるかどうかではないでしょうか。そして、奏が本当にそれで納得できたのであれば、ただ単に「努力すれば報われるから努力する」(公平世界信念の世界)ではない、もっと高いレベルの覚悟と決意をもって頑張ることができるようになります。

「悔しくて死にそうです!」

実は、上で述べたような発想の転換を国家レベル・民族レベルでやってしまったのが、ドイツやイギリスやアメリカだということになります。

カトリック教会が強い権力を持っていた時代、人々は、神の教えに従って正しく生きていれば天国に行ける、と信じていました。だから、教会の言うことは絶対ですよ~、教会に逆らったりしたら駄目よ~、ということで腐敗が進み、それが宗教改革の要因となりました。宗教改革の後、カルヴァン派が生まれ、予定説というものを唱え始めました。その概要は次の通りです。

「は?この世で良い事したら天国に行けるとか、そんな訳ねーじゃん。神様が何を考えてるかなんて俺ら人間ごときに理解できるわけないだろ。誰が天国行って誰が地獄行きかなんて、はじめから決められていて、それを人間の行動で勝手に変えるなんて出来るわけねーだろ」

こうして人々の心の中にある公平世界信念はボロボロに崩れ去り、絶望に打ちひしがれることになります。ここで「努力しても天国行けないんなら、もう努力するのやーめた!」ってなるかと思いきや、実際はそうはならなかった。

「誰が救われるのかはあらかじめ決まっている。ということは、もし俺が救われる側の人間だったなら、神の教えに背くことなく清く正しく生きることができるはずだ。そして、そうやって努力を重ねていけば、神の恩寵によって幸せになれるに違いない!」

こういうふうに発想を180°転換したことによって、真面目に一生懸命働くことを美徳とする社会が生まれます。人々は「自分は神に愛されてるはずだ」と信じて一生懸命働き、資本主義が発達していきます。こういう社会の在り方が正しいかどうかは誰にも判断できない。けれども、この地球上で最初に産業革命を成功させ、今なお経済的に最も豊かで、世界のトップランナーとして君臨している国は、だいたいプロテスタントの国であるというのは純然たる事実です。

人間と他の動物とを分ける最大の特徴は、人間の並外れた未来を予想する能力である、という人がいます。その時その時の快楽や欲求のために行動するだけではなく、時にはそれを我慢して、将来の幸福のために努力することが出来る。それが地球上で人間だけに備わった能力です。

でも、上で述べたような、世界に絶望してもそれでも努力していくという意志は、将来の喜びのために努力するのとは全くレベルの違う高次の努力だと言えます。だって、その努力は報われないかもしれないんですよ。それは生物学的には全く無意味な努力かもしれない。この世の中は公平ではない。世界は怖ろしいほどに不公平だ。それでも人間は、「いや、その努力には意味があるんだ!それで私は納得しているんだ!」と考えることができる。

奏にとって高校での最初のコンクールは、全国大会金賞という目標を達成できずに終わってしまう。そういう意味で言えば、奏の努力は報われなかったということになる。けれども彼女が中学時代のように絶望することはもうない。「悔しくて死にそう」だと叫ぶ奏の瞳には、今なお熱い炎がメラメラと燃えたぎってる。彼女の瞳の中に宿るそれこそが、人間の尊厳などだと私は思う。

物語はさらに進み、久美子が新部長となって『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』が始まる。けれども、『ユーフォ』シリーズが追いかけてきたテーマは『誓いのフィナーレ』で語り尽してしまったのではないか、とすら感じる。まさに「フィナーレ」という言葉が相応しい、そんな圧倒的な映画だった。

アニメ『かぐや様は告らせたい』各話感想

第1話

第1話の感想は下記記事を参照。

第1話のMOP(Most お可愛い Picture)は、白銀のお弁当を見てよだれを垂らすかぐや様。
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普段のかぐや様はクールで近寄り難く、怖い印象すらある。けれども実際は、お嬢様であるがゆえに世間知らずで、まだ知らないもの見たことがないものに強い憧れを抱いている、そんな内面がふっと表に出てきた瞬間のかぐや様は最高にお可愛い。第1話(原作では第1巻)でありながら、かぐや様のお可愛さの本質が見て取れる場面でした。

第2話

夏休みに海に行くか山に行くか論争、スマホの連絡先交換を巡る駆け引きも面白かったが、何と言っても、会長が恋愛相談に応じる回が最高。白銀が裏声で「付き合って欲しいな~」とか言ってる場面は腹を抱えて笑った。かぐや様のあのキレッキレなツッコミもまさにアニメでしか味わえない魅力だろう。

柏木さんとその彼氏が恋愛相談に来る回は原作でも何回かあって、私は勝手に「バカップル恋愛相談回」と呼んでいるのだが、正直、原作では特別面白いエピソードではない。ところが、これがアニメになっただけでこんなにも爆笑不可避な作品になるなんて…。やはりマンガのアニメ化に際しては、「アニメ映え」するエピソードとそうでないエピソードというのがあって、バカップル恋愛相談回は物凄くアニメ映えする何らかの要素を兼ね備えているのだろう。

表向きは、「どう考えても会長のアドバイスは的外れだったけど、何故か告白は上手くいって柏木さんと付き合い始めた」、というお話。だが、実際には、生徒会長のもとに恋愛相談しに行く勇気があった時点で、あの男子の告白が成功するのは確定だったのだろう。秀知院学園での生徒会長というのは、(実態はともかくイメージとしては)雲の上の存在であって、一般生徒にとってはとても話しかけづらいオーラがある。そこにわざわざ出かけていって、学園と何の関係もない私的な相談をできるという行動力があったからこそ、この男子生徒は柏木さんと付き合うことができたのだ。

第2話のMOP(Most お可愛い Picture)は、ドアに隠れながら会長が話してるのを聞いてちょっとムッとしてるかぐや様。
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この場面も、原作漫画の時はスルーしてた。でも、これがアニメになると、何故だかは分からないけど、メチャクチャお可愛い。単なる原作の書き写しだけではない、新しいかぐや様のお可愛さが垣間見えた。

第3話

原作第1巻でも特に印象に残っている自転車2人乗りで登校する回。小学校から高校2年生までずっと車で登校していたかぐや様、その事実を嫌というほど知っている原作読者だからこそ、このエピソードが感動的に見える。将来かぐやと白銀が付き合い出して、結婚までしたとしても、大好きな人と一緒に登校するこの瞬間は、もう二度と訪れないかもしれないのだ。道に迷い電信柱に寄りかかるかぐやの腕時計が指し示す時刻は8時25分。おそらく、白銀と遭遇し、2人乗りしてた時間はほんの2、3分だっただろう。でもその僅かな時間が、かぐやにとっては一生に一度しかない尊い時間だったに違いない。

そんな感動的な回のすぐ後に訪れる特殊エンディング「チカッとチカ千花!」の衝撃。ラブ探偵チカの登場は第5話、「森へお帰り」で有名なゴキブリ回はアニメにすらなっていない。本編と何の関係もないエンディングにこれほどまでに力を入れ、しかもそれをたった1回だけの放送で終わらせるという凄さ。これだけでもう、本作が普通のアニメではないという事を物語っている。

第3話のMOP(Most お可愛い Picture)は、初体験=キッスのことだという勘違いにようやく気付いたかぐや様。
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この表情、もう最高である。ドヤ顔でマウント取りに行ったのに全部勘違いだったという恥ずかしさ、会長の前でとんでもない事やらかしてしまったどうしようという焦り、性の知識に初めて触れたことによる恐怖…。この瞬間にかぐや様の頭の中に去来する様々な感情を想像しただけで、もうニヤニヤが止まらなくなる。

