新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『SSSS.DYNAZENON』とYoutuber文化

『SSSS.DYNAZENON』第6話は、いわゆるYoutuber的なもの、仲間内で盛り上がるネタを投稿して再生数を稼ぐ行為に対して、極めて示唆的な描き方をしているように思います。
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またこれは、同じTRIGGER製作のアニメ『SSSS.GRIDMAN』第4話におけるYoutuberの描かれ方と通じるものがあります。
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そこには、昨今のYoutuber文化のような物への批判的姿勢があります。要するに、Youtuber的な「ノリ」がいじめやセクハラ等と表裏一体のものであることが、しっかりと描かれているのです。

その直後に教室でクラスメイトの女子2人にいじられる蓬くんを描くのも非常に示唆的だと言えます。
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蓬くんは笑っているけれども、これだって見ようによってはいじめに近いものだと捉えることもできるわけです。いじめかそうでないかの線引きはとても曖昧で、簡単に決められるものではない。だからこそこの問題は難しい。

これはとても現代的でチャレンジングなテーマであるように思うけれど、これが本筋のストーリーとどのように関連してくるのか、後半がとても気になる。

『スーパーカブ』第6話のプロぼっち精神

スーパーカブ』第6話、鎌倉への修学旅行当日に発熱し欠席となった小熊ちゃん。結局、すぐに平熱に戻り、なんと、自分のスーパーカブで鎌倉へ向かうというとんでもない行動に出る。時折礼子に電話をかけながら鎌倉を目指す小熊だったが、一方そのころ礼子はというと…

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バスの車内、礼子だけ一人で座ってる…
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鎌倉の大仏に来たのに、周りにクラスメイトが誰もいない…

おい、スタッフ! これ絶対わざとやってんだろ!

やべえよ…やべえよ…。礼子さん、完全にぼっち状態じゃねえか…。ていうか、もし小熊がカブで駆けつけて来なかったら修学旅行の間ずっとぼっちだったって事だよね、これ。

ところが礼子さんは一切気にしてない様子。そりゃそうだよな…。夏休みにバイク改造して富士山に突撃するようなヤベー奴だもん。クラスメイトからどう思われようが気にしないのだろう。

そんで小熊ちゃんが合流し旅館でくつろいでる時には、

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旅館の部屋、奥にいる同室の子たちとは話す素振りすらなし
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露天風呂、やはりクラスメイトは誰もいない…

もうこの一連のシーンだけで、ああ、この子たちクラスで浮いてるんだっていうのが分かる。

でも、この子達にとっては、クラスメイトからの目とかどうでもよくて、ただ自分の好きなことを貫き通してるこの時間が最高なんだな、と思う。

これは『宇宙よりも遠い場所』と同じ構造ですよね。第4話の「ざまあみろ」と言う台詞を聞いて、その共通点に気付いた人は多いと思うけど。

それだけに限らず、最近このテーマはトレンドじゃないですか? 例えば『ゆるキャン△』。シマリンもなでしこも、一人でキャンプをすることを恥ずかしいとは一切思ってないし、寂しいとも思ってない。彼女たちにとっては、1人だろうが何人だろうが、ただ自分の好きなことを一生懸命やってるだけなんですよ。

例えば、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』。メンバーは同じ同好会に入っていても目指す方向性もやりたい事もバラバラ。でもそれが悪いことだとは考えず、皆が時には協力し、時には自分一人で、やりたいことを貫いていく。

これらのアニメに共通しているのは、自分が本当にやりたい事をやろうとする時、人は孤独なのだということをしっかりと描いていることですよね。そして、そんな風に孤独と向き合った先で出会う、共通の趣味や目標を持った同志というのは、普通の友達とは全然違う特別な関係になるんだということも、しっかりと描かれる。

見事としか言いようがないですね。仕事が忙しくてなかなか本を読めない日々が続いていますが、是非とも原作小説も読んでみたい。

『氏名の誕生』が面白い

尾脇秀和著『氏名の誕生』、想像以上に面白かった。

現代に生きる我々は、自分達の名前は姓(ファミリーネーム)と名(ファーストネーム)がセットになって構成されていて、それが古代からずっと続いてきたものだと考えている。しかし、江戸時代、武士達の名前はだいたい以下のような感じだった。

  • 水野 越前守 源 忠邦
  • 大隈 八太郎 菅原 重信
  • 西郷 吉之助 藤原 隆盛

現代人からしたら「は?」という感じである。このうち、前半2つだけが日常的に使われる名前で、後半2つは正式な書面に押印する時などしか使わないものだった。なんでこんな事になってしまったのか、そして、明治以降どのような変遷があったのか、本著ではこの経緯が丁寧に解説されていく。

