新・怖いくらいに青い空

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たとえ言葉が刺さらなくても―『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』感想

響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 後編』が発売されてから間もなく1年が経とうとしている。この節目に本作についての私自身の読み方だったり解釈をまとめておこうと思う。

まず、この最終楽章の最大の見どころは、何と言っても、黄前久美子と黒江真由との間に漂う不穏な空気である。3年生になり晴れて吹奏楽部の部長となった久美子と、3年生で北宇治高校に転校してきた真由。二人の水面下での争い、部活というものに対する考え方の違い、それが、執拗に、何度も、何度も繰り返し描かれる。その中で真由は、まるで呪いの呪文のように、一つの言葉を繰り返し口にする。

「そのオーディションって、辞退とかできないのかな」
「はぁ?」
葉月の声が裏返る。教卓に立っていた緑輝が、かけていた眼鏡をそっと外した。
「真由ちゃんはコンクールに出たくないん?」
「そういうわけじゃないんだけど、私が出ちゃうとひと枠埋まっちゃうでしょう? 北宇治で長くやってる子が優先してコンクールに出場するべきだし、ソロを吹くべきだって思ってる。……おかしいかな」
(『同 前編』、260~261ページ)

「久美子ちゃん、やっぱり私、辞退しようか?」
「オーディションを?」
「だって、ユーフォってだいたい二人くらいじゃない? 私のせいでもし二人のうちのどちらかが落ちたら申し訳ないというか……」
(『同 前編』、306ページ)

「久美子ちゃん、大丈夫?」
隣から聞こえる声に、悪気がないことはわかっている。だが、いまばかりは聞きたくない。平気だとアピールするために、久美子は歯を見せるようにして笑顔を作る。
「大丈夫って、何が?」
「ほら、私がソリになっちゃったし。やっぱり代わったほうが――」
「真由ちゃん、お願いだから二度とそういうこと言わないで」
(『同 後編』、144ページ)

「久美子ちゃんにね、話したいことがあって」
「何かな」
「私、やっぱり次のオーディションは辞退したほうがいいかと思って」
勘弁してくれ、と口から飛び出そうになった悲鳴をすんでのところで抑える。なんと言葉を返すのが正解かわからず、久美子はまじまじと真由の顔を見つめた。真由がそういった発言をするのは、これで何度目かわからない。
「全国の舞台でソロを吹くのは久美子ちゃんでいいと思うんだ、私」
(『同 後編』、248~249ページ)

「今度のオーディション、私ね、やっぱり辞退したほうがいいんじゃないかって思って」
反射的に久美子は自分のこめかみを押さえていた。ドクン、と大きく血管が脈打つ。真由のことはいい子だとわかっている。だが、これ以上は限界だった。込み上げてきた落胆を、久美子は素直に吐き出した。
「どうしてそんなこと言うの、ここまで来て」
「ここまでっていうか、私、ずっと言ってたけどなぁ。辞退したほうがいいんじゃないかって」
(『同 後編』、273~274ページ)

ソロは部長である久美子がやった方がいい、だから私は辞退したい、そう執拗に言い続ける真由。ざっと見ただけで5回である。怖ろしい…。

最初はスルーしていた久美子を業を煮やし、真由を説得しにかかる。

「それでも、私は真由ちゃんと公平にオーディションで競いたいんだよ」
無意識に伸びた手が、真由の腕を捉えた。力を込めると、制服越しに彼女の骨の感触が手のひらに伝わってくる。互いの視線が、まっすぐに交わった。彼女の白い肌が、うっすらと朱に色づく。刺さってくれ、と思った。刹那的に脳裏をよぎったのは、いつかの沙里の横顔だった。
(『同 後編』、277ページ)

この場面を読んで溜息が出た。刺さってくれ。その一言に、久美子の抱える問題が全て集約されている!