第4話

この回あたりから、各キャラが初登場時とは異なる新たな一面を見せるようになる。例えば、NGワードゲームで無双する藤原とか、自室で早坂と会話するかぐやとか。その中でも印象的なのは、これまで相手に対してマウント取りに行って恋愛頭脳戦を有利に進めることしか考えていなかった会長とかぐやが、ようやく相手に自分の弱点や本音を見せるようになった点だと思う。

会長をバカにする発言をした生徒に対して、かぐやが怒涛の勢いで言い返す。フランス語で罵詈雑言を繰り出すかぐやの姿は、白銀と出会う前のいわゆる「氷のかぐや様」時代の残滓だ。誰にも心を開かず、他人を蹴落とすことしか考えていなかった昔のかぐや。それは、今のかぐやにとっては忘れてしまいたい黒歴史のようなものだろう。だからこそ、かぐやはそんな姿を会長の前で晒してしまったことを恥じ、落ち込んでしまう。でも、かぐやは、そこまでしてでも会長を守りたかったのだ。そんなかぐやの心境を分かっているからこそ、白銀の方も、実はフランス語はほとんど聞き取れなかった、と本当のことをかぐやに打ち明ける。間違いなく、二人の距離が大きく縮まったエピソードと言えるだろう。

第4話のMOP(Most お可愛い Picture)は、ネコ耳をつけたかぐや様。
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これはもう鉄板だろう。

第5話

相合傘回は原作でも屈指のイチャイチャラブコメ回だと思うが、ただ単に、二人がイチャイチャしてお前らもう結婚しろよ、ってなるだけじゃないのが本作の醍醐味だ。せっかくの作戦を藤原に邪魔され、顔赤くしながら傘を差しだすかぐや。傘の下からその表情が少しだけ見えて、勇気を振り絞って一緒に帰ろうとしてくれてた事が御行にも分かったからこそ、御行もまた勇気を出して「半分借りる」と言うのである。ああもう尊いなぁ~。

第5話のMOP(Most お可愛い Picture)は、作戦が台無しになって傘をパタパタさせてるかぐや様。
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次点は、柏木さんの恋愛相談中、あくまでも友人の話だと言い張るかぐや様。

第6話

石上会計がようやく登場。さすがに出てくるの遅すぎだろと思ったりもしたが、後になって振り返るとここしかない絶妙なタイミングでの登場だったと思う。第5話までは生徒会室にたまに来てる程度で会長たちとはほとんど会話しない。第6話でようやく顔見せ。第7話で本筋のストーリーに絡むようになってきて、第8話ではかぐやとも交流を持つ(テスト勉強回)。そして第9話では藤原のことをボロクソにこき下ろし、第10話で「うるせーバーーーカ!!!」が発動する。これは、他人に心を閉ざしていた石上が、少しずつ、一歩ずつ着実に、傷を癒し周囲と打ち解けていく軌跡だ。

第6話のMOP(Most お可愛い Picture)は、ラストの「もうっ…もうっ!」のかぐや様。
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次点は、会長にネイルを気付いてもらえなくて拗ねるかぐや様。

第7話

おそらく、女性声優が最も多く「ちんちん」という台詞を言ったTVアニメの回、としてギネスブックに載るであろう。この回を本気でアニメ化したスタッフの心意気、そして声優陣の名演に心から拍手を送りたい。

第7話のMOP(Most お可愛い Picture)は、「会長からそんなワードが出てきたら…絶対に笑ってしまう!」のところのかぐや様。
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この回だけに限らないが、本作はかぐや様の顔のどアップをメチャメチャ多用している。これは第2話とか第8話でも顕著に表れているのだが、元を辿れば原作漫画の時点でかぐや様の顔がコマいっぱいに描かれていて、台詞やモノローグの文字が顔に重なってるような構図が頻出しているのだ。こういうところにも、アニメスタッフの原作へのリスペクトが垣間見える。

第8話

第8話の感想は下記記事を参照。

第8話のMOP(Most お可愛い Picture)は、期末テストで白銀に負けて悔しがるかぐや様。
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この場面で初めて、生徒会副会長のかぐや様でもなく、白銀に恋するかぐや様でもない、本当に素のかぐや様が描かれたように思う。そうか、そうなのか…、テストで負けたのが泣くほど悔しかったのか…。第4話のNGワードゲームで負けてメッチャイラついてた時にも思ったが、かぐやは筋金入りの負けず嫌いだと思う。大財閥の令嬢としての仮面を被り感情を殺しながら生きてきたかぐや様にも、こういう人間らしい一面があるのだと再確認できて、感動すら覚えた。

第9話

原作読者全員が待ちわびたイカサマトランプ回、そしてお見舞い回である。ここぞとばかりに藤原を攻撃する石上、風邪をひいて幼児退行してしまったかぐや様、声優の名演が特に光る回だった。

第9話のMOP(Most お可愛い Picture)は、もちろん、風邪で弱っている甘えんぼかぐや様。
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何この可愛い生き物…。風邪ひいたときに食べたい物が桃の缶詰という意外と庶民的な物であるのも何か可愛い。だが、原作漫画14巻では、甘えんぼかぐや様の上位互換、この世で最も可愛い生き物といっても過言ではない、激レア生物「かぐやちゃん」も登場している。アニメしか見ていない人も、絶対にこの続きを見るべきだろう。Don't miss it!!!

第10話

台風の日→かぐや様風邪ひく(&藤原フルボッコ)→かぐや様幼児化→喧嘩→恋愛相談(「うるせーバーーーカ!!!」)→仲直り、というアニメ9話から10話の一連の流れは本当に素晴らしかった。この流れの中でいったい何個名言・名シーンが生まれた? 本作の一番の魅力の一つは、予想もつかないようなところから話がどんどん膨らんでいく事だと思う。

第10話のMOP(Most お可愛い Picture)は、白銀と喧嘩して「はーーーーーーーーーっ!!!」ってなってるかぐや様。
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原作者は本当に人間の心理描写が上手いというか、なんというか…。たしかに、気になってる相手とギクシャクして喧嘩してる、そんな矢先に相手から結構嬉しい事言われて、驚きとか嬉しさとか照れとかでいっぱいになってるけど、そんな感情絶対知られたくないっていう時、こういう反応になるっていうのは何となく分かるよね。

第11話

尺。尺、だよなあ…。このアニメにおいて、最大の敵は、12話、30分という時間の制限なんだよなあ…。せめてアニメが全13話だったなら、白銀・藤原の特訓回をもう1話増やせたし、ラーメン回ももっと面白くできた。「花火の音は聞こえない」も、本当は12話で一気に描き切って欲しかった。でも、これはもう、どうすることも出来ないよなあ。

そういった制限の中でも、かぐや様がツイッターを始める回は抜群に光っていた。何というか、この作品は、ツイッタースマホ、LINEといった現代のアイテムの使い方が本当に上手い。

第11話のMOP(Most お可愛い Picture)は、夏休みに白銀と会えなくて溜息をつくかぐや様。
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普段のクールな表情とは大違い。「は~~~~~~あ~~~~~~」という、体内の空気が全部抜けてしまうんじゃないかと思うくらい大きな溜息。完全にやさぐれてるおっさんである。でも、普段気を張って生きてる人ほど、プライベートではユル~い性格になってしまう、というのは現実の世界でもよくある事だし、かぐや様のような表向きは完璧超人な人が、気を許せる人の前でだけはこんなにもダラけてしまうというのは、すごく説得力のある描写だと思う。

第12話

第12話のMOP(Most お可愛い Picture)は、会長の横顔から目が離せないかぐや様。
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ルイ・パスツールはこう言った。「幸運は準備された心に宿る」

この世に神様など居ない。奇跡も魔法も存在しない。だが、それでも、たった一人の人間が、かぐやの事を思い、もっとかぐやの事を知りたいと願い、そのために必死に努力して、準備を続けた時、今までの不幸なんてきれいさっぱり忘れてしまうくらいに最高の幸運が訪れる。そこには夏らしいロマンチックな思い出も、特別な舞台装置も必要ない。花火ですら必要ない。大好きな人と一緒に夏を過ごす、ただそれだけの事で、かぐやは救われていたのだから。