まず、ややこしいので名前の要素を4つに分けよう。

  • ①水野 / ②越前守 / ③源 / ④忠邦

本当は③のうしろに朝臣(あそん)などの敬称が入る場合もあるが、ややこしいので省略する。

そもそも平安・鎌倉時代、日本人の名前は③④だけから成っていた。藤原道長紀貫之菅原道真源頼朝とかいう有名な名前も全部このタイプである。その名前の前に、○○守とか、○○大臣、ナントカ納言といった敬称、要するに天皇から与えられた役職名を付けるようになった。日本には昔から、位の高い人物の名前を直接呼ばないようにする習慣があったため、この敬称(②)が、名前のような使われ方をし始める。ところが、例えば同じ藤原姓で同じ役職の人間が複数いては実に紛らわしい。そのため、居住地・任官地などをさらに前に付けて区別するようになった。これが称号と呼ばれるもの(①)であり、我々が一般的に苗字と呼んでいるものの始まりである。

戦国時代になって朝廷の力が衰えると、誰彼構わず「我は○○の守である」などと自称し始めたが、徳川幕府が成立すると「さすがにそれはヤバくね?」ということになり、幕府が武士の名前を一元管理するようになった。大名など位の高いものは「○○守」など、より位の低い武士なら例えば浅野「内匠頭」、吉良「上野介」というように、朝廷が形式的ではあるが役職を与え、それが彼らの名前として機能した。この時代、「名は体を表す」というのが当たり前だった。

そして当時、武士は、幼少期⇒青年期⇒朝廷から許された官職名、というふうに改名を重ねていくのが当たり前だった。だから教科書でよく出て来る水野忠邦も、幼名は於菟五郎と呼ばれ、その後何度か改名があり、老中の頃は越前守だったのである。忠邦という本名が日常生活の中で使われることは基本無い。いや、当時はどっちが本名かという認識すら無かっただろう。この人の名前は「水野 越前守」であり、他に③④がある、みたいな認識だった。ちなみに④のことを名乗(なのり)と言い、これは親などによって付けられるものではなく、占い師の助言などを受けて自分で付ける名前である。つまり、子どもの頃には④は存在しない。当時は、あくまでも成長や出世とともに変化する②が名前だという認識なのである。

一方、官職名を付ける事を許可されない下級武士なども「官職風」の名前を付けた。なので、平安時代には存在しないインチキ官職名が無数に存在していた。そういった風習は庶民にも取り入れられ、~衛門、~助、~兵衛など、語尾に官職風の漢字を入れ、「~」のところに個人の趣味や語呂に合わせて名前を入れるのが当たり前になった。この頃、官職とは関係ないが、生まれた順番を示す太郎・次郎・三郎などの名前も広がり、②の一種とされるようになった。当時の一般庶民からしたら、普段使うのは②だけ。①は知っていても普段はほとんど使わない。③にいたっては全く分からない、④などそもそも設定しない、ということが多かった。

つまり、①②こそが名前の実体であり、③④は何かよくわからない、というのが江戸時代の大半の人々の認識だったのである。

こういう状況で明治維新を向かえると、新政府に担ぎ上げられた公家集団は昔ながらの③④を重視しようとした。ところが、庶民も士族も、①②の組み合わせこそが真の名前だという認識のもとでずっと暮らしてきた。この認識の齟齬によって明治初期に大混乱が発生するのである。体制の変更によって名前を何度も変えさせられた者、江戸時代に付けていた名前を無理やり変えさせられた者などが出てくる。政府としては、国民を管理するために各人の③④を把握しておきたい、けど、「いやそもそも俺、名乗とか知らねーし」みたいな事例が続出する。もうしっちゃかメッチャかの事態。その内容は本著に詳しく書かれている。

そうした中、「もう官職風の名前(②)と名乗(④)を分ける意味なくね?」という声があがる。そして、人の名前として、まず姓として①を使い、下の名前は②か④どっちを使っても良い、というルールになった。大久保利通西郷隆盛伊藤博文などは①④の組み合わせ、板垣退助小村寿太郎などは①②の組み合わせである。そして、一般庶民も苗字の使用が義務付けられ、多くの人は昔から家に伝わる苗字を採用したが、自分の名字が分からない者はこの時新たに苗字を創設した(当然ながら、庶民には④など馴染みの薄いものだったから、多くの国民が①②の組み合わせを選択した)。これが、明治期に起きた名前の一大変革である。

こうしてみると、日本人の名前というあまりにも身近なものに対して、自分がいかに何も知らなかったかがよく分かる。まさに目から鱗の読書体験だった。

『スーパーカブ』が描く田舎の風景

スーパーカブ』、2021年の春アニメの中で一番注目している。

HONDAが監修しているので、カブの画や音が素晴しいのは言うまでもないが、やはり異彩を放っているのは、強烈にリアルな田舎の風景ではないだろうか。

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主人公・小熊ちゃんの暮らす古びた団地
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道だけは大きく立派だけど周りには学校と田畑くらいしかない風景
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駐車場だけやたらと広いコンビニ
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建替えする代わりに取って付けたような耐震補強を施して糊口をしのいでいる校舎

いわゆる『のんのんびより』的な、きれいな川や森がある里山のような風景とは全く違う。けれども、『スーカーカブ』に描かれるこれらの風景こそが、平成・令和において最もリアリティのある田舎の光景ではないだろうか。