北宇治高校に滝先生が赴任し、吹奏楽部は全国大会出場あるいは全国大会金賞を目指す実力主義の集団となった。この滝体制のもとで一番恩恵を受けたのは誰か? 麗奈ではない。麗奈はたとえどんな体制であっても自分を曲げずにトランペットを続けていただろう。最も恩恵を受けたのは、他でもない久美子である。小学生の時からユーフォニアムを演奏しているというアドバンテージを持って、1年生の時からずっとコンクールのメンバーに選ばれてきた。そして、中学時代とは違い、久美子が先輩を押しのけてAに入っても文句を言ってくるような部員はいない。

部員の実力を公平に判定してくれる顧問がいて、部員全員がその判定を尊重して、全力で上を目指していく。久美子はそのような環境こそが居心地の良い、自分の居場所だと思っているのである。だから、その体制に懐疑的になっている部員、その体制から離れようとしている部員がいたら、久美子は必死に説得して、部の体制が変質しないように努めてきた。

「ありがとう、サリーちゃん。いままで頑張ってくれて。サリーちゃんのおかげで百三人、全員いるよ。一年生だって、まだ一人も抜けてない」
「久美子先輩……」
沙里の瞳が光でにじむ。刺さった、と久美子は心のなかで確信した。
(『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編』、215ページ)

義井沙里だけじゃない。田中あすか、鈴木美玲、久石奏。久美子はいつだって、彼女らが望んでいる言葉を発して、彼女達の心を刺してきた。

久美子にとって「刺さる」とは、相手が自分の思い通りの行動を取ってくれる、と同義である。こうして久美子は相手の行動をコントロールして、部内に不協和音が広がることを防いできた。入部当初はただ流されるままに傍観者的な立ち位置にいた彼女は、いつの間にか滝体制の一番の信奉者となり、それを維持しようと努める体制側の人間になっていたのだ。そうすることで久美子は、久美子自身の居場所を守ろうとしていたのだ。

ところが真由にはこのやり方が全く通用しない。久美子の言葉は真由には刺さらない。

久美子が美玲や奏や沙里を説得するのは、干草の山の中から一つのカギを見つけるようなものである。祖のカギとは、中学時代の苦い経験だったり、周りから評価されないことへの憤りだったりする。それを探すのは根気のいる作業だが、カギさえ見つかれば久美子の言葉は簡単に刺さるようになる。
ところが、真由を構成する干草の山には、カギなど一つもないのである。無数の小さな干草が無数に集まって黒江真由という人間を構成している。ただそれだけ。だからこそ久美子がいくら探してもカギは見つからない。久美子はショックを受け、居場所を奪われるという恐怖を覚える。

それでも久美子は、月永求や奏とのやり取り、田中あすか宅への訪問、そして麗奈・秀一との対峙を通して、その恐怖心を払拭していく。

刺さらなくてもいい。久美子の思いどおりの振る舞いなんて、しなくていい。ただ、真由にもわかってほしい。ぶつける感情が、自身のエゴだなんてことくらい自覚している。それでも、久美子は訴えずにはいられなかった。
(『同 後編』、326ページ)

これこそが武田綾乃先生が描こうとした成長の姿なのではないだろうか。3年間努力し続けることや、部長としての責務を果たすこと、それ以上に大きな価値のある成長。

誰かの居場所は、また別の誰かの居場所でもなければならない、そして、その居場所の意味合いは人によって千差万別であるということ。誰も自分の居場所を奪うことなんて出来ない。であるならば、他人のことを分かった気になって行動を意のままに操ることが出来るなんて思うのは、傲慢で己惚れた考え方だ。

その事実に気付けたことこそが、これから教師を目指す久美子にとって何より大きな成長だったのではないだろうか。これは、ただ何となく毎日を過ごすだけだった少女が、高校生になり、大切な仲間と出会い、自分が本当に夢中になれる特別な居場所を見つけていく物語。

というわけで、『響け! ユーフォニアム』、堂々完結である。TVアニメでも描かれた久美子1年生時のエピソード、その奥にある2年生編『リズと青い鳥』『誓いのフィナーレ』の世界、そこからさらに奥へ奥へと突き進んだ先にある『響け! ユーフォニアム』の最深部へ、我々はついに到達したのだ!