かぐや様は告らせたい』は、ラブコメでも恋愛頭脳戦でもない。これは、四宮かぐやという少女の心の救済の物語。そして、かぐやだけでなく、石上やその他の登場人物みんなが、誰かから救われ、誰かを救う物語だ。

総評

アニメでナレーションを担当した青山穣さんが、インタビューでユニークな作品評をしている。

実は最初、タイトルを勘違いしていたんですよ。『かぐや様は告らせたい』じゃなくて『告られたい』だと。そのほうが普通じゃないですか? だから「告白されたい女の子の物語なのか」と読み進めていったら、なぜか恋愛バトルをしてるので「ん、なんか変だぞ?」と(笑)。
でも読んでいくうちに、タイトルを「告られたい」という受身ではなく、「告らせたい」という使役の表現にしたことが、『かぐや様』のポイントなんだなと感じるようになってきたんですよ。
(中略)
かぐや様は告らせたい』という作品は、「他人を自分を意のままに動かしたい」という欲望について物語なんだな、と個人的に解釈したんです。もしかしたら現代っ子は、人間を機械のようにコントロールしたいという、ちょっと薄暗い気持ちがあるのかもしれないなと。
でも人を自由に動かすなんて、そんな簡単なことじゃない。かぐやと白銀会長もいろいろな計画を企てるけれども、実際は失敗ばかりなわけで(笑)、だから『かぐや様』は相手を支配したいと考えていた二人が、人間は思い通りにはいかないことを悟るまでを描いたお話になるんじゃないか、と僕は勝手に想像していますね。
『かぐや様は告らせたい』青山穣さんがナレーションで手応えを感じたエピソードとは【連載】 | アニメイトタイムズより引用)

この見方は決して的外れではないと思う。物語の序盤はかぐやも白銀も「相手に告白させたい」「自分を選ばせたい」という気持ちから行動していたように思うが、原作漫画の巻数が増えるにつれて「相手に好かれたい」「嫌われたくない」という気持ちの方がより強くなってきている。つまり、最初の頃はまだ「相手の行動をコントロールして優位に立ちたい」という「使役」の感情が強かったのが、相手への愛を深めるにつれて、相手と一緒にいたい、この掛け替えのない高校生活を2人で楽しみたい、という気持ちがより前面に出てくるようになる。でもそれは、「相手に好かれたい」「告白されたい」という「受身」の願望だから、自らの行動はますます慎重になり、自我は空転し、見る側からしたら最高にお可愛い姿を拝める。

そういう意味で言えば、今回アニメ化されたのは原作の序盤にある「使役」の物語の部分だけだろう。これよりももっとお可愛くて最高に面白いエピソードは、後半の「受身」の物語の中にある。だからこそ、アニメ第2期をできるだけ早く実現してほしいと強く願わずにはいられない。

(下記関連記事は、原作漫画のネタバレを含みますので注意願います。)

アニメ『かぐや様は告らせたい』第8話感想

かぐや様は告らせたい』の序盤~中盤にある話の中で、私は期末テスト回「白銀御行は負けられない」が一番好きだ。この回だけは、恋愛頭脳戦や白銀会長への恋心とか関係なしの、かぐやの素の部分が垣間見えていると思うからだ。

かぐやの行動の奥にはいつも白銀会長への想いが隠れている。白銀より優位に立とうとして策を練るかぐや、白銀のことが好きすぎて挙動不審になっているかぐや、作戦行動中に予想外の邪魔が入ってテンパるかぐや…。もちろん、「テストで白銀に勝って恋愛頭脳戦を優位に進めたい」という下心もほんの少しくらいはあったのかもしれない。でも、今回に限っては、白銀のことを告白させたい想い人としてではなく、勉強におけるライバルとして見ていたように思う。

かぐやは、ただ単純に、悔しかったのだ。

天才と称された自分がテストで誰かに負けるということが、涙が出るほど悔しくて、悔しくて仕方がなくて、それでも、悔しがる姿を他人に見せないように、唇をグッと噛みしめて泣くのを我慢している、そんな一人の少女がそこにいた…。

そこには大財閥の令嬢としてのかぐや様も、白銀に恋するお可愛いかぐや様もいない。そういった「肩書き」や「仮面」をそぎ落として、それでもなお残る、とてもプライドが高くて負けず嫌いな、普通の女の子がそこにはいた。

僕は単行本でこの話を初めて読んだ時、もちろんギャグ・コメディとしての面白さを感じてはいたけれども、それ以上に何かとても暖かい気持ちになった。感動すら覚えた。そして、ああ、かぐやも他の子と同じ、ごく普通の女子高生なのだと初めて思った。

昨日映画館で見た『ドラえもん のび太の月面探査記』で、ゲストキャラの故郷として描かれた惑星の名は「かぐや」星。2日続けて「かぐや」にまつわる記事を書くことになったのも、何かの巡り合わせか。

『ドラえもん のび太の月面探査記』の作品構造

「定説の世界」と「異説の世界」

教室で「月にはウサギがいる」と言ってバカにされたのび太は、異説クラブメンバーズバッジで「月の裏側には文明がある」という異説が本当になった世界を創造し、そこでムービットという生物を作り、彼らは月面のクレーターで高度な文明を築くようになる。一方、のび太達の通う小学校に謎の少年・ルカが転校してくる。ドラえもん達とルカは、異説クラブメンバーズバッジを付けて月へ向かい、ムービット達の手厚い歓迎を受ける。

過去・未来、宇宙、地底、海底、雲の上…。ドラえもん映画の舞台となる世界は、時代を超えて我々の想像力を掻き立て、多くの子ども達を魅了し続けてきた。それらの世界の大半は、のび太達が住んでいる作中世界と同一の世界であるとされてきた。例えば、『宇宙開拓史』『宇宙小戦争』『アニマル惑星』『ブリキの迷宮』などは、作中世界における遠い「宇宙」にある星が舞台。『恐竜』『日本誕生』『太陽王伝説』などは、作中世界の「過去」を舞台にしたお話。『銀河超特急』『ひみつ道具博物館』などは、作中世界の「未来」が舞台。『大魔境』『海底鬼岩城』『竜の騎士』は、作中世界の人類に発見されていない地球上の「秘境」を描いている。我々の住むこの世界にはまだ人類の知らない秘密がたくさんあって、そういった未知の世界でのび太達が冒険を繰り広げるというのが、大半のドラえもん映画における基本コンセプトである。

一方で、のび太達が住む作中世界とは全く異なる別の世界を舞台にしたドラえもん映画も、数は少ないが存在する。例えば『魔界大冒険』は、もしもボックスで作り出された魔法世界が舞台。『創生日記』は、のび太が夏休みの宿題で作った全く新しい世界が舞台となっている。『ドラえもん のび太の月面探査記』も、歴代のドラえもん映画では少数派であった、作中世界と地続きでない異世界を舞台にした作品である。

本作でのび太達が普段住む世界を便宜上「定説の世界」と呼ぼう。そこから異説クラブメンバーズバッジを使ってドラ達とルカが向かうのが、ムービット達が住む「異説の世界」である。ムービットと彼らが築く月面文明は、異説クラブメンバーズバッジを付けた者にしか見ることはできないとされている。

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「異説の世界」とは、いわば、人類の想像力が生み出す空想上の世界である。「地球の内部は空洞になっている」とか「火星には火星人が住んでいる」とか「生き物は全て数千年前に神によって作られた」とか、人類が並外れた想像力を駆使してこの世界の理を理解しようとした過程で生まれてきた空想世界である。それは、「定説の世界」からライトを当てて映し出された像のような、実体のないものであるが、それを実体化して見せるのがこの異説クラブメンバーズバッジだと言えよう。