本作を一言で言い表すと、主人公である小熊ちゃんが、スーパーカブと出会ったことをきっかけにして自分の世界を広げていく物語である。原付くらいで大げさなと思われるかもしれないが、平成・令和の時代においてその感覚は、少なくとも本作の舞台となっている地域のような「田舎」においては、決して誇張ではないリアルなものとなりつつある。

平成・令和の時代において、自動車やバイクを持たないということは生殺与奪の権を奪われるのと同じくらいのインパクトがある。

平成の30年間で地方の人口は減少し地方自治体の財政は厳しくなった。それによって、かつては各地域を網の目のように結んでいた鉄道や路線バスは次々に廃線となり、自家用車の必要性は増大した。それでも、病気や貧困など様々な理由によって自家用車を持てない人がいる。また、近年は高齢者が加害者となる交通事故が問題視され、健康な人以外は運転をすべきでないという風潮が強まっている。こういう状況の中で、田舎で暮らしながら生活の「足」を奪われる人はこれから益々増えていくだろうと思う。

移動の自由を奪われるということは、ただ単に生活が不便になるというだけでは済まない。それは、人間らしく生きるために必要なあらゆるサービスや機会や恩恵を受けられなくなるということである。狭い範囲でしか生きられない状況下において、人は物理的にだけでなく、精神的にも困窮していく。

第2話、お昼休みに小熊が白米にレトルトの親子丼をかけてレンジでチンしようとするけど、他の生徒にレンジが使われてたので結局そのまま食べるシーン。この1分足らずのシーンで彼女の置かれた状況が実によく分かる。彼女にとって食事とは、ただ空腹を満たすためだけのもの。だから、食材が冷えていても何も気にしない。

そんな彩りのない無味乾燥とした日常は、カブを手にしたことで一変する。遠くのスーパーやホームセンターに買い物に行くという「非日常」は、「日常」に変わった。それは私達大人からしたら本当に些細な事のように思えるけれど、原付免許を取ったばかりの学生からしたら大きな変化。

今まで知らなかった場所に行く喜び、自分の世界が広がる開放感。本作はこの繊細な心の動きを見事にアニメとして描き出してみせる。だが、実はそれは、私たちが子どもの頃に一度は経験した感覚。初めて自転車に乗った時、初めて原付に乗った時に、私たちが経験した気持ちが呼び覚まされる。

『ゆるキャン』アニメ2期

ゆるキャン』セカンドシーズンはとにかく良いところが多すぎた。

まず1期1話とオーバーラップする第1話の美しさ。本作は、ソロキャンプという特別な体験をしつつも、その中でやっていることはカップ麺を食ったり、LINEしたり、読書だったりというありふれた事で、でもそのありふれた事が普段とは全く違って感じられるという「気付き」を、驚くほど繊細に描き出していく。

そして3話の土岐綾乃の圧倒的なインパクト。黒沢ともよさんの怪演が光る。実質この第3話にしか登場してないのに視聴者に残すインパクトがヤバすぎる。もし第3期を原作通りのエピソードで作るのなら、メインは綾乃&シマリンによる大井川吊り橋探索原付不倫旅行がメインなので是非とも3期やってほしい。

その後、なでしこがバイトを始めたり、野クルメンバーが山中湖で凍えそうになってたりと色々ありつつ、なでしこソロキャン回である。原作ファンからは、さくリン不倫旅行回として非常に有名だが、それだけでは終わらせないのがアニメの素晴らしいところ。8話冒頭「うなぎおいし浜松〜」のインパクトが強すぎて元の歌詞を忘れそうになるけど、そこからのラスト「夢は今も巡りて」につなげるのは反則過ぎる。なでしこにとっては静岡こそが故郷、だからこそこの選曲なんだと気づくと、もう美しすぎて涙出てきそうになる。

さすがに8話を超えるものは無いかと思いきや、第9話、リンとお爺ちゃんの2人ツーリング回。そして11話、眠気に襲われて温泉やキャンプ場で前後不覚になる志摩リン。もうこの志摩リン最高なんだけど、あそこまで力が抜けたようになっているの、どう考えてもなでしこが側にいるからよな。これが例えば、大垣と2人でキャンプとかだったら、どんなに眠くてもあんなにはなってないと思われる。そして、なでしこはなでしこで元カノ・斎藤の前でリンとの親密さをアピール。その斉藤も「18になったら車の免許取りたい」って要するに、志摩リンの保護者ポジションは渡さないという宣戦布告ですよね。

という感じで毎回良いところ盛りだくさんだった第2期も、4月1日の放送で最終回。作中世界も、現実の世界も、もうすぐ本格的な春がやってくる。

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というか、どうやったらこんな美しいPVを作れるのだろう。「ここにも春が来る」には色々な意味が込められている。作中ではもう3月で、ずっと冬キャンを題材としてきたこの作品にもいよいよ春がやってくるという意味。山間の雪深い山梨にもようやく春がやってくるという意味。そして、もちろん、我々が生きる現実の世界に訪れる春。そして、コロナ禍という冬が終わり春がやってくるという希望の意味も込められているだろう。

だが現実の世界では、ゆるキャン2期が終わり春がやってくると、すぐにこれがやってくる。

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いやもう楽しみすぎだろ。