新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『放課後ていぼう日誌』の熊本弁

今期アニメはもう『放課後ていぼう日誌』が放送延期になった時点で『かぐや様』の独り勝ちである事が確定したが、いよいよ7月から放送再会という事で今から心待ちにしている。

まず何より、制服を着たまま釣りを楽しむキャラクター達の可愛らしさが素晴らしいのだが、それを引き立てる風景描写の美しさと、魚の動きのリアルさがまた最高である。例えば、ピンと張り詰めた釣り糸の動き、食われまいとして必死に抗う魚の生命力、画面越しに磯の香りが伝わってくるかのような港の描写。神は細部に宿るとは、まさにこういうアニメのことを指すのだろう。

だが、九州出身者として見逃せないのが篠原侑さん演じる黒岩部長の熊本弁であろう。特に第3話、部長が陽渚に疑似餌の作り方を教えている場面、「ぎゃんして~、ぎゃんして~、こぎゃんすれば~」はもう最高すぎる。

いわゆる「こ・そ・あ・ど」の後に続くのが九州弁の場合、大抵「やん」である。例えば、福岡弁で「どやんしたと?」などと使う場合の「やん」である。ところが、熊本弁ではそれが「ぎゃん」に変わり、「こぎゃんすれば…」とか「どぎゃんしたと?」というふうに使う。しかもその場合頭の「こ・そ・あ・ど」は省略される場合があり、その結果、「ぎゃんして~」というふうになるのである。

九州になじみのない人であれば博多弁も熊本弁もだいたい同じに聞こえるだろうが、両者は全然異なる方言である。「ぎゃん」は福岡では絶対に使わない。「ぎゃん」は本作の舞台である熊本県芦北町を含む一帯の方言である。

本作は、全国的にポピュラーないわゆる博多弁的なもの(北部九州の方言)でなく、きちんと熊本弁をしゃべってるからもう絶対の信頼があるのだ。これもまた、神は細部に宿る、の一例だろう。

『BNA ビー・エヌ・エー』オープニング映像の生物学的モチーフ

アニメのオープニングは監督や制作会社の特色がよく現れるポイントだが、『BNA』のオープニングも実に中島かずき、TRIGGERらしいモチーフで満ちている。

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イントロの最初に出てくるDNA二重らせん構造。

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アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)から構成されるDNAの塩基配列

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遺伝系統樹

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円形の遺伝系統樹

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四角いコマに描かれる古代の生物。

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絵が引いていくとタイトルロゴに変化。黒いフォントが格子状の線で分けられ、DNAマイクロアレイの画像のようにも見える。

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曲の間でも背景に系統樹

これらの描写が作中でどのような意味を持つのかはまだ分からないが、OPを見て気付いたことをとりあえずご報告まで。

これはまさに、TRIGGERの伝統を体現したかのようなOP。過去のTRIGGER作品を見てみると、例えば『キルラキル』に出てきた生命繊維とは、生物は遺伝子の乗り物であるという利己的遺伝子の概念、言い換えるならば、生物は遺伝子が身に纏う服のようなものにすぎない、という考え方を象徴している。「なんだかよく分からないもの」と共存する、すなわち世界が多様性に満ちた時、人類は初めて遺伝子の支配から自由になれる。

そもそも『キルラキル』のスタッフが作った『天元突破グランラガン』からして、作中のドリルや螺旋はまさにDNAの二重らせん構造、そして生物の絶え間ない進化のメタファーに他ならない。

そして、TRIGGERとA-1 Picturesが共同制作した『ダーリン・イン・ザ・フランキス』。制服に付いているXとYの形をした模様、ステイメン(おしべ)やピスティル(めしべ)といった作中用語、そして、タイトルロゴの赤色と青色のXが混じり合っている図形。これらは全て、性染色体、生殖、相同組み換えのメタファーである。

生殖と遺伝子の相同組み換えこそが、遺伝的多様性の源泉である。生物が多様性を守り生き残るために、何億年も前から行われてきた営み。一見不合理で無駄なように思えるものこそが、実は我々の生存にとって決定的に重要なシステムなのだ。