重なり合う2つの世界

物語は「異説の世界」の月面で進行するのかと思いきや、ここから作品構造は複雑さを増してゆく。実はルカとその仲間は、カグヤ星という星で科学者によって作られたエスパルという種族で、彼らの力を悪用しようとするカグヤ星人から逃れ、1000年以上も前から月の地下深くで生活していたのだ。月で暮らしていた11人のエスパル達はカグヤ星人に捕えられ、カグヤ星へと送還されてしまう。

ここで注意しておきたいのは、ドラえもんのび太、その他すべての人類と同様に、ルカ達やカグヤ星人も「定説の世界」に生きているということである。「異説の世界」で生きているのは、あくまでもドラ達が作りだしたムービットだけであって、本筋の物語はあくまでも「定説の世界」で進行しているのだ。

さて、ルカ達を助けるためにドラ達もカグヤ星へと向かう。そこでラスボスとして立ちはだかったのが、カグヤ星を支配しているAI・ディアボロ。絶体絶命のピンチに陥るドラ達だったが、そこに「異説の世界」にしか居ないはずのムービット達が登場する。

実は、ムービットのうちの1匹でのび太によく似た容姿をしているノビットが、定説クラブメンバーズバッジを発明していた。それは、異説クラブメンバーズバッジとは逆で、「異説の世界」の者が「定説の世界」で実体化するという驚くべきアイテムだったのだ。図で説明すると次の通りである。

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上で述べたように、「異説の世界」とは、ドラえもん達が「定説の世界」から映し出した像だった。そして、「異説の世界」で生きるノビットが「定説の世界」へ向けて映し返した像が、上図の紫色で示した部分だ。こうして、2つの世界は混ざり合って、「定説の世界」を変えていく。

このストーリーは色々な現象のメタファーとして捉えることが出来ると思う。例えば、古生物学者は化石などを徹底的に調べて恐竜が生きていた時代を想像する。その想像を基にして、遺伝子工学の発達した未来で生きている恐竜(『ジュラシックパーク』で描かれる恐竜のようなもの)を作り出すことができたら、それは、「異説の世界」から放たれた光が「定説の世界」に映し出す像だと言えるのではないだろうか。あるいは、幽霊が存在するという「異説」を信じている者にとっては、現実の世界でも本当に幽霊がいるように感じられることがある。このように、「異説の世界」は単なる空想上のものではなく、ときには「定説の世界」に介入し、その世界を変化させ得る存在なのだ。

ムービット達の援護によってついにディアボロは破壊され、カグヤ星に平和が訪れる。月に戻ったルカ達エスパルは、普通のカグヤ星人のように体が成長し、限りある短い人生を生きる存在でありたいと願う。その願いをドラえもんは異説クラブメンバーズバッジを使って実現させ*1、彼らが人類に見つからずに平穏に暮らせるように、バッジを学校の裏山に埋める。

ルカや他のエスパル達は、ムービットと同じく「異説の世界」の住人になったのだ。「異説の世界」を映し出す出発地点には、もはやドラえもんのび太達の姿はない。彼らは他の全ての人類と同じように、「異説の世界」に干渉できない「定説の世界」に戻り、2つの世界は完全に断絶したのだ。

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これは、とても切なくて悲しい結末に見える。しかし、希望は残されている。ドラえもんの台詞にもあったように、人類の歴史は異説が切り開いてきたもの、人類はこれまでずっと「定説の世界」と「異説の世界」を融合させながら進歩してきた存在だからだ。それについては、次章以降で詳しく説明しよう。

その前に、これは完全に余談ではあるのだが、本作も歴代のドラえもん映画と同様に学校の裏山が重要な舞台として描かれていたのがとても印象的だった。例えば、『銀河超特急』でドラえもんのび太銀河鉄道に乗車したのは夜の裏山であった。『アニマル惑星』でピンクのもやが現れたのも裏山。『鉄人兵団』でリルルとしずかちゃんが出会ったのも裏山だった。『雲の王国』や『竜の騎士』は、物語のラストシーンで冒険を終えたドラえもん達が裏山に帰還する。ドラえもん映画では、のび太達が普段住む日常の世界と異世界とを繋ぐ場所として、学校の裏山が象徴的に描かれているように思う。

世界が作り変えられる時

さて、本作の物語構造を「科学と人類の進歩」という観点から考察すると、次のようなことが言えるだろう。

まず最初に、我々が住んでいる「世界A」がある。そこに住む誰かが「異説B」を提唱し、それを元にして「世界B」が出来あがる。「世界A」と「世界B」という対比は、人類の歴史の中で出てきた色々な当てはまるだろう。例えば、「天動説」と「地動説」、「創造説」と「進化論」、「量子論相対性理論の世界」と「量子力学の世界」。こうして「世界B」ができると、「もし『世界B』が正しいならば、○○○である」という形式の「定説C」ができる。「定説C」を元にして「世界C」ができる。この「世界C」とは、具体的にはどういうものだろう。例えば、「進化論」で言えば、「ヒトがサルから進化したことを示す化石(ヒトとサルの中間に位置する生物の化石)が見つかる」という「世界C」が考えられる。また、「相対性理論の世界」で言えば、「実際に空間が重力によって歪む現象が観測される」という「世界C」が考えられる。これらの「世界C」が実際に正しかった(「世界A」と「世界C」が等しかった)ということは、もはや説明するまでもないだろう。

しかし、「異説B」から作り出される「世界B」「世界C」が常に正しいとは限らない。例えば、SF作品やファンタジー作品の中の「世界B」は、「世界A」とは大きくかけ離れている。宗教や疑似科学が作り出す「世界B」も、「世界A」の実相とは違っているだろう。登場した当時は正しいと信じられていても、時を経るにつれて実は間違いだったの判明する「世界B」も数多く存在する。

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例えば、「あらゆるガンはウイルスによって引き起こされる」という「世界B」を考えてみよう。この「世界B」から作り出される「世界C」は、「世界A」と重なり合う部分(A∩C)とそうでない部分とがある(A∩CおよびA∩C)。例えば、動物の中にはガンを引き起こすウイルスというものも発見されているし、人間でもヒトパピローマウイルスは子宮頸ガンを引き起こす(A∩C)。しかし、肺がん患者のほぼ全員が喫煙者であるなどの事実が示すように、ある種のガンはウイルスというよりも環境要因によって引き起こされているように見える(A∩C)。また、「世界B」が正しいならば、「あらゆるガン患者の病巣から特定のウイルス抽出できて、しかも、それを別の動物に投与するとガンが発生する」という「世界C」が有り得るはずだが、そのような事実は確認されていない(A∩C)。ゆえに、今日では、ほどんどの科学者が「あらゆるガンはウイルスが原因」という「世界B」は正しくないと考えている。しかし、一昔前までは、このような「世界B」が正しいと信じて研究をしていた学者が大勢存在していた。また、理論物理学における「超ひも理論」のように、現代の科学では「世界A」と「世界C」が重なり合うのかまだ分かってないものも数多く存在する。

そのような中で、先ほど挙げた「地動説」や「進化論」のように、異説から定説へと変わった世界については、下のような図で説明できるだろう。

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例えば、進化論を例に挙げるなら、まず、「全ての生物は神が作った」という「世界A」の中で、ダーウィンらが「生物は長い時間をかけて変異と淘汰を繰り返し進化してきた」という「異説B」を唱える。この「異説B」が作り出す「世界B」では、例えば「中間種の化石が発見されるだろう」とか「実際に遺伝子に変異が生じるメカニズムが解明されるだろう」という「定説C」ができる。ここから映し出される「世界C」が実際に「世界A」の中で見出され、さらに、「世界A」のありとあらゆる事象が実は「定説C」によって説明できる、実は「世界A」と「世界C」は等しい、という事が分かるようになる。「世界C」は「世界B」が正しいと仮定して作られた世界なので、「世界A」と「世界C」が等しいならば、「世界A」と「世界B」もまた等しい。ここまで来ると、「異説B」は定説となり、「世界A」と「世界B」は完全に融合する。

ここでいう「世界C」のことを簡便な言葉で言い表すと「予言」ということになるだろう。そう、作中のエスパルの一人・アルの能力が予知能力である象徴的理由はここにある。「世界B」から生み出される「予言」が当たった時、「世界A」と「世界B」は融合し、人類は進歩する。人類の歴史とは、このような作業を何度も何度も繰り返し、世界を作り変えていくことに他ならない。

本作が教えてくれること

「世界A」と「世界B」を融合して世界を作り変えていく営みを「進歩」と捉えることもできるが、必ずしもそうではないケースも存在する。作中でディアボロが行ったように、時の権力者が都合の良い「異説」を作り上げて、それが「定説」となるように仕向ける場合も多く存在する。例えば、「我々ドイツ人こそが最も優れた民族である」とか「白人は黒人より優れている」とかいう「世界B」が正しいとされた時、それがホロコースト奴隷制度という負の歴史を生み出したのだ。優性主義とか自民族優先主義の真に怖ろしいところは、それが「科学的に正しい」という衣を身にまとって忍び寄ってくるからだ。

我々が間違った方向に世界を作り変えてしまわないようにするには、一体どうすればいいのだろう。おそらく、一番大事なことは、今の世界(定説の世界)で正しいとされていることが絶対的に正しいと妄信しないこと、常識や権威といったものが本当に正しいのかどうか常に自問自答し続けることだと思う。私が在籍していた大学に、かつて著名な化学の教授がいた。その教授は「俺はMALDI*2なんてもの信用しない」と言っていたのに、田中耕一*3ノーベル賞を取るとコロッと態度を変えたという。ノーベル賞という権威を自分の価値判断の基準にしているという、科学者として非常に残念な態度である。

今現在「異説」とされているものも、将来「定説」になるかもしれない。藤子・F・不二雄は、SFとは「すこし・不思議」という意味だと述べたそうであるが、彼のSFとは、将来「定説の世界」になるかもしれない「異説の世界」を私達に見せてくれるものなのかもしれない。もし人類が道を間違えることなく世界を良い方向に変えることが出来たなら、藤子・F・不二雄が『ドラえもん』の中で描き出した輝かしい「異説の世界」は、将来きっと「定説の世界」になるだろう。

*1:カグヤ星人にとってエスパルは1000年以上も前にカグヤ星を立った伝説上の存在であり、「そんな存在は実在しないし実在したとしても我々と同じような人間だろう」という異説が出回っていたため、エスパル達の「普通の人間になりたい」という願いも異説クラブメンバーズバッジで叶えることができたのだ。

*2:タンパク質などの生体高分子とマトリックスと呼ばれる試薬との混合物にレーザーを照射させて、生体高分子をバラバラにすることなくイオン化させて分子量を測定できるようにする技術。

*3:MALDI法の開発の功績により2002年にノーベル化学賞を受賞した。

『響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ』の佐々木梓さんがヤバすぎて魂が震える!

闇が深いっ! 闇が深すぎるっ!!

いよいよ4月に『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』の公開が迫ってきたので、これを機に『響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ』を読んでみたのですが、まさか、まさか、こんなにも深い闇が存在していたとは…

青春が光だと言うのなら、その背後には必ず闇がある。作者・武田綾乃はその闇をこれでもかと描き出していく。

しかし、それにしても…。もう何なんだろう、この人。

佐々木梓さん、闇深すぎだろ…。

あるブログ(参考記事1)では、梓について、登場人物みんなヤバい奴である『響け! ユーフォニアムシリーズ』の中でも断トツでヤバい奴だと評していますが、私もそれが紛れもない事実だと確信いたしました。

今日は、黄前久美子と並ぶ『響け! ユーフォニアムシリーズ』のもう一人の主人公・佐々木梓について、徹底的に解説していきましょう。

梓と志保

物語は、立華高校吹奏楽部のトロンボーンパートに所属する1年生、佐々木梓、名瀬あみか、戸川志保、的場太一の4人を中心に進行していきます。

本作の主人公である梓は、中学時代は黄前久美子高坂麗奈らと同じ吹奏楽部に所属し、吹奏楽とマーチングの名門・立華高校に進学しました。休日も一心不乱に楽器を吹き続ける練習の虫で、1年生の中ではトップの実力を持っています。

名瀬あみかは、高校から吹奏楽を始めた初心者で、楽器のことを一から懇切丁寧に教えてくれる梓のことをとても慕っています。

一方、戸川志保は、圧倒的な実力を持つ梓を前にして、嫉妬にも似た感情を抱くようになります。さらには、梓が初心者であるあみかの面倒を甲斐甲斐しく見てあげてるのに対して、志保は自分のことで精一杯であみかの事を疎ましく思ってしまい、そういう感情を抱いてしまうことに対しても自己嫌悪の念を募らせていきます。そして、梓が「いい子」であればあるほど自分がどんどん惨めになっていって辛い、という心情を梓に打ち明けます。

それに対して、梓はこう返します。

「べつに、いい子ちゃうよ」
志保の腕の輪郭を指先でたどりながら、梓は告げる。
「うちはね、自分のためにみんなの手助けをしてんの」
頼られてる自分が好きやねん。そうひと息で言い切り、梓は意識的に人当たりのいい笑みを浮かべた。ふうん、と志保は目を逸らしたままつぶやく。(中略)
「私、梓のことちょっとだけわかったような気ぃするわ」
そう微笑む志保は、どこか安堵しているようだった。
(『響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ 前編』、141~142ページ)

「自分のためにみんなの手助けをして」いる、「頼られてる自分が好き」という梓の言葉に「安堵」する志保。この場面は、彼女の心境の変化を絶妙に捉えています。志保は梓と同じく中学時代から吹奏楽をやっていたので、初心者であるあみかを助けてあげなければならない立場にいます。少なくとも、志保自身はそう思っています。しかし、実際にはほぼ梓ひとりであみかを指導するような状態になっています。なので、自分は責任を放棄しているのではないか、自分はとても悪い奴なのではないか、という思いが志保を苦しめていました。

ところが梓は、あみかを助けるのは「自分のため」だと言います。そこに志保は、梓という人物が抱える「ヤバさ」の萌芽を見て取ります。それゆえに志保は、あみかの事をつきっきりで指導できる梓の方が異常なのであって、自分のこの感情はむしろ正常なのだと「安堵」することができたのです。

この時点ではまだ読者には梓のヤバさは見えていませんが、志保はもう既に、梓の心の中にある底知れない闇に気付きつつあるわけですね。では、梓の何がヤバいのか、それはこの場面以降で明らかとなっていきます。

梓とあみか

さて、梓はコンクールのAメンバーに選ばれた後もこれまで同様にあみかを指導しようとします。そんな梓を見かねて志保と太一は、あみかの指導なら他の奴でもできるから梓は自分の練習に専念しろ、と忠告してきます。それを聞いて、梓さんは何故かマジギレ状態に。

「だから、やってるやんか。うちはちゃんと自分のやるべきことやってからあみかに教えてる。文句言われる筋合いなんかない!」
カッと頬に熱が走る。込み上げてきた感情は、怒りというよりは苛立ちだった。声を荒げた梓に、あみかがビクリと身体を震わせる。その目が、太一を捉えた。普段ならば柔和な笑みを浮かべているその唇も、いまはすっかり青ざめている。
「私、梓ちゃんの迷惑かな?」
「あみか、なんで的場に聞くん? うちは迷惑ちゃうって言ってるやん」
(中略)
「佐々木にとっては迷惑やないかもしれん。でも、俺らにとっては迷惑や」
「どうして?」
「このままやと、名瀬は佐々木なしではやっていけへんようになるから」
それのどこがいけないことなのだろうか。だって、梓はあみかから離れるつもりはない。このままでなんの問題もないじゃないか。
(『同 前編』、265~266ページ)

ヤベぇよ、ヤベぇよ…。あみかへの独占欲強すぎだろ…。梓さん怖ぇよ…。彼女の台詞ももちろん怖いのですが、本作で何よりも怖ろしいのは、梓の心境を表している地の文の箇所です。「それのどこがいけないことなのだろうか」「このままでなんの問題もないじゃないか」は流石にヤバすぎる。

さて、日に日に梓への依存度を高めていっているあみかですが、さすがにこのままではヤバいと思い、梓に自分の正直な気持ちを打ち明けます。

「このままじゃ、自分の足で立てなくなっちゃう。家に帰って布団に入ったときにね、思うの。梓ちゃんがいまいなくなったら、私、生きていけないんじゃないかって。それが、怖いんだよ。迷惑をかけすぎて、いつか梓ちゃんに愛想尽かされちゃうんじゃないかって。そしたら、どうしたらいいんだろうって。そればっかり思うの。だって私、なんにも返せない。梓ちゃんは私にいろんなものをくれたのに、私は梓ちゃんになんにもあげられない」
(『同 前編』、284ページ)

中学時代までほとんど友達がいなかったあみかにとって梓は、初めてできた親友で、ずっと一緒にいたいと思える大好きな人です。吹奏楽の初心者だったあみかがここまで挫けずにやってこれたのも、梓がいてくれたおかげです。でも、その梓なしでは生きられないと思い詰めるほどに依存してしまって、梓がいなくなってしまうことへの恐怖や不安や罪悪感で胸が張り裂けそうになっているのが今のあみかです。

彼女と同じような気持ちに苛まれた人は決して少なくないでしょう。自分一人の裁量で自由にできる仕事が増えれば増えるほどストレスは軽減される、という心理学の研究結果があります。もちろん、仕事というものは自分一人では完結しないという側面もあるにはあるのですが、誰かの手を借りなければ何も仕事が進まない、自分一人では何もできないという状況に置かれると、多くの人がかなりのストレスを感じてしまうこともまた事実です。

こんなふうに複雑な感情を抱えて苦しむあみかを前にして、梓はまたしてもとんでもない事を考えています。

「べつに、なんにも返さなくてええねんて。見返りなんて求めてへんから」
与えた言葉は正解だったのか。あみかはそこで黙り込んだ。その後頭部をなでると、彼女はおずおずと顔を上げた。泣いたせいか、その目は赤く充血している。黒い睫毛に縁取られた双眸は、ガラス玉をはめ込んだみたいにキラキラしていた。泣いているあみかの顔が、梓は好きだ。すがるように梓の腕をつかむ、その頼りない手が好き。か弱い彼女は梓を心の底から必要としてくれている。その事実があるだけで、梓は救われる。だから、あみかはこのままでいい。自分の足で立つ必要なんて、これっぽっちもない。
(『同 前編』、284~285ページ)

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

ここに至ってようやく一つの事実がはっきりとしてきます。この二人の関係は、あみかが梓に依存しているだけでなく、梓もまたあみかに依存しているという共依存関係だということです! 共依存百合…。これはとんでもない事になってきたぞ…。

持つ者と持たざる者

ここで『響け! ユーフォニアムシリーズ』について振り返ってみると、才能ある者とそうでない者、「持つ者」と「持たざる者」との対比、というのが大きなテーマとなっていたことに気付きます。

その中でも、シリーズを通してよく描かれていたのは、「持たざる者」が「持つ者」に向ける嫉妬や、それに付随した自己嫌悪の感情だったように思います。例えば、北宇治高校における希美とみぞれの関係性はまさにそうですし、立華編でも名瀬あみかや高木栞先輩などがそういう感情を抱いているキャラクターとして描かれています。

しかし、本作で中心に据えられているのは、それとは全く逆の感情、すなわち、「持つ者」が「持たざる者」に向ける感情なのではないでしょうか。要するに、人間とは、常に誰かより優位に立ちたいと願う生き物であり、自分より弱い立場の人から頼られたり必要とされたりするのが嬉しくて仕方ない生き物なのです。そして、この幸福感を得ようとして、弱い者への庇護欲や独占欲を際限なく肥大化させていく怖ろしい生き物です。

梓のあみかへの感情もまた、そういった歪んだ庇護欲や独占欲を内包しています。そして、あみかの方もまた、梓から庇護されることによってある種の安心感や幸福感を覚えているでしょう。これらの感情や関係性は、先に述べた嫉妬や自己嫌悪以上にヤバいものです。何故ならば、そこには強い者と弱い者という明確な力の差が存在し、強い方が弱い方の行動をコントロールできてしまうからです。それは、一歩間違えれば、パワハラや洗脳にも結びついてしまう危険性を孕んでいます。

しかし、そんな危険な共依存関係は唐突に終わりを迎えます。

「私、カラーガードを希望することにしたの」
息を呑む。衝撃が全身を支配し、梓から思考する時間を取り上げた。
(中略)
「私、一人で頑張ってみるよ」
こちらを安心させるように、あみかが笑う。屈託のないその笑みが、梓の心臓を締め上げた。あみかの柔らかな唇が、梓に現実を突きつける。
(『同 前編』、336ページ)

梓さん、完全に魂抜けてるじゃねえか! ライザから結婚すると伝えられた時のオーゼンみたいになってんぞ! ヤバい、ヤバい!

こうして梓のもとを離れたあみかは、小川桃花先輩とマンツーマンでカラーガードの特訓を行います。その指導は実に苛烈なもので、ついにあみかは泣き出してしまいます。その様子見て桃花に文句を言いに行こうとした梓を志保が必死に止めます。そして志保は、あみかをいつまでたっても初心者扱いするのはやめろと迫り、さらに梓の心の内を次のように正確に指摘します。

「梓は、頼られたいからってあみかの足を引っ張ってるんちゃうの? ほんまはずっと、あみかに下手くそな初心者のままでいてほしいと思ってるんやろ。自分があの子に頼られたいから」
(『同 後編』、69ページ)

これを聞いて梓さんはイライラを募らせ、さらに志保が「梓がこのままだとあみかだって迷惑だと思う」と言ったところで、梓さん、ついにブチ切れ。

「わかってへんのは志保やろ。うちがあみかのこといちばんわかってる。あみかには、うちがおらんとあかんねんて!」
(『同 後編』、70ページ)

梓さん…。アンタはあみかのお母さんか! いつまでたっても子離れできない過保護な母親みたいになってんじゃねえか…。この梓の態度にさすがに志保もキレて、衝動的に梓をビンタしてしまいます。

ヤバい感情をこじらせていく梓とは対照的に、あみかは着実に梓から巣立っていきます。最初のうちは怒られてばかりだった桃花先輩とも良好な師弟関係が出来始めていて、それを見た梓はまた複雑な思いを抱きます。

ぐすんと鼻をすすっていたあみかが、ゆっくりと顔を上げた。涙に濡れたその瞳には、おそらく目の前の桃花しか映し出されていないだろう。(中略)
「ありがとうございます、桃花先輩」
――ありがとう、梓ちゃん。そううれしそうに笑うあみかの記憶が、梓の脳裏を掠めていく。嫌だな、と漠然と思った。苦々しい感情が、梓の下の上を転がっていく。
(『同 後編』、148ページ)

さあ、ここからが本当の地獄だ。あみかと桃花の師弟関係を見せつけられた梓が、とんでもない暴挙に出ます。

なんと、あみかが一緒に帰ろうと言ってきても梓はやんわりと拒否、学校ではあからさまにあみかを避けるようになり、会話も実によそよそしくなっていったのです!

お前さあ…。マジでさあ…。どんだけあみかを振り回せば気がすむんだよ! この塩対応にショックを隠せないあみかは、最近梓と上手くいっていないと志保に相談しに行きます。

ここまで来るともう、梓という猛犬に振り回される志保と太一が可哀想になってきます。2人は、梓への対処という点では本当によくやってる方だと思います。あみかや梓のために、慎重に言葉を選びながら、梓がしていることが如何にヤバいことなのかを必死に分からせようとしてくれています。

でも、残念ながら、この2人の言葉は全然梓には届かねえんだわ!

「私はあのとき、距離を取れって言ったんであって、心を閉ざせって言ったつもりはないんやけど」
「閉ざしてないよ。さっきだって、普通に話せてたやん」
「あれが普通なわけないやん。もしあれが普通やって思ってるとしたら、梓は無意識のうちにあみかを拒絶してるんやわ」
無意識だとか、そんな理不尽な単語を出されては困ってしまう。反論のしようがないからだ。眉尻を下げた梓に、志保の眉間の皺はますます深くなっていく。
(『同 後編』、195~196ページ)

ここで述べられている通り、事ここに及んでもまだ梓は自分の中にある庇護欲や独占欲を自覚していません。その事を志保に指摘されると「反論のしようがない」とか言って黙ってしまいます。もう、どうすんだよ、これ…。

梓と芹菜

もうしっちゃかめっちゃかな事になりつつある梓とあみかの関係ですが、ここでまた衝撃の事実が発覚!

梓の回想シーンの中で、彼女が中学時代にも同じような過ちを犯していたことが判明します。

中学時代の梓のクラスメイトだった柊木芹菜は、空気を読まずにズバズバと本音を言ってしまう性格が災いして、クラスの中で孤立していました。そんな中、梓だけは芹菜に話しかけ続け、次第に2人は親友と呼べる間柄になっていきます。

2人が親友になってしばらく経つと、芹菜には他にも多くの友達ができていきます。ここで例のごとく、芹菜への感情をこじらせていった梓による「急によそよそしくなる」攻撃が発動! これに怒った芹菜が帰り道で梓を押し倒し、こう詰め寄ります。

「私が気ぃつかんとでも思った?」
こちらを見下ろす芹菜の視線は、ひどく冷ややかだった。雑草についた水滴が、梓の首筋を微かにくすぐる。
「何を、」
「佐々木が私を捨てようとしてるってこと」
(中略)
「私の、何が気にくわへんの。ここまでアンタのこと好きにさせて、やのに気に入らんかったら距離とんの」
こぼれ落ちそうなほど大きな瞳が、夜の海みたいに揺らめいている。目の表面に張られた薄い水の膜は、少し刺激を加えただけで簡単に壊れてしまいそうだった。
(『同 後編』、204~205ページ)

もうね…。本当にね…。

愛が重いっ! エモさが凄いっ!

ヤベえよ、これ…。完全に恋人同士の修羅場じゃねえか…。

続けて芹菜は、梓の心の奥底にある核心部分に切り込んでいきます。

「私がみじめじゃなくなったから、だからもう用済みになったんやろ」
芹菜の細い喉が震える。絞り出された声は掠れていた。
「どうせ、最初から気まぐれやったんやろ。友達ができひんかわいそうな子に、暇潰しぐらいの気持ちでちょっかい出してただけなんや。だから、友達ができた私はもう用済みになった。そうやろ? こんなんやったら、最初から信じひんかったらよかった。そしたら、こんなふうに苦しむこともなかったのに。アンタは初めから、自分の自尊心を満たすために私を利用してただけなんや」
興奮したように、芹菜はそうまくし立てた。その口ぶりは、推測ではなく断定だった。違うよ。そう否定したいのに、唇が凍りついたように動かない。何が彼女をそこまで傷つけたのか。何が彼女をここまで怒らせているのか。梓には理解できなかったからだ。
(『同 後編』、205~206ページ)

「歴史は繰り返す」とよく言われますが、梓があみかにやった事というのは、まさに、中学時代の梓が芹菜に対してやった事と全く同じ。自分より立場が下の人に近づいて、自らの庇護欲と独占欲を募らせた末に、相手が庇護の対象じゃなくなるとサッと離れていく、ということを繰り返しているのです。しかも、その全てを全く無意識のうちにやってのけるのです!

自分の気持ちと向き合う怖さ

そんな梓にも、ついに自分の心と向き合う瞬間が訪れます。梓にとって憧れの先輩である瀬崎未来は、今でこそ部で一番の実力者ですが、入学当初はあみかと同じく初心者で、栞に面倒を見てもらう立場でした。だからこそ彼女はあみかの気持ちをよく理解できるし、今のあみかと梓との関係を、昔の自分と栞との関係に重ねて見ていたのです。そして、優しく梓に語り掛けます。

「あみかだって、きっとそう思ったんやと思うよ。あの子は多分、梓と同じ目線に立ちたいって考えたんやと思う。だから、カラーガードになった。ちゃんと自分の意思で、やりたいことを決めた。けどさ、梓にはそれが怖かったんやろ? 自分が必要とされなくなるのが嫌やった。……違う?」
(中略)
「……先輩の、言うとおりです」
認めた途端、左頬がじんとうずいた。志保に叩かれた場所だった。
「中学生のころ、うちには大好きな友達がいたんです。その子は教室でひとりぼっちで、友達が全然いなくて。でもうちだけには気を許してくれてて。その子が必要としてるのが自分だけだってことが、すっごく気持ちよかった」
(『同 後編』、221ページ)

何故梓はこれほど長い間自分の気持ちに気付けなかったのか。それは、そうすることが自分の中の最も醜い感情と向き合う事に他ならないからです。あみかや芹菜に必要とされていることがたまらなく気持ちいい、そんなヤバい感情が自分の中にあるという事実を認めることが出来なくて、必死に目を背けていたのがこれまでの梓だったのです。

例えるならば、それは、小さい子どもが虫を殺すことに快感を覚えたり、映画やマンガの残虐なシーンに憧れたりするのと同じような、本来であればあってはならない感情、決して他人に明かしてはいけない感情である、という深層心理が梓の心に蓋をしていたのでしょう。

しかし、先輩から指摘される形でついに自分の心と対面した梓は、自分は自己満足のために芹菜やあみかを利用した酷い奴だ、という強い自己嫌悪に陥ります。それに対して、未来先輩はこう言ってのけます。

「利用して何が悪いん?」
予想外の反応に、梓はとっさに顔を上げた。頬の筋肉をこわばらせる梓とは対照的に、彼女の声音は軽やかだった。
「だってさ、友達同士なんてそれでもべつによくない? 互いに得るものがあるならいいやんか」
「ですけど、」
「だいたい、利用するってだけじゃないやろ? 好きじゃないと、そもそもそこまでいろいろやってあげられへんって」
(『同 後編』、223ページ)

我々はよく、たった一つの真実が心のベールによって隠されていて、そのベールを一枚ずつ引き剥がした先で見えてくるものこそが唯一絶対の真実である、というような勘違いをしてしまうことがあります。しかし、人間の心とは果たしてそんなに単純なものなのでしょうか。

例えば、自己犠牲というものを考えてみましょう。有名人がボランティアや募金活動をしているのを売名行為だと言って批判する人が大勢いますが、それは「不純な動機が少しでもあれば、それは自己犠牲じゃない!」みたいな極論に陥った人の思考です。「自分の顔と名前を売り込みたい」という動機と、「困っている人を助けたい」という動機は、決して二律背反なものではないのです。そして、前者のような動機がほんのちょっとでも混ざっていれば、彼の中にある善意は完全否定される、なんていう極論は空虚で無意味なものでしかありません。

梓と芹菜の関係もまた、歪んだ共依存のような関係だと見ることもできれば、本当にお互い大好きだったから一緒にいたと見ることも出来ます。梓があみかに対して抱いていた気持ちも、そこに庇護欲や独占欲があったと取ることも出来るし、ただ単に好きだったからで説明出来たりもします。

こうした未来先輩のアドバイスのおかげで、梓は立ち直り、後にあみかや芹菜と仲直りすることもできました。

あみかと芹菜のヤバさ

さて、これまで延々と梓の中にある庇護欲と独占欲の問題について掘り下げてきましたが、本当にヤバいのは梓だけだったのかと考えてみると、どうも、あみかと芹菜も相当ヤバいぞと言わざるを得ないわけです。

例えば、中学時代に修学旅行の計画を立ててる場面。梓は芹菜から「アンタ」と呼ばれるのが気に食わなかったので「ちゃんと名前で呼んで」と言いますが…

「……佐々木」
「え、まさかの苗字呼び? 名前で呼んでくれへんの?」
「名前は嫌」
そうぴしゃりと言い放ち、芹菜はその目をわずかに細めた。値踏みするように、その視線が梓の友人たちに向けられる。彼女たちは計画を立てるのに夢中になっていて、こちらの視線には気がついていないようだった。
「ほかの子らはさ、みんなアンタのこと名前で呼んでるやんか。だから、私は呼ばない。ほかの子と一緒なんは、嫌やから」
(中略)
「なんかそれ、告白みたい」
「は?」
「ほかの子と一緒にされたくないって、つまりはうちの特別になりたいってことやろ?」
そう問うと、今度こそ芹菜は耳まで赤くなった。その熱を隠すように、芹菜が顔を背ける。
(『同 後編』、139~140ページ)

さらに、梓と芹菜で前髪の話をしている時には…

「うっとうしそうやなとは思っててん。なんで前髪伸ばしてたん?」
「顔、見られたくなかったから」
「なんで? 美人やのにもったいない」
素直な感情を口にしながら、梓は芹菜の前髪を持ち上げた。黒髪の隙間からのぞく瞳が、きょろりとうろたえたように動いた。その顔が、突然ぼっと赤く染まる。火照る頬をごまかすように、芹菜は梓の手を払いのけた。
「佐々木のそういうとこ、めっちゃ質悪いと思う」
「なんで? 思ったこと言ってるだけやのに」
「そういうとこ!」
芹菜が唇をとがらせる。その必死さが可笑しくて、梓はつい噴き出した。
(『同 後編』、177~178ページ)

もうね…、芹菜さん、どんだけ梓のこと大好きなんだよ! しかも、その後、ハサミを取り出して梓に向かって「私の髪切って」とか言い出しますからね、この子は。

芹菜のヤバいところは、普段はクールぶってるのに、梓に何か言われたらすぐ顔に出ちゃうところです。それを隠そうとしてテンパっている姿も、梓さんサイドの庇護欲をそそることでしょう。ホンマ、そういうとこだぞ、柊木。

次、あみかちゃんの番です。

トロンボーンパートの1年生だけで練習している時に、太一と志保が喧嘩しそうな空気になってきたので、梓が気を使って2人ずつに分かれて練習しようと提案します。梓が志保を連れて立ち去ろうとすると、あみかが声をかけてきます。

「待って、」
振り返ると、あみかが必死な面持ちでこちらに手を伸ばしていた。その小さな手が、梓のシャツの袖をつかむ。クン、と後方から引っ張られ、梓は思わず足を止める。
「どうしたん?」
こちらの問いに、あみかは何も言わなかった。彼女の手にこもる力が、よりいっそう強いものとなる。振り返るが、下を向いているあみかの顔は髪に隠れてほとんど見えない。
「……あみか?」
名を呼ぶと、ぐすんと鼻をすする音が聞こえた。まさか、泣いているのだろうか。慌てて振り返ろうとした梓の背に、あみかが額を強く押しつける。すがるようにシャツに指を引っかけ、彼女はささやくような声でつぶやいた。
「待って。私を捨てないで」
「何言うてんの」
その大げさな言い方に梓は思わず苦笑したが、あみかからの返事はなかった。
(『同 前編』、127~128ページ)

何これ? こんなんされたら誰だって母性くすぐられるやん…。梓が居なくなることが怖くて仕方がない、ずっと私のそばにいてほしい、という感じで梓への依存度MAXなのが本当にヤバいです。(この状況のヤバさを自覚していたからこそ、あみかは後にカラーガードに志願したのだとも言えるでしょう。)

はっきり言おう。梓も相当ヤバい奴だけど、あみかと芹菜の方もたいがいだわ。こいつらの行動、尻尾振りながら飼い主のあと追いかけていく子犬じゃん。首輪で繋がれて梓に飼育されたいですっ!っていうオーラ全開になってるやん。

ここで、梓の中学時代の部活動を見てみると、同じトロンボーンパートにいるのは塚本修一、部内でよく話す友人はあの黄前久美子。…うん、どう考えても子犬って感じじゃないわな。ぶっちゃげ、こんな可愛げのない奴らと一緒にいて何が楽しいの?って感じだわ。

その反面、部活を終えて教室に戻るとそこには梓のことが大好きな芹菜が待っていてくれて、高校ではあみかがいつも梓の後ろを付いてきてくれるわけですよ。こんなことされたら、そりゃ、梓も舞い上がってしまいますわ…。これはもう仕方のない事ですよ。

梓と未来

ところで、2人の健気な恋人に囲まれて梓はさぞかし満足しているだろうと思いきや、実は梓の本命は別の人物だったのです! 上でも登場した、同じトロンボーンパート所属の瀬崎未来先輩です。

未来は普段はとても厳しい先輩なのですが、それは意識的に厳しく接しようと努めているだけで、本当はとても繊細な人だということが分かってきます。

「なんか一人で長々と関係ない話しちゃったな。こういううざい先輩にはならんとこうと思ってたんやけどなー、どうにも上手くいかんわ」
「いや、未来先輩に対してうざいと思ったことないですよ。うち、先輩のことめっちゃ好きなんで」
相手の反応がなかったことを不思議に思って顔を上げると、顔を真っ赤にした未来と目が合った。(中略) 彼女は赤い顔を慌てたように両手で隠した。赤くなった耳までは、その手をもってしても隠し切れてはいなかったが。
「先輩、何照れてるんですか」
「そりゃ照れもするよ、面と向かってそんなこと言われたらさ」
未来の足がじたばたと上下する。その仕草があまりにも子供っぽかったものだから、梓はつい口元を綻ばせた。
(『同 後編』、127ページ)

おいおいおいおい! 未来先輩の反応可愛すぎだろ…。どんだけ純情な乙女なんだよ…。

こんな先輩に梓も負けじとガツガツ踏み込んでいきます。

「うちも、未来先輩のことめっちゃ好きです」
(中略)
梓の発した言葉に、未来は顔を赤らめた。照れているのを隠すように、彼女は冗談めいた口調で言う。
「はっはっは、そうでしょ? やっぱりね、こんないい先輩、ほかにはなかなかおらんからね」
「ほんまにそう思います。私、先輩に一生ついていこうって思いました」
「ここで一生を使っちゃうの? 早ない?」
「早くないです」
(『同 後編』、226ページ)

梓…お前マジでどんだけ他人の人生弄べば気がすむんだよ! 未来先輩は高校入ってからずっと部活に打ち込んできて、たぶん恋愛経験とかほとんどないピュアッピュアな女の子やねん。そんな子に向かって「先輩に一生ついていこうって思いました」とか、これもうプロポーズしてんのと同じだから! マジでちゃんと責任とれよ、お前。

この世に、梓×あみか派、梓×芹菜派、そして、梓×未来派という、決して交わることのない3つの派閥が生まれた瞬間である。こうして、また次の世界大戦が始まるのです…。