だが、これで旅は終わりではない。新たな短編集の発売や最終楽章アニメ化の予定もある。そして何より、この作品を読み返すたびに、これからも新しい発見があることだろう。我々は最深部に辿り着いたというだけで、その余りにも広い最深部のことはまだ何も分かっていないに等しいのだ。

『シャーマンキング』再アニメ化によせて

SHAMAN KING(1) (マガジンエッジKC)

SHAMAN KING(1) (マガジンエッジKC)

  • 作者:武井 宏之
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: コミック

シャーマンキング

決して完璧な作品というわけではない。物語の後半は、他のジャンプ系バトル漫画の多くがそうであるように、展開は遅く、グダグダ感が否めない。唐突な新キャラの登場。二転三転する設定。能力のインフレにより収拾の付かなくなる展開。それゆえに、一度は連載打ち切りにもなった。

それでも、この作品には全てが詰まっている。現代社会が抱えるありとあらゆるテーマが、シャーマンファイトという舞台装置を駆使して余すところなく描かれていた。

近代科学は、呪術や信仰を駆逐するものなのか? 科学技術が発達し、デモクラシーが普及した現代において、宗教的指導者はどのような存在であるべきなのか? 20世紀は、伝統と現代的価値観との間で揺れ動きながら、少しずつ、ただ国民の上に君臨するのではなく、国民と喜びや悲しみを共有し、平和を祈念するという現代の君主像が確立されていった時代。2つの全く異なる憲法の下で国家元首を勤めた昭和天皇と、その息子である上皇陛下。第二次大戦時をイギリス国民とともに戦ったジョージ6世と、その娘・エリザベス女王。そして、ヨハネ・パウロ2世をはじめとする20~21世紀の歴代ローマ教皇たち。彼らがその生涯を通して悩み、考え続けた壮大な問い。特に大きな野望もなく、ただ楽にユルく生きるためにシャーマンファイトに参加し、それでいて心の奥底に静かに闘志を燃やしている葉の姿は、その問いに対する一つの答えなのかもしれない。

私達人間が進化し、文明を発達させてきたことは偶然の産物なのか? それとも、人智の及ばない大きな存在に導かれて私達はここまで来たのか? この母なる地球にとって、我々人類とは一体何なのか? 人類の幸福のために環境を破壊し続けることは、どこまで許されるのか? ホロホロは、自らの生まれ故郷である北海道の自然を守るためにシャーマンキングを目指すが、人間が生きるために必要な範囲で自然を犠牲にすることは否定しない。文明の進歩・発展と、自然環境の保護は両立できるのか? 我々人と自然がともに共存することは可能なのか?

正義とは何か? 悪とは何か? 法や宗教は、人類が考える正義を体現したものなのか? ラキストはこの世に絶対的な正義など無く、勝った者が正義になるだけであると説く。一方でマルコは、愛こそが正義、愛に背くことこそが悪なのだと説く。その2つの価値観は両立可能なのか? 本当に「中庸は現実の前に無力」なのか?

人類を滅ぼそうとするハオ一派と、それを阻止しようとする葉たち。この両者を分けたものは一体何だったのか? ハオを信奉した者は皆、理不尽な世界の中で傷付き、差別され、苦しみぬいた末に、ハオに救われた者達であった。それは、終わりの見えない不況と貧困の中からナチスドイツのような危険な思想が台頭してきた歴史と通じるものがある。それでも最終的にハオは、大きな愛の力で救われることになる。これは単なる漫画の中だけの絵空事なのか、それとも、どんな悪人にも救済の道は開かれているのか?

他者を殺し、他者から奪おうとするのは、人間の本性なのか? だとしたら、この世界で戦争を無くすことはできないのか? 「やられたらやり返す、やったらやり返される」、この復讐の連鎖を断ち切ることはできるのか? どうすれば人は、他者の罪を許すことができるのか?

もはや少年漫画という枠に収まりきれない。これは漫画という娯楽作品であると同時に、一つの壮大な文学であり、芸術であり、武井宏之という作家の全てが詰まった思想書である。こうした魅力があったからこそ、打ち切りの数年後に完全版という形でストーリーが追加され、完結を迎えることができたのかもしれない。まさに唯一無二の、不思議な魅力が詰まった漫画である。

それが来年、再びアニメ化されるという。数年前には作者が再アニメ化を断ったという話もあったので、これは驚きのニュースであった。ジャンプでの連載終了から15年、完全版の発光から10年以上が経過し、世界は大きく変化したが、シャーマンキングの中で掲げられたテーマは一切色褪せることなく、むしろその重要性はますます大きくなっている。監督やスタッフ、声優陣など、まだ分からない部分は多いが、続報を楽しみに待ちたいと思う。

『放課後ていぼう日誌』の熊本弁

今期アニメはもう『放課後ていぼう日誌』が放送延期になった時点で『かぐや様』の独り勝ちである事が確定したが、いよいよ7月から放送再会という事で今から心待ちにしている。

まず何より、制服を着たまま釣りを楽しむキャラクター達の可愛らしさが素晴らしいのだが、それを引き立てる風景描写の美しさと、魚の動きのリアルさがまた最高である。例えば、ピンと張り詰めた釣り糸の動き、食われまいとして必死に抗う魚の生命力、画面越しに磯の香りが伝わってくるかのような港の描写。神は細部に宿るとは、まさにこういうアニメのことを指すのだろう。

だが、九州出身者として見逃せないのが篠原侑さん演じる黒岩部長の熊本弁であろう。特に第3話、部長が陽渚に疑似餌の作り方を教えている場面、「ぎゃんして~、ぎゃんして~、こぎゃんすれば~」はもう最高すぎる。

いわゆる「こ・そ・あ・ど」の後に続くのが九州弁の場合、大抵「やん」である。例えば、福岡弁で「どやんしたと?」などと使う場合の「やん」である。ところが、熊本弁ではそれが「ぎゃん」に変わり、「こぎゃんすれば…」とか「どぎゃんしたと?」というふうに使う。しかもその場合頭の「こ・そ・あ・ど」は省略される場合があり、その結果、「ぎゃんして~」というふうになるのである。

九州になじみのない人であれば博多弁も熊本弁もだいたい同じに聞こえるだろうが、両者は全然異なる方言である。「ぎゃん」は福岡では絶対に使わない。「ぎゃん」は本作の舞台である熊本県芦北町を含む一帯の方言である。

本作は、全国的にポピュラーないわゆる博多弁的なもの(北部九州の方言)でなく、きちんと熊本弁をしゃべってるからもう絶対の信頼があるのだ。これもまた、神は細部に宿る、の一例だろう。

『BNA ビー・エヌ・エー』オープニング映像の生物学的モチーフ

アニメのオープニングは監督や制作会社の特色がよく現れるポイントだが、『BNA』のオープニングも実に中島かずき、TRIGGERらしいモチーフで満ちている。

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イントロの最初に出てくるDNA二重らせん構造。

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アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)から構成されるDNAの塩基配列

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遺伝系統樹

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円形の遺伝系統樹

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四角いコマに描かれる古代の生物。

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絵が引いていくとタイトルロゴに変化。黒いフォントが格子状の線で分けられ、DNAマイクロアレイの画像のようにも見える。

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曲の間でも背景に系統樹

これらの描写が作中でどのような意味を持つのかはまだ分からないが、OPを見て気付いたことをとりあえずご報告まで。

これはまさに、TRIGGERの伝統を体現したかのようなOP。過去のTRIGGER作品を見てみると、例えば『キルラキル』に出てきた生命繊維とは、生物は遺伝子の乗り物であるという利己的遺伝子の概念、言い換えるならば、生物は遺伝子が身に纏う服のようなものにすぎない、という考え方を象徴している。「なんだかよく分からないもの」と共存する、すなわち世界が多様性に満ちた時、人類は初めて遺伝子の支配から自由になれる。

そもそも『キルラキル』のスタッフが作った『天元突破グランラガン』からして、作中のドリルや螺旋はまさにDNAの二重らせん構造、そして生物の絶え間ない進化のメタファーに他ならない。

そして、TRIGGERとA-1 Picturesが共同制作した『ダーリン・イン・ザ・フランキス』。制服に付いているXとYの形をした模様、ステイメン(おしべ)やピスティル(めしべ)といった作中用語、そして、タイトルロゴの赤色と青色のXが混じり合っている図形。これらは全て、性染色体、生殖、相同組み換えのメタファーである。

生殖と遺伝子の相同組み換えこそが、遺伝的多様性の源泉である。生物が多様性を守り生き残るために、何億年も前から行われてきた営み。一見不合理で無駄なように思えるものこそが、実は我々の生存にとって決定的に重要なシステムなのだ。

というわけで、『BNA』のOPに現れる生物学的モチーフも今後必ず意味を持ってくるであろう。そもそもBNAという名称自体がDNA(デオキシリボ核酸)と関連しているのだが、実はBNAというものは実際にある。

核酸化学の分野では、DNAと性質(相補鎖とハイブリダイゼーションするという性質)は同じだけれども分子構造が異なるものが作られている。詳しいことは「人工核酸」とか「核酸アナログ」という言葉で検索してもらえばいい。*1人工核酸の構造を知りたい方は下のwikipediaに載っている。

いろんな人工核酸があるがその中にBNA(Bridged Nucleic Acid)というものがある。しかし、あまりにもニッチな内容なので、これがアニメと直接関係しているとは考えにくい。

*1:何故、こういうものが研究されているかというと、一番の理由は核酸創薬との関連である。DNAやRNAを薬として体内に入れようと考えた場合、天然の核酸ではすぐに酵素によって分解されてしまって薬効が無くなるという問題点があるため、酵素によって分解されにくい構造を持った人工核酸が盛んに考案されているのだ。

花子くんが可愛すぎて生きるのがつらい―『地縛少年花子くん』原作ネタバレあり感想

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泣かせたい、この笑顔。

もう可愛すぎるでしょ、花子くん。

普段は飄々としていて助手の八尋寧々ちゃんを苛めて遊んでいるドSな花子くんですが、たまに見せてくる人間味溢れる表情がもう可愛すぎて生きるのがつらい。

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特にこの泣き顔、怯えた表情。もう最高である。

何だろう。心の奥底から花子くんを虐めて泣かせたいという願望が沸々と湧き上がってくる。自分の中からこんなヤバい感情が出てくるなんて、ちょっと怖ろしい。

それもこれも全て花子くんが可愛すぎるのがいけない。緒方恵美さん声の少年という時点で可愛いのは分かってはいたが、まさかここまで破壊力高いとは…。

というわけで、現在12巻まで発売されている原作漫画の方も読んでみた。

地縛少年 花子くん(12) (Gファンタジーコミックス)

地縛少年 花子くん(12) (Gファンタジーコミックス)

これはあくまでも私の個人的な感想なのだが、この作品はいわゆる「中二病的自意識」についての物語なのかもしれないと思った。

自分は特別な存在だ、望めば何処にだって行くことができる、そんなふうにある種の自惚れや全能感に満たされていく時期が思春期というもので、月に憧れる柚木普くん(花子くんの生前の本名)の姿は、まさに思春期に自意識が際限なく拡大していく様を象徴している。

でもその自意識は、小さな生き物を殺して楽しんだり、暴力的なものに憧れたりするといった、思春期特有のヤバい感情と表裏一体のものであって、柚木司くんの存在はこういった暴力的で非倫理的な感情を象徴しているように思う。

そして、まだ理由は原作でも明かされていないけれども、普は司を殺してしまい、それと同時に、月にまで届くほどに肥大化した自意識をも切り捨てたのだろう。そして、普の自意識は学校という狭い空間の中に囚われ、死んだ後も七不思議の一人となって学園に住み続けている。

だとするなら、この物語は最終的に、花子くんの自意識というか魂を学園から解放していく、つまり花子くんの救済を目指すものとなるだろう。物語の結末は原作漫画で、そして、もし可能であればアニメでもしっかりと見届けたい。