というわけで、『BNA』のOPに現れる生物学的モチーフも今後必ず意味を持ってくるであろう。そもそもBNAという名称自体がDNA(デオキシリボ核酸)と関連しているのだが、実はBNAというものは実際にある。

核酸化学の分野では、DNAと性質(相補鎖とハイブリダイゼーションするという性質)は同じだけれども分子構造が異なるものが作られている。詳しいことは「人工核酸」とか「核酸アナログ」という言葉で検索してもらえばいい。*1人工核酸の構造を知りたい方は下のwikipediaに載っている。

いろんな人工核酸があるがその中にBNA(Bridged Nucleic Acid)というものがある。しかし、あまりにもニッチな内容なので、これがアニメと直接関係しているとは考えにくい。

*1:何故、こういうものが研究されているかというと、一番の理由は核酸創薬との関連である。DNAやRNAを薬として体内に入れようと考えた場合、天然の核酸ではすぐに酵素によって分解されてしまって薬効が無くなるという問題点があるため、酵素によって分解されにくい構造を持った人工核酸が盛んに考案されているのだ。

花子くんが可愛すぎて生きるのがつらい―『地縛少年花子くん』原作ネタバレあり感想

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泣かせたい、この笑顔。

もう可愛すぎるでしょ、花子くん。

普段は飄々としていて助手の八尋寧々ちゃんを苛めて遊んでいるドSな花子くんですが、たまに見せてくる人間味溢れる表情がもう可愛すぎて生きるのがつらい。

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特にこの泣き顔、怯えた表情。もう最高である。

何だろう。心の奥底から花子くんを虐めて泣かせたいという願望が沸々と湧き上がってくる。自分の中からこんなヤバい感情が出てくるなんて、ちょっと怖ろしい。

それもこれも全て花子くんが可愛すぎるのがいけない。緒方恵美さん声の少年という時点で可愛いのは分かってはいたが、まさかここまで破壊力高いとは…。

というわけで、現在12巻まで発売されている原作漫画の方も読んでみた。

地縛少年 花子くん(12) (Gファンタジーコミックス)

地縛少年 花子くん(12) (Gファンタジーコミックス)

これはあくまでも私の個人的な感想なのだが、この作品はいわゆる「中二病的自意識」についての物語なのかもしれないと思った。

自分は特別な存在だ、望めば何処にだって行くことができる、そんなふうにある種の自惚れや全能感に満たされていく時期が思春期というもので、月に憧れる柚木普くん(花子くんの生前の本名)の姿は、まさに思春期に自意識が際限なく拡大していく様を象徴している。

でもその自意識は、小さな生き物を殺して楽しんだり、暴力的なものに憧れたりするといった、思春期特有のヤバい感情と表裏一体のものであって、柚木司くんの存在はこういった暴力的で非倫理的な感情を象徴しているように思う。

そして、まだ理由は原作でも明かされていないけれども、普は司を殺してしまい、それと同時に、月にまで届くほどに肥大化した自意識をも切り捨てたのだろう。そして、普の自意識は学校という狭い空間の中に囚われ、死んだ後も七不思議の一人となって学園に住み続けている。

だとするなら、この物語は最終的に、花子くんの自意識というか魂を学園から解放していく、つまり花子くんの救済を目指すものとなるだろう。物語の結末は原作漫画で、そして、もし可能であればアニメでもしっかりと見届けたい。

『行進子犬に恋文を』は百合漫画版『陸軍幼年学校よもやま物語』である

もう、尊さの塊みたいな作品なので、百合好きの人は絶対に読んでほしい。

行進子犬に恋文を(1) (百合姫コミックス)

行進子犬に恋文を(1) (百合姫コミックス)

  • 作者:玉崎 たま
  • 発売日: 2018/06/18
  • メディア: コミック

突然だが、国が発展する上で必要不可欠なものとは何か。それは、お国のために汗水たらして働く「国民」を養成することである。国民がみんな生まれ育った「おらが村」で畑を耕して一生を終えるだけでは、国は発展しないのである。まず学校を作り、教育を受けた健康な「国民」を大量に作り上げる。そして、彼らを使って産業を興し、強い軍隊を作る。それが良いか悪いかは置いとくとしても、今この世界で先進国とされている国は、一つの例外もなくこのような過程を経て発展してきた。おそらく、明治期の日本のエリート達(岩倉使節団とか)は、西洋の国々を見て回る中で、この近代化の本質をほぼ完璧に理解したのだと思う。だからこそ、その後に日本という国はここまで発展できた。

そういう近代国家の「国民」を養成する施設の最たるものが、陸軍幼年学校である。そこは、生活の全てが管理された空間で、立派な軍人になるために勉学に励むことが最優先の場所。恋愛なんて浮ついたことはご法度。そういう世界である。『行進子犬に恋文を』の舞台はその女子版。そこで描かれる百合。面白くないわけがない。スト魔女、陽炎抜錨、はいふり…。ほんと、ミリタリーと百合は親和性高いなあ。

主人公・犬童忍は陸軍女子幼年学校に入学したばかりの1年生。そこで模範生徒である加賀美藤乃と出会い、強い恋心を抱くようになる。加賀美もまた、犬童の可愛さに惹かれていき、「稚児なんぞに興味はないが他のやつにくれてやる気にもならないな」と言って犬童にキスをする。

百合漫画は誰に感情移入して読むのかが重要だが、本作は多くの人が加賀美に感情移入して読んでいるだろうし、そういうふうに読めるような作品構成になっている。加賀美視点で見ると、とにかく犬童が可愛くて仕方がないのである。ちっこくて、表情豊かで、子犬みたいで。そんな子が自分のことをメッチャ慕ってきて「好きです」と言ってくるのである。もう加賀美からしたら天にも昇るような気持ち。犬童のことが大好きすぎて気が狂いそうになるレベルなのだ。

ところが、自分も相手も、立派な軍人になるという使命がある。ましてや自分は模範生徒として下級生を厳しく指導しなきゃいけない立場。ゆえに、上手く伝えられない自分の気持ち。本当は今すぐにでも抱きしめてあげたいけれど、そうすることができない。この、もどかしさ。ただただ尊い

ところで、本作の下敷きとなった作品が、村上兵衛の『陸軍幼年学校よもやま物語』である。

陸軍幼年学校よもやま物語

陸軍幼年学校よもやま物語

これは、陸軍幼年学校出身の作者が当時のエピソードをつづったノンフィクションなのだが、『行進子犬』に出てくる用語も全てこの本を参考にしているようである。例えば、「模範生徒」については次のように書かれている。

一寝室の定員は十一名。この一名の半端は、三年生で、「模範生徒」という。
模範生徒は読んで字のごとく、下級生と起居をともにして、その日常生活に範を垂れ、いろいろアドヴァイスをする。
むろん助言ばかりではなくて、叱り飛ばしたり、お説教をたれることもある。
ふつうはゴミンと呼ばれていた。
ヨーロッパの護民官あたりから来たものらしい。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』37ページ)

さて、『行進子犬』で最も重要なキーワードと言える「稚児」。これは一体何なのか。

上級生が、下級生の美少年を、かくべつひいきする。私たちは、誰々は誰々の稚児だ、などと言いあった。
これは男ばかりの集団で、女を知る前の屈折した欲情のかたち、ともいえる。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』196ページ)

そうなのである。これは漫画の中だけで使われてる用語ではなく、「上級生の寵愛を受けている可愛い下級生」という意味を持つ実際に存在した言葉なのだ。村上は次のようにも書いている。

三年生になってから、私も一年生の美少年に、ひそかに心を燃やしたりした。
しかし、私は、まだ初心で、そういう下級生から敬礼され、じっと見つめられたりすると、こちらの顔が赤くなって行くのが、自分でわかった。
のみならず、眼がうるんで、涙がこぼれそうになる。恥ずかしいので、いわば、積極的にモーションをかけるというようなことは、とうとうできずじまいのまま終わった。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』198ページ)

また、下級生が上級生から説教を受けている場面では、次のように書かれている。

そこで私は立ちあがって、列に近づき、かねてから目をつけていた“可愛い下級生”を呼び出し、濠端のほうに連れていった。
そうして、有志のお説教が終わるまで、彼と何とはない話を交わした。
それはバカバカしい行事から、その少年を守ってやり、私じしんの淡い“恋情”を満足させるという、一石二鳥のつもりだったが、上気して自分の口がよく動かなかった。
そして、こちらの“恋情”を見破られはしなかったか、とひとりで恥ずかしがっていた。
村上兵衛『陸軍幼年学校よもやま物語』201ページ)

要するに、現実の陸軍幼年学校において、上級生と下級生の間でボーイズラブ的な関係が芽生えることは当たり前にあったことで、『行進子犬』はそれを百合に変換してるだけなのだ。

そういう意味で、『行進子犬に恋文を』という作品は、ノンフィクション的である。もし、こういう学校があったら起こり得たであろう関係性を描いているのだ。

『継母の連れ子が元カノだった』第3巻感想

誤解を恐れずに言えばこの手の作品は奇抜な設定をバーンと掲げて一発ギャグ的に出て消えていくような作品だと思う。にもかかわらず、3巻まで来ても面白さは全く変わらないどころかむしろ増している感すらある。「親の再婚相手の連れ子がなんと元カノだった!なんてことだ!」という最大瞬間風速だけが売りの作品だったら、ここまで面白くはならなかっただろうし、3巻まで発売されることも無かったかもしれない。

タイトルだけを見れば本当に出オチだけの作品みたいに見えるのに、中に書かれていることは実に繊細で、精緻で、心にグッとくる何かがある。それは、大切な関係性がほんの少しの綻びで簡単に崩れていってしまう切なさや悲しみであり、そこから登場人物それぞれが抱え込むことになる後悔や自責の念であり、それでもなお相手と向かい合い新しい関係を築いていこうとする誠実さやいじらしさである。

その中でも第3巻で焦点が当てられていたのが、主人公の友人ポジションで第1巻から登場していた南暁月と川波小暮の関係性である。


世間にあふれている人と人との関係性は、「恋人」とか「友達」といった言葉に当てはめられ、さらにそこには「恋人とはこういうものである」「友達とはこうあるべきだ」という世間一般の認識が付随してくる。そうやってあらゆるものを言葉によって細分化し定義していくのが人間という生き物なのかもしれない。

例えば、イヌとオオカミは生物学的には同じ種であるが、人は野生の森で生きる大型のものをオオカミと呼び、人間に飼われている方をイヌと呼ぶ。その二つを分ける科学的な根拠や整合性は一切存在しない。それはただ単純に、人が生活する上で便宜上必要だったから分けられたというだけに過ぎない。それは「恋人」と「友達」あるいは「幼なじみ」という関係性においても同様である。

子どもの頃の暁月と小暮の関係は、そうした世間一般の定義に縛られない自然なものだったのだと思う。しかし、いつの頃からかその関係性が「幼なじみ」という枠にはめられ、それが「恋人」という関係性に変わっていく中で、世間一般の「恋人とはこうあるべき」という固定概念的なものに絡め取られていった時、二人の関係はあっという間にボロボロに崩れていく。その関係性の回復が第3巻のメインストーリーだった。

一方で、2人とは対照的に、最初から関係性の定義に縛られることなく「我が道を行く」という感じなのが東頭いさな氏である! いやもうヤバいだろコイツ…。彼女にとって、世間一般でいう「恋人」とか「友達」の定義なんてものは一切無関係。水斗にふられようが何しようがおかまいなしに家へ上がり込み、距離感ほぼゼロで水斗とイチャつき出す。本当にもう、いさながヤバいと言うべきか、このキャラを考え出すことのできる作者がヤバいというべきか